焦げと鮫

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第5話)

燐銀豆|リンギンズ

小説

17,077文字

▽あらすじ▽
綾野湖華は仕事のミスで、うっかり人を殺してしまう。
湖華は次の仕事場に向かう途中で同業の江沼沙芽に遭遇し、地下で難民たちと宴会をすることになる。
一緒に買い出しに行く道中で沙芽は、湖華の振る舞いに違和感を覚える。
地下での突発の残業に、湖華は真面目に取り組む。
帰宅後のお風呂の中で、湖華の頭の中の違和感が煙のように消えていく。
明日から一人気ままな三連休、最高じゃん!

深夜23時、附身フーシェ・バーのボックス・ソファに深々と腰掛ける綾野湖華あやのこげが、口からピンク色の煙を吐き出している。

湖華が仕事でミスを犯すのは珍しいことだった。しかも、それは彼女らしくない、誰にでもできるような平凡なミスで、そのうえ致命的だった。というのも、そのミスが、ミルク・ウィスキーが自慢の附身フーシェ・バーを一晩で破綻させたのだ。もし彼女がミスるとすれば、菫の花のようにそれはもうささやかでエレガントなミスになるだろうと、誰もが思っていたのに。

石畳の歩道と店を隔てている壁一面の大きな窓は無惨に叩き割られて、秋の夜風は店主の許可を得ずに出たり入ったりを繰り返している。とはいえ、お伺いを立てようにも、店主は店を放棄してとっくに逃げ出してしまった後だった。

窓ガラスの破片が散らばったバーの床には、3人の男たちが頬をくっつけてすやすやと眠っている。世にも珍しい人間掃除機として、ガラスの破片を肺に吸い込んで片付けを手伝おうとしているわけではなかった。それどころではなかった。なぜなら彼らはすでに死んでいた。

 

ソファーの上で湖華は足を組み直した。傍から見ればクールな姿。エディ・スリマンが駆けつけてきて、狂ったようにカメラのシャッターを切りそうな姿態。世の中のあらゆるみすぼらしさを優雅に踏みにじってくれそうな被虐的なふくらはぎの曲線__あああ、はっきり言ってその曲線は、研ぎ澄まされた刃物に等しい!__それは指数関数としても立派な出来栄えで、数学的均整が取れていた。でも、頭の中はどうだろうか?

湖華は小ぶりな頭を使っていつも思考している。現実逃避のために意味のないことを考えているときも、同じ脳みそを使っている。たとえば、脳みそのひだ・・をすみかにする、ミミズ状の生き物の存在に意識を集中してみる。深夜になると、ミミズたちはそれぞれの住処から前頭葉広場に集まってきて、パーティを開く。ああ、気味が悪い。ミミズたちはくねくね身体をくねらせて、意中の相手と絡み合うの。スパゲッティとか、革靴の紐とか、サーバールームのLANケーブルみたいに。とても親密にね。あたしは場所を貸してあげてるだけ。でもさっきはそのせいで、踊りまくるミミズたちのせいで、あたしの判断力が鈍って、手が滑って・・・・・・。

床に横たわる男たちの徹底した現実からの逃避に比べれば、湖華のはまだ不完全だったとはいえ、それでも必死の逃避中だったことは間違いない。でなければ、脳みそにミミズなんて住まわせるわけがない。

そんなとき、綾野湖華の小指のリングが振動し始めてしまった。それは現実からの着信の合図である。

すぐに言い訳を考えよう。説得力のあるやつ。100%無実と思われなくとも、60%くらいはまあ無実っぽくて、情状酌量の余地ありってみなされるくらいの、ちょうどいいやつを・・・・・・。湖華が思いつくより先に、リングからオペレーターの緑色の思念体が投射され、小さなガラスのきらめく床に降り立った。

 

「仕事の調子は?」

湖華の返事は言葉ではなく、曖昧な微笑みだけ。

空飛ぶ暴走族が空中から雨のように降らしている爆撃のような電子音が、秋風に乗ってバーの中に吹き込んでくる。あたし、今日だけはダムダムたちを羨ましく思うよ。あんなふうに、ただ空を飛び回るためだけに生きれたらどんなに楽しいだろう。目的なんて、それくらいシンプルでちょうどいいんだ。でもそれじゃ生活できない。お金がなくちゃ、除染済みの食べ物は食べれないんだから。食べるものがなきゃ、生き物はどんどん痩せてしまう。まあ、痩せるのは良いことだけど。いつか仕事をやめたらあたし、筋肉を除去してくれる注射を打って、もっと細くて柔らかい体を手に入れるつもり。誰かのためってわけじゃなくて、あたし自身のために。

「仕事は? 連中はどうなった?」

オペレーターの質問に湖華は、知ってて訊いてるくせに、と思いながら素っ気なく答えた。

「連中は、夢の中」

湖華は床上の永遠の現実逃避者たちに冷ややかな視線を送る。

緑色の思念体は頭を抱えた。

「確保が優先だって言ったはずだよね? お土産が死体じゃ、報酬はもう期待できない! ううう」

ひとしきり嘆いてみせてから、ちらっと、湖華の反応を伺う。でも、懲りずにまだ電子タバコをふかしている湖華を目の当たりにして、さらに感情的に続けた。

「きみ、想像するんだ! クリスマスイブを! きみはサンタクロースからのプレゼントを待っている一人の少女 カードに要求と指示を書き残して、わくわくしながら眠りについた でも、わくわくしてるからきっと、すぐには眠れないだろうね! 何度も寝返りを打っているうちに、外では太陽が昇ってる 電線にとまる小さな雀たちの歌が、信じられないくらい愛おしく寝室にまで聞こえてくる きみは飛び起きた そして、枕元に少し大きなプレゼントが届いていることに気づく! とっても嬉しい! プレゼントに飛びついて、包み紙を乱暴に破く! そして、窓から差し込む明かりに照らされてプレゼントが姿を現すと、それは、有刺鉄線でぐるぐる巻きにされた勃起中のペニスなんだ。その薄皮に、紫のルージュを引かれた数百枚の人間の唇が鱗のように縫い付けられている、聖なるオブジェだ!」

