電柱の影
人々はこそこそと話す。
「最近のぉ、よぅけ人がいなくなぁけど、どけした事だらなぁ」
「そげだが──。おら、気味が悪てかなわんわ」
最近この村では人が居なくなる。ふと前触れもなく居なくなるのだ。家出の原因もない。本当に煙のように居なくなるのだ。
そしてふと突然帰ってくる。元からそこに居たのかと思うほどに。
大体は田んぼで見つかる。ぼーっと空を見上げて、誰かに見つけて貰うのを待っていたように。そして高熱を出す。そして記憶は曖昧になる。
行方不明から戻ってきて、「話がまともにできる連中」が言うには──。
学校の帰りか、仕事の帰りか、どっか他所様の家でお茶をして帰る途中だったか。場面は違えど、ある共通の事がある。
それは「夜」で、とある「電信柱」の前が最後の記憶という。
それは一体どの電信柱か──。
そんなお話。
ここは昭和の中頃の日本の片田舎。まだ東京や大阪などと違って、大正時代かと思うほどに古臭い田舎だ。そして鈴虫が鳴きおるということは、恐らく秋なのだ。月明かりは澄み、さっくりと夜空を切り取るように佇む。時折音もなく吹く風に蠢く夜の黒雲で朧月になる以外は、空になんの変わりもなかった。暑い夏は、もそろに過ぎ去りつつあり、人々は窓を閉めて寝るような時期である。
田んぼの横の小さい砂利道には心もとない白熱灯の灯る木の電信柱が行列のように点々と並び、そっと足元を照らす。とある一本以外は──。
遠野あかりは口うるさい両親が町へ出かけて遅くなるというのを聞いて、学校帰りに友人宅へ行って、そしてこの時間に帰宅していた。アナログの腕時計の針は19:20頃を示していた。秋口に入ってから日が落ちるのも早くなり、この時間は空もすっかり暗くなっていた。遠くに昼間の残光がぼんやりとグラデーションのように残り、夜の到来を知らせている。ヒグラシも鳴りを潜め、鈴虫がリンリンと鳴き出した。
「いかんわ、父ちゃんも母ちゃんもおらんけんて、つい友ちゃん家で話しすぎてしまったわ」
そうは言ってもあかりは大して急ぎもしない足取りで家路へ向かう。ここはいつもの帰り道とは違うが、少しでも早く家に着こうと、ちょっとだけ横にそれた道だった。稲刈りがチラホラ終わり出した田んぼの砂利道を、心許ない白熱灯の灯る電信柱の灯りを頼りに歩いていた。そしてその光景に、友ちゃんと話していた事を思い出した。
「あかりちゃん。気ぃつけて帰りよ? 最近さ、よく人がおらんなるけん」
「ちょっと、やめてごしないよ。うち、今から帰るんよ?」
「ごめんごめん。でも、ホントのことだけん……。なんでも影のある電信柱があるらしいんだわ」
「影のある、電信柱?」
「そげ。その電信柱の影を踏むと、どげだい、悪いことが起こるだとか聞くよ。それが、関係しちょるだかなんだか」
「ふーん。そがん事があるんか。まぁ気ぃつけて帰ぇわ」
「うん、そうして。また明日ね」
そんな話だった。
──電信柱の影?
白熱灯で足元を照らすのに、そんな影ができるのだろうか……?
