妙な言い伝え、というのがある。妙というのは言葉遊びのような言い伝えという意味ではない。本当に妙なのだ。由来のよく分からない、という意味だ。
何故そのような言い回しをするのか。たとえば、茶柱が立つといいことがある、食べてすぐ寝ると牛になる、ミョウガを食べると物忘れをする、と、こういった感じだ。
これらの言葉はいつの頃からかこの日本にあり、古老の伝えで今に至るまで伝播されてきた。由来は分からずとも、どうにも気になってつい守ってしまうような内容である。守ったほうがいい、きっと。
夏休みに入り、暑い日々が続く。だがこの山中の村は、とても涼しい。湿度も温度も適温なのだ。
「あかり、じゃあ留守番お願いね」
「うん、気をつけてね」
「宿題、ちゃんとしとかんといけん」
「わかっとるわね」
この日、兄の住む街へしばらく行くという両親を見送り、あかりはしばらく一人羽を伸ばす。料理も家事もあらかた出来るあかりにとって、一人で過ごす事は特に負担ではなかった。それどころかこの日を楽しみにしていた。
もちろん両親から一緒に来ないかと言われてはいたが、年頃になり、兄と顔を合わせるのがなんだか気恥ずかしく、「年末には向こうから帰ってくるでしょ」ということで、夏は行かない事にしたのだった。
「さーて、どけするかな、とりあえず友ちゃんとこ遊びにいこ」
あかりはTシャツと短パンに着替え、家を出て友ちゃんの家に向かった。その道中、津森のばぁちゃんに出会う。
「ばぁちゃん。こんちわ」
「あかり。どっかいくんか?」
「うん、友ちゃんとこ」
「そげか、暑いから気をつけれや。あと、またおかずなと持って夕方寄るけんな。家におってごせよ」
「だんだんだわ。何時頃来る?」
「そげだな、六時時頃には行かかと思っとるわ」
「わかった、それぐらいには帰ってるよ。でも、ばぁちゃんも無理せんでよ。私だってもう子供じゃないけん、一人で出来るんだから」
「はは、でもおらから見たら、まんだ子供みたいなもんだわ」
「そりゃばぁちゃんからしたらみんな子供だわね」
しばらく談笑して、二人は別れた。
アブラゼミがミンミンと鳴いて、空には高い入道雲がどっしりと浮いていた。突き抜ける青い空の下、あかりは歩いた。
友ちゃんとの時間はとても充実している。彼女と一緒にいると、どんな嫌なことがあってもあっという間に忘れてしまえる。彼女にはなにか人を明るくさせる不思議な魅力があった。
「いいがね、一人っていいよなぁ。うちも一人暮らししてみたい」
「一人暮らしはそれはそれで大変だわね。朝自分で起きて、自分でご飯用意して、帰ってきて自分でまたご飯用意して、自分で明日の用意して。一日や二日ほどならまだしも、毎日はしんどいわ」
「それは言えとる」
お茶を飲みながら友ちゃんの部屋で笑い合う。学校での事、家での事。時間を忘れるとはまさにこの事だろう。
「あ、ごめん。そろそろ帰るわ。津森のばぁちゃんがおかず持って来るって言っとったわ」
「そうなん。いつ頃?」
「六時だって」
「そらいけんわ。はや帰らんと」
「うん、また来るけん。今日はありがとね、友ちゃん」
「気をつけてねー」
まだ空は明るい。西の空がぼんやりとオレンジになりかけて、夕方を知らせていた。
帰ってからしばらくして夕刻時、津森のばぁちゃんからおかずを受け取り、あかりはそのまま夕食にした。
ご飯と味噌汁、漬物としっかり味の染みた津森のばぁちゃんの煮物。
「はぁ、まかったわ。さすがばぁちゃん。ハズレがないわ」
居間の畳の上で、あかりはあぐらをかいて後ろ手に手をついて天井を見上げ、いっぱいになったお腹をさすった。両親がいる前でこんなことをしたら、行儀が悪いと言ってまず叩かれるだろう。
「ま、たまにはいいわね」
一人でそう言って、何となくクスクスと笑った。
食器を片し、風呂に入り、寝巻きに着替えて居間へ戻る。汗を流しさっぱりした。
