ただ素朴に生きてるだけのやつ

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第6話)

燐銀豆|リンギンズ

小説

16,874文字

数年ぶりに娘の「シャホ」が帰ってきた! 恋人の「マキセキ」を連れて・・・・・・。
シャホの父親の「ゴーシ」は父娘の水入らずを邪魔するマキセキを疎ましく思うが、久しぶりの家族での食事会はシャホの主導でつつがなく進んでゆく。
しかし窓の外に佇む、肉体を狂信する青年「ヨギワ」はシャホの機械化されていない肉体に妖しい視線を送っていた。
失って得られるものは少ない。失うことで完全に失うものが大半である。

夫婦の寝室。
「ねえあなた、私たちの子どもの部屋から物音がするわ どうしたのかしら」
「知らなかったのかい? ぼくたちの子どもは、分身の術を練習しているのさ」
「こんな夜中に? ・・・・・・分身って、どういう意味?」
「言わなくてもわかるだろう? こうだよ」

夫の手による卑猥なジェスチャーが、枕元のランプに照らされ影絵となって壁に映る。
「・・・・・・子作り? 冗談じゃない そんなの許さないわ だってあの子自身まだ子どもなのに」
「まさか ぼくの話を聞いてた? 子作りなんて気が早いよ あの子は自分で自分を慰めるために分身の術を練習してるんだ」
「? 人は自分以外の誰かのことを慰めることしかできないのよ」
「時代が進めば全ては変わるのさ どんどん進んでいくよ、未来のニンジャ時代へとね」

 

―――教育的ホーム・コメディ「ヒプナゴジック・ハウス」のワンシーンより

 

 

▽▽▽

 

腸のひだのように折り重なった郊外の道を、都市からやってきた一台の車が落ち葉を巻き上げて走り抜けてゆく。腐臭すら漂う停滞した地域生活とは無縁の軽快な爆音が、帰郷が嬉しすぎるあまりの喜びの絶叫のようにも聞こる。

いや、実際そんなふうには聞こえないが、そうあって欲しいと願う伊藤ゴーシの耳には、そのように都合よく響いたのだった。

「ついにこの日がやってきてしまった・・・・・・」

と、ゴーシの心は昨日よりさらに深く汚泥の中に、不定形の不安の中に、沈み込んでいく。

ゴーシは裏庭に広がる影の中を衝動的に転げ回ったあとのように、全身に不景気な薄暗いもやを纏わせていた。

 

”パパに紹介したい人がいるんだ。みんなで一緒にご飯でも食べない? 彼、とっても独創的なの。きっと気に入ると思う”

 

普段とは違ったトーンの、どことなく気恥ずかしさすら汲み取れる不吉きわまりないメールが届いてからというもの、カレンダーを確認したり時計を確認したり、そんなありきたりな行為の一つ一つに憂鬱な重みが加わったことに彼は気づいている。

ほうれん草のスムージーを飲まざるを得ないほど前向きな目覚めに恵まれた朝が一度でもあれば、ゴーシは上機嫌で自らの秘められた父性もしくは男性性に「おい、メソメソするな 人生の先輩として振る舞えばよかろう 相手はただの若造」と、声をかけて励ますこともできただろうか。ときには鏡に向かってそうすることもあっただろうか。しかしスムージーが寝起きの陰鬱なゴーシを誘惑することはなく、永遠の生臭さを放ち続けるだけだった。

顔なじみの虚無は毎朝律儀に枕元に立って、空白の微笑みとともに「人生は時間の無駄です 残り時間はありません」と、おはようの代わりに告げる。長ったらしく囀る鳥畜生のように。

待てよ、と彼は思考し始める。最初からすべてを台無しにするつもりでいたほうがいいのかもしれない。だってシャホはまだ幼く、そんな小娘に取り入ってその「お気に入り」の地位を簒奪しようとたくらむような小僧が、まともな人間性を備えているはずがないからだ。

ゴーシは正常な人間性、すなわち自然主義*を高く称揚する。

部屋の窓からはまだ車は見えない。リビングのテーブルには食事の準備を整えてある。汚染食品はなるべく取り除き、基本的には合成食料にしてある。シロアリ*の練り物や、純粋アルコールなど、なかなか手に入らないものも奮発して用意した。

リビングの床を、小さな掃除ロボットの軍勢が壁を壁とも思わない勇猛さをもって永遠の北進を続けている。冷蔵庫に貼り付けてある写真に映っている二歳のシャホの眉間のシワが示す、人生に対する底しれぬ疑惑はその一年後、ゴーシの気づかないうちに解消されていた。シャホはなぜか唐突に快活な性格を獲得し、眉間のシワは冗談を言う前のもったいぶった表情の中にしか現れなくなった。

なるほど、意識の未だ不明瞭な限りなく獣に近い生き物であっても、母親の喪失という出来事が与える喪失感は永遠に埋まることのない穴として、やがて獣が人間に育ったあともその胸を穿ち続けるのだ、という当時のゴーシのしみったれた予感は幸いにも外れていたのだった。

 

”パパのことが心配。一人暮らしで寂しい思いしてるんじゃない? いっそ、こっちに越してきたらどうかな?”

