ジャンプ用の浮石としての二〇二三年(リンギンズ氏インタビュー)

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第4話)

燐銀豆|リンギンズ

小説

10,377文字

▽あらすじ▽
菫ニードル<D状態のコケシ>は学生である。
彼は「完全なる陳腐」であった二〇二三年の再評価のきっかけをつくった理論的方法ではなく、忘却されて久しいインタビューという手法を選んだ。なぜなら彼はまだ若く、たいていの若者は他人と違うなにかをなしとげたいと願うものだからだ。
おかげで当記事では、約一〇〇年前、つまり二〇二三を生き抜いたと主張する作家のリンギンズ某の記憶が明らかになる。

<ある学生新聞からの抜粋>

 

 

ジャンプ用の浮石としての二〇二三年(リンギンズ氏インタビュー)

文責:菫ニードル<D状態のコケシ>

 

 

呵呵!

 

人類群シミュレーション学が潔癖な精度で、見るのもイヤな様々な事象の因果のもつれを整理し、新しい歴史観を打ち立てることに成功したのは御存知の通り。これまで無価値だった二〇二三年が突如脚光を浴びたのも、この分野が散らした派手な火花のおかげだ。

 

しかし、因果をほどくための立役者たる二〇二三年への関心が高まり続ける一方、意外にも二〇二三年そのものへの注目は挑発的な低空飛行を続けている。なるほど、乗換駅はあくまで乗換駅に過ぎず、その駅にどのような人々の暮らしがあり、どのような文化があり、どのような食生活があるかということは人々の関心を引かないのだ。二〇二三年は未来から過去へ遡る道に横たわっているが、人々は注意深く跨ぐかそのまま土足で乗り越えてゆく。さながら花火大会に集まった空ばかりを見上げる群衆が、路上で寝転ぶ犬やバッタを容赦なく蹴飛ばしたり律儀に踏み潰してゆくようすに似ている。

かわいそうに、駅前のトイレのすべてが満員だったために河原の草むらに駆け込む浴衣の女性の背中を見送ったことがある。しばらくして女性は浴衣の狭い歩幅で駆け戻ってきて「先客がいたの」と一言漏らした。

 

著名な比較年代学者が言った。「二〇二三年とはこの惑星いえの歴史上、最も無意味の一年間であり、見るべきものはなにもない

この瑞々しいお言葉の影響力が、人々の脳漿を水漏れした板床のように傷ませていた可能性がある。だがその断言調のお言葉の根拠となる研究データはいまだ断片的にしか公開されておらず、しかもそれら断片ですら醜いペダントリー、単なる言葉の廃墟であるということは、わたしなりに、あくまで非断言調に、一言しておく。注釈が言い訳に化けるとは、なんとも情けない。

 

 

わたしたち学生の出番がここにある。

 

 

理解ではなく信仰を促すような耄碌を許さず、自らの知的好奇心に従い、客観的事実を根拠にして正しさを追求する、わたしたち学生の出番が。

少なくとも、この学生新聞の一記事を任されているわたしは、自らの無知迷妄ぶりを胸に自戒しつつ、それでいて純粋で恐れ知らずの知的好奇心のみを導師と仰ぐ心づもりでいる。

 

二〇二三年の実地調査、つまり実際にその過去を生きた人物への取材が困難を極めるのは、人間の寿命がとっくに乾涸びてしまうことによる。最もリスクの低い延命技術といわれる Re-Live が開発されたのは二〇五一年。そこから、人々の精神的障壁の撤去というこれまた時間のかかる啓蒙が求められ、一般化したのはそこからさらに数年後。

しっかり探せば・・・・・・・、延命処置を一般普及より前から実施している人物を一人くらい見つけられるだろう、と自分でもわかりきった気休めを口にするけれど、これは海底の沈没船に価値の曖昧な財宝を期待しながら、海上の同じ円周をぐるぐると航行するのと同じ仕草とみえる。・・・・・・財宝?

 

改めて、わたしは熱心な学徒である。理性が否定する可能性にすがって、延命技術に偏見のなさそうな職業からしらみ潰しにコンタクトを取っていった。魚の目専門医師、ゴムのような看護師、電子ピンポンのプロ選手、低俗天界論理学者、鍼灸メンタリスト、猟奇的なファッショニスタ、顔面の斜面角度に極度の自信を持つインスタグラマー等々・・・・・・。ついにわたしは見つけ出した!

