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出会いと別れのコンテンプレーション

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第9話)

燐銀豆|リンギンズ

ぼくがトイレで小説家の燐銀豆と会うお話。

小説

9,226文字

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ただのマンションの一室。でも、彼女の手にかかればすべてが変わる。

本当は白を基調とした、誰の好みでもないが、誰にも嫌われない内装だった。今は黒を基調に彼女の心のままに再構成されていて、部屋全体が品のいい暗闇だった。洞窟より文明的で、宇宙ほど寂しくなく、電信柱の影ほど湿ってない。こんなバランスの取れた居心地の良さは、彼女のセンスなしでは実現できなかったはずだ。ただやみくもに黒で塗りつぶせばよいという話ではない。

退去費用のような無粋なことは考えない。彼女のそういう大胆なところがぼくは好きだ。

一枚の絵画が飾ってある。当然、不気味な絵だ。正気からかなり隔たっている。彼女は「マーヴィン・ピークなの」と言った。ぼくはなるほどね、と言ってみたのだが、彼女はぼくが何一つわかっていないことを見抜いて(そうだ、ぼくは本当に不幸なのだが、何かを分かったことが一度たりともないのだ)説明してくれた。

マーヴィン・ピークっていうのはイギリスの作家で、ゴーメンガーストっていうゴシック小説を書いた人なの。その人は絵も上手で、この絵は私が画集をスキャンして引き延ばしてこのサイズにしたの。なぜならその絵のユーモラスな地獄みたいな世界観が好きだからなの。

ほかにも注目するべき内装がある。槍を持ったカラフルな悪魔たち(赤や緑、黄色の体をしていて、山羊のような角を生やしていた)が吊り下がっていて風が吹くと回転するモビール、中世のヨーロッパの騎士が着ていそうな甲冑のオブジェ(中身は空っぽだろうか?)、幻獣のいくつもの頭骨(おそらく本物ではない)、沼地のような座り心地のソファ(奇跡だった)、などなど、すべてに彼女の目くばせが行き届いている。

ところでぼくはまぬけなので、人生を満喫するということがどういうことがわからず、本ばかり読んでいた。

彼女はぼくが本を部屋に持ち込んできて、なかなか抜け出しにくいソファに寝転んで文字を追いかけてばかりなのを見かねて「そんなに面白いの?」と聞いてきた。「まさか」とぼくが言うと彼女は「時間を無駄にしてるのね、すてき。死ぬことを意識して」と言った。彼女は音楽のボリュームを上げた。スピーカーから苦しみとも喜悦ともとれる、絶叫のごとき歌声が響き渡った。彼女は目を閉じてその音楽、というよりここではないどこかの別世界に浸っていた。ぼくはさらに集中して、中毒患者であると同時に一兵卒の目つきで、まるで目を離したら逃げ出してしまう敵兵を追いかけるみたいに文字を読み続けた。もしも世界が平和であるなら、こういう比喩も許されるべきだろう。

しばらくして頭が痛くなってきた。音楽が止まって、彼女は目を開けていて、こちらに戻ってきている風情だった。夜が布にしみこむ水のように、ゆっくりと部屋の中に場所を占めていった。

思い返すたびに思うのだが、ぼくは幸せだった。

 

2/6

 

ある日ぼくは小説家の燐銀豆に会いに行くことにした。

きっかけは彼女だった。彼女はぼくを燐銀豆の唯一のファンだと決めつけたうえで、こんなことを言った。

ふつう、推しに会うためにはお金がかかるものなの。でもきみはその必要がないんだから、とってもラッキーだと思うの。だって、相手はあなたしかファンがいないんだから、そのファンからお金を取るはずないもの。きっとただ無邪気に喜ぶよ。その人、ただただ無邪気に嬉しがるよ。それに、考えてみて。もし相手が故人だったら、って。そしたら会うなんてことは__もちろん一般的な意味においては、ってことだけれど。もしかしたら、どこかの魔導書には例外の記載があるのかもしれないけれど__大金を払ってもかなわない夢なの。
「その通りで、燐銀豆はもう死んでる可能性があるよ」
「私はそうは思わないの」

