弟が、死んだ。かっこつけなやつだから、わざわざ終着駅で、終電の電車に飛び込んで死んだ。馬鹿だから、電車への飛び込みでまわりにどんな迷惑がかかるか、きっと考えもせずに飛び込んだ。遺書はノートに書きなぐってあった。衝動的なやつだから、きっと夜にセンチメンタルな気持ちにでもなって、そのまま書いたんだろう。汚い文字だった。
棺に入った弟の姿は、蝋人形みたいだった。目を開けるかと思った。開けなかった。瞼が動いたような気が、したのだ。俺はその頬に鼻先で触れた。ゴムみたいな柔らかさと、無機質な冷たさが、気持ち悪かった。すえたにおいと、百合の香りがした。額に一瞬触れた髪の毛は、ひどく乾いていた。
「焼かなきゃいけないんだよね。」
弟の頬を人差し指で軽く押した。唇に親指を滑らせた。死化粧というやつのせいか、親指が薄い朱に染まった。まだ柔らかいのに。数時間後には、弟を形作っていた柔らかい肉体は、軽くて脆い、何の役にも立たないものになって、壺にでも押し込まれるのだ。あんな風になられちゃ、抱きしめたって硬くてしょうがない。
棺に横たえられた弟の遺体の頭を支えて起こす。まだ、重い。そのまま抱きしめる。冷たかった。頭の形は、何度も撫でたあの形だった。
「どうしても、焼かなきゃいけない?」
「……ええ。」
母さんは困ったように笑ってから、涙を流した。いつもはよれのない白粉(おしろい)が、目元と口元の皺(しわ)に沿って、線になっていた。
火葬中の食事には、俺の嫌いな天ぷらが出た。いつもこういう時は弟に押し付けるのだ。今日は仕方ないから、食べた。塩なんかつけなかったのに、しょっぱくて、しなしなしていた。やっぱり天ぷらは嫌いだ。油臭さと、唇がベタつくところなんか、殊(こと)に嫌いだ。人が焼けるときも、こんな感覚がすると書いてあったのは、何の本だったか。窓に視線を向けたけれど、中庭の日本庭園が見えるばかりで、火葬場の煙突は見えなかった。油臭さと、唇のベタつきに隠れた焦げ臭さが、一瞬だけにおったような気がした。こうしている間にも、弟の体を作っていた肉が、燃えていくのだ。そして、煙になって宙へ舞うのだ。所謂においというのは、細かくなった物質の粒子を、鼻の奥の粘膜から吸収して受け取るものらしい。ひどく小さくなった弟が、俺の鼻の中にいるのだ。昔、弟が夜に一人で眠れないと無理やり俺の布団に入って来た時のように、また勝手に入ってくるのだ。
火葬が終わったあとの弟は、小さかった。綺麗に残っていると火葬場の人が言っていたが、骨なんか残ったって何ができるんだ。そう思いながら、丁寧に拾った。それから、職員が残りの骨をまとめて壺に入れた。雑で腹が立った。折れたらどうする。骨を乗せていた銀のボードに小さな粉のようになった欠片が残っていた。もったいないと思ったから、指を沿わせて取った。周りにばれないように舐めて、飲みこんだ。何の味もしなかった。
俺も、弟も。馬鹿で、馬鹿で、しょうがなかった。
ノートは弟の机に、遺書のページを開いて置いてあった。わざわざ手にとって、捲って探さずに済むから楽だった。ベッドの上の毛布はぐちゃぐちゃなのに、気の利いたことをする。癪だから、わざわざ畳んでやらなかった。脱ぎ散らかされた洗濯物は、じきに腐ってしまうから、いずれ洗わなくっちゃいけない。やりたくもない。遺書だって読みたくもないのに、厄介なものばかり残していくんだ、あいつは。
『たぶん、私は間違って生まれて来たのだと思います。たくさんのものを与えてもらったのに、役立てることができなかった。優秀な兄さんや、父さんや、母さんのもとに生まれて。私だけが、違っていました。
与えてもらったものは役に立てることができなかったのに、たくさんの迷惑をかけました。たくさんの愛情を与えてもらったのに、私はそれを返せませんでした。これ以上迷惑をかけたくない。
自分のことをコントロールできないから、カッとしてものを投げて、兄さんを怪我させてしまったこともありました。せっかく入れてもらった私立の中学校も、先生を殴ってしまって退学になりました。兄さんのように頭のいい学校に入れなかったけれど、それでも通い続けていたら、何か変わったでしょう。きっと今のようじゃなかった。
せめて普通になりたかった。普通に、周りに合わせられるだけでも、きっと迷惑にはならなかったでしょう。
私は、母さんのおなかを出てくるときに、きっと色んなものを取り落としてしまったんです。兄さんが全部持っていったのかもしれないけど。
次に生まれるときには、兄さんのように賢く。母さんのように動じず。父さんのようにまともな。そんな風に生まれることにします。今度こそ。
さようなら。家族として愛してくれて、ありがとう。』
「よく、わかってんじゃん。」
与えてもらったものを役立てるのが下手くそだから、愛されていることを知りながら、自分で命を捨てた。迷惑にもほどがある。葬式にいくらかかるかも、お前、知らないんだろ。逃げ癖のあるお前だから、生き続けることからも逃げたんだろ。日本人の平均寿命知ってるか。80年は超えてるんだぞ。それを、10代で死ぬなんて。周りに合わせる気がないのかお前は。馬鹿だよお前は。考えが足りないよ。それだから俺にいつも口げんかで負けるんだ。それで決まって、手が出るんだ。次こそは、今度こそは繰り返さないからって、口癖のように言ってたくせに。次の日にはまた同じことを繰り返す。「次はないぞ」って怒られたって、またすぐに手が出るんだ。
だからって、こんなやり方で次を無くすのは、馬鹿だよ。お前は馬鹿だよ。母さんがどんなに自分を責めたか。首くくるんじゃないかって勢いだった。父さんなんか葬式会場で泣き崩れてたよ。参列者と会話もできずに。
どういたしましてなんて、言ってやるもんか。さようならなんて。
間違ってるよ、言葉も。なにもかも。
遺書の書かれたノートの紙に人差し指を素早く沿わせる。紙で指の皮が切れて、血がにじんだ。
切れた箇所を親指の爪で刺した。親指の爪の縁が、朱く染まった。傷口を噛み、歯を立てる。
「痛ぇよ、馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。」
水滴の落ちた先の文字の境界が滲んだ。
「ごめん。」
とっさに指で触れようとした。
拭き取ることは、できなかった。
人差し指の先を自分の方へ向けると、またじわりと血が浮き出ていた。
紙の端は、白いままだった。
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