わたしが発見したその人物の名前に、読者のみなさんは驚くかもしれない。少なくとも最初に驚いたのはわたしで、取材を快く受けてくれるという話を聞いて、わたしは感極まる思いだったし実際「オーマイガ」と口走った。

 

その人物とは、魔術と科学の倫理学についての最初期の理論書である「催眠漂流」の著者にして、魔術批判の急先鋒として今も活動を続ける吝嗇作家リンギンズ氏である。彼/彼女がいけ好かない人物だったとしても、当コラムのインタビュイーとして登場してもらえるのなら、いわば、ゼロサムである。

 

 

時は移って取材当日、わたしは指定された氏の私宅(つまりわたしは光栄にもお呼ばれしたというわけだった!)である古いヒプナゴジック様式の、人間的ぬくもりがことごとく排除された金属質な客間に通された。金属製の蒸気人形が運んできた温かい紅茶が白い煙を上げていた。シトラスの香りがした。私が座る席の向かいの壁際に巨大なひな壇があり、鎮座する数百体の手の平サイズの人形が見下ろしてくる。一つ一つに、意味深な微笑が浮かんでいる。

 

待ちながら様々なことを考えた。だが、そんなことを思い出すのは紙幅の無駄だから、すぐに数分後、八脚の移動装置に乗ったリンギンズ氏が顰め面で滑るように入室してきた場面に移ろう。

 

悪く言えば羽をむしられたフクロウのような姿のリンギンズ氏に挨拶するため、立ち上がろうとするわたしを「時間を無駄にしてはいけません」と言って制止して「人生は有限ですよ、きみ」と、リンギンズ氏は温もりのある口調で続けた。すると氏の背後の棚に並ぶ人形たちが声を上げて笑い出した。すべての人形は氏と同じ顔をしていた。

 

余談だが、時は金なりという言葉は、時間こそが最大の価値という意味ではなく、時間ですら金で買うことができるという意味だということを最近知ったのだが、読者のみなさんも知っていただろうか? 人は労働で失った時間を金で買い戻そうとする。世の中では、そこに商機が生まれ続けているというわけだ。

 

「お静かになさい」

 

リンギンズ氏がざらついた声でそう言うと、背後で騒いでいた人形たちは一斉に黙った。わたしは手短にスケジュールをあけてくれたことへの感謝を述べて、早速インタビューを開始した。

 

