暗幕

村星春海

小説

2,016文字

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」
こちらとは、どちら?

 僕がいつものように掃除や洗濯を終えた後の話だ。ぼんやりと窓から見える川や、そこを泳ぐ魚を見ながら、このゆるりとした時間を過ごすのだが、今日は残念ながら雨が降っていて、いつもは穏やかな川面はそのせいで月のクレーターのようにざわついていた。これでは魚がいたとしても見ることはできない。僕はあきらめて体を向き直して、昼過ぎだというのに薄暗い室内を眺めた。
 湿度もなく暑くもなく、窓を閉めていても比較的快適な気温だった。耳を澄ましてみても、聞こえるのはベランダと屋根を打つ雨音と、僕の僅かばかりの呼吸音だけだった。車の音すら聞こえないのなら、人の話し声なんて聞こえるわけもなかった。
 台所まで一望できるポジションに座り、寒々しい岬に建つ朽ちた灯台の灯りの様に部屋を見渡すと、僕はなぜか、少しの違和感がそこに佇んでいるのに気が付いた。それは若干サイズの違うパズルのピースをはめた時の様な、均衡の取れ切っていない不完全さを表す違和感だった。
 最初は気のせいだと思った。気のせいでなければ他に説明がつかなかったからだ。でも僕は一応もう一度目を凝らしてみた。厚いハード本の落丁を探すようにじっと薄暗い室内を見渡すと、トイレの扉が少しだけ開いているのに気が付いた。部屋の構造上、トイレがキッチンと直結しているので、いつも扉を閉めているはずなのだ。それが気になるはずだから、閉め忘れはあり得ない。それに僕はつい五分ほど前にトイレに行ったばかりだったし、閉めた記憶があるのだ。
 違和感を見つけた僕は、その中途半端に開かれた扉を閉めに行くべきかどうか、考えあぐねていた。なぜか閉めてはいけないような気がしてならないのだ。昆虫採集をしてコーヒーの空き瓶に入れた時、蓋をしてはいけないのと同じような感覚だった。
 僕は何を言っているんだ。それではまるで、「トイレの中に誰かいる」といっているようなものではないか。馬鹿げている。僕は一人暮らしだし、トイレの扉を閉めたら死ぬような生き物と住んでないし、住んだ記憶もない。
 そう言い聞かせても、僕の体は畳から根が生えたように一ミリたりとも動かなかった。視線すら離せなかった。僕はとにかくその隙間を凝視するほかなかったので、探るように見てみた。しかしただでさえ薄暗い室内の、しかも電気の点灯していないトイレのドアの小さな隙間に、何も見ることはできない。黒い幕が張ってあるような、濃密な黒だった。
 何分経っただろうか。五分にも思えるし一時間にも思える間隔を過ごした時、真黒な膜を少し切ったように、そこに二つの眼が現れた。口も鼻もないのだから、輪郭もない。眉毛もないし、生命の息吹も感じられなかった。それはステージに上がれと急に言われた観客のように、あたりをちらちらと伺った。両目が規則正しく右から左を移動し、そして左から右へ移動した。さらには上下にも動き、斜めにも動いた。そして何度目かの移動の後、僕の存在にやっと気が付いたのか、ぴたりと正面を見据え、僕としばらく視線を交わした。
 生命の息吹は感じられないのに、不思議と怖いというような感覚はなかった。だが、こちらに対して友好的な感じとも取れなかった。それはたまにまばたきをし、眼球の渇きを潤した。僕も定期的にまばたきをした。雨の音がいつの間にか遠ざかり、時計の針の音だけが聞こえる静寂が包みこみ、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
 
ぼくはね、さみしいのだ。きみはどうだろうか。いつもぼくはここにいるのだけれどだれにもきづかれないというのはとてもつらいのだよ。きみにわかるかなぁ、わかるといいなぁ。
 
 それは僕を見ながら、小さくささやいた。消え入りそうな声だったが、しっかりと文字にしたみたいに耳に届いた。小さいのにしっかり聞こえる、寺の鐘の様な声だった。
 
きみにしられてしまったからね、ぼくはここにはいられないんだけれど、それはあくまでここのことであって、あそこのことではないんだよ、だからいつだってぼくはあそこににいるるんだ、きみはいいんだよ、いつまでもそこにいて、そうすることがきみにとっていちばんの幸いであるんだからね、ぼぼくはしってるよしってるんだ、そう、しってる。
 
 それは、ずれた日本語を勝手に喋ってしまうと、どことなく満足したように見えた。「ここ」とか「あそこ」とか、いまいち言ってる意味は分からないけれど、それが満足しているならそれでいいんじゃないかというような気がしてきた。
 妙な親近感を感じた。昔から知ってるとかそういうことではない。でもあまりいい印象でもなかった。ということはこれ以上、深く掘り下げない方が、いろいろと精神的にも肉体的にもいいのかもしれない。現にそれは姿を消していた。雨は止み、分厚い雲の隙間から射した陽ざしによって部屋とトイレは明るく照らされ、真黒い闇も消えていた。
 僕はゆっくりと立ち上がり、夕飯の支度にかかる前にトイレで用を足した。とても長い小便だった。

2019年10月21日公開

© 2019 村星春海

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"暗幕"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2019-10-21 14:41

    とてもおもしろく、読ませていただきました。
    たどたどしい日本語で喋るその二つの眼は、一体何だったのでしょうか……と、考え込んでしまいました。とても楽しかったです。

    • 投稿者 | 2019-10-21 14:43

      コメントいただくことができまして、とても嬉しいです。お読みいただいてありがとうございます。
      2つの目は何だったのでしょう。僕も考えてみようと思います( ꈍᴗꈍ)

      著者
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