「気持ち悪い そんなもんいらないよ」

「イエス! つまり、くそったれプレゼントだ わかる? きみのミスは、くそったれプレゼントだ」

興奮して口の端に緑色の泡が溜めるオペレーターを見上げながら、湖華はむしろ冷静になっていた。

「そうは言っても、ミスは今回が初めてでしょ 次はミスらない」

「・・・・・・ふん、きみにはミスの理由と是正案をレポートにまとめて提出してもらうよ まあ、それは今日じゃなくていいけど きみには今日、このまま別の仕事に移ってもらうから」

「あたし、今日はもう休みたい ミスは、体調不良のせいだと思う」

「思う?」

「ううん、本当にめまいとか頭痛とかした気がする」

湖華は電子タバコを持っていない方の手をこめかみに当て、眉間にしわを寄せてみせた。オペレーターは疑惑の目を湖華に向けている。凝視すれば頭蓋骨の奥が見通せて、本当に頭痛があるかどうか分かるかのように。あるいは、ミミズたちの脳内レイヴパーティを盗み見ていたのかもしれない。

これなら、同じくらい緑色の野菜と会話してるほうがまし。オペレータと会話しながら湖華は思った。そう思うと。少し面白くなってきた。あたし湖華、野菜と会話する女。要望を言いな。ばらばらにカットされたい? それとも熱々のお湯で茹でられたい? そうよ、あんたはあたしの食べ物に過ぎないの。それ以外の選択肢はないわ。でも安心して、あたしは親切だから・・・・・・。

「体調不良だろうがなんだろうが、今回のミスの埋め合わせはしてもらう きみが今いる附身フーシェ・バーには掃除係を送る ・・・・・・、ほら、さっさとその小さなお尻をソファーからひっぺがすんだ!」

湖華は猫の全身の形をしたオレンジ色のレザーのミニバッグを取って、不服そうに立った。着丈の長いジャケットから飛び出す、薄いタイツ包まれた二本の脚は、床に転がる男たちが生前最後に見た夢の形に一致している。

タバコはいつの間にか手から消えていて、代わりにミルク・ウィスキーの飲みかけのグラスが握られていた。

「飲むなよ」

オペレーターはいつまでもリングに戻らず、実体化したままの姿で湖華に忠告する。湖華とは目が合っている。

「もう飲んじゃった」

そう言ってから、湖華はグラスを空にした。バニリンの風味がのそのそと口全体に広がってゆく。

湖華はバーの窓枠を跨いで外に出た。

数刻前にすでに砕かれていた窓ガラスは、通せんぼしたり、あるいは反射して鏡のように向かい合う相手を錯乱させたりできず、湖華に通り道を提供するだけだった。店の外は、店内と同じ匂いがした。

ということは、バーの中がすでに外だったかもしれない。もしくは、同じことだけれど、外がすでにバーの中だったのかもしれない。

 

 

こんなに月がきれいなのに、どうしてあたしはこんな平凡な路上をうろつかなきゃならないわけ? こんな仕事やめたい。あ、空飛ぶ暴走族が流れ星みたいに空に尾を引いてる。オーケストレーションされた青いヘッドライトの点滅もきれい。でも排気ガスの煙が鬱陶しいね。子どものころに見た花火も、火薬の煙が邪魔だった。グレープフルーツの甘い香りに混ざってる、皮の苦い香りみたい。世の中、きれいなとことか、甘いとこだけあればいいのにね。いや、やっぱり違う。そんなの、甘ったれじゃん。食パンの白いとこだけみたいな、耳なしの、なよなよした人生なんて嫌い。

リングから放たれる緑色の光の線が指す方向に向かって、湖華は夜道を歩いている。

一定間隔で並んでいる電灯がつくる光のたまりを、スモーキング・ジャケットを身にまとった湖華が出たり入ったり、現れたり消えたりする。

目的地に近づくと、それまで隠れていたオペレーターがリングからしゃしゃり出てきて「そのままマンホールを通って地下を進むんだ」と言いだした。

「なんでよ?」

湖華は純粋に問うた。

「現場がその先だからだよ」

「悪いけど、現場を地上に移してくれない? 地下なんて歩きたくない」

「無理だね すでに物事は進行しているんだ 現場は地下にある もしきみに過去を変えることができるっていうなら、変えることもできるかもしれないけどね」

「でも、過去は変えられないじゃない」

「だから、そう言ったんだよ」

 

湖華はため息を付いて(そのとき緑色の野菜は「まったく、どうしちゃったんだよ今日は」と小声でぼやいていた。)、雲の色に合わせて紫色に発光する摩天楼を見上げながら、ゆったりした動作で電子タバコを唇に挟んだ。暴走族を取り締まるサイレンが遠くの空から聞こえた。

地下では今も、領土を巡る紛争に破れた罪なき難民たちが、排他的な占領を正当化し続ける国家の地下で命がけの移動をしている。そして、温室の半透明のシートの中で身を隠していた国家はその動きに気づくとすぐに、あたかもアレルギー反応を起こしたかのように闖入者たちの排除を始めていた。その痙攣はまったく美しくなかった。