彼女にそう言い切られると、確かにと思わされる。センスのある人の言葉には、理屈を超えた説得力があるとぼくは感じる。

ぼくは燐銀豆の個人情報をネットで漁り始めた。ほとんどなかった。性別や年齢さえよくわからない。ただ、知られている処女作の出版年(1997年)から、40代より上の年代であることはわかる。なぜなら、作家自身が生まれていなければ、本を書くことだってきっとできないはずだから。あたりまえだけど、本を書くことができるということは、この世界にすでに生まれているということでもある。

とはいえ、若くても重篤な癌を患っているかもしれないし、健康でも狂った自動運転自動車に明日轢き殺されしまうかもしれないし、ぼやぼやしていられない。

ボルヘス曰く、死は突然始まり永遠に終わることはない。残された者たちの悲しみや喪失感も、はっきり終りを迎えることはない。なぜなら死は終わらないから。ならば、なんとかしてその突然を先回りして会わないといけない。

ぼくは燐銀豆の数少ない単著を出版している出版社に電話を掛けた。電話はつながらなかった。もうそんな出版社は存在していないらしい。もちろん先にネットで調べていて、見つからなかったので本に印刷されていた電話番号にダメ元で掛けたのだったが、うまくいかなかった。

そのかわり、次の手はあっさりうまくいった。ぼくは「菫ニードル<D状態のコケシ>」に連絡を取ることに成功したのだ。

菫ニードル<D状態のコケシ>というのは人の名前で、過去に燐銀豆にインタビューをしたことがある唯一の人物だ。要するに異常者である。ぼくにとっては英雄だ。

ぼくは彼のXアカウントにDMを送った。本人かどうか自信はなかったが、こんな気味の悪いアカウント名を使っている人はほかにいなかったし、当たってみる価値はあると思った。プロフィールには「文筆家、愛国者、未来を憂う者、LGBTQはほどほどに」と書いてあった。その内容が彼本人である可能性を高めるのか、それとも逆なのか、ぼくにはよくわからなかった。ぼくは菫ニードル<D状態のコケシ>の思想や主義に疎かった。

右派政党や準ジャパのインフルエンサーに関する好意的な引用リポストが目立っていた。中国がさしたる理由もなく嫌いらしかった。アメリカに対して複雑な感情を抱いてるようだった。数少ない自分自身の言葉によるポストでは、日本の左派作家について目を覆いたくなるようなことを書き連ねていた。品位を欠いたあけすけな祝詞であり、神秘と深みを損なった呪詛でもあった。主張は単純で、彼にとって左派というのは生まれつき愚かということだった。あらゆる恥知らずな行いはグローバル資本主義という文化破壊によって生み出されたらしかった。彼はいつも息が上がっているようだった。もしもその情熱が生まれ持った鰹節であるなら、木くずのような茶色い削り節が彼の周りを舞い飛んでいた。

正直なところ、彼のX上での言動の激しさを前にして連絡を取るのは気が引けた。でも、その先に燐銀豆がいるかもしれないと思えば引き下がるわけにはいかない。そのころにはぼくは、本当にぼくだけが燐銀豆の唯一のファンである気がしてきていた。

DMの返事はその日のうちに返ってきた。文面は意外にも礼儀正しくて、ポストに見られたような臆病な大道芸人の跳躍じみた文章は影を潜めていた。古い言葉や漢字を使いたがる癖は垣間見えたけれど、鼻につくほどの頻度ではなかった。

菫ニードル<D状態のコケシ>は、ぼくの期待をはるかに超えて、もし燐銀豆さんに会いたいなら調整しましょうか、と提案してくれた。願ってもない申し入れに喜んで返事をすると、数日後に本当に日程調整の連絡をくれた。そのあと何度かやりとりをして、二週間後の日曜に決まった。場所は代々木にある高い塔の下にあるハンバーガー店だった。
ぼくはあらためて確認した。二週間後の日曜に燐銀豆先生に会えるということですか?

