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符牒市場 第七章 圏点の規則

符牒市場(第7話)

ゐで保名

手入れの朝のことを、私は箪笥の一番奥の抽斗にしまうように、内の言葉でだけ覚えている。

タグ: #AI #幻想文学 #歴史小説

小説

2,284文字

手入れの朝のことを、私は箪笥の一番奥の抽斗にしまうように、内の言葉でだけ覚えている。

夜明け前から、店先の空気が違うていた。長年この商いをしていると、風の運び方で分かるようになる。人の足音が増える前に、まず気配が増える。私は品を検められる前に、心の中で品を並べ替えていた。見られて困るものはない。困るのは、見られて困る品やのうて、見られて困る「並び」のほうやった。

巡査が二人、店先に立った。統制違反の嫌疑、というのが表向きの理由やった。品物を検められ、帳面を検められ、私自身も三十分ばかり訊かれた。訊かれる間、私は外の言葉だけを使った。おおきに、存じません、そのように仕入れております。内の言葉は箪笥の底で、じっと息を潜めていた。実害は少ない。品物は返された。私も夕方には店に戻った。けど、あの朝、巡査の後ろに立っていたもう一人の男の目のことを、私は誰にも言うていない。

制服やない男やった。市場の顔役でもない。ただ、私の店の圏点付きの品――あの日はてんぐさやった――を、値踏みするでものう、記帳するような目で見ていた。品物やのうて、品物の並びを見ていた。私はチャムスの娘やった頃、海の底で潮の目を読む婆さんの目を、幾度も見たことがある。あの目やった。潮を読む目で、市場の品を読んでいた。

巡査が帰った後、私は換算表の辻へ走った。楠木さんが、その日いつになく蒼い顔で紙を見つめていた。「鰊」の字が最も深く撥ねている、と彼は言うた。私はその言葉を聞いて、腹の底が読めた。

――あの人らは、紙の震えを読んで動いとる。
私は帳簿付けの復員さんに、圏点の規則を話した。海峡由来の品にだけ付く点。三日上げて、落ちる日に大口の買い手が来る。話しながら、私は自分の内の言葉が外の言葉に漏れているのに気づいた。もう箪笥を分けている場合やない。

楠木さんは自分の控えを見せてくれた。撥ね返りの出現と、私の圏点の周期が、驚くほど重なっていた。彼の予測が的中した日に、私が網に掛かった。偶然やない、と二人とも分かっていたが、口には出さなんだ。出したら、次に何が起きるかを、二人とも先に読んでしまいそうやったからである。

楠木さんは控えを閉じながら、独り言のように呟いた。「私は照合する側の人間やった。今は、照合される側です」。私はその言葉に、外の言葉でも内の言葉でもなく、ただ頷くことしかできなんだ。この人も、箪笥を持っているのやと思うた。役所の言葉と、役所を出た後の言葉と。二つの言葉の境目で立ち尽くしとるのは、渡ってきた者だけやないのやと、初めて気づいた。

私はその晩、島の言葉で自分に問うた。パダンの水の下で、潮の目は誰のために動く。潮のためでも、魚のためでもない。潮の目そのもののために動く。誰かの都合で動く目やない。ならば、あの紙の震えも、誰かの都合やのうて、震えそのものの都合で動いているのやもしれん。書き手を探す、いう問いの立て方が、最初から間違うとるのやもしれん。

チャムスの婆さんは、潮の目を読み違えて命を落とす娘のことを、幾度も語って聞かせてくれた。目を読むこと自体は罪やない。罪になるのは、目に自分の都合を読み込んでしまうことや。潮が自分を助けてくれる、あるいは自分を狙うている、と思うた瞬間に、娘は潮を読む力を失う。潮は誰も助けず、誰も狙わん。ただ動くだけである。楠木さんも、タムラさんも、潟見先生も、皆どこかで、あの紙が自分に向かって何かをしていると思うている。私もそうやった。もしかしたら、それこそが、皆が網に掛かる本当の理由やないか。

英男のことを、私はまた思い出した。あの子は圏点を目印に、網の絞まる日に立った。網は誰かが絞めたのやない。網は、絞まる周期そのものやった。周期に人間が触れると、周期のほうが人間を勘定に入れる。私は今、その勘定の中に、もう一度足を踏み入れかけている。

それでも、私は圏点付きの品を仕入れ続けることをやめなかった。

やめれば、英男の消えた理由を、永遠に読めんまま終わる。読んでしまう恐ろしさを、巳代蔵翁は忠告してくれた。けど、読まんまま生きる恐ろしさのほうが、私には重い。海を渡ってきた者は、渡る前から、読まんまま流される恐ろしさを、骨の髄まで知っている。

次の圏点品を仕入れる日、私は台の並びを、いつもと違えてみることにした。目印になる品を、目立たぬ品の陰に置く。潮の目そのものの都合で動くのなら、目そのものの構え方を、こちらが変えてやればどうなるか。負けん気やのうて、これは実験やった。順伊のやり方でしか、順伊は答えを探せん。楠木さんには筆跡があり、タムラさんには数字があり、潟見先生には活字がある。私には、並べるという手だけがある。

夜、店を閉めながら、私は久しぶりに島の唄を口ずさんだ。パダンの底で潮を読む婆さんたちが歌う、意味の半分も伝わらん古い唄である。外の言葉では歌えん唄やった。誰も聞いていないはずの辻に向かって、私はその唄を、少しだけ大きな声で歌うた。もし紙が本当に、市場の万の念を吸うて震えているのなら、この唄も、いつか誰かの――たとえば英男の――肩の荷として、あの紙のどこかに書き加えられるかもしれん。そう思うと、恐ろしさより先に、何か静かなものが胸の底に残った。それは諦めとも違う、島を出るときに感じた、あの見送りのない船出の静けさに近かった。

 

――昭和二十二年六月附 換算表(写・順伊控)

圏点品目 増加傾向(干鱈・するめ・朝鮮飴・てんぐさ)

「鰊」撥ね返り強度 最大値(六月三日)

(欄外に小さく、判読困難な一字。海峡の記号に似る)

© 2026 ゐで保名 ( 2026年8月3日公開

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