「早くしないと間に合わなくなる」

緑色の妖精が、きわめて実務的な態度で言う。

「少しくらい休ませてよ」

湖華は少しどころかたっぷりと休息を取った。

対照的に地下の現場では物事が素早く進展していて、潮目は変わりつつあり、その証拠に、湖華のすぐ足元のマンホールの蓋がひとりでに震えだした。

危険を察した湖華は電子タバコを捨てて素早く影の中に飛び込み、息を潜めた。マンホールの蓋が地面の縁から持ち上げられ、そのままがるんがるんと引きずられるとき、湖華はマンホールの蓋を下から支える細い腕を見逃さなかった。

開かれた穴から、チラ見えした腕の持ち主と思われる派手な色の頭が飛び出してきた。きょろきょろと用心深く周囲を見回している。その目には暗視メガネ掛かっていて、レンズ越しに影の中に潜む湖華と目が合う。一瞬の静止のあと、

「うわあ! どうしてここにいるん!?」

と、驚きの声が上がって、すぐに穴の中に頭が引っ込んだ。

アスファルトの上にうつ伏せで隠れていた湖華は何食わぬ顔で起き上がると、街灯の下に歩み出て、まだ穴の中で警戒して見上げている女に手を差し伸べる。女はその手を、ガラスの上に咲く花でも見るような不思議そうな目で見つめている。

「どうしてって、分かるでしょ? 仕事だからだよ」

「・・・・・・、沙芽さめの仕事を横取りしに来たのね?」

湖華は首を傾げる。

「そうなの? あたしは知らない」

その答えを知っているのは緑色のオペレータが横から口を挟んだ。

「すでに誰かがアサインされている仕事を奪うなんていうのは、時間と労力の無駄だよね そもそも協定違反だ だから、そんなことはしない」

「へえ」

気のない湖華の返事が、オペレーターの癇に障ったらしい。

「・・・・・・へえ? 言ってしまえばきみは、仕事を取り逃したんだ タバコ休憩が長すぎたんだよ、ちくしょう 明日は倍、働いてもらうからね 今日の分のマイナスを取り返さないと この調子じゃきみはいずれ、路上で野垂れ死ぬことになるよ 今日みたいなミスを続けてたらきっとそうなる 脅しじゃない 自分の能力にうぬぼれて失墜していったきみみたいな子を、すでに何人も見てきたんだ」

「明日はあたし、お休みもらうから 前から約束してたでしょ?」

「いまの話を聞いてた? 取り返さないと」

「でも明日はあたし、お休みもらうから」

「・・・・・・勝手にしろ! さよなら、わたくしは消える!」

そう言って不貞腐れたオペレーターは舌を突き出して、その緑色の蛍光色の顔だけを空中に数秒だけ残したあと、消えさった。リングは今はもう何も受信していない。

「だって、さ あたしは仕事の横取りなんかしない」

穴の中の女__江沼沙芽えぬまさめが湖華の手を取って地上に這い出してくる。

 

鮫があしらわれたトラックパンツに合わせるネイビーのショート丈のパーカーには、オレンジ色のスパンコール(よく見るとそれらも鮫の形をしている)がまんべんなく縫い付けられていて、動く度に光が服の上を踊る。へそを飾るピアスはシルバーで、よく見るとギザギザしたサメの歯型になっている。

「緑色の人、すっごい怒ってたよ? ひやひやしちゃった なにやらかしたの?」

「わかんない 附身フーシェ・バーでのことは、あたしのミスだけどさ あれは怒りすぎだよ ほんと、チワワの水受けじゃないんだから」

「チワワ! チワワがどうかしたん!?」

「器が小さいってこと」

「え、なるほど?」沙芽はぱらぱらと拍手をして、ん? と気づいたように一瞬斜め上を見上げた。それから視線を湖華に戻して「こんなふうにおしゃべりするの、不思議な感じだね 湖華ちゃん、今日はご機嫌?」と訊いた。

「いつも通りだと思うけど?」

湖華は少し戸惑い気味に答えた。

「ほら、やっぱりなんか優しいよお! いつもだったら『あ? あたしはいつもあたしだろ? そしてあんたはどぶごみ野郎だ』って言うのに!」

湖華は思わず苦笑してしまった。どぶごみ野郎なんて、あたしの語彙にないよ。

その表情を、沙芽はフクロウのような瞳で不思議そうに見つめている。

「やっぱりへーん お姉さんみたいな、うふふ、って感じの柔らかい微笑み・・・・・・ ほ・ほ・え・み! ニヤリ、じゃなくて、ほ・ほ・え・み! なんかいいことあったのー?」

沙芽はずい、と一歩湖華に近づく。

キラキラのラメまみれの小さな顔が、湖華の死体のように白い顔に接近してくる。湖華はごくんとつばを飲んだ。(人間、追い詰められるととっさに典型的な・・・・行動をとってしまうらしい)。

そのとき開け放たれたままの穴の底から声が聞こえてきた。

「おーい、問題なければ蓋を閉じてくれぇーい!」

「あ、やば!」

そう言って沙芽はマンホールに駆け寄る。

「ねえ、湖華ちゃんも手伝ってよー」

そう言いながら、沙芽は穴の底に一度だけ手を振って、手助けなしでたやすく蓋を元に戻した。

「よし!」沙芽は顔を上げて湖華にウインクした。

「じゃあ、行こっか」

「行くって、どこへ?」

「だって、今日の湖華ちゃん超レアだもん こうして喋ってくれて、沙芽はね、すっごくうれしい だから湖華ちゃんにはこのあと、打ち上げに来てもらいますから!」

「あたし、もう歩き疲れたのに」

「沙芽が癒やすって!」

あたしって、今日はいつも違うの? そもそも、あたしってどんなキャラだったっけ? 湖華は一人首を傾げ、肩に掛けたミニバッグの猫の頭を何気なく撫でた。すると猫は小さく喉を鳴らした。小動物の健気な鳴き声に興奮した沙芽は目を輝かせて、