すると菫ニードル<D状態のコケシ>は、ええ、会わせてあげますよ。ファンに会うのはいつでも楽しいと先生は言っていますから。それから、あなたは私とも会うことができますよ。戦後最も過小評価されている批評家、菫ニードル<D状態のコケシ>とも。あなたはこの遭遇を童のような素直な魂で喜ぶべきですね。

 

3/6

 

運命の日、待ち合わせ場所には、もはや菫ニードル<D状態のコケシ>としか形容できない異様な姿の中年の男がすでにいた。店内の造花の影に潜んでいた。人間のようには見えなかったが、ぎりぎり人間と認めざるを得ない姿で、少しだけ悔しかった。ずる賢いのだと思った。

だが同時に悲惨さもあった。濡れていたわけではないが、さっきまで長い間雨に打たれていたのではないかと思わせた。あるいは、そう思わせたがる演出家的側面の発露だった可能性もある。見栄を張っていたのだ。せっかく額に刻まれていた皺は、ぜんぜん厳粛さを生み出していなかった。絶え間ない狼狽を醸し出してさえいた。

トマトとニンニクの香りが場を掌握していた。無数の子どもたちが突拍子のない奇声を上げたことで、店内が本当に平穏であることが明らかになった。

菫ニードル<D状態のコケシ>は立っているぼくの足元から頭までをじろりと見て、座ってください、と言った。ぼくたちはカウンター席に並んで座った。菫ニードル<D状態のコケシ>の体は小さかった。どこにでも潜り込みそうだったし、潜り込むことを趣味としていそうでもあった。放っておいても可愛くなりそうなサイズだったが、例外的にみじんも可愛くなかった。

どこにも燐銀豆らしき姿は見えない。

あの、と言いかけると、それを見透かしたように菫ニードル<D状態のコケシ>が片手をあげて制した。まるで本物の批評家か哲学者のように、その腕は瘦せ細っていた。
「私のことは知っていますか?」
「菫ニードル<D状態のコケシ>ですよね」
「私が、菫ニードル<D状態のコケシ>です」
「それで、ええと……」
「言わなくてもわかってます。燐銀豆さんに会いたいのでしょう? あなたは小説家志望ですか?」
「いいえ、ぼくは今までは何も書いていませんし、これからも何も書くつもりはありません」

ぼくは慌てて、弁明するように嘘を言った。すると菫ニードル<D状態のコケシ>は不思議そうな顔をした。その顔は、私は小学生の頃の無邪気さを私はまだ忘れてはいませんよ、とでもいうようなあどけなさというか、あざとさがあった。憎らしいものだった。
「では、なぜ生きているんでしょうか?」

と、菫ニードル<D状態のコケシ>は言った。
「それは、ぼくも知りたいです。気づいたら生きていましたし、死ぬ理由もなかったんです。でも、それが小説となんの関係があるのでしょう?」
「そうではなくて、どうして燐銀豆さんの本を読んで、それでまだ生きていて、しかも何も書かないのでしょうか?」
言っている意味が分からなかったので、あえて、ちょっと笑ってみた。でもそのごまかしはうまく効かなかった。
菫ニードル<D状態のコケシ>の目は黒々としていて感情が読めなかった。
「何もわかっていないのですか? 何も感じていないのですか? 私を見てください。私は燐銀豆先生のせいで、こんなことになってしまっているというのに。私は罪を犯したわけではないのに、ほとんど罪人です。考えてみてください、今から重要なことを言いますよ。……もし一つの罪が、70億人に降りかかったとしたら、その一つの罪の本来の重みは一人一人が受け取るのだと思いますか? それとも七十億分の一に希釈された罪、分割された軽い軽い罪だけが、まるで透明のベールのように全員の頭の上にほとんど気づくことなくふわりと覆いかぶさるだけだと思いますか? どちらだと思いますか?」