菫ニードル<D状態のコケシ>:このたびはインタビューをお受けいただきありがとうございます。

リンギンズ:あなたの若々しさ、新緑を思い出しますねえ。その棚の上に飾っている芽は、去年の桜ですよ。見えます? あなたの目はまだ健康ですか? ・・・・・・丸一年、咲くことを先延ばしにさせたフリーズドライプラント・シリーズの一つですよ。美しいでしょう? 完全な成熟を目前に、あらゆる可能性が詰め込まれている状態で留まっています。四季という平安貴族が作り上げた非科学的な詐術と、成熟という近代社会が立ち上げた狂気の企業理念から、このすばらしい発明は距離を隔てています。うーむ。あなたが聞きたいことについて、私は多くを話すことができないかもしれません。たとえばもし、一つの単語に平均40の異なる意味があり、そのすべてを同時に認識することができれば私にも短時間に多くを語ることが可能だったかもしれません。でも言語というのは全く都合よくできていない、それどころかその場しのぎの欠陥だらけなのです。意味をサンドイッチのように重ね合わせて一口に頬張るというのは未だ困難なのです。
菫ニードル<D状態のコケシ>:世間では二〇二三年が注目を集めていますが、ジャンプ台としての機能への注目に比べて、当時の時代背景や生きてきた人々への関心は極めて低い状況です。しかしわたしは、一つの時代に土足の足跡だけ残して、都合よく扱い、そのほかは一切関知しないという現代人の態度を無責任だと考えます。あなたは、二〇二三年を生き抜いてきた、文字通りの生き証人です。現代にあなたのような経験をした人は殆ど生き残っていません。だからわたしは、このインタビューの公開が、現代人への一種の啓蒙の効果を及ぼすことを期待しています。さて、改めてリンギンズ氏に伺いたいのですが、いったい、二〇二三年には何があったのでしょうか。二〇二三年とは、いったいどんな年だったのでしょうか?
リンギンズ:順を追って、まずは二〇二二年の大晦日、年をまたいだ後の記憶から話しましょうか? ・・・・・・ええ、鉄パイプのように冷たく無機質な風が吹く深夜、黒い顔をした二人組の訪問者が私の暮らす家のインターホンを鳴らしました。扉を開けた私は、二人組に一つの警句を押し付けられました。近隣の高窓には、私を見下ろすいくつもの他人の顔、青白い顔をした満月が卑猥な言葉を耳にしたかのように顔をしかめて、灰色の雲の背後に隠れました・・・・・・。
菫ニードル<D状態のコケシ>:時系列はお気になさらないでください。インタビューの時間にも限りがありますし、印象的なところから、自由にお話していただきたいと思っています。
リンギンズ:ううむ、印象というのは曖昧です。わたしが対象に抱く印象は肉体を換えるたびに移り変わってきました。テセウスの船、なんて大層なことを言うつもりはありません。せいぜい、テセウスの犬小屋、規模としては小学生と大学生の価値観の差異くらいのものでしょう。しかし、身近な人にとってはそれはじつに不気味な変化に思えるかもしれません。まるで、犬の食事用の器に土を盛って小さなクロマツを植えるような・・・・・・。一緒に過ごして、会話を交わしてびっくり。喋ることはほとんど同じだけど、何かが決定的に違う、と。人間の動物的な勘が、嗅ぎ分けてしまうんですね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:当時はそのことが社会問題にもなりましたね。
リンギンズ:ええ。そういう実体験もあって、わたしは延命技術の消極的な批判活動を行っていますよ。・・・・・・とにかく、二〇二三年に抱く私の印象は少なくとも17回、変遷しています。この17回で、私の二〇二三年への態度はころころと変化してしまったので、あなたが求めている二〇二三年を正確に提出することの難しさを噛み締めているところです。すすすすすす・・・・・・
菫ニードル<D状態のコケシ>:・・・・・・リンギンズさん?

 

 リンギンズ氏は歯を食いしばって1秒間だけ黙っていた。リンギンズ氏の蜘蛛のような8本脚(機械の脚ではない)が貧乏ゆすりをしている。もし床がカーペットでなかったら、脚部の接地部分が床と奏でるおぞましい独特のリズムが部屋中に撒き散らされていたはずで、そうなれば室内の家具にとどまらずわたしの表情までもがぐにゃぐにゃにひずんでしまっただろう。幸いまだ静寂が保たれていた室内に、リンギンズ氏の声がどこからともなく(床の方から?)聞こえてくる。
「後悔先に立たず、後では追いつかず」

 

菫ニードル<D状態のコケシ>:口を動かさなくても言葉を発することができるんですか?
リンギンズ:いま口のように見えている器官は、実は尻なんですよ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そのようですね。
リンギンズ:悲しみや不甲斐なさや憎しみが漏れ出さないように歯を食いしばる一方でしかし、したたかに言葉を発し続けることのできる私の行き過ぎた人体改造がはたして有意義な効果を生み出しただろうかと、自問することがあります。「そんなことをしても人生はなにも変わらないよ」と私は私に言いましたが、私が変えたいのは私の人生ではなく、私以外の関係者の人生なのです。医師が私をどうにもできなかったように、私も私自身の問いに答えることができませんでした。でもそれは、下手な問いを立てた私が悪いのであって、回答することができなかった私は最善を尽くしたのですから、なんら責められるようなことはないと思いますね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そうですね。で、この話は二〇二三年といったいどんな関係が?

 

 このタイミングでインタビュー室として使わせてもらっていた書斎の扉が開き、アームを肩に背負った、見るからエンジニアだと分かる一人の女性が飛び込んできた。

 

ドアを蹴破ったそのままの勢いで、エンジニアはリンギンズ氏の頭部に電流グローブを押し当てた。頭皮への文字通り電撃的な奇襲だった。「あ、あ、あ、」とリンギンズ氏は呟くと、そのままがくんと脱力して動かなくなった。死んでしまった、というよりは機能を停止させてしまったという方が正しい。この機能停止というのは、人間で言うところに死に相当しない。死んだ人間は再起動できないが、機能停止はあくまでもダビングしてある意識のうちの一つの機能不全であり、早急に意識をスワップすることで、最大ダウンタイム15秒以内には復旧する。常識ではあるが、この範囲が未履修の初学年向けに、機能停止プロセスについて少し補足した。