 

もし妻が生きていればこんなふうに娘に同情されることもなかったのだろうか? でも、妻は自らの死を望み、おれはそれを尊重した。永遠の命など幻だよ、いくらライフログ*があるからって、そんなのは自然じゃない。

それともさっさと別のパートナーを見つけて「おれはあらゆる面において完全に立ち直ったよ! 精神的欠落感は一切感じていないし、日常生活を送るにあたって心配事は一つもない 生きていることがとてつもなくハッピーだ!」とシャホにアピールしておくべきだったのだろうか。やろうと思えばできた。だが妻との思いは風化させたくなかった。

 

”またね。愛してるよ。早く彼に会わせてあげたい。名前はマキセキっていうの”

 

シャホが昔好きだったケミカライズされたブルーのショートケーキも冷蔵庫に準備してある。もうそんな子供っぽいものには見向きもしないのだろうか。でも、そっぽを向かれたり、気を遣って嘘の喜びを見せられたとしても、そこに成長を感じられてむしろ嬉しい。

もしシャホがいらないと言ったらマキセキとやらに食わせよう、とゴーシは考えた。おれはそのケーキを食べると、喉の奥がひりひりするから好きじゃないんだ。

・・・・・・マキセキ。マキグソみたいな名前だな。どうせろくでもないうすのろに決まってる。

 

 

ノスタルジックとかいう、感傷をあらゆるものになすりつけて悦に入る淫乱な一時的錯乱ではなく、至極直接的な「思い出喚起力」をもつ実家の前に、一台の車が停車した。と同時に世界は少し静けさを増した。

今にも外に出ようとしている運転席のマキセキの身だしなみを素早くチェックして、伊藤シャホは、
「ちょっと、目が飛び出してるよ」

と注意する。

マキセキはルームミラーに自分を映して「あ、ほんとだ」と、道中のでこぼこによる車内の激しい振動のせいで半分くらい飛び出してしまっていた右の眼球を、手のひらで脳みその方向に押し戻す。
「まぶたはオプションだったから外したんだ 乾燥したって構わないと思って だけど、こういう予想外の弊害があったわけだ」

マキセキは独り言と言い訳のあいだのような感じで一人で喋りながら、飛び出していない左目も念のため脳みその方向にぐっと押し込んだ。
「気をつけてよ パパは偏見があるんだから」
「まぶたつけたほうがよかったかな? いまさらだけれど」

「そうだね まぶたはあったほうが自然だよね」

「でも、片方だけで七万もするんだよ 合わせて一四万」

「パパの人生って、自然主義が全てなの 言ったでしょ? そこから外れた不自然なものは一通り全部嫌うの ・・・・・・でも、まぶた以外はいい感じで自然だね」
「自然主義にも色々あるでしょ? って、これもいまさらだね」
「うん、何度も言ってる通り、ざっくり全部嫌ってるの ざっくり、全部」
「きみの話を聞く限り、間違いなくぼくは嫌われるだろうな」そう言って、マキセキは愉快そうに笑った。「だからこその別プランなわけだけど」

シャホはため息を付いた。マキセキはシャホの肩に腕を回して、いたわるような声で、
「気分が乗らないなら、止めたっていいんだよ? 直前だって止められる 時期はいつだっていいんだし」

と言う。
「ううん、パパのことを思うと少し心が痛むってだけ だけど、わたしたちのこれからのためだから」
「きみの言葉を尊重するよ だけど、忘れないで、いつ止めたっていいってことを」

車の停車音を聞きつけて件の「パパ」ことゴーシは、アロハにデニムのラフな姿で玄関から丸っこい顔を覗かせていた。
「じゃあ、合図するまでここで待ってて」

よし、と気合を入れ直したシャホは、車を降りてゴーシのもとに駆け寄っていった。ゴーシの腐ったパンのような憂鬱そうな顔にも笑顔が浮かび、四年ぶりの再会の喜びが表情の中に充溢している。やあ、って調子で気さくそうに右手を軽く上げてさえいる。
「パパ、ちょっと痩せた?」
「お前の方こそ、痩せたんじゃないか? 髪の色も変わってる」
「うん、水色ってあたしの幸せカラーなの 生まれ月と関係してる色」

シャホは先週末に染め直した水色の髪の毛を手で触りながら無警戒に笑った。その笑顔はゴーシの頭の中の、妻がまだ生きていた頃の思い出を照らし出すのに十分すぎるほどの明るさがあった。もちろん、思い出されるのはシャホがその笑顔の範囲内、つまり幸福な瞬間の過去だけであって、妻の死につながるような後ろめたい記憶に光は当たらなかった。
「メールは読んでくれたよね? 紹介したい人がいるんだ」そう言ってから眉間に軽くシワを寄せて「彼、この髪を見てクッキーモンスター*みたいって言ったんだよ 信じられる?」

と言ってまた笑った。が、ゴーシはシリアスな顔つきで黙ってしまった。

「あのね」とシャホは丁寧さを心がけて続ける。「パパが自然主義を大事にしているのは知ってる 彼はちょっと自然主義的模範とはズレてるかもだけど、いい人なんだよ あたしだって、自然主義を否定したいわけじゃないってことは分かってね」

ゴーシは首を横に振った。

「自然原理主義者の語彙ではな、自然主義的模範『囚』って言うんだよ ありもしない幻に囚われている人間のことをだね それは決していいことじゃない 自然原理主義者は、自然主義から道を外れるような選択を取ることも、一種の自由意志の表れとして容認するんだ」

それは、ゴーシなりの強がりだったのかもしれない。
「そうなの? それってむしろ、わたしたちにとって好都合! 彼のこと呼んでいい? 車で待ってもらってるの」
「ああ」