しかし、あかりは気がついた。人のいない家がこんなに静かなんだということを。まだあかりの住む村にはテレビという物は無く、村長の家に一台あって、用があればそれを見に行くくらいだ。
重苦しい空気が家に充満している。シーンという音が耳元で圧迫するように鳴り響き、足取りが重くなる。ほかほかとした体からはみるみる熱気が抜け、夏場だと言うのに薄ら寒く感じ、家の黒い梁はいつも以上に黒く見え、木目から視線を感じた。
あかりは居間の電気を消して、さっさと自室へ入り込んだ。
自分の縄張りへ入ると、多少気は紛れた。机の椅子に座り、ランプをつける。温かいオレンジの光がふわりと広がった。
「いかんわ。なんか怖い。私も一緒に行けばよかったわ……。まぁ今更だけど。あ、友ちゃん泊まりにこらんかな。明日聞いてみよ」
あかりは無理に気分を変えようと独り言をしゃべり気を紛らわせるために口笛を吹く。そうして何となく心が落ち着いた気がした。
次の朝、あかりはバッと布団から出ると、家中の窓という窓を開け放ち、玄関も開ける。さーっとした爽やかな風が家を抜け、昨晩の重苦しい空気が抜けていった。
「なんかこれでさっぱりしたやなだわ。いかんいかん、どうも気落ちするわ」
朝食を摂りサッと着替え、あかりは友ちゃんの家に向かった。今日からしばらく泊まりに来ないかと誘うためだ。しかし……
「ごめーん、あかりちゃん。急遽、うちらも出かけることになったんよ……」
「えー……そうなの」
「うん。すぐ帰っては来るけどね。今日出て泊まって、明日も泊まって、明後日の夕過ぎには帰ってくるよ。もしそれからでも良かったらお邪魔していい?」
「うん、鍵空けとくわ。入ってきてよ。寝てるかも知んないから」
「ダメだよー? 宿題せんと」
「友ちゃんこそ」
そう笑いあって、あかりはそのまま友ちゃんの家で昼食も摂り、その後、友ちゃん一家は出かけて行った。
「はぁ、困ったな。他に泊まりに誘える友達もおらんし。津森のばぁちゃんはすぐ背後取ってくるから怖いし……。しかたない、我慢するしかないわ」
家に帰ってあかりは居間のちゃぶ台で、少しずつ夏休みの宿題を進めていた。開け放した縁側からそよそよと風が抜け、涼しげな空気に変わっていく。
だが、少しずつ日が傾くに従って、あかりの心境も傾いていく。外からはカナカナカナとヒグラシが鳴き始めた、いよいよ夕の帳が降り始めた。
家の中は電気をつけるほど暗くもなく、夕日で橙に染められている。
「また、夜か……。やだな。一人ってこげに心細いんか……。一人暮らしはまだ出来そうにないわ」
あかりは思わず口笛を吹く。家の中に高い音が響くと、凛とした雰囲気になる。
「こりゃ、あかり」
「どわぁ! ばぁちゃん!」
開け放した縁側の外、庭に津森のばぁちゃんが立っていた。
「急に現れんでよ、おべたわ!」
「玄関から声かけたわ。お前さんが出てこらんけん、こっち回った」
「あ、ごめん、聞こえんかったわ」
「そぎゃんことより、口笛吹いてたか?」
「え、うん。吹いてたかな?」
そう言うと、ばぁちゃんは難しい顔をした。ぎゅうっと絞ったような、顔に深い皺が入った。
「いけんで。夕方や夜に吹くだない。蛇がでーぞ」
「蛇?」
「そげだ。無闇に吹くな。わかったな。それと、これ」
ばぁちゃんはそう言うとふにゃっと顔を緩めて、手にした鍋を縁側に置いた。蓋の隙間から肉じゃがのいい匂いがした。
「今日のおかず置いとくけんな。ちゃんと食えよ」
「う、うん。ありがたくよばれるわ」
「ほなの。また持ってくーわ」
津森のばぁちゃんはそう言うと帰って行った。
そして外はヒグラシの声だけが響いた。
夜の帳が落ち、人のいない家はシーンと静まり返った。風呂にも入りたかったが、何故か今日はそんな気分になれなかった。
まぁいいか、そんなに汗かいてないし。
あかりはそう言い聞かせて風呂をやめる。食後、天井の黒々とした梁を見ると重苦しい気持ちになる。電灯には小さな羽虫がなにかの救いを求めるように飛び回り、時々、ぶつかる音が聞こえた。