 

 棚に鎮座する猿の身体をした体長15cmほどの人形たちは、驚きの悲鳴のあと、エンジニアを侮辱する言葉を次々に発したが、それらの性差別的で低調な語彙に比べれば、耳元を飛び回るコバエのほうがよほど品のある音を鳴らしていた。
 エンジニアは自らを「リンギンズ」と名乗った。

 

リンギンズ:ごめんなさいね、遅れて。あたしが本物のリンギンズです。この家政夫は、あたしがジャンク品で組み上げたものなの。だけど、オープンソースのAIシステムとの食い合わせが悪くて、自分のことをリンギンズだと思いこんでしまうのよ。ほら、ラッキョウとコーラを一緒に摂取すると、肘にイボができるって言うでしょ。そんな感じ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:その組み合わせは初めて聞きました。
リンギンズ:そう? 年の功ってやつかな。老いは自然と人を物知りにするのね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:なるほど。では、失礼ですが、あなたが本物のリンギンズさんである証拠を見せていただけますか?
リンギンズ:実家の鼠の額くらいの大きさの庭にテーブルと机を出して、両親と妹、それから親戚の4人家族の、ぜんぶで8人で大人と子どもが集まって、初秋のすこし肌寒い風を浴びながらバーベキューをしたの。駆け回るには小さすぎる庭を犬が_たしかパグだった思うけど、人工芝生の上を転げ回ってて、そのぷりぷりで毛むくじゃらのお尻をあたしの妹が追いかけてる。親戚の家の子はあたしたち姉妹より3つも年上だったから、犬と一緒にどこか遠くの誰かに向けて何かを訴えるように吠えてみたり、生焼けのお肉をいち早く自分の口の中にしまい込んだり、いきなり日陰に寝そべったり、そんな下品なことはしなかったけど、あたしたちのことを気にかけてくれていて「バレエの発表会があったんでしょう? 動画を見せて」とか「もしよければ、使わなくなったバッグをあげようか?」とか、今になって思えば気を使ってくれていたのかもしれないし、あるいは本当に親切で、自分より頭の悪い子どもに対する学術的な興味があったのかもしれないけど、でも事実として気にかけてくれていると感じられる時間が、あたしには心地よかった。だからこうして、今になっても思い出すんだよね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:ちょっと待ってください。今の話は二〇二三年の出来事ですか?
リンギンズ:たぶんね。でも、わからない。もしかするとあたしの妄想かもしれない。時間が経つにつれて、それが現実だったのか虚構だったのかを区別する境目が曖昧になっていくのよ。もっと言うと、あたしは自分がリンギンズであると確信を持って言うことはできないわ。なんとなく、自分がリンギンズなんじゃないかっていう自信はあるんだけどね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そんな。
リンギンズ:記憶の根拠も、自分が自分であるという根拠も、どっちも曖昧なのよね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:・・・・・・参ったな。いや、大丈夫。今ある問題としては、二〇二三年の記憶をピンポイントで取り出せないことが一つ、それからあなたがリンギンズなのかそれともリンギンズじゃないのかわからない、ということが一つ。そして、あなたが何者かはっきりしない以上、仮に2023年の思い出を取り出せたとしてもそこに信憑性はない。したがって、まずはあなたが何者なのか、リンギンズなのかそうでないのかをはっきりさせた上で・・・・・・

 

 わたしの言葉はここで一度遮られた。というのも、リンギンズが突然その顔に笑顔を浮かべたからだ。明らかに天然品ではない既製の前歯がずらりと並ぶと、いままで感じてこなかった印象、端的に言って胡散臭い気配が漂い出した。

 