シャホは振り返って、車に待機していたマキセキを手招きした。歩いてくるまでの間、シャホは父親に向き直って、
「見ての通り、彼の体は付け替え可能 サステナブルでしょ? 今日はパパに会うからって、人間の体を用意してくれた っていうか、あたしも一緒にお店で探して見つけたものだけどね 戦時に使われたボディのデットストックがたまたま見つかったんだ、運動機能が高くてレアなんだよ どう思う、クールでしょ? ・・・・・・人間の決定論的な肉体もいいけど、カスタマイズできるのも素敵だと思わない?」

最後の付け足しには、そのさりげない口調に反して、シャホの強い意志がこもっているのが感じられた。が、ゴーシは何も言わなかった。ゴーシの視線はすでに、シャホの肩越しに迫り来る痩身の略奪者に向いていた。

シャホが再び振り返ると、そこにはマキセキがいたが、その隣に別の人の姿があった。ゴーシとマキセキの視線は、その唐突な、四人目の人物に向けられていた。

ゴーシが少し戸惑いながら、
「ヨギワじゃないか お前、こんなところでなにしてるんだ」

と低い声で言うと、ヨギワと呼ばれた青年は妖しい笑みを浮かべて、
「じいさん、あんた随分と美人な娘さんがいたんですね しかも、愛されてそうですね 愛を享受してそうだ」

とシャホの下半身を凝視しながら言った。シャホは細身のレザーパンツを履いていて、ヨギワの視線はその黒い光沢のある表面を何往復もしていながら未だ飽きる素振りすらなく、周囲の人々の視線にはまるで無関心だった。
「ヨギワ、なぜ来た? 今日は来るなと言っておいただろ」
「来るなと命令されて、受け入れるのも拒否するのも、自分の勝手でしょうが! あんた、最近よそよそしいから様子を探ってたんだよ そしたらこれだ 大当たりだ あんた『誰にでも最低な瞬間はある だがそれ以下はない』とかのたまってたな おれはそれに共感したし、一目置いていたんだぜ それなのになんだよ あんたの最低な瞬間とおれの最低な瞬間、比べものにならない こんな美人の娘がいるなんてな ちきしょう、おれたち孤独なんかじゃない 俺は孤独だがあんたは違う あんたはいま人生が終わってもそれなりに悪くない人生だろ おれとは違う この豚!」

ゴーシは慌てて、
「おいおいおい、落ち着きなさい 明日しっかり話を聞こう それでいいだろう? 今日のところは、な、少し頭を冷やせ」
「・・・・・・明日? そんなもんくそくらえ 恥だよ生きるってことは 死ぬ覚悟がいつまでも決まらないってことだ!」

ヨギワはそう言うとシャホの尻に手を伸ばそうとして、寸前で手を引っ込めた。シャホが体を引いて、ハンドボールで鍛えた右腕を振り上げていたためだった。ヨギワはビクッとして、しかしすぐにとりなして、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいですよ わかりました おれは幹部ですよ 俺は幹部なんだ!」

ヨギワは現れたときと同じように、夏の午後六時の揺らめく夕暮れのような寂しさを伴って(今日はまだ3月だったけれど)、荒地の方へ音もなく戻っていってしまった。なんの幹部なのかは誰も知らなかった。

マキセキは一歩引いた場所でまばたき一つせずに、周りの三人のやり取りを凝視していた。

シャホが苛立たしげに、
「誰、いまの?」
と聞いた。ゴーシはため息を付いた。
「近所の若者だよ 暇なときに話し相手になってもらってたんだが、気持ちの浮き沈みの激しいやつでね ・・・・・・立ち話は脚に悪い 二人ともさっさと家の中に入りなさい」
「学生?」
「そうだ だが、なにかを学んでいるようには見えないだろう 詳しくは知らないがきっと、ただ素朴に生きてるだけのやつだ」

そう答えるゴーシは冷静さを装っていたが、内心はこっぴどくかき乱されていた。こんなふうにして娘とその恋人の前で恥を晒すことになるとは思ってもみなかった。ヨギワのことを軽く見ていたのだ。頭が悪くてすぐに感情的になる、ちっぽけで将来の展望のないその辺の惨めな小僧にすぎないと。

家に入る前にマキセキは、
「お邪魔させていただきます」

と言って、うやうやしくお辞儀した。そのお辞儀の都会的な洗練に、ゴーシは軽い吐き気を催した。

厳密には、娘の恋人として眼の前に現れた瞬間に、その実質とは関係なく、すべての所作に対してゴーシのみ軽い吐き気を催す特別なファクターが仕込まれていたのだった。要するにその吐き気はゴーシの狭矮さに由来していた。

 

 

食事中の会話はシャホが主導し、それが奏功していた。

テーブルには朗らかな空気が流れていた。ゴーシはなるべくマキセキを観葉植物程度の扱いにとどめておきたかったが、父親的寛容も意識してマキセキを完全に黙殺することはできなかった。主には、シャホに嫌われないために。

2時間後、シャホは確かな手応えを感じつつ、少し安心した面持ちでお手洗いに席を立った。

マキセキはシロアリの塩辛いパテをかじり、水っぽいシャンパンを口に含んだ。ほんらい、マキセキのような肉体を捨てた人物にとって食事は生命の維持に不可欠ではなく、味わいに対する感度も日に日に鈍くなる一方だったけれど、コミュニケーションの手段としてさらにもう一口齧って「なかなかですね」と言った。