ぼくが一か八かで口を開こうとする間もなく、菫ニードル<D状態のコケシ>は我慢できずに答えてしまった。
「後者に決まってます。ははははは、それが、この無責任こそが、人間特有の幸福論ですよ」

ぼくたちは並んでコーラをすすった。紙ストローが不快だったので、ふたを開けてコップみたいに飲んだ。小さな氷が虫のように口の中に飛び込んできた。がりがりと歯で砕きながら、さっきまで意味もなく自分が緊張していたことに気づいた。今はもうリラックスしている。
「ぼくは燐銀豆さんに会いたいのです。そのために来たのです」
「ええ、お手洗いの一番の奥の個室で待っていますよ。隣の個室に入って、思う存分お話ししてください。そのあいだトイレの手前の廊下は私がふさいでおきますので」

 

4/6

 

清潔な個室トイレが二つあった。確かに、奥の扉は閉ざされていて、誰かが使用中で施錠済みであることを示す赤い表示が出ていた。この中に燐銀豆がいる?

ぼくは隣のトイレに入った。どこにでもある標準的な様式便所だった。実家のトイレにも、一人暮らしのトイレにも、彼女の暗黒の部屋のトイレにも、まったく引けを取らないありふれたトイレだった。クリップボードに挟まれたトイレ掃除のシフト表が、壁にぶら下がっていた。小泉、遠藤、横田、犀川、横田、横田、横田、……

ぼくは便座の上に座り、横の壁を見た。床にも天井にも隙間はない。公園や空港にあるような公衆トイレとは違っている。プライバシーが重視されている。シトラスの香りがした。
少し顔を上げ気味にして発した一言目は、すこし上ずってしまった。
「こんにちは……?」

返事はなかった。あまり大きな声をだして、トイレの外の人(菫ニードル<D状態のコケシ>も含む)に聞かれてしまうのは嫌だったが、もう一度、さっきよりは大きめの声で発声してみた。
「こんにちは」
「……おや、ごめんなさい、眠っていました」

壁の向こうから、くぐもった、低い声が返ってきた。それが燐銀豆本人の声であるといったん信じるなら、少なくとも性別は男性のようだ。
「いえ、こちらこそごめんなさい。突然起こしてしまって」

沈黙。どこから湧き上がってくる恥ずかしさなのだろう、わからないが、徐々に体が熱くなってきた。
「あの、ぼくはあなたのファンで、菫ニードル<D状態のコケシ>さんに、ここに来ればあなたと話ができると聞いてきたんですが……」
「どうぞ。好きに話してください。」

聞きたいことはたくさん用意してあった、が……。
「ええと、直接顔を見て話すことはできませんか? こんなふうにトイレで壁越しに話した経験がなくて、慣れなくて」
「ときには、別の方法を用いなければ実現できないことというのがあるんです。電話ではこうはいきませんでした。メール等のテキストでのやりとりも同様です。通常の方法ではだめなのですよ。通じ合えないのです。私とあなたは、本当に他人なのですから」

