遥川

村星春海

小説

2,344文字

川の流れを見ていると、私はつい物憂げになってしまう。初夏になる前の午睡から私は目覚めたばかり。

 爽やかな午睡から目覚めた際、私の耳には自室の部屋の眼下を流れる遥川のせせらぎが届いていた。緩やかな流れはいつのときも変わらない。私はムクリと重たげな体を起こしてヴェランダから身を乗り出してその遥川を眺めた。そこには私の予想通り、悠久の彼方から長るる川が確かにそこに存在していた。水草が流れに身を任せ漂い、時勢や風に身を任せ旅をする放浪人を思い起こさせ、その水草に沿って泳ぐ川魚はさしずめ放浪人の荷物だろうか。とても良く澄んだ川の水はキラリと太陽光を反射させ、未だ眠気眼の私の精神を刺激する。とてもメリハリのついた光景だった。季節はそろそろ春から夏に変わる時期で、時には汗ばんだりもするが、それと対象的に朝夕は冷える時もある。そんな時は父からもらった上着を着る。その上着には、少しタバコの匂いが残っていて、父が確かに着ていたものであると主張していた。
 視線を川からゆっくりと対岸へ向けると、散歩をしている人々が目に入る。恋人同士で手を繫ぎ愛を語らっているのだろうか。ベビィ・カーを押した若い女が穏やかな表情を浮かべて地面があるのを確かめるようにゆっくりと歩いている。各々、時間が流れるのを楽しんでいるようにも見える。現代人は時間を楽しむという行為が出来ない者が多い。かくいう私も時間に追われてしまう質ではあるが、世の中にはもっとひどい人もいる。時間を楽しむというのは本来難しいことでは無いのだが。
 私は一つ大きな欠伸をした。私自身がとても驚くくらいの大きな欠伸だった。目頭に涙が浮かび、一筋だけ頬を伝って落ちた。目を擦ると汚れたカメラのファインダー越しに風景を見ているような、濁ってぼんやりとしたふうに見えた。もしくはくもりガラスから外を見るような感じにも見えた。もう一つ欠伸をして目を擦り濁りが取れたとき、手を繋いだ恋人達はいなくなり、ベビィ・カーを押した女も視界から消えようとしていた。それもしばらくすると視界から消え、私の目の前には誰もいなくなった。私の前からは何も消えてなくなってしまったのだが、時と水の流れはそこに確かにあり、考え方の違いであることに気がついた。私の前からは彼らが消えたが彼らからしてみれば私が消えたのだから、物の見方というのはとても曖昧なもので、観測者によって全ては支配されているという事でもある。私にとっては不幸な事でも、人によっては幸せな事でもあるのかもしれないという事だ。
 外からは湿り気のない暖かい風が吹き込み部屋の奥にあるカレンダーは捲り、そのまま開け放たれた台所の窓から抜けていった。私は心に空虚を感じ、テェブルに置かれたマッチ箱と煙草を手に取り、一本口に加えた。乾いた音とともにマッチは発火し、煙草を燻らせる。ジリジリと燃える。煙はあっという間に部屋に充満し、爽やかな午睡から一層と覚醒していくのが感じられるが、未だ頭のどこかがぼやけて朧になっているような気もするのだ。私はその感覚が好きだ。夢うつつというか非現実というか、危険地帯の境目を行ったり来たりするスリルとも言うべきか、そういった危う気なものを感じる。危う気なものとは、人生における、一種の清涼剤に似たり、とも、生きている証拠、とも私は考える。何事もそうなのだが、対になるものがあるから片方がはっきりとした稜線を描く事ができるのであって、唯一無二であるのは結構だが、それではありがたみというものが感じられない。かつて私が読んだ村上春樹氏の「ノルウェイの森」にあった生と死についての価値観は、私のこの考え方に大きく影響した。生きる事にはっきりとした希望を持たない人もいるのだが、そういう人こそ、生と死が対になっていないのだ。人それぞれの経緯は違うだろうが、生の中に死が取り込まれて有耶無耶になっているからそういう考えに至るのだ。人生において活き活きしている人は逆にそれに当てはまらないのだろう。生と死がはっきりと対になっているのだ、きっと。私はそんな事を考えながら、眼下の遥川を見下ろした。遥川はゆったりと流れその対となるものはないのだが、唯一無二として完璧なまでの姿をしている。やはり唯一無二というのも素晴らしい。
 私は煙草を三本立て続けに吸ってしまうと、灰皿で未だに物憂げな煙を出す煙草に付いた口紅の残りを見つけた。そこに確かに私がいた証拠が残っていた。人はいずれ死ぬだろう。いつまで人の記憶に残るかわからないが、それが果たしていいことなのかどうかはわからない。聖徳太子は何千年も経っているにも関わらず日本人の誰しもが知っているし(実在したかどうかは置いておく)、負の記憶としてアドルフ・ヒトラーはこれから先何百年も名が残るだろう。聖徳太子はともかくヒトラーはどう思っているのだろうか、負けて自害した事を全世界の人間が知っていると知れば、プライドの高いアーリア人として早く忘れてもらいたいと願うかもしれない。と、いろいろな意味での偉人と比べたが、私の記憶や記録などその何百倍の速度で忘れられるだろう。宗教によっては百五十回忌までやるところもあるようだが、そんな彼方までやってもらったところで、一体その時集まった人が私の事を覚えているだろうか?そんな事よりも、私がこうやって物憂げにつらつらと良からぬことを考えている事などが後世に残るくらいなら、早く忘れてもらいたいものだ。ヒトラーとそこは合致するだろう。
 そんな風に遥川を見下ろしながら物思いにふけっていると、没していく太陽の角度とともに冷えた気温に肌がざわついたように寒さを受けていく。窓を閉めて障子も締めてしまうと川のせせらぎも何も聞こえなくなった。無音、と私は思った。暗くなった室内で、時計の針の行進の音を聞きながら、煙草に再び火をつけた。

2019年10月4日公開

© 2019 村星春海

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