ゴーシはこの日初めてしっかりとマキセキの目を見て話し始めた。
「昔、シロアリの加工場で働いていた男の話を聞いたことがある そいつは餌を準備する係だったんだが、なかなか優秀でね、混ぜ合わせる原料の比率が抜群だったんだ シロアリたちはそいつが作った餌を狂ったように貪り食ってた うまい餌があるって噂がシロアリ界に広まったんだろうな、自然主義のシロアリたちもその人工の餌を求めて工場に大挙して来るようになった 工場にシロアリが移動したおかげで、この辺りの建物を内側からガリガリかじり尽くしていた厄介者のシロアリたちは一掃され、家屋や神社の耐久年数が大幅に伸びた ここに来るまでにたくさんの空き家があっただろう? いまだに朽ち果てずにきれいな状態で残ってるのは、天才的な給仕係のおかげだよ」
「興味深い話ですね それで、その空き家は何に使うんです?」
「使い道なんてない」
「じゃあ、無意味ですね」
「意味はある 空き家があれば、そこに誰かが住んでいたってことを忘れずにすむだろ? もし家が跡形もなく消えちまったら、誰が住んでいたか忘れ去られてしまうだろ? それは悲しいだろ?」
「写真や映像のデータのバックアップを取っておけば、家がなくなっても忘れずにすみますよ 好むと好まざるとにかかわらずね」
「データは思い出か? 違うだろ?」
「なるほど、思い出か 一時的な錯覚ですね、脳のバグですよ ・・・・・・シャホがライフログを取っていないのも、お義父さんの影響ですか?」
お義父さん・・・・・?」
「同世代じゃ、シャホくらいしか知りませんよ、産まれてからのライフログを継続的に取ってないなんて子は 親というものは周囲の人々に、子供を大切にしていないと思われたがらない、と思ってましたけれどね」
「なにを言ってる、シャホが一番大切に決まってるだろ! お前が言ってるのは都市での話だろ? こっちじゃ別に珍しくもないんだよ、ナチュラルな生き方をしてるんだ なによりまず、お前におれの家族の方針に口出しされる覚えはないんだ!」

マキセキは失礼、と平謝りして飄々と、わざとらしく肩をすくめてみせた。

沈黙がわずかに生まれた。そのとき、とっさに、へんてこな質問がゴーシの口をついて出た。それはしかし、思いつきの質問というわけでもなかった。シャホから手紙をもらってから、故郷への道を忘れた川魚のように頭の中を静かに泳ぎ回っていた質問だった。
「きみは、本当に娘を愛しているのか?」

あまりに直接的な物言いだったことに気づいて赤面しつつゴーシはマキセキの様子をうかがう。だがマキセキは特に動揺する様子もなく、しかしおどけることもなく、真剣な表情で
「愛してますよ 最近流行りの、アクセサリー的所有欲を満たすためにプロポーズしたわけじゃないです」
「アクセサリー? なんだそれは、初めて聞いたな」
「そうですか? 人間同士の愛をネックレスのようにぶら下げるのは、人生を無駄に浪費するだけの精神的余裕があることを意味しますから、見栄っ張りな人たちにとっては、愛情の成就とそれの維持ができているという状況が、他人への比較的クリーンなマウンティングになるんです」
「わからん で、きみは愛をどう考える?」
「それは、肉の否定です」
「なに?」

廊下で物音がして、シャホが明らかに慌てた様子で戻ってきた。
「ねえ、大きな声が聞こえたけどなんかあった?」

叱られた子供のように、二人の男はなにも言わなかった。
「あのさ、なにか言ってよ 大丈夫? 何の話してたの?」

シャホが心配そうに交互に二人を見やる。

マキセキがきっぱりと、
「問題ないよ 何一つ問題ない」

と言った。
「信じるよ? で、何の話?」
「・・・・・・ええと、なんだろう、シロアリと空き家の関係について?」
「ねえパパ・・・・・・」

ゴーシは娘からの非難の視線に耐えながら、お茶をすすりだした。
「どうせパパの方からそんなわけのわからない話を始めたんでしょ?」

言いかけるシャホを遮るようにマキセキが、
「お義父さんはシロアリの話をしたい気分だったんだよ そのときの気分を尊重しようよ」

とフォローした。
「ええ・・・・・・ でも、パパ? あたし今日はもっと軽薄なバカ話がしたいな パパもそうしたいでしょ? シロアリは、だめ 虫けらの話なんて」

その後のシャホの抜け目ない立ち回りによって場の空気は回復し、ゴーシは少しずつマキセキという存在に対する軽蔑心を弱めつつあった。さっき大声を出してしまったことへの負い目も、その態度に影響していたかもしれない。

しかし一方でまだ、ゴーシはマキセキだからこその、オリジナルの瑕疵を見つけようとしていた。

日が暮れる前に三人は、ゴーシの妻でありシャホの母であった女性の墓参りに向かった。発案したシャホにゴーシは「マキセキをひとり家で待たせることになるから、彼がいないときにしたほうがいいんじゃないか」と、あたかも気遣うようなこと言ったが、シャホはなに言ってるの? といった顔で、
「彼も一緒に連れてくんだよ お母さんにも会ってほしいし じつは、今日は最初からこうするつもりだったの」

と言った。予めシャホから聞かされていたマキセキは、うんうんとうなずいていた。

墓参りから戻ってきたときには、すでに日が暮れていた。

コーヒーを淹れ、ケミカライズされたブルーのショートケーキを出すと、シャホはそれを二切れも食べた。青くなった舌を出して、目を糸のように細めて笑った。マキセキは全体的に青みが増したシャホの顔写真を何枚も撮って、そのままテーブル越しにじゃれ合いだした。最初こそ微笑ましく見ていたゴーシだったが、今にも二人が互いの舌を絡めだしそうなのを見て取ると、かなり強引なやり方で二人を引き剥がした。

