香り

村星春海

小説

3,563文字

僕のかつての実話です。
なんでしょうね。当時まだまだ童貞と呼ばれる前の存在だった頃の話です。
誰か体験したことありますか、こんな事。

季節は冬を過ぎ、次第に春の足音が聞こえてきている。僕はいつもこの春の暖かさを感じると、小学生の頃のある日の事を思い出す。

外は晴れている。そして音は聞こえない。みんな授業中で、僕だけが保健室のベッドで眠っているからだ。授業中の校舎はしばらくの居眠りのように静かだった。
春先だからだろう、とても暖かい日差しが右側にある南向きの窓から差し込んでいた。小学生の二年生にとって授業をほっぽらかしてこんな暖かな布団に潜り込んでいるのは、ちょっとした罪悪感とワクワクとする高揚心を生み出していた。
なぜ保健室で眠っていたのかは思い出せないが、そこまで体調が悪かったわけではないというのは覚えている。品行方正な僕が授業を怠惰するわけもない。ただ、僕が言いたいのは保健室にいる理由ではなく、カーテンの向こう、左隣のベッドだ。
僕が来る前からいたのか、居眠りした間に来たのか定かじゃないけれど、隣に誰かが居るのはわかる。かすかに聞こえる絹の糸の様な寝息。たまに打つ寝返りで擦れるシーツの音。僕は想像した、どんな人がいるのだろうと。渦に飲み込まれるように考えていると、男の子である僕にとって最も素晴らしい姿の女の子が現れた。こんな女の子が居てくれたらいいなと、妄想をした。
もとより一人っ子の僕は妄想遊びが好きだった。自分の頭の中に自分の兄弟を作っていろんなことをして遊んだ。他から見れば随分と奇妙な子供だったろうし今でも友達と過ごすよりも、自分の作った物語の中でオリジナルの自分の分身を動かすほうが性に合っている(通信簿に協調性がないと書かれる原因だっただろう)。
「ねぇ」
話しかけられた事に、僕はしばらく気づかなかった。相手は寝ていると思ったからだ。か細い潜入捜査中のような潜めた声で、隣人は僕に話しかけてきた。
「起きてる?」
「あ…起きてます」
女の子だった。僕は自分の想像通りの相手が隣にいたことに、戸惑いと少しの喜びを感じた。
「体調悪いの?」
「はい、少し。だいぶ良くなったけど」
相手からは見えないにもかかわらず、なぜか僕はニコリとしてしまう。
「君、何年生?」
「二年生です。あなたは?」
「んー、何年生だと思う?」
少し意地悪に微笑んでいそうな問いかけに、僕の心臓は強くドアをノックするように弾んでいた。
「わかりませんね」
「当ててごらん?」
まるで心理ゲームだ、と僕は思った。それなら当ててみよう。声の感じと僕が二年生であると知っての意地悪な喋り方。歳上なのは間違いない。