本当に他人、という言い方がぼくはとても気になった。まるでぼくたちが、同じ人間ですらないみたいに聞こえた。

ぼくは燐銀豆のことを、自分と似ている部分があると無条件に思い込んでいた。少なくとも、同じ人間ではあり、ユーモアの感覚も似ているのだと。そこまでは信じてよいと。でも、本当に他人というその言い方は、すがすがしいほどに、ぼくの想像力を軽く超えていくみたいに、何もかもを無に帰してしまうみたいに、虚ろに響いた。
「疑うつもりはないですが、あなたが本人であるということは、どうやって判断すればよいでしょうか……。あなたのことはたくさん調べました。でも、あなたが何者であるのかはまるで分らなかったんです。本が存在しているのだから、きっと作者も存在するのだろうと考えたのですが、次第に、本が存在していたからといっても、作者が存在しない可能性もあると思うようになりました。たとえば、ちょっと気の利いたAIが、人間をからかうために架空の小説をでっち上げたとか、そういう可能性です」
「すると、あなたはAIの掌の上で笑いものにされている、と、そうお考えなのですか。存在しない人間を探し求めるあなたに、私という存在しない存在、たとえばAIの仮想人格とでもいうべき者を出会わせる」
「……まあ、ありえない話ですよね。笑ってください」
「しかし状況はあなたの言う通りですよ。私には私を証明するすべがありません。なぜなら、私があなたの前に姿を現したとして、燐銀豆の姿の正解がわからない以上、その行為に意味はないのです。答え合わせができないのです」
「そんなことを言ったら、どんなに頑張ってもぼくたちは会うことができないということになりませんか?」
「一つだけ方法がありますよ」

燐銀豆の声は沈んでいた。それはなんですか、とぼくは聞いた。
「実際に書いている姿を見せることです。そうすれば本物かどうかわかります。ただ、注意点が一つ。その方法が通用するのは一作目だけです。二作目からは燐銀豆が書きそうなものを装って書かなくてはならない。文体、主題、演出、すべてが自分らしくなくてはならない。もちろん、本人が一番うまく自分自身を模倣できることでしょう。しかし、そこからずれるもの、すなわち傑作か、あるいは駄作を書いてしまおうものなら、直ちに偽物認定なのです。そして、しかし、それ以上に不幸なのは、過去の自分から抜け出すことができずに、永遠に自らを模倣し続け、毒に薬にもならないガラクタを生み出し続けることなのです。だから私が、あなたの前で書くべきものを書くとき、それは私自身を証明する結果にはならないのです。私は傑作か駄作しか、書くつもりがないからです」

ぼくは、とても悲しい気持ちになった。ぼくが会いたかった燐銀豆を同定するすべはどこにもいないのだ。いつまでも、どこまで行っても、出会うことができるのは燐銀豆らしき存在だけなのだ、と言われてしまったことに。
「わかりました、ではこのまま話をさせてください。まず、壁越しとはいえ、お会いすることができてうれしいです……」

用意してきた質問をした。燐銀豆は気さくに答えてくれた。果てしなく長い時間が過ぎた気がしたが、実際の時間はほとんど進んでいなかった。逆だったらよかったのに、と思った。

 

5/6

 

トイレを出る順番は、燐銀豆が先で、ぼくが後だった。

物音は何も聞こえなかったが、唐突にぼくの個室のドアがゴンゴンたたかれて、外から菫ニードル<D状態のコケシ>の声で「出てきなさい」と言われた。

トイレから出ると、菫ニードル<D状態のコケシ>がぼくの顔をにらみつけてきた。燐銀豆の個室のドアは開放されていたが、それらしい姿は店内のどこにも見当たらなかった。燐銀豆は消えていた。ぼくたちはカウンター席に戻った。

菫ニードル<D状態のコケシ>が、彼特有のとげのある、Xで用いているような言葉でぼくを刺し始めたのはその直後からだった。どうやらぼくの態度には、燐銀豆に対する失礼が含まれていたらしく、耳ざとい菫ニードル<D状態のコケシ>はそのことに腹を立てていた。
「どうして疑ったんですか? 燐銀豆が燐銀豆でないとしたら、あなたがあなたであることだって疑わしくなる。それはいったん飲み込みましたよね。忘れましたか、言いましたよね、童のようにはしゃいでくださいと。なにを分析しようとしているのですか。そんな態度は許されない! 許されないですよ……」
「すみません、でも、どうしても気になってしまって」
「いいじゃないですか、うそだったとしても見抜けないじゃないですか。それなら信じたほうがいいでしょう。なぜ疑うんですか。それはこの菫ニードル<D状態のコケシ>に対する背信でもある」