ゴーシはアルバムを開いて、シャホが赤面するほど陶酔した口調で、自分の娘がいかにかわいらしい天使であったかを語りだした(こんな天使は、お前なんぞの手には負えないだろうな? ええ、マキセキよ?)。

マキセキは印刷された写真を珍しそうに眺めた。

 

楽しい時間はそれ以外のどんな種類の時間よりも早く過ぎ去る。

車の轟音は遠ざかっていく。

「またみんなで会おうね!」

シャホは車の窓から体を突き出して、ゴーシに手を振っていた。ゴーシは車が見えなくなるまで玄関先で見送った。

まだ得体のしれないところの多い若者だ、と部屋に戻り一人になったゴーシは思った。でもこれから少しずつ知っていけばいい。どうせいつかボロが出るだろう。

もし出なかったら?

そのときはそのときだ。

 

 

完全な夜。歯磨きのさなか、破壊的な音がリビングの方向から聞こえてきた。

白地に水玉の上下と帽子の寝巻き姿のゴーシが、歯ブラシを口に突っ込んだままリビングまで飛んできて恐る恐る様子を伺うと、車か何かがものすごい勢いで突っ込んできたのだろう、壁が破壊され砂埃が立ち、その砂埃の中には巨大な蜘蛛のようなシルエットが見えた。

悪魔でも召喚されたかと勘違いしたゴーシは、慌てて部屋に逃げ込もうとしたが、恐怖のあまり脚がもつれてその場に転んでしまう。脚に鋭い痛みが走り、すぐに立ち上がることはできなかった。
「お義父さん・・・・・・」

砂煙が薄くなる。

そこにいたのは、背中が地面に向くようにしながら手足の四点で姿勢を維持するマキセキだった。手脚が捻じくれているのだ。明らかに重症なその姿を見て、ゴーシは即座にシャホの身を案じた。
「お、おい、何があったんだ! ・・・・・・シャホはどうした?」
「シャホは誘拐されました」

マキセキは淡々と事実を口にした。そこに感情の揺れはなかった。
「何を言ってるんだ! 娘に何があった!?」

ゴーシは脚の痛みも忘れ、マキセキのもとにずかずかと詰め寄った。
「答えろ、おい!」

マキセキは未だ捻じくれた犬のような四つん這いの姿勢を維持したまま、淡々と事情を説明する
「得体の知れない車に追突されて、僕たちの乗っていた車が深い襞の底に落とされたんです 最初は事故だと思いました だから、襞の上から人が降りてきたとき、てっきり手を貸してくれるものと信じ切ってたんです ですが降りてきた男は、ぼくの体が機械仕掛けと分かるやいなや四肢の関節を逆方向に捻ってきました ぼく自身驚きました、この体は見かけほど強靭ではなかったんです 痛覚神経を通すだけの予算がなくて無くて、むしろ幸運といったところでした もし神経にまでこだわっていたら、きっと痛みのせいでここまで来るのがもっと遅くなってしまっていたでしょうから・・・・・・」
「それで、シャホはどうなった!?」
「男に連れてかれました きっと最初からシャホだけが狙いだったんだ」

ゴーシは言葉を失った。
「お義父さん、やつの目的は分かってます やつはシャホの生身の肉体を狙っている」
「なんだって?」
「知らないわけではないでしょう 手の加えられていないナチュラルな肉体に過剰に欲望するやつらがいることを これは、シャホの肉体を狙った犯行だ」

備え付けの黒電話が不吉に鳴り響いた。
「いまどき固定電話*・・・・・・」

と、マキセキがつぶやく。
「悪かったな 頭の中に直接発信音が流れることに耐えられないんだよ」

マキセキは受話器を取って耳に当てた。すると聞き覚えの声ある声が聞こえてきた。
「ゴーシ爺 夜分遅くにすみませんね」
「なんだ、ヨギワか 悪いが今取り込んでるんだ あとにしてくれるか」

イラつきを隠さずにゴーシが言うと、電話口から意味深なくすくす笑いが聞こえてくる。

「なんだ? なにがおかしい?」

「おれがたまたまあんたに電話したとでも? こんな時間に?」

ゴーシの顔が一瞬にして青ざめた。

「・・・・・・お前なのか? お前がシャホを誘拐したのか!?」
「・・・・・・あんたはおれを陰で嗤ってたんだろう? あんたはずっと『こいつよりはマシだ』と思いながらおれの話を聞いてたんだ そうに決まってるんだ あんたは妻と娘を失って生きる希望を失った、一人ぼっちの爺として振る舞っていた そうだろ? 嘘つき! みじめなふりをしておれを騙した!」
「妻は死んだよ それに娘とも数年間会っていなかった 誤解を生んでいたなら謝るが、お前の話を内心嗤っていたというのは考えすぎだ」