「え、えらい可愛いバッグやな!」

と言って、湖華のバッグをごしごし撫で始めた。猫型のバッグは機嫌悪そうに断続的に鳴いた。

 

 

「沙芽ね、湖華ちゃんの仕事ぶりを遠目に見てて、同業者として憧れてたんだよ! 本当はもっと早く仲良くなりたかったの でもあなたすっごく近寄りがたいオーラ出してるんだもん、話しかけるの自重してたの ていうか、ちょっとびびってた 正直ね でも仕事がめちゃくちゃできるなら、少しくらい性格が破綻しててもいいの! 沙芽はそう思う ・・・・・・でもやっぱり、じつはちょっと寂しかった だから、今こうしておしゃべりしながら、一緒にお酒の買い出ししてるの、すっごい不思議な感じ! 雲の上を歩いてるみたいにふわふわ・・・・・・ うーん、伝わってないかもだけど とにかく、いま沙芽ね、むっちゃ感激してるんだよ!」

お酒、あんまり飲みたい気分じゃないし、もう家に帰りたい気分なんだけど。と、湖華が言い出すのを事前に察知したかのように喋り続けた沙芽によって、実際に湖華は言い出すタイミングを失っていた。幸か不幸か、酒屋は二人が出会った穴から歩いて5分とかからない、大通りを一本外れた道にあった。

バイパスから大通りに降りてくる警備隊の装甲車の拡声器ごしの警告や、謎の政党の街宣車の神がかり的な演説の音量はかなり減衰されて、酒屋の店内にはほとんど入って来れなかった。その代わり、アイドルグループのシングル曲が流れていた。

その女性5人組アイドルグループは、歌うだけでなく踊ることさえできた。しかも、世間的な基準に照らして非常に高水準といえるビジュアルも備えていて、プラスサイズというよりはマイナスサイズ。彼女たちは鑑賞者を喜ばせ、奮い立たせることに特化した、インターナショナルな専門家集団で、次のような歌詞を歌った。

 

この部屋には言葉がなくて
一つの明かりに飛んでくる羽

 

隣にまだあるくぼんだ気配へ
飛び込んでいってもそこにない香り

 

食べたアイスのカップがゴミ箱で
寄り添う景色は思い出せないね

 

鏡の中のあたしが目をそらすなら
一人月夜を歩いてくよ

 

秋を送った都市の端の
黒い地面は柔らかい
道を埋める落ち葉の
息を止めて音を聞いた
楽しげにささやきあうね

 

忍び出た夜はウールじゃたりなくて
突っ込んだポッケには知らない鍵とガム
悲しみよりも コンビニと虫と愛
悲しみよりも コンビニと虫と愛

 

忍び出た夜はウールじゃたりなくて
突っ込んだポッケには知らない鍵とガム
悲しみよりも コンビニと虫と愛
悲しみよりも コンビニと虫と愛

 

(別稿が混入してしまった模様。抹消済み)

 

Ah
華を添えるわ
蜜を嗅いだの?
full bloom 埋め尽くすの
自信がない奴らは 煙たがる
あたしたちはまるで火事のsmoke?
見物に来な blue rose
燃やす 美しい炎
寒がりさんを 温めてあげる
あたしたちはいつも味方

 

暗いcity like catacombe
butあたしたちは真逆

 

blue ばら ばら ばら 照らすの
blue ばら ばら ばら うそつき
blue ばら ばら ばら うるさい

 

よちよち歩きでここまでこれる?
still shining 踊らなくても
still shining 歌わなくても
受け入れなさい あたしたちのキック
シリアスじゃないけどマジ
感情はcontrol
お願い ヘラヘラしないで

 

pestsは見てるだけなのね
この映画の主演はno name
だって椅子が足りないよね
正解なんかない、でOK?
だってそもそも道無い光景

 

NEWドレスにメイクアップ
踏み潰されないくらいタフ
いらないよくだらないケミカル
履かないでダサいサンダル
覚悟して、忘れられない日になる

 

暗いcity like catacombe
butあたしたちは真逆

 

blue ばら ばら ばら 照らすの
blue ばら ばら ばら うそつき
blue ばら ばら ばら うるさい

「お二人さん なにかお探しで?」

暇を持て余していた酒屋の若い店員が、突如二人の前に現れた。

彼は、個性的な装いの女性客二人の入店に希望を見出した。眺めているだけではすぐに物足りなくなり、カウンターを乗り越えて積極的な接客を試み始めたのだった。つかの間のふれあいを求めたのだ。泥のように平穏な平日に刺激を。錆びついた自転車のような日常にクレ5-56を。

汚染物の体内残留も同年代と比べて低水準で、しっかりした体つきの店員は、長い髪をヘアオイルで後ろに流して、首元からはムスクの香りを漂わせている。笑うと残忍な顔つきになるが、それも「ワイルド」と読み替えれば魅力へと反転するし、他に目立って生理的不快を呼び起こすような特徴の持ち合わせはない。当人にもその自覚と自信があった。

でも、接客スタートを知らせる一言目に対する反応、とりわけ向けられる湖華のこの視線の冷たさはどうだろう。これまでの人生で、女性にそんな目で見られたことはなかった。普段ならどんなに邪険に扱われても、全くの無関心ということはなく、ほんの僅かであってもこちらへの関心があった(もしくは、あると思い込めるくらいの心理的余裕があった)。が、このスモーキング・ジャケットを身にまとった女性の前では、ほんの僅かなお情けすら感じ取れなかった。