ぼくはこの小男と揉めたくなかった。ひとまず念願は、たとえ疑いの余地があるとしても果たされたのだ。だったら、あとはもう、できるだけ穏便に済ませたかった。

それとは反対に、菫ニードル<D状態のコケシ>はどんどんヒートアップしていった。
「もはや犯罪だな! その無神経さが犯罪だ! すべてはきみの思う通りにはならないんですよ。それなのに、疑問があれば答えてもらえるのが当然だとでもいうように、ぶしつけに聞こうとするその態度! ひどいものだ、ウジ虫のプールだ。ゲボが出てくるシャワーヘッドだ。人生が楽しいですか? 無責任の子どものくせに。私は昔から批評家ですよ……!」
「そうなんですね。あなた本をいつか読んでみたいな」

ぼくは店を出た。街中のだれもかれもが陰鬱な顔をしているように見えたが、そのすべてが自分の顔の反射であるような気もした。

菫ニードル<D状態のコケシ>は今もまだ生きていると思うが、どこにいるのかは知らない。きっと連絡すれば、数日のうちに返信が返ってくると思う。なんとなくそんな気がする。

 

6/6

 

ぼくは彼女に、人生で初めての推し活の感想を伝えることにした。

いつものようにやわらかい沼のようなソファに沈んでいると、締め切られたカーテンの切れ間に血色の良い太陽光がにじみ始めた。天井につるされているペラペラの悪魔たちは、熱心にぼくたちのこと見つめている。

彼女は部屋の中で飼える犬くらいの毛並みとサイズを備えた蜘蛛を、スマホの通販サイトで探していた。蜘蛛は、どうしてそんなに必要だろうか? と問わせるに足るたくさんの黒い目がついていた。

彼女にむけて、ぼくは一人で話し続けた。燐銀豆の話をしたかったのに、話せば話すほど、燐銀豆というより自分の話のようになってしまうのが不甲斐なかった。出来事が起こって、それが自分に対してどのような影響をもたらしたか、という観点の話ばかりになってしまうのだった。

彼女はぼくに対して、その他大勢の人間たちに対してよりはいくらか多めの好意を抱いてくれているからこそ部屋の中に入れてくれているのだと思っているが、だらだらと続く一方的な感想戦にはさすがに嫌気がさしてきたらしく、
「それで、結局のところ、良かったの?」

と、簡潔な質問を投げかけてきた。

もう、イエスかノーで答えさせて、この話を終わらせようというつもりのようだった。もちろん浅はかだ。ぼくはまだまだ喋りたかった。

だからこそぼくは、さらに粘り強く、良かったかどうかの判断を下すために必要なたくさんの素材を縷々として語った。彼女は辟易しているようだったけれど、もとはと言えば彼女自身が招いたことなのだから仕方ない。ぼくは彼女の質問をかわして話し続けた。
「そして、悲しかったよ」

と、ぼくは言った。すると彼女は急にスマホから顔を上げて、ぼくの方を向いた。興味深そうにぼくを眺めて「どういうふうに悲しかったの? 教えて」と言ってきた。

ぼくは同じ話を繰り返した。今度の彼女はちゃんと聞く耳を持っていた。彼女の興味を惹くためには、話すべき順序を間違えていたらしかった。

ぼくは涙が出そうなほど悲しかったのだ。あのトイレの中で、ぼくは何かが死に絶えてゆくのを感じていることしかできなかったのだ。……そんなトーンで語れば、彼女は手をたたいて喜ぶことだろう。それはとても単純だけど、朗らかな時間だ。

© 2026 燐銀豆|リンギンズ ( 2026年10月24日公開 )

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』最終話 (全9話)

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