ゴーシが何度となくヨギワを家に招いてお茶会を開いたのは、彼の数多の異性交友における失敗談__成功談は一つもなかった__を聞くのが楽しかったからで、自分と比較してどうこう、ということではなかった。カウンセリング目的でもない。それは完全に暇つぶしだった。そこには悪意も善意も無く、話し相手が欲しかっただけだった。
「ちょっと落ち着け、な? シャホを返せ、今なら引き返せる」
「あんた知ってるか? 不幸にも保存則が適用されるんだ おれが誰かを不幸にすれば、そのぶん誰かが幸福になる 不幸の総量は決まっているからだ ・・・・・・おれはそのバランスを取ってるだけなんだ プラマイゼロだよ、結果は常にプラマイゼロなんだから、何をやったって何も変わらなんだ 誰かがいい思いをすれば、誰かが嫌な思いをする 逆もまた然り ・・・・・・おれはおれが貯めた不幸の貯金を、ここで使うことにしただけなんだ おれは決して引き返さないぞ あんたの娘の肉体はおれのものだ!」

電話が切れた。

 

 

絶句したままのゴーシに、マキセキが声をかけた。
「誘拐犯からですか? ヨギワって、今朝玄関先で会った・・・・・・」

ゴーシは力なく頷いた。
「やつの目的は肉体ですか?」
「わからない でも、肉体はおれのものだと言っていた」
「今どきシャホのように機械の混ざっていない、潔癖な肉体を保ってる人間は珍しいんですよ 特に一部のマニアにとっては、きんより価値がありますよ」
「へえ、お前もその一人か?」

ゴーシのむなしい挑発はマキセキに効いている様子はなく、かといってそれに気づいていないというわけでもなく、淡々と次のように答えるだけだった。
「ぼくたちは肉の否定によって惹かれ合ったんです だから、肉体の有無は関係がない 彼女は肉体があり、ぼくには肉体がない でも、ぼくらの間には、あのつながりがある」
「あのつながり?」
「みなまで言わせないでください」そう言うマキセキの声は少しだけ恥ずかしそうで、この日で一番人間らしく見えた。「とにかく、シャホを救い出すにはどうすればいいかを考えましょう」
「まずは警察に電話だ」
「してあります ただ、犯人の目的からして悠長に警察の到着を待っていいものかどうか・・・・・・ 下手をするとすでに手遅れの可能性だってあります」
「ちくしょう!」

ゴーシは叫んでみたが状況はなにも好転しなかった。痛めた脚を軽く引きずりながら、洗面台に水を飲みに行った。
「水いるか?」

未だ四つん這いのマキセキに聞くと、マキセキは
「いえ、不要です 喉は乾かないんです」

と答えた。
「そうか」
「お義父さん」
「なんだ」
「本当はシャホのライフログ、取ってあるんですよね? 母親のお腹から取り出された直後から今に至るまで、シャホのライフログは彼女には内緒でデータウェアハウスに蓄積されている、ちがいますか?」
「ちがう 取ってない 妻が嫌がったんだ 赤子の脳に装置を仕込むなんて、非人道的かつ不自然だと言ってね それに当時は、副作用で言語野に悪い影響が出るという噂も広まっていた 今の常識だと非科学的ととられるかもしれないが、当時の常識ではそうじゃなかった ・・・・・・たとえそれが、今回のような事件に巻き込まれる原因になってしまっているとしても、おれは妻の意見を尊重するよ」

シャホは周りの若者たちのように、体の一部を機械化して高いところの物をラクに取れるようにしたり、消化の悪い食べ物をいい気分のまま消化できるようにしたりといった、QOLを向上させる流行りの改造に手を出そうとしなかった。そこに自分や妻の性向が関わっていることを、ゴーシは気づいていないわけではなかった。

ゴーシはシャホに一度も自然主義を強要しなかったが、シャホがあえて父親が嫌がるようなことをしようとしなかったのだとすれば、それは抑圧であり、強要と肩を接している。
「本当のことを言ってください」
「死んだ妻との約束なんだ 娘には、自然の摂理に背いた生き方はさせない、と」
「・・・・・・ここだけの話、シャホは数年前から外付けのライフログの記録装置を使ってるんです 記録媒体が頭の周りを飛び回って記録する、妖精型のやつです 言いにくいですが、今こうしている間にもシャホが誘拐犯に乱暴され、精神的に大きな傷を負う可能性がある もしくは肉体的に修復不可能な損傷を負う可能性も そうなったら彼女は自らの記憶を、ここ数年の間に貯めたログを使用して再構築するでしょう ぼくもそう勧めます お義父さんもそれには同意しますよね?」

マキセキは最悪の事態を想定して、話を進めている。

自然に生きるすべての動物は、最期には死を受け入れ、炭素の循環に身を任せる。

しかし同時に、あらゆる動物の内面の自然さにおいて死は、拒めるものなら拒みたいものとして存在する。でなければ動物は皆レミングスになってしまう。

ゴーシはその上で、妻の言葉の解釈を迷っていた。いや、実際にはすでに決断を終えていた。なぜなら、シャホが産まれたときにその決断を終えている必要があったからだ。産まれた瞬間からのライフログからの復元と、直近数年や数ヶ月ぽっちのデータからの復元では、その復元体のクオリティに大きな差が出る。