これは人殺しの目だ! と確信を抱けるほど店員__久莢十萄ひささやじゅうどうの感性は鋭くなかったが、最低限の動物的本能は告げていた__気をつけろ、彼女と関わることはある目的においては完全なる時間の無駄だ、と。

「あなたの選曲? ガールズグループが好きなの?」

湖華が感情の見えない口調で訊いた。十萄は最初それが質問と気づかず、ワンテンポ遅れて反応した。

「あ、えっと、好き」

「そうなの」

「あの・・・・・・、お気に召さない? 変えましょうか? 何が好き? 親父は無頓着だから、選曲はおれの担当なんだ」

「でも、好きなんでしょ?」

「勇気がもらえるでしょ 好きだね ・・・・・・でも、お客さんのリクエストに答えますよ この店はアルコールとホスピタリティに溢れてるんだ」

「どうして? 変えないで もうすぐGAIAちゃんの高音パートだから」

直後、湖華は不思議なものを見た。十萄がニコニコで奇妙なステップを踏み出したのだ。そこに手の動きが加わり、曲のリズムにダンスがぴたりと連動する。時々力強く床を踏むせいで、棚の酒瓶が揺れてぶつかり合って、コココッと低い音が連鎖的に鳴った。酒瓶が嘲り笑っているかのようだった。

しゃがんで棚の下側の酒を物色していた沙芽が、湖華のジャケットの袖を後ろからくいっと引いた。湖華が振り向くと声を出さずに「ねえ彼、ガチファンだよ!」と口を動かした。そして十萄を指差し、わざとらしく口角を下げて首を横に振った。

ダンスは独特のキレを維持したまま1分が経過し、その視線は湖華に向いたままだった。十萄の晴れやかな表情が語っている。

「どう? おれ、どう? 今のおれ、どう!?」

 

最初こそ内心面白がっていた湖華もやがて飽きてきて、忖度なき感想を言った。それを聞いた十萄は突然のビンタを食らったかのように、ダンスをやめた。そんな悲しそうな顔しないでよ。事実を言っただけなのに。気にし過ぎだよ。別にさ、踊りたきゃずっと踊ってればいいのに。あたしの評価なんて無視してさ。どうしてあたしの言ったことをいちいち気にすんの? 初対面の人間の言うことなんかに?

「さあ、動きを止めたのなら今度はちゃんと聞くの もうすぐGAIAちゃんの『blue ばら ばら ばら』が聞こえるはずだから ほら・・・・・・」

湖華なりに、慰めるつもりでそう言った。

沙芽は二人がそのパートを聞き終わるまで待ってから、カゴいっぱいの酒を十萄に突きつけた。

「はい、お会計よろしく!」

十萄は酒の入ったカゴをカウンターまで運びながら、

「すごい量だ ありがたい」

と呟いた。

「だけど、二人だけでこの量?」

「二人? きみには二人に見えたの?」

と沙芽がピンキーリングをカウンターの会計機に接触させて言う。

「不気味なこと言うね」

十萄が会計を進めながら、沙芽によって選出された酒のラインナップを見て言った。

「人工酒が好み?」

「知らない 値段しか見てないよ! 酔えればなんでもいいの」

沙芽がウインクすると、アリゲーター型のラメがキラキラと飛び散った。きらめく小さな爬虫類は十萄に、湖華よりはよほど期待を感じさせるものだった。

「打ち上げをやるんだよ あたしたち買い出し係のパシリってわけなの 可哀想でしょ?」

「可哀想 だから、おれと一緒に飲まない? パシリになんかしないよ」

「可愛そうって思うなら、送ってってよ 打ち上げ会場まで」

「打ち上げって、なんの打ち上げ?」

十萄が酒を袋に詰めながら訊く。

「ひと仕事終わったとこなんだ! 難しい仕事だったけど、クライアントは大満足って感じ それで、みんなで一緒に飲むことになったの」

「いいね じゃあ、打ち上げの後とかどう?」

「打ち上げに来たらいーじゃん? 物怖じするタイプじゃないでしょ、きみ? それとも、このお店でだけ強気の内弁慶さん?」

「いいの? 行きたい行きたい! 誘ってもらえて嬉しいよ」

沙芽が目的地データを十萄に送る。十萄は二度確認して「ねえ、からかわないでくれよ ここにはなんにもないよ」と言った。沙芽はいたずらっぽく、楽しそうに「そこで合ってるよ 穴があるでしょ?」と答えた。

湖華は店の外で、沙芽の会計を待っていた。鼻歌を歌いながら、歌詞がまるで思い出せなかった。音楽と言葉は違う。言葉には意味がある。意味があるものは脆くて、時間とともに消えていく。

両手に紙袋を下げた沙芽に続いて、十萄も店の外まで出てきた。

「またのお越しを いや、あとでまたすぐに会おうね 店閉めたらすぐ行くから!」

十萄が店の前でブンブンと手を振って、遠ざかる二人を見送る。沙芽は一度だけ振り返って、元気に跳ねながら「あばよー」と無邪気に叫んだ。

 

 