菫ニードル<D状態のコケシ>:どうかしました? なにも面白いことは言ってませんが。
リンギンズ:せっかく来てくれたあなたが不憫だから、あたしも必死で思い出そうと頭を回転させてたの。そしたら、うっかり思い出し笑いしちゃった。もっと昔のあたし、つまり転生を繰り返す前の最初期のリンギンズはね、今どきの言葉でいうと「脳開示者」みたいな感じ? 別に罪人ってわけじゃないの。昔は今の刑法と違うし。リンギンズは、自分で自分の脳みそを文章データにエクスポートしたがる変人だったのよ。それでね、脳みそは油で出来てるから、きっとエクスポートされたデータは油性のインクで記されてるんだろうな、って言ったの。面白いと思わない?
菫ニードル<D状態のコケシ>:自分から脳を見せつけたがるなんて、そんな変な人がいますか?
リンギンズ:マズローも言ったように、人間の根源的欲求の最上位は自分というものの露出だからね、どんな時代にもいるんだと思う。下半身を集中的に露出したいって人がほとんどだけど。
菫ニードル<D状態のコケシ>:ちょっと待ってください、露出趣味があるんですか?
リンギンズ:道端でね。もしかしたら比喩かも。
菫ニードル<D状態のコケシ>:話の腰を折ってしまい、すみません。続けてください。
リンギンズ:ある日のリンギンズ、というかあたしは、自分の文章が透明な空中楼閣のようになっていることに気づいて愕然としたわけ。透明な文章っていうのは、誰にも認識できない文章ってことでしょ。こんな皮肉は他にないじゃない? だって、開示するための文章のはずが、むしろ書けば書くほど隠匿してしまうんだから。透明なペンで書いた文章よ。しかも紫外線を当てたら光って浮かび上がる、みたいなギミックもない。
菫ニードル<D状態のコケシ>:一度、自分自身とリンギンズを切り離して、客観的に捉え直したほうがいいのではないでしょうか?
リンギンズ:でもあたしはリンギンズなんだから仕方ないことじゃない? あたしはリンギンズであり、同時にリンギンズじゃないの。これは禅問答なんかなじゃなくてつまり、リンギンズってのはそもそも人の名前じゃないのよ、たぶん。
菫ニードル<D状態のコケシ>:違います。だって、リンギンズっていうのは魔術と科学の倫理学についての最初期の理論書である「催眠漂流」の著者の名前ですよ。Re-Liveを使って二〇二三年を股にかけて生き延びた、歴史の証人の一人です。もしかすると最後の一人かも。
リンギンズ:いったいそれは誰に教えてもらった知識?

 

 リンギンズは一冊の電子書籍を空中に投影した。
 ピンク色の表紙が目に痛い、「催眠漂流」の表紙が夜店のネオンのように空中に浮かびあがった。

 

リンギンズ:この本の話をしたい? たしか、この本を書き始めたのは二〇二三年だったはず。・・・・・・ああ、今まさに脳髄が痺れている。笑気ガスを胸いっぱいに吸い込んだときのような陶酔感が、あたしがリンギンズであるということを自覚させるの。一個の人格が空から降ってきて、あたしはそれを羽織る。あたしはそれを着こなしてる。でも同時に、あたしはその服に拘束され、規定されるの。一種の共犯的な均衡状態のなかであたしは何も考えずに、ただ身を任せて漂うだけ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:それは「催眠漂流」の中の一節ですね。
リンギンズ:そうね。
菫ニードル<D状態のコケシ>:あ! もしよろしければ、本の執筆の背景を教えていただけますか? そうすれば必然的に、二〇二三年という時代の一端を垣間見ることができるはずです。むしろ、最初からこうするべきだったのかもしれません。
リンギンズ:これは、リンギンズ、つまりあたしの個人的な解釈に過ぎないんだけど、リンギンズがこの中で描こうとしているのは「愛」よ。あなたもご存知のように、二〇二四年に起こったことを考えれば、二〇二三年は呑気だった。世の中の愛の総量が限界まで減りきった状況だったのに、誰もそのことを真剣に考えようとしなかった。ガソリンの切れた自動車みたいに、今にもすべての機能が止まってしまう予兆がはっきりあったのに。リンギンズは、ガソリンを足そうとしたのね。まあ結果は知っての通り、無駄だったわけだけど。
菫ニードル<D状態のコケシ>:正直な意見を言わせてもらうと、「催眠漂流」が愛を主題としていたとは思えませんでした。もっと、ひねくれた意地悪なことが書かれていませんでしたか。
リンギンズ:作家というのはどんなに人格が破綻していたとしても、どれだけくだらない物語に徹しようとしても、作品の中に一つくらいまともなものを持ち込んでしまうものなのよ。この場合は、愛。
菫ニードル<D状態のコケシ>:すべての短編小説で、ですか?(※催眠漂流は短編小説集という形式を採用している)「あなたは人間じゃない」もそうですか?
リンギンズ:蝶の幼虫も、蝶であることに変わりないでしょ? それと同じことよ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:でも、トンボはヤゴじゃないです。
リンギンズ:トンボの幼体でしょ。ああ、でも、それにしても、ヤゴ! あたしヤゴって好き。見るからに下積みって感じがするじゃない。でも、運命はヤゴに羽を与えているのよ。運命とはなにか、それは遺伝子。生まれたときにすでに与えられていたのよ、羽付きの設計図を。幸福な生き物だと思わない? それにくらべて人間は・・・・・・。
菫ニードル<D状態のコケシ>:それはあくまでも獲得されたものですよ、進化の過程で。だから、種の単位でみれば、すべての生き物は永遠の下積みということもできます。
リンギンズ:いい慰めね。でも、生物の進化にはゴールがないでしょう? 終わることのない下積みは、下積みとは言わないのよ。それはね、拷問とか、不幸とか、地獄とか、そういう表現のほうが似合ってるのよ。
菫ニードル<D状態のコケシ>:そんな大げさなものでしょうか?
リンギンズ:終わりのないルームランナー、って言ったほうがピンとくる?
菫ニードル<D状態のコケシ>:・・・・・・では、その愛の主題はどのような方法で表現されているんでしょうか。あるいは、そのテーマのインスピレーションを生んだきっかけなどがあれば教えてください。
リンギンズ:ちょっと待ってね。アーカイブしてるデータにアクセスしたいんだけど、久しぶりだから生体認証がうまく通らないみたい。・・・・・・、仕方ない。