「はぁ……」
あかりは大きくため息をついた。それは外の暗闇に吸い込まれていく。
「……!」
視線を感じた気がした。また津森のばぁちゃんかと思ったが、時刻は20時過ぎ。絶対寝ている。
ピンと張り詰めた空気が部屋に漂った。
「いかんわ……。さっさと寝よ」
食器も洗わず桶に放り込み、電気を消して自室に入り込む。
パタン、と襖を閉めて電気を付け、勉強机のラジオを回す。ザザッとノイズが一瞬入って、どこか遠くの音楽番組がこそこそと流れ出した。そのまま机の電気もつけ、できるだけ多くの電気をつけた。
「やれやれ、明日はばぁちゃんとこに泊めてもらおうかな……」
あかりは布団へ横になり、天井を見つめていると、そのままゆっくりと眠りに落ちた。
どれくらい経っただろうか。あかりがふと目を覚ますと、何故か部屋中の電気は消え、ラジオは何かをねじる様な妙なノイズを流していた。
「……ちょっ、なんなんこれ……」
体が強ばる。恐怖だ。何か得体のしれないモノを感じる。
カリカリカリカリカ……
「……!」
その時、廊下へ続く襖から何かを引っ掻くような音が聞こえた。外から爪で叩いたり擦るような音だ。暗闇で襖の取っ手を探しているようにも感じる。
「やだ、やめてよ……」
あかりは布団をたくし上げ、頭まで被った。暑さか、それとも冷や汗か……。ものの数分で汗が吹き出す。寝巻きも下着まで濡れ始めた。
しばらくすると、スーっと何かが動くと音がする。きっと襖が開いたんだ。勝手に開くはずなんてない。誰かがいるんだ。
「はぁ……はぁ……」
あかりの呼吸が布団の中に響く。あまりの大きさに、その得体の知れないものに聞こえてしまいそうだった。
その時
ばん!
「きゃぁぁぁ!」
何かが布団の上に手を打ち付けた様だった。あかりは驚いて悲鳴を上げ、そのまま気を失った。
────
「……ん、あれ……?」
朝だった。鳥のさえずりで目が覚め、障子を開けっ放しだった窓から朝日が入り込み、あかりの顔を照らす。
布団を蹴り飛ばし、大の字で腹を出して寝ていた。
「……う、ん。夢……? ハックション!」
あかりは風邪を引いた。
どうやら大汗をかいて布団を蹴飛ばし、寝冷えしたらしい。熱も出て、くしゃみが止まらない。時間とともに体も痛くなり、正午頃には動けなくなっていた。
「うぅ、しんどいわ。こんな時に限ってばぁちゃんこらんかいな……」
動く気力もなく、なんとか台所まで這って行き、水を飲んだ。水分だけは摂らねば。
夕方になっても熱は下がらず、悪寒は酷くなる。結局こんな時に限って津森のばぁちゃんは来ず、あかりは完全にひとり寝込み、悪寒に耐えかねて靴下を履いて横になっていた。
そして再び夜になり、あかりはまた何かの気配を感じていた。
「もう……やめてよ……。なんなん、私が何したんよ……」
発熱で遠のきそうになる意識の中で、廊下を再びやってくる気配を感じる。ずりっ、ずりっ、と何かを擦りながら進んでる。そしてまたカリカリ……と襖を擦る。
「お願い……帰って……」
あかりは目も開けられずに息を荒らげ、その視線に耐えていた。じわじわと近づく気配。そしていよいよ、何者かがあかりの頬を撫でた。あかりの意識は熱病にうなされながら、落ちていった。
───
朝になったが……、もはや朝も昼も夜も分からない。部屋の中はどうにもどんよりとし、外の青空が窓枠というファインダーに切り取られ、まるで別世界のように見えた。あかりはこのままではまずいと、最後の気力を絞って布団から抜けでた。体調は悪化の一途を辿っていた。熱は下がらず、体中は痛み、喉まで痛くなっていた。
「はぁ、はぁ、父ちゃんの書斎に……なんかないかいな……」
やっとの思いでたどり着いた書斎。なんとか立ち上がり、お祓いに関する書籍を探し出し、手立てを考える。
「口笛……ばぁちゃんが言っとったやつだわ……。蛇(じゃ)が出るんじゃなくて邪(じゃ)が出る……。いけん、呼んだんか、私……」