地下の難民たちの血中のアルコールが愉快な音楽に反応して、その体を自在に操り、踊らせている。彼らにとって、久しぶりの休息だった。

同じくアルコールの入った沙芽がにこにこで、隣に座る湖華に「地下もなかなか悪くないと思わなーい?」と共感を求めた。

「わかる 地上は臭いよね」

この地下キャンプには、月光も悪意も異臭も、少なくとも今はなかった。

「依頼をちゃちゃっと終わらせて、残りの契約時間を自由に使うのが沙芽流のやり方なの 今日の打ち上げは、明日の朝まで、残り時間いっぱい続くんだよ!」

沙芽が缶チューハイをストローで飲みながら続ける。

「今日のハイライトはね、敵さんの変装 味方のフリして忍び込もうとしてきたんだよ! びっくりだよね! だけど、肌の色がぜんぜん違うから丸わかり すぐにバレちゃってむしろかわいそうだったな だって、頑張って準備したはずだもんね 見つかっちゃったあとはね、みんな鬱憤溜まってたんだね、その変装してた人を使って拷問始めちゃった 声を出せないように口を針で縫っちゃって、その人の両目を石と取り替えて、耳は粘土を奥までぎゅうぎゅうに詰めて聞こえないようにしちゃった でね、不思議なんだけど、そのあと拘束を解いちゃうの 敵さんは何も見えないし何も聞こえない状態なんだけど、拘束が解かれたのは分かるみたいで、走って逃げようとして、でもよたよたして、壁にぶつかったりして、盛大に尻もちついちゃったりしてた! どこにも逃げれるわけないのにね! しかも、みんなはその人を死角から蹴っ飛ばしたり殴ったり、泥水をかけたりしてもてあそんでた どうせ殺すのに、殺す前に手間をたくさんかけるの」

湖華は少し考えて言った。

「料理の下処理と同じなんじゃない 手間ひまをかけたほうが、料理が美味しくなる だからきっと殺したときに、もっと気分が良くなる」

「沙芽は料理下手だからなー 外食が至高なの!」

「まあ、あたしも料理しないから想像だよ」

「もしも湖華ちゃんが沙芽より先にこの仕事を受けてたら、きっと沙芽より上手に仕事をこなせたんだろうなぁ ねえ? 同じ状況でも湖華ちゃんだったら魔法を使わずに、まるごと処理できるの?」

そのとき、ロッキングチェアの足元をなにかが蠢く気配があった。足元に目を向ける前から、その小さな生き物たちの正体が湖華には分かっていた。

「こいつが湖華さんの力が見たいって! 沙芽ちゃんみたいな力、見たいって!」

地下キャンプで暮らす子どもたちがわーわーと騒ぎ出す。その口ぶりは、沙芽が子どもたちのために力を見せてあげていたということを湖華に教えた。たしかに、見た目の可愛らしい魔法なら、子どもたちの不安を取り除いてあげられる。子どもに罪はない。あたしも、そんなふうにできる? できるよ。でも、やりたくない。

「やだ」

湖華が言うと、子どもたちは「なんでだー」と口々に不平を言いだした。

「人にお願いするときの言い方は?」

子どもたちは互いに顔を見合わせて、打ち合わせをしている。

「お願いします 湖華お姉さん、見せてください」

「やだ」

ちゃんとお願いしたのに、どうして断られたのだろう? 理屈ではない返事を突きつけられて、子どもたちは深く困惑した。そしてすぐ投げやりになった。

「お願いします! お願いします! ・・・・・・おい、お前らもとりあえずお願いしとけ」

「お願いします」「お願いします」「お願いします」

「あんたたち、もっとプライド持ったほうがいいよ 世の中は嘘つきがいっぱい 油断してるとあんたちの尊厳、根こそぎ奪われちゃうよ」

「そんげんって何?」

「パスポート たぶん、ここよりマシな場所へ行くための」

そのとき髭の生えた低い声が上から降ってきた。

「あまり子どもたちをいじめないでくれよ」

そう言うのは、酒瓶を右手に三本も束ねて持っている中年の男。顔に傷があり、穏やかな口調とは裏腹に目が冷たい。

二人の女のそばの、布張りの背もたれから中の綿が元気に飛び出している椅子に、どしんと腰を下ろした。

「沙芽さんの噂通りの働きのお陰で、つかの間の休息を得ることができた しかも、酒の買い出しも安全のために率先してくれて、あらためて礼を言わせてほしい」

「お金でお礼してくれれば、それ以上はいらないよ!」

「そうか」

「湖華ちゃん、紹介するね この人が地下キャンプで実務的なことを取り仕切ってる邸尾てーおさん で、湖華ちゃんが何者かっていうと・・・・・・」

「いや、知ってる 会ったことがあるんだ」

湖華は心当たりがなかったので黙っていたが、その反応は邸尾には見透かされていて、

「どうやら、覚えがないようだな まあ、そういうものなんだろう 最初に顔を見たときは冷や汗をかいたが、味方ならこれほど心強いことはない」

と言われた。

 

その後、湖華は邸尾の案内で地下キャンプを巡った。ツアーとして面白い内容ではなかった。代わり映えしない横穴には、役割を分けるために、医務室や教室、会議室といった名前が割り振られていたけれど、湖華の目にはどこも同じに見えた。唯一、消毒薬の匂いの濃い医務室は見分けがつきやすく、大小合わせて7つもあった。

なにもかもが足りていないという状況で、人々は衰弱し続けていた。

「私たちは戻ることも進むこともできないこの境界上であぐらをかいているわけではない 地下を逃げ回り、各地でやむを得ず潜伏している党員からの支援を受けながら、なんとか生き延びている なぜか? それはすべて、新天地を切り開くためだ 祖国の同胞たちのために、希望へと続く道をひらかなくてはならない きっと今よりも勢力が拡大すれば、地下から地上を、国家を、揺り動かすことができる そして、その覚悟がある」