あかりはぼやぼやと考えながら歩いていた。
家まであと少しの所でぼーっと歩いていたあかりはその違和感に気が付かなかった。だが──。
誰かしゃがんでいた。
自分の影は前に長く伸びているのは、今しがた通り過ぎた電信柱の白熱灯の灯りが自分の背後にあるからだ。その通り過ぎた電信柱の足元。友ちゃんの言う通り、影があった。重みのある影、それも地面から少し浮いているような……。
あかりはしまったと思った。つい足を止めてしまったからだ。見られている事を勘づかれると、着いてきてしまう。カバンの中の手鏡を取り出し、前髪を治す仕草をした。
あなたの事は気づいてないよ。
そういうつもりだった。しかしその手鏡に写ったのは、自分の後ろでのそりと重みのある動きをした濃密な影だった。
『まずい……これは、残りだ』
あかりは自分の中にある霊感のようなものが危険信号を出すのを感じた。しかし早急に動く訳には行かない。それに気がついたと言うようなものだ。背中に冷や汗が流れた。首筋から肩甲骨の間を抜け、腰まで流れた気がした。あかりは平静を装いながら手鏡をそっとしまい、ゆっくりと歩き出す。じゃりっと地面が鳴り、体が前に進む。心臓の鼓動はドクンドクンと鳴り響き、体が震えるほどだった。
見られているのを感じが、あかりは平静を装いながらその場を逃れることに成功した。彼女では何も出来ないのだ。下手に手を出してはならない。こういった怪異の対処としては鉄則だと、祖母から教えられた。
翌朝、あかりは昨日と同じ田んぼの道を歩いていた。夜のことを思い出すと背筋も凍るが、ここでなければ学校へ行けないのであれば、他に方法もなく、意を決するしか無かった。不幸中の幸いに、今日はとても清々しい秋晴れで、空も高く、澄んで綺麗な空気に村は包まれていた。
そして件の電柱へ到着したが……。
「ん、なんともない……。昨日のは気のせいだっただらか……」
電信柱はいつも通りだった。前後の電信柱もあまりにも似ていて実は違う電信柱だったのでは、と考えたが、ボロ切れのようになった「みんなの町 交通安全」の標語ポスターが貼ってあるのを見ると、やはりこれが昨日のものであるのは間違いなかった。
「間違いないわ。やっぱりこれだわ」
そう言ってあかりは電信柱にグッと近づいた、その瞬間。
「……!?」
足元がぐにゃりと、地面に敷き詰められたグミかなんかも踏み潰したような、奇妙な感覚があった。
驚いて飛び退くと、そこには何も無かったし、飛び退いた先の地面もいつも通りだった。
「な、なんだね、一体……」
澄んだ空気が急に、ピン──と張り詰めた気がした。高い空は高すぎようにも見えたし、青い空も青すぎる気がした。
「いけんわ、これ。……はや学校行こ……」
気のせいなのだ。そう言い聞かし、あかりは学校へ向かった。先程まで明るい風景は、どこか薄ら寒いジメジメしたものに変わった。
「あかりちゃん、おはよ」
「友ちゃん……おはよ」
「……どげしたん? 調子悪い?」
学校に着くやいなや、友ちゃんはあかりの顔色が悪いことに気がついた様子だった。
「うん、ちょっとね」
「あ、もしかして昨日うちが変なこと言ったけん……。ごめんよ」
「違うよ、ともちゃんのせいじゃないけん。ちょっと気になることがあってね……」
「気になること?」
「そう。私が昨日帰る時にした電信柱の話。帰る時にね、見たんだわ」
「見たって……何を?」
「影だわね。あったんだわ、影が」
「……うそでしょ?」
「ほんと」
友ちゃんは目を丸くした。そして二人は黙ってしまった。教室のざわつきの中で、二人の周囲だけがシーンと静まり返った。
空は相変わらず青すぎた。
お昼もすぎ、午後の退屈な授業後、終礼前のしばしの怠惰。各々が各々に過ごしていた。
──聞いた?
──何を?