あとはどれくらい歳上なのか。一歳程度では、そこまで上からの喋り方をしない。一歳や二歳では、たいして変わらない。そして大人のイメージをもたせようとしているのなら、中学生に近い歳。
「六年生、ですか?」
僕の答えに、しばらく答えない。ただ、鼻呼吸ではなく口呼吸のような、聞こえるというより聞かせるような呼吸音が聞こえる。当てられて悔しがるというより、外して声を殺して笑っているようにも聞こえた。
「残念。五年生だよ。でも近かったね」軽やかに彼女は囁いた。
僕は彼女が見てみたくて、カーテン越しに目を凝らしたけれど、やっぱり何も見えない。
「なんでわかったの?」
「なんでだろう。なんとなく、お姉さんって感じがしたからです」
「なんとなくかぁ。いい勘してるよ、君」
「お姉さんも体調が悪いんですか?」
「うん。私、病気なんだ」彼女は、少し深刻そうなトーンで答えた。
「辛いですか?」
「辛いよ。不治の病だからね、仮病は」
そういうと彼女はクスクスと笑った。僕も一緒に笑ったけれど、僕にはまだ「仮病」がどんな病気なのか知る由もなかった。
「でも、普通にお話できてるから、仮病も治まってるんですね」
「ん?まぁ、そうだね」彼女はまたクスクスと笑った。
なんとなく、彼女の笑い方はくすぐったく感じた。肌を触れるか触れないかのギリギリを、爪でなぞられているような気分になった。
「心配してくれてるの?」
「どんな病気も、辛いものだと思います。心配です」
「ありがとう。優しいんだね、君は」
優しいと言われて、それこそ本当にくすぐったかった。普段、家族以外とまともに話しをしない僕は、そんな風にお礼を言われたことはなかったし、そもそもこんなに人と深く人と話をしたのも初めてだったかもしれない。なんだか不思議な気分だったのを覚えている。
「僕…」
「ん?」
「こんなふうに人とゆっくりお話したのは初めてなんです」
「友達とかいないの?」彼女はゆっくり問いかける。
「はい。何をどんなふうに話ししていいのか分からないし、あまり話題もないんです」
「でも、君は上手に話せてると思うな」
「お姉さんとは、なんだかお話できるんです」
僕がそう言うと彼女は考えるように、黙った。僕は、なんだか彼女に失礼なことを言ったのかもしれないと思った。
「それって、お互いの顔が見えないからかもしれないね」
「顔、ですか?」
「うん。話をする時って、相手の顔を見るじゃない?表情を伺いながらって言いたいこと言えないもんだよ。だから顔見なかったら、君も上手に話せるんだよ、きっと」
一理ある、と僕は思った。
「でもね」彼女は付け足すように話を再開した。「大人に近づくと、相手の顔を見て話をしなきゃいけなくなる。話できないからって、黙っててもダメだし。そうなると、自分の気持ちを押し殺して、相手の心情を読み取りながら会話をする必要がある。なんだか、そういうのも疲れるよ」彼女は少しため息をついた。「まだ君にはわからないかもね」
彼女は呼吸音だけ残して黙ってしまった。まるで、余韻をそこにおいたまま、消えてしまったみたいに。彼女は井戸のそこに身を隠してしまったように思えた。
僕はなんとなく焦って、彼女が消えないように言葉を繋ごうとした。
「お姉さんは、なんだか疲れてるように感じます」
「私が?」
「はい。僕はまだ子供だからよくわからないけど…。でも、話だけなら聞いてあげれると思います」
彼女は再び黙ってしまった。何を考えているのか子供の僕にはわからなかったけれど、悪い空気が流れてるようには思わなかった。朝、どこかから香ってくるトーストや目玉焼きの匂いを思わせた。その間にも時計はチクタクと時を刻んでいて、無意識に今の秒数を数えながら彼女の答えを待っている。時は無慈悲で慈悲深い。長く永遠に感じても必ず終わりをもたらす物だからだ。だから、とにかく待っていれば、彼女からの答えは返ってくるはずだし、そうならなければならないのだ。
でも、半分は望んだ通りでもう半分は意外な形で、時の終わりを告げた。
「ねぇ」
「はい」
「キスしようか」
時は必ず次を持っては来るが、必ずしもその結果が望みどおりとは限らない。
「え?」
「君って優しいんだね。私は嬉しくなったんだ。だから、なんだか君にキスしてあげたくなったの。お礼みたいなもんだよ」
簡潔に言って、僕はとてもドキドキした。胸が締め付けられる様な苦しい気分になった。どんな顔なのかもわからないお姉さんに対して僕は、子供なりに【危険な香り】を感じていたんだと思う。キスをするってどんな気分だろう、どんな状況でするのだろう。お互いの顔が近づいて、唇同士をくっつけるのだ。そうなれば僕の鼻には彼女の温かい鼻息が当たるだろうし、少し開いた彼女の口からも温かい吐息を感じるだろう。彼女の吐息を僕は呼吸として肺に入れ、彼女は僕の吐息を自分の肺に入れてお互いの吐息を交換する。そうすると僕らは一つの存在になったような錯覚を起こすだろう。唇が重なると、お互いの体液が交換される。吐息よりもっと物理的なものだ。形があって、多分、味もあるだろう。もっと深い部分で繋がるのかもしれない。

僕の締め付けられるような想像は、授業の終わりを告げるチャイムにかき消された。
保健室のドアが古びたレールの上を走るトロッコのような音と共に開くと、保健医が入ってきた。迷わず隣の彼女のもとへ向かうと、二、三言葉を交わして彼女を連れて行ってしまった。おそらく教室へ戻っていったのだろう。
誰もいなくなった保健室で、しばらく僕はそのまま虚空を彷徨っていた。次第に大きくなる校舎の音に現実に引き戻された僕は、ただなんとなしに天井のシミを眺めた。
もう隣に人の気配はない。ただ、さっきまで感じていた【香り】と、春先の暖かさだけが、そこにあったと思う。
僕はその後、何度か彼女の声だけを頼りに探したけれど、二年生の僕に高学年の教室のある別棟に行く勇気はなく、そのまま二年が過ぎて彼女は卒業してしまった。どこの中学へ行ったかもわからないし、三歳も離れている以上、同じ中学や高校へ行っても、会える可能性はほとんど無かっただろう。

 

僕は今でも春先になると、桜や暖かい日差しとともに、あの日に香った彼女の香りを感じるときがある。

2019年4月19日公開

© 2019 村星春海

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