そのとき唐突にオペレーターとの緊急連絡用回線が繋がり、湖華の意思とは無関係に、緑色の小人がリングから召喚された。

「やあ 急いで聞いてくれ じつは緊急で、かなり大きな仕事が入った きみの現在地は他の派遣たちよりも、現場に近い きみしかいないんだ きみだけが頼りだ」

邸尾が目を見開いている。アブサンを飲んだわけでもないのに緑色の人間を見るというのは、きっと初めての経験なのだろう。湖華は何も言わずに酒をあおった。

「・・・・・・おい、無視するなあ」

「あのさ、見てわかんない? あたしいま、休暇中なの」

「この仕事を受けてくれれば、明後日も休暇にしてやれるよ 大盤振る舞いの二連休、どう?」

「さん」

「酸? 硫酸風呂を用意しろってことかい? おお、派手にやるつもりだね」

「じゃなくて 二連休じゃなくて、三連休にして」

オペレーターはにこやかに頷いたが、虫のようにまぶたのない目は笑っていなかった。

「・・・・・・今回はきみの得意分野だよ さっきみたいな失敗がむしろ許される 失敗をすることを求められてるってこと わかるかい? 言っている意味が? だからといって、本当に失敗してほしいわけじゃない」

「で、現場はどこなの?」

「そこだよ」

「ここ?」

湖華が今いるのは、数刻前に沙芽が政府から難民たちを守った地下キャンプである。たった今まで酒を酌み交わしていた人々を湖華は感情のない瞳で見渡す。やり取りを聞いていた邸尾の顔が青ざめる。

緑色の小人はためらうことなく説明を続ける。

「そう、まさかの距離ゼロメートル! ハレルヤ! きみが今いるそこは、違法占拠者の集落になっている 殲滅方法は問わないけれど、なるべく地上に音を漏らさないよう、穏便に済ませてほしい 依頼主は、何も知らずに生活を送っている国民たちを不安にさせたくないんだよ 早速、殲滅対象にマーキングをする 間違えて殲滅対象以外を消さないようにね」
小人のオペレーターが湖華に向かってウインクした。大きな仕事の依頼に舞い上がっているのが分かる。
「あんたはまた、間違いを犯すのか? しかも、こんな騙し討ちのようなかたちで・・・・・・!」
邸尾が声を震わせながら言った。
「だって、附身フーシェ・バーではあたしも変な感覚で、いつも通りじゃなかったの 急に、スポットライトを当てられたみたいに感じた あんな感覚初めてで、けっこう不快で それで、手が滑っちゃった 殺すつもりはもちろんなくて、意識を失わせるだけのつもりだった 最初から最後まで、ずっとそのつもりだったんだけど、・・・・・・疲れてるのかも だけど今回は少し手が滑っても、最終的にぜんぶ壊れていればOKだから気がラク だから、間違いを犯す心配はないよ」

「私は一昨年のことを言ってるんだ 私とお前は一度、人が簡単に死ぬ場所で会ってる そのときもお前は、別の主の元で人殺しをしていた」

「思い出話は嫌い なんの意味もないよ」

「時間稼ぎにはなるさ!」

邸尾が密かに後手でポケットから取り出していたデバイスを操作すると、地下全域で警報が鳴った。それから非常電灯が一気に点灯するはずだったが、飲み会仕様に沙芽が悪気なく用意していた発光する・・・・ミラーボールが代わりに現れた。ボールは早速、様々な色のライトを地下に撒き散らし始めていて、沙芽は「あれ、沙芽の合図でお披露目のつもりだったのに」と不満げなようす。

人々は訓練どおり冷静に逃げようとするけれど、このキャンプを拠点としていた数百人の難民たちは一人も生き残れなかった。すべてが湖華の仕事というわけではなく、あとから機をうかがっていたほうき部隊が参戦して、田植えのような律儀さで人々を網羅的に圧殺していった。

湖華の仕事は、沙芽の契約完了とともに始まっている。そのことを知らない子どもたちのうちの一人は沙芽に助けを求めたけれど、沙芽は取り合わなかった。湖華としては、沙芽が敵として存在してくれていれば、もう少し骨のある仕事になるのに、と思った。

「でも、これじゃあ、せっかくの沙芽の仕事が無駄になっちゃった感じだよねえ まあ、打ち上げもできたしいっか」

仕事を終えた湖華に水を渡しながら、沙芽が言った。湖華は布に水を吸わせて、ひとまず顔についた汚れを拭い始めた。

 

 

酒屋の十萄は仕事を勝手に2時間早く店を閉めて、沙芽に教えてもらった飲み会の会場にすでにたどり着いていた。

けれど、地上には誰もいなかった。閉じたマンホールが会場への入り口だということを知らない十萄は途方に暮れた。地下からの宴もたけなわの阿鼻叫喚も、地上までは聞こえてこなかった。紙袋に入ったワイン瓶を抱えたまま、十萄は立ち止まってあたりを見回した。その後、ため息をついた。

分かってたことだ。大丈夫、もともと期待はしないようにしてたから。でも、やっぱり騙されたんだ。いまいましい、あのくそ女。たった今歩いて来た道を、おれはそのまま引き返すのか・・・・・・。やだな。同じ場所を行ったり来たりしてるだけのおれの人生ってなに?