──あの電柱の話だわね
──あぁ、聞いた。また一人帰って来たみたいだね
そして教室のどこからかこんな会話が聞こえてくる。誰が囁いているんだか、あかりの耳元にさばりつく。
あかりは窓際の自分の席から外を見ると、ついその電信柱があるであろう方向へ目が向く。実際の所まで昨晩は早く帰ろうと思って普段使わない道を使ってアレに行きあった。だから、普段なら会うこともないのだが、どうにも気になって仕方がなかった。
「あかりちゃん、帰ろ」
「あ、ごめん、友ちゃん。ちょっと寄るとこがあるんだわ」
「あれ、そうなの。じゃあ今日は別々に」
「うん、また明日ね」
「……ねぇ、あかりちゃん。まさかだけど、その電信柱を見に行くんだないわね」
「……」
「やっぱり。やめときない。変な噂も多いし、大変なことになるよ」
「うん、でもなんか気になるんだわ」
「それは分かるけど……。じゃあさ、うちが一緒に行くよ。二人なら安心だが」
「いや、悪いよ」
「いいわね、ほら行くよ」
あかりと友ちゃんは、二人して教室を出て、昨日の電信柱へ向かった。道中で二人は何気ない話をしながら、実の所、恐怖心を抑えるためにお喋りをしている。
でもまだ日は高い。今のこの時間ならなんの問題もないだろうと。
田んぼの向こう、生い茂る山からはヒグラシが鳴き始めた。カナカナカナと、過ぎ去る夏を想うような物悲しい鳴き声だった。風は稲刈りが終わって空っぽになった田んぼの水面に水紋を作り、それに乗って赤とんぼは宙を舞い、ススキはさわさわと歌うように靡いた。
「あれだよ」
「……あれ?」
「そう」
あかりがピタリと立ち止まると、友ちゃんも止まる。「みんなの町 交通安全」の古びた張り紙のある気の電信柱。夕刻に見てもそんなにおかしいことは無い。ただそこに佇んでいる。
「昨日の夜はその足元にいたんよ。で、朝も通ったけど、その時は足元、電柱の根元だね。そこ踏んだら、なんかぐにゃりってしたんだわ」
「……ちょっと、うちも踏んでみる」
「え!? ちょっと、やめないや。私に変なことするなって言っといて……!」
「でも、気になるがん。ちょっとだけだから」
友ちゃんはあかりの静止を振り切って電信柱の根元へ行き、そこを踏んでみた。
「ん? んん…?」
「ど、どげな?」
「なんだ、おかしいことないよ。普通の地面だわ」
「そうなん? 気のせいだっただーか……」
あかりは自分が信じられなかった。昨日の夜も今日の朝も……ただの気のせいだったのか。
「あかり」
「わぁ!」
突然後ろから話しかけられたあかりは、びっくりするほど飛び上がった。
「きゃんとこでなにしとーだ」
「つ、津森のばぁちゃんかね……。やめてごしない、死んでしまうがね……」
そこには津森のばぁちゃんと呼ばれた老婆が立っていた。
「あ! ばぁちゃん、こんちは!」
「友美、お前さんまで一緒になにしとーだ?」
「いや、この電信柱がね、なんか気になるんだわ」
「そげか……。 遅んならんうちに、家に帰りっさい。夜にきゃんとこうろついたらいけんで。はよ帰りなさい 」
「え? あ、うん。あかりちゃん、何も無いし……帰ろう?」
津森のばぁちゃんはそういうと、二人に背を向けて帰ろうとした。あかりはなにか引っかかった。どうにも言葉を濁しているというか、早くここから立ち去られたいというか。普段は気さくで人懐っこい津森のばぁちゃんだが、どこか雰囲気が違ったのだ。とても排他的というか、素っ気なかった。
「ねぇ、ばぁちゃん。何か知らない?」
津森のばぁちゃんは、一瞬だけ足を止めた。
振り返りはしなかった。背中を向けたまま、静かに言った。
「あかり……お前、気がついたんか」
風が少し強くなった。ススキがざわめく音だけが、しばらく三人の間を埋めた。空は橙を深めていく。雲は少し早く東へ流れた。
「あの電柱の下にゃ、石が埋まっとる。昔の人間が、ただの石だと思って、基礎に使っちまった石だ。名前も消えて、角も取れて、墓だってことも分からんようになっとった石じゃ」
ばぁちゃんはようやく振り返った。目は細く、どこか遠いところを見ているようだった。