なおもページをめくると、寒さで履いていた靴下も良くない事が判明する。それは死装束。
あかりは邪を呼んだ挙句に、自分は死装束を着ていたのだ。
塩で部屋を清め、心から言葉を紡ぐしかない。その書籍に具体的なお祓いは書いていなかったのだ。
───
部屋の入口と布団の周りの数箇所に盛り塩をした。そして、夜を迎える準備をした。しかしそれは夕刻前にはやってきた。徐々に時間が早まっていた。そしてその気配は濃くなっているように感じる。
「ごめんなさい……。呼んだ訳じゃないんです……お願いです……お帰りください」
あかりは布団の上に正座をし、熱で朦朧とする意識の中で必死に祈った。しかし──
すーっ…コトッ…
あかりの目の前で襖が開いたのだ。何も見えない。しかし、開かれた襖から見える、夕日のオレンジに照らされた廊下の奥が、歪んで見える。何かがいるのだ。
「ひっ……ごめんなさい……連れていかないで……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
気配は徐々に近づく。そして布団の周り四隅に盛ってあった塩から、ジリジリ……と音がする。あかりがはっと、目を開けて見ると、ジリジリと塩の山のてっぺんから、お灸のように黒く焦げていく。
気配は布団の上に足跡を付け、あかりのそばに迫ったのが見えた。ムワッと死臭が鼻をつき、生暖かい空気が流れる。
「ご、ごめんな…さい…」
あかりが力尽きようとした瞬間。
「あーーかりちゃーーん! 帰ったよー!!」
遠くで玄関が無遠慮にガラガラッ! と開かれ、友ちゃんの突き抜けるような声が家中に響いた。
「……はっ!」
その瞬間、まるでどこかへ吸い込まれるようになにかの気配が消えた。初めから何も無かったように。しかし、布団四隅の塩は真っ黒に焼けていた。
廊下の奥からドタドタと友ちゃん歩いてくるのが見えた。そして友ちゃんはポカンと口を開けたままのあかりの前に立ち、腰に手を当てムッとした
「なんだ、おるがね。返事がないからおらんかと思ったわ」
「と、友ちゃん、おかえり……」
「どげした? ぼんやりして……あ、寝起きかね? こんな時間までまさか寝とったんかね? あんまダラダラしすぎだない?」
そう言うと友ちゃんは太陽のようにカラカラと笑った。
あかりはその時、体にこもった熱が無くなっているの事に気がついた。体の痛みも、喉の痛みも、頭痛も全て。何もかも嘘だったように消え去っていた。
「夢見とったんかな……」
「夢?」友ちゃんはドカッとあかりの正面にあぐらをかいて座った。「どんな夢?」
「嫌な夢、おぞい夢……。たぶん、夢だったのかも。そういうことにしとく」
「ふーん、変なの」
あかりは夢だったと思うことにした。
妙にリアルな夢だった。
布団の四隅に盛った塩は、真っ黒に焦げていたけれど……それも、夢の続きだと思うことにした。
友ちゃんはあかりの顔色を見て、少し心配そうに首を傾げたあと、持ってきたお土産を広げ始めた。
普通の会話が、普通の音が、普通の明かりが、家の中に戻ってくる。
あかりは、ただそれだけでよかった。
───
時は過ぎた。
現代では、夜でも煌々と明かりが灯る。
街灯が道を照らし、家の中は昼のように明るい。
昼夜の境は、ずいぶん曖昧になった。口笛を吹いても、誰も「蛇が出る」とは言わなくなった。
靴下を履いて寝ても、誰も咎めない。
由来の分からない言い伝えは、少しずつ忘れられていく。便利さと明るさが、古い禁忌を遠ざける。
それでも、時折──
ふとした夜に、妙な気配を覚える人がいる。
理由の分からない不安に、胸をざわつかせる人がいる。
守る人も、守らない人もいる。どちらが正しいのかは、今も分からない。ただ、そうした言い伝えが、かつて確かにここにあったことだけは、確かだ。
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