 

 リンギンズ氏が背中に背負った二本のアームが、少し大げさに手を叩いて音を出した。その合図を聞きつけた13歳くらいのメイド服を着た少年が、蓋付きの銀のトレイと白いナプキンを運んできた。メイド服を着ているのに、足元は6センチ以上あるヒールを履かされていて、柔らかさのある絨毯がいかにも歩きづらそうだった。
 ありがとう、とは言わずに黙ってトレイとナプキンを受け取ると、視線を使ってそのメイド服の少年を下がらせた。少年は深々とお辞儀して、踵を返すときにスカートが風をまとって膨らんだ。ところどころに洗練された振る舞いが混ざってはいたが、全体としては危うげでおぼこい印象を纏っていた。

 

 すでにリンギンズ氏は首元にナプキンを付け、トレイの蓋を開けていた。トレイの上で厚さ3センチほどの、焼けば美味しくなりそうな生肉が血をにじませていた。「生体認証が通らないときの、奥の手なの。リンギンズの生肉」リンギンズ氏はそう言うと、手掴みで肉にかぶりついた。

 

 読者のみなさまの中には、この行動に驚かれる方もいるかもしれない。しかし生体認証をクリアするために、体内に登録者の生体要素を取り込むことは決して珍しいことではない。リンギンズ氏は、他人の生体情報を盗むような犯罪行為とは無縁のはずだから、おそらく自身の身体を培養して生食可能な部位のみ生産しているのだろう。身体の乗り換え回数の多いリンギンズ氏だからこその苦労に違いないが、どうも手慣れた様子で、5分もしないでぺろりと平らげ、肉からもれてトレイ溜まった血も啜り飲んだ。こうして、リンギンズ氏はさらにリンギンズ氏に近づいたというわけだ。
 わたしが吐き気に耐えている間に再度生体認証を開始し、わたしが吐き気に耐えかねて手のひらに胃液を吹き出したときには認証は完了していた。

 

「さあ、よみがえれ! あたしの二〇二三年よ!!」

 

 

 二〇二三年を知るためのインタビューは、思いがけずリンギンズ氏の二〇二三年の作品「催眠漂流」を触媒として遅々とした化学反応の道を進んでゆくこととなったのだが、ここに至って唐突な警報が鳴り始めた理由はその道に害獣が出るためでは決してなく、シンプルにコラムの紙幅を迎えそうだからなのだ。

 

 次回をお楽しみに、と素直に書きたいところだが、読者のみなさんはこのままリンギンズ氏のあとに続いて二〇二三年という過去にどうせ戻ってしまうのだし、そうなればここで読んだことなどすべて忘れてしまうのだから、次回をお楽しみになどともったいぶって書いておくのはきっぱりとやめてしまったほうがいいだろう。

2023年10月15日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』第4話 (全5話)

© 2023 燐銀豆|リンギンズ

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