「影はな、その石の主が『ここにいる』って示しとる印だ。踏むと、連れていかれる。戻ってきても、熱が出て、記憶が曖昧になる。何度も踏むと……戻れんくなることもある」
友ちゃんが小さく息を呑む音がした。あかりは何も言えなかった。
「どうしたらいいか、なんて、おらには分からん。だどもが、余計なことはせん方がいい。塩をまいたり、供え物をしたりしても、消えるもんじゃない。あれは、ただ『そこにいる』だけなんじゃ」
ばぁちゃんはそこで言葉を切った。そして、もう一度、強い口調で言った。
「はよ、家に帰りっさい。夜になったら、ここを通らんがいい。……通るんなら、影だけは踏むな」
それだけ言い残すと、ばぁちゃんは本当に背を向けて歩き出した。
足取りは意外と早く、二人を待つ様子はまったくなかった。
ばぁちゃんの姿が田んぼの道の向こうに消えるまで、二人はしばらく動けなかった。
「……あかりちゃん」
友ちゃんが、ようやく口を開いた。
「もう、近づかん方がいいよ。ばぁちゃんもあげ言っとったし」
「うん……」
「でも、あかりちゃんは、何かする気なんだわね」
あかりは否定しなかった。
ただ、電柱の根元をじっと見ていた。
「何もしない、っていうのも、なんか違う気がするんだわ。……せめて、踏まれんようにするくらいなら、できるかもしれん」
友ちゃんは困ったように息を吐いた。
「……ごめんよ、うちは付き合えんよ。……怖いもん」
「いいよ。一人でするけん」
「……ほんとに、変なことせんといてね」
「うん」
二人はそこで別れる。二人が去った後の音のない世界で、いつまでもカナカナとヒグラシは鳴いた。夜を呼ぶように。
両親の寝静まった深夜。あかりは自宅にあったいくつかの本を読んだ。怪奇ものが好きな父の書斎には、怪奇小説だけでなく、呪術に関する眉唾物の本も多数置いてあった。その中に、禁足地に関する書籍を見つける。
正直言って、電柱の足元の影なんて直接的なものへの記載のある書籍は無かった。あかりはその書籍「境の禁忌——民間に伝わる禁足地の話」を開き、手がかりを探る。
禁足地、つまり踏み込んでは行けない場所だ。踏み込ませないようにする手筈がいくつか記載されてはいたが、なにやら難しい言葉ばかりであかりは目を回す。
しかしいくつか見つけた言葉で、彼女なりの手順を思いついた。
そして台所から塩を手に取り、いくつかの道具を手にして出かける。あの電信柱のところだ。
夜も更けて、ヒグラシは鳴いていない。鈴虫がはるか遠くの方でりーんりーんと歌っている。この付近には何故か居ないらしい。
砂利の音だけが妙に大きく聞こえ、あかりはずっと心臓が大きく鳴っている。
そもそもこんな夜更けに中学生のあかりが一人で外に出る事など無い。それだけで既に心臓が高なっているというのに──。
いた。
それは確かに、そこに居たのだ。
どんよりとした夜の空とはまた違う黒の塊がそこにあるのだ。キリリっと背骨が音を立てて伸びるような、全身のこわばりを感じた。こめかみからはカッチリと冷えた汗が伝い、足は根が生えたように止まった。
「こ、こげなこと、ほんとにあるんか……」
声に出して喋ったが、影が反応する様子はなかった。
あかりはポケットから塩を出し、恐る恐る影の側へ近づく。影は動かない。電柱と影を取り囲むように塩をサラサラと撒いていく。それでも影は動かなかった。影を踏まなければ問題なのかもしれない。しかしこれ以上ないくらいにあかりの心臓は強く打ち、もはや痛みを感じるほどだった。
塩を撒き終え、小石をその辺に置いた。一緒に持ってきた紙にペンで「立て付け悪し。注意せよ」と書いて電信柱に貼り付けた。
意を決してあかりはこう口にした。
「こ、これからも通らせてもらいますけん。よろしくお願いします」
影はやはり動かなかった。だが、邪悪な感じはなかった。
時代は過ぎた。
あの電信柱がどうなったかは誰も分からない。
しかし木の電信柱がいつまでもあるわけもなかろう。立て替えられたか、そして下の基礎が取り出されたか。なにもわからない。
よく街中に、ゆかりも分からない祠や石碑がある。あれはもともと「そういうもの」だった可能性がある。
終
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