あんた、生駒へ詣ったことあるか。ないやろ。今の人は皆ない。せやから話しといたるのや、儂の商いは荒物やが、齢とった者の本業は覚えとることや、思うてな。
戦争の前まではな、鶴橋から生駒言うたら、庶民の詣り道やった。電車に乗ってな、聖天さんへ、お滝場へ。山の中腹にはな、拝み屋の婆さんらがぎょうさん居ったんや。内地の婆さんも居った、半島から渡ってきた婆さんも居った。山の裏っ方には朝鮮のお寺さんも建ってな、太鼓と鉦の音が谷ぃ挟んで混ざり合うて、どっちの神さんの音や分からんようになる。それでええのや。困った人間が山登って、降ろしてもらう。誰の神さんでも、降りてくれた神さんが本物や。
降ろす、いうのはな、あんた、口寄せのことやと思うとるやろ。半分だけ当たりや。婆さんらの中にはな、口やのうて、手ぇに降ろす者が居ったんや。紙と筆持たしてな、目ぇ瞑って、手ぇが勝手に動く。出てきた字ぃはな、当人の字やない。死んだ亭主の字ぃで書いてある、行方知れずの倅の字ぃで書いてある。頼んだ者は泣くわな。筆が人を連れてくるのや。
一遍だけ、儂も頼んだことがある。昭和の十四年や。上の倅が北支で行方知れずになってな、家内が寝ついてしもて、藁にも縋る思いで山登った。婆さんは字ぃの読めん人やった。読めん人の手ぇから、倅の字ぃが出てきよった。ぐるりに撥ねる、あの癖のある字ぃでな、一行だけ――「かんじょうはすんだ」。勘定は済んだ。何の勘定や。軍隊の言葉か、商人の倅の言葉か、それとも渡し賃のことか。家内はその一行で起き上がって、儂はその一行で、今日まで山へ登っとらん。読めてしもたからや。読めてしまう、いうことの恐ろしさをな、あんたらは知らんのや。
ほんでな、あんたの聞きたいのは、辻のあの紙のことやろ。
戦争がな、あの山を黙らしよった。拝み屋は取締りで散り散りや、朝鮮のお寺さんも肩身の狭いことになって、太鼓の音が消えた。ほんで街が焼けて、詣り道の起点やったこの鶴橋にな、今度は市場が湧いた。儂はな、時々思うのや。生駒へ登れんようになった万の願いはな、消えてのうなったんやのうて、山から降りてきて、この焼け跡に溜まっとるのと違うか、てな。神さんの居らんようになった時代の願いは、どこへ詣るのや。詣り先のない願いが万も寄り集まったらな、あんた、それはもう、それ自体が拝む先になるのやで。
皆、怖がっとる。誰が書くのや、何で当たるのや、言うてな。この頃は妙な連中が儂の店先へ寄ってくるわ。帳簿付けの復員さんは、筆の癖がどうたら言うて、写した字ぃを見せに来よる。乾物屋の順伊さんは、何も訊かんと、儂の顔だけ見て帰りよる。あの人は訊かんことで訊く人や。進駐軍の日系さんは、丁寧すぎる日本語で生駒の話ばっかり聞きたがる。カストリ雑誌の先生に至ってはな、儂に手記ぃ書け言いよった。断ったった。
皆、間違うとるのや。
書き手を探しとるやろ。居らんのや、そんなもん。生駒の婆さんの手ぇが婆さんのもんやなかったのと同じことでな、あの紙ぃ書いとる手ぇはあるやろ、せやけど書き手は居らん。筆が降りとるだけや。
ほな何が降りとるのや、て、あんた聞くわな。
考えてみい。この市場でな、毎日どんだけの人間が、あの紙ぃ見て、値ぇ決めて、売って買うて、生きたり死んだりしとる思う。万の人間の勘定が、朝から晩まで、あの辻に吸い寄せられとるのや。生駒の婆さんに降りたんは、せいぜい死んだ亭主一人の念や。あの紙に降りとるのはな、市場まるごとの念や。万の欲と、万の怖れと、万の、消えた者の――。
いや、これは言わんとこ。
言わんけどな、あんたにだけ言うとくと、儂には見えるのや。この四人、皆それぞれに、消えた者を一人ずつ肩に乗せて辻へ通うとる。復員さんの肩には、跳ねる字ぃの死んだ同期が乗っとる。順伊さんの肩には、海の向こうから来て消えた若い衆が乗っとる。日系さんの肩には、砂の中で番号で呼ばれた頃の、答えを拒んだ親父さんが乗っとる。先生の肩には――あれはようけ乗っとるな、書いて消した言葉が、全滅の二字も、玉砕の二字も、みな肩の上や。皆、自分の乗せとる者を降ろしに、辻へ通うとるつもりでな、辻のあの紙は、その肩の荷ぃ一人ずつ勘定に入れて、比率を書き足しとるのや。人が品になる。品が人になる。生駒の頃からそうやった。ただ生駒は一人ずつやった。今度のは万人まとめてや。
一つだけ、齢寄りの忠告や。生駒の婆さんとこへはな、聞きに行く客と、聞かれに行く客が居ったんや。自分では聞きに行ったつもりでな、帰り道に気ぃつくのや、ほんまに口ぃ開いとったんは自分のほうやった、てな。降りた筆は、書く前に読むのや。あんたらが表ぇ読んどるつもりで辻に立っとるあの間にな、あんたらのほうが読まれとる。表を読むもんは、表に読まれとるのや。
四月の晦日やった。夕方の店先に、偶然や、四人が四人とも居合わせよった。復員さんが写しの束ぁ持って、順伊さんが黙って、日系さんが手帖構えて、先生がカストリの息ぃ吐いて。四人が四人とも、儂に何ぞ言わそ思うて口ぅ開きかけた、その時や。辻のほうで、ばさ、と音がした。
風もないのにな。
誰も辻を見ぃひんかった。見んかったことが、答えやった。儂は店の雨戸半分閉めて、言うたった。今日はもう店仕舞いや。あんたらもな、読まれん先に帰り。
――さて、あんたには、ようけ喋ってしもたな。喋りながらな、儂は儂で気ぃついとったんや。喋るいうのも、写すのと同じでな、口から出た端から、どこぞの帳面に写し取られとる心地がする。この齢になってようやっと分かった。生駒の婆さんが手ぇに降ろしとった時、恐ろしかったんは、降りてくる者やない。それを黙って写しとる、婆さんのその後ろの、誰も居らんはずの気配のほうや。
ほんで、あんた、どちらさんやったかいな。
最初から誰も居らなんだ店先で、巳代蔵は湯呑みを二つ、洗った。
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