あらゆる動物に当てはまることなのかどうかわからない。だが少なくとも一部の人間の、しかもその中でも子を持つ親にとっての自然さとはなにかといえば、なによりもまずその子に訪れようとする死を決然と拒むことなのではないか?
「お義父さん?」
「ああ、同意するよ」
「では、シャホを復元するとき、直近数年のログだけではカバーできない過去を補完する必要があります この家には、シャホの過去を再構築するだけの十分なデータがありますか? 先ほど見せてもらったアルバムの写真もそうですし、他にもビデオとか、ボイスメモとか、手紙なども役に立ちます ライフログの代わりになりそうなデータをかき集めるんです」
「・・・・・・それで本当にシャホが復元できるのか?」
「医学的にはできます、少なくともコアとなる部分はできることが保証されています あとはデータ量次第ですね それで出来上がるのがシャホからかけ離れていたとしても、あくまでもそれは表面的な部分だけです 海外旅行に行って性格がちょっと変わるのと、似たようなものです ガンジス川に頭まで浸かったからといって、人格が完全に変わってしまうことはないでしょう?」
「お前はそれでもシャホをシャホだと思って愛せるのか?」
「さあ それはその時になってみないとわかりませんよ」
「シャホがかわいそうだ」
「それは、あなたがライフログを用意しないから ライフログがあれば肉体を捨てても、完全に復元できます」

ゴーシは目を閉じた。

相変わらず、妻が美しかった瞬間だけを頭の中に思い浮かべた。ゴーシの妻はカーテン越しに差し込む朝日を浴びながら食パンを頬張っていて、ゴーシが起きてきたことに気づくと警戒心のない柔らか笑顔を浮かべて「寝癖すごいよ?」と声をかける、脳内ポラロイド。こういう平和なコレクションがまだ数百枚くらいある。
「ああ、許してくれ・・・・・・」

ゴーシは生前の妻がいつも座っていた椅子__マキセキが飛び込んで来た衝撃で倒れてしまっていたが__を見遣りながら呟いた。
「実はシャホのライフログは、産まれた瞬間から有効にしてある すべて、データウェアハウスに記録してある」

それを聞いたマキセキは、表情筋の存在しない顔で笑顔を作った。
「すばらしい その言葉を待ってました さすが、シャホのお父さんですね」

 

 

郊外の奥の用途不明の茫漠の空間に、一軒の空き家が隠れるでもなく堂々と建っていたのだが、通り過ぎる人々はその空き家を中身のない無意味な存在とみなしていて、庭に咲く無数の赤い花は目に入っても、建物自体を意識することは全く無かった。

今夜はその空き家の前に一台の車が止まっていた。途中で運転手の交換を挟みつつ、その車はゴーシの家からここまでまっすぐやってきたのだった。

二階の窓から光が漏れている。

かつて夫婦の寝室だった一室には、体を縮こませればなんとか添い寝できる大きさのベッドが残されていた。すでに体を縮こませつつある彼らは、これからこのベッドに横たわる予定だった。

一人は顔色の悪い青年で、長い前髪を髪留めで留めている。目元の隈が白い肌にがよく映えている。ベッドに腰かけて何かを待っている様子だが、落ち着かなげに貧乏ゆすりをしている。

その隣には若い女性が座っていて、青年よりもくつろいだ様子だけれど、表情は固い。立ち上がって、窓のそばまで歩いていく。しかし周囲に明かりはなく、外の景色は何も見えない。
「外から見られてしまうよ」

青年が静かに声をかける。
「びっくりして逃げていくんじゃない? 幽霊屋敷だって」

そう言いながら女性は窓から離れたが、ベッドには戻らずクローゼットに近づいていった。クローゼットの中にはよれよれになった衣類だけ取り残されていて、着替えは期待できそうになかった。いや、女性は思い直す。仮に汚れるようなことがあったとしても、その後に汚れる以上のことが起こるんだから、気にする必要なんてないんだ。
「不思議な感じ 始まりのような、終わりのような・・・・・・」

女性がそう言うと、青年は不思議そうな表情を浮かべた。
「おれは終わりだけど、あなたは始まりでしょう?」
「・・・・・・そうだよね」

そのとき、青年の頭の中で電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。相手はマキセキだった。
「もしもし、ヨギワくん?」
「うん それで・・・・・・、そっちはどんな様子?」
「ああ、朗報だよ お義父さんがたった今、口を割ったところだ 思った通り、シャホのライフログは産まれたときから記録されてる」

ヨギワの顔に安堵の笑みが浮かぶ。しかしそれは一瞬で、今度は別の緊張感にその顔は犯されてゆく。

シャホもヨギワの表情から状況を察した様子だった。
「じゃあ、手筈通りにってことでいいのかな」
「うん、あとのことは心配いらない ついさっきぼくの方でもアカウントを確認して、データの蓄積をばっちり確かめたところだよ」
「ありがとう じゃあ、これでもうさよならだ」
「・・・・・・本当に君は生まれ変わるつもりはないんだね?」
「おれの夢はここで終わるから」

マキセキにはヨギワの理念が未だに謎だった。利害は一致していたが、行動原理は決してわかりあえなかった。
「おれは生まれたときから死んでたみたいなもんなんだ 聖人になるつもりもないし」
「聖人なんていない 生きてる生き物がいるだけだ」

なんと言われようと、ヨギワの気持ちは変わらなかった。

おそらくヨギワは肉体を持たないマキセキを哀れんでいたし、マキセキは肉体に縛られているヨギワを哀れんでいた。お互いがお互いを哀れんでいたからこそ成立した密約なのだ。シャホはそれらの哀れみの外にいて、しかし同時に二人を慰めるというアクロバットを決めようとしていた。それは彼女自身の純然たる好奇心を満たすための行為が結果としてそのように機能していたのであり、献身という言葉は不似合いだった。
「・・・・・・もし後悔が残ったら、君だけで逃げてもいいんだ」