答えは思いつかなくて、ただ不遇な現状に腹が立ってきた。しかし、その苛立ちを吐き出す方法がなかった。「おれの人生? 別になんだっていいだろ」と自分自身に対して答えた。すると余計にみじめな気持ちになった少し気が楽になった。

気持ちが楽になると、少し物事を冷静に考える余裕が出てきた。

そんな熱くなるようなことじゃないさ。こういうくじのハズレは、生きていればいくらでも引いちゃう可能性がある。でもそれは、アタリを引くために試行した結果なんだ。もし今日が運のいい日だったらアタリを引けていたはずで、ハズレを引いたのはたまたま今日が運の悪い日だったってだけのことだ。同じやり方で、今までアタリを引けたときもあったんだから、やっぱり時の運だ。結局は確率論なんだから、いちいちくよくよしても意味がないな。

と思っていた矢先に、曲がり角で沙芽のさめざめしい後ろ姿を目の当たりにして、十萄は諦めかけていた気分を蹴っ飛ばして駆け寄った。

「そんなところにいたんだ?」

十萄は沙芽の後ろから声をかける。鮫を象った髪留めをしている以上、人違いのはずはなかった。が、一瞬人違いを疑うくらい、振り返った沙芽の表情には、店で会ったときのきらめきがなかった。

「いつから来てたの?」

沙芽の声ははつらつとしていたが、どこか疲れを感じさせるところがあった。なにかあったのだろうと十萄はすぐに察したが、訊いて良いことなのか、訊かないほうが良いことなのか、それは判断しかねた。十萄は後者のスタンスで様子をうかがうことにした。

「たった今来たとこさ ちょっと入り口が分からなくて迷ってた」

沙芽は軽くうなずいて、

「そのほうが良かったよ 結果的にね」

と言った。よっぽど酷い打ち上げだったんだろう、と十萄は沙芽を気の毒に思った。酒は人を喜ばせるが、同じくらい人を悲しませる。

「もう一人の子は帰っちゃったの?」

沙芽は爪の間の黒ずんだ汚れを眺めたまま、何も答えなかった。こりゃ、喧嘩でもしたかな。と十萄は思った。十萄にとってはそのほうがむしろ都合が良かった。

「残念だな、本当に参加したかったんだけど ・・・・・・飲み足りた? もしよければ、うちで飲み直さない? 酒は飲み放題だよ」

「酒飲み放題、が誘い文句なの? それだけ?」

「しかも、追加料金も時間制限もなし」

沙芽は口の端をゆがめた。

「追加料金はなし、ってことは基本料金はとるの?」

「いいや、女性は無料ただ

「・・・・・・飲み放題は魅力的 だけど、誘い方がブサイクだよ 時間あげるから、もっといい誘い文句を考えて?」

十萄は少し考えて、

「ここだけの話、うちのお酒が、きみに無料ただで飲まれたいって言ってた おれにとっても、きみは信じられないくらい魅力的で、もし一緒にお酒を飲めたら死ぬほど嬉しいし楽しいって確信してるけど、きみを誘うことは、おれの私情とは関係ないんだ つまり、きみに飲まれたがってるうちのお酒のために、ぜひ来てよ ぜひ飲んであげて」

と言った。

「長々となにを言ってるの?」

沙芽は再び口の端をゆがめた。

 

十萄がやってくる数十分前に、沙芽はマンホールを開けて這い出してきていたのだが、そのときはまだ湖華と一緒だった。湖華の体感ではとっくに朝日が昇っているはずだったけれど、まだ夜が続いていた。いつまでもしつこく夜だった。

「湖華ちゃん、このあとどうする?」

このときの沙芽は今のような、さめざめとした気配を漂わせていなかった。

「まずは服を着替えたいね 熱いお風呂に入って、そのまま眠りたい」

「沙芽もー! ねえ、見てぇ、毛先に血がついちゃった」地下で汚れを落としたとはいえ、沙芽はところどころ赤黒く汚れていた。「湖華ちゃん、今から沙芽の家に来ない? 大きな浴槽があるんだよ ベッドもめっちゃビッグサイズ! よくない? もう少しだけ一緒にいようよ」

湖華は沙芽の誘いを断った。

「今日はもういいでしょ」

沙芽は少し落ち込んだ様子を見せながら、

「うん・・・・・・ じゃあ、またね 次に沙芽と会ったときに知らんぷりしたら嫌だよ もう、沙芽たちは仲良しだからね?」

と言った。

湖華が自宅までの道を歩いていると、夜空観測隊の一人が墜落して動けなくなっているのを見つけた。茂みに頭から突っ込んで、背負ったジェット噴射機が引っかかってしまっているらしい。墜落はしばらく前のことで、今はもがくのも諦めて、不安定な姿勢で目をつむり半分夢の中だった。

ちょうど徒歩以外の移動手段が欲しかった湖華は、ジェット噴射機を拝借しようとして茂みから引きずり出したが、もれなく夜空観測隊員もくっついてきてしまった。フルフェイスを被った隊員は、

「ありがとう! ありがとう!」

と湖華に向かって繰り返した。星々と、その隙間を埋める暗闇ばかりを眺めているせいで語彙が乏しいのが彼らの唯一の特徴で、それ以外に彼らを彼らたらしめるものは一つもなかった。少なくとも、まだ誰も見出すことに成功していない。

「感謝してるなら、背負ってるものをちょっとだけ貸してくれない」

「やだ」(ご都合主義を拒否することを拒否せよ)

「どうぞ! どうぞ!」

湖華はジェット噴射で上空に飛び上がった。姿勢を調整して、自宅に向けて夜空を飛行する。青白い月の影のあたりで、暴走族のグループがバイクをホバリングさせていた。ダムダムたちだろうか? いや、きっと違う。ダムダムはもっと目立つ色の乗り物に乗っているし、髪色も冴えてる。まあ、どっちでもいいか。この空のどこかでダムダムが今も変わらず飛び回ってるって想像できれば、それだけで心が楽になるから。この現実に自由な人が一人でもいるんだって事実さえあれば。

それに、こんな汚い格好を見られたくないし。

湖華はそのまま、お風呂とベッド、そして三連休が待っているタワーマンションの一室に滑り込んでいった。お風呂から出る頃には頭の中はすっきりして、物事をよりシンプルに考えることができるようになっていた。そして、まったくどぶごみみたいな残業だったよ、と思った。

2023年12月3日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』最新話 (全5話)

© 2023 燐銀豆|リンギンズ

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