マキセキは本心でそう言った。ヨギワは「後悔を消し去りたいんだ」と言って電話を切った。

電話のあいだ目を閉じていたヨギワが目を開けると、部屋は暗くなっていた。窓から差し込む星の光の強さで、今夜、空にかかるスモッグが少なかったのだということに気づいた。ベッドが小さく傾いて、ヨギワは自分の背後で、シャホがベッドの上に乗ったことがわかった。振り返るとすでに服を脱ぎ捨てたシャホが、生身の夕焼け色の体を星の光にさらしていた。

ヨギワは眼の前の景色に言葉を失った。データではない生身の肉体が、自身の意志を持って動いていることに感動していた。
「あ、服脱がしてみたかった?」

と、シャホが黙ったまま硬直するヨギワに、戸惑い気味に言う。
「いや、そんなことない あの、びっくりして・・・・・・」
「早く慣れないと! 最後の夜を楽しもうよ」
「そうだね」

二人はベッドの上で極めて手際悪く、相手の体を触りあった。快楽にふけるというよりは、相手に触れられることで、自らの体の形を再確認しようとしているかのようだった。快感はあくまでもおまけとして、遅れて現れた。それはどちらかといえば、自己愛に近い喜びだった。

とはいえ執拗な摩擦行為は定められた状態へと肉体を持ち上げてゆく。緊張で固くなった二人の体も例外ではなく、時間こそかかったけれど、お互いにそれぞれの高みに押し上げあった。汗をかきながら、二人はそのままきわめて自然な流れで、ある姿勢へと向かっていった。シャホは鋭い痛みを感じたが、最後の瞬間に自身の気分を下げたくなかったため口には出さなかった。ヨギワはなにかが信じられないようすで、結合部を凝視していた。

特に感動的な結末は待ち受けていなかった。二人とも満たされるような、あるいはこぼれ落ちていくような、奇妙な気分に見舞われていた。頭は恍惚としてゆくと同時に、努力して腑抜けなければむしろどんどん冷静さを取り戻してゆくようでもあった。
「ねえ」

とシャホが下から声をかけた。
「なに?」
「そろそろ終わりにしようか」

そう言われて、ヨギワは悲しくはなかった。時間にして20分弱、たしかにそろそろかな、と思い始めていたのだった。
「わかった」
「それじゃ、一緒に押しましょう ・・・・・・まだ押さないでね」

シャホはスイッチを握る自分の手を、ヨギワに握らせた。お互いの手は、一つのスイッチの上に載せられた。
「載せたよ」
「オッケー じゃあ、合図したら一緒に押して ・・・・・・あなたが合図する?」
「うん じゃあおれが合図するよ ・・・・・・シャホさんありがとうね」
「なにを今更言ってるの? これって利害の一致でしょ お互い様なんだから、感謝されても困るよ あたしはあたしの体を負い目無く捨てることができる 悲劇的なストーリーのおまけ付きでね お昼のきみの演技、なんていうのかな、かなり風変わりな感じでよかったよ」

「・・・・・・風変わりね」
「どうする? カウントダウンいる?」
「いいよどっちでも」
「きみのタイミングにする? あ、でも、いちおうカウントしとく? ええと、十、九、八、七、六・・・・・・」
「いやもう 限界だ・・・・・・ 今だ、押すよ!」

シャホが満面の笑みで叫んだ。
「吹き飛べ!!」

その瞬間、ベッドの下に仕掛けられていた爆弾が爆発した。

ベッドの上の二つの肉体はベットごと爆散し、合計八本の手足がペットボトルロケットのように部屋の壁に向かって飛び去った。血みどろのベッドの綿がふわり、とはいかずに地面にべとべとと散らばって落ちた。空き家の床には穴が空いたけれど、シロアリに侵されていなかったため他の場所は流石に頑丈で、倒壊の心配はなかった。

 

 

後日、キセキが自分と同じ場所にやってきたシャホを心の底から祝福し、シャホ自身も新しい実存の身軽さを喜んだのと対照的に、ゴーシは塞ぎ込んでしまった。

ライフログから復元されたシャホは、手に入れた交換用の体の一つであるラテン系の体で、自分の肉体の葬式に列席した。ゴーシは列席せずに家に引きこもった。家にはまだマキセキが開けた壁の穴が残っていて、ゴーシはまだそれを修復できていなかった。普段は板を立て掛けて風が入るのをしのいでいたが、お昼頃、いつものようになにもしたくないという気持ちに見舞われると、その板を外して外の景色を眺めた。自分用の椅子はすでにその壁穴の前に移動させてきていた。

ごくまれに車が通り過ぎるだけの、人通りのない荒れた道が目の前を横切っている。道を隔てた真向かいにも家は建っていたが、数十年前から空き家だった。両隣にも家は建っていたが、どちらも空き家で、誰も暮らしていなかった。さらにその隣も、その隣も、ずっと空き家だった。

道は、その上を通るものを楽しませようとするかのように上下にうねっていたけれど、それはあくまでも表面的な襞にすぎず、結局は無人の道が続いているだけだった。

やがて雨が降り始めて、泥の混ざった跳ね返りが家の床を汚し始めたが、ゴーシは遠くの空の重そうな雲を眺めている様子で、必要な掃除の予感にはまだ気づいていないようだった。もしくは気づいていながら、今は体を動かしたくないという気分だったのかもしれない。あの晩に驚いて転んだせいで痛めた脚が、いつまで経っても治っていなかったことは、こうして何もせずに打ちひしがれていることのちょうどよい言い訳になるだろう。

 

2024年5月6日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』最新話 (全6話)

© 2024 燐銀豆|リンギンズ

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