父の跡を継いで葬儀屋になって三年、私はようやく、香典帳という帳面の奇妙さに気付いた。
我が家の店の奥には、代々の香典帳を仕舞った古い箪笥がある。桐の匂いに墨の匂いが染み付き、抽斗を引くたびに、村の誰それの弔いの記憶が、埃と共に立ち上るような気がした。父はよく、この箪笥の前で長い時間、何をするでもなく座り込んでいた。子供の頃の私は、それを単なる商売道具への愛着だと思っていたが、今にして思えば、父はあの帳面の中に、何かを探していたのかもしれない。
葬儀の際、弔問客の氏名と香典の金額を記していくのが香典帳である。誰がいくら包んだか、後日の返礼のために必要な、いわば事務の帳面に過ぎない。だが我が家に伝わる古い香典帳を整理していて、私はある共通した違和感に突き当たった。
どの帳面にも、必ずと言っていいほど、不自然な余白がある。名前と名前の間、あるいは金額の列の途中に、一行分、あるいは二行分ほどの、書かれざる空白が挟まっているのだ。父に尋ねれば、「墨が滲んだのだろう」「書き損じを避けただけだ」と言うばかりで、それ以上のことは語らなかった。
だが、代々の帳面を並べて見比べるうちに、私はその余白の位置に、ある種の規則性があることに気付いた。多くの場合、余白は帳面の三分の二を過ぎたあたり、村の顔役や本家筋の名が続いたすぐ後に現れる。しかも、その幅は決して一定ではなく、狭いもので半行、広いもので三行にも及んだ。
私は思い立ち、余白の幅を年ごとに数値化し、村に残る過去帳と照らし合わせてみた。すると、ある年の葬儀に現れた余白の幅と、その前後の時期に村で起きた、表向きには「事故死」「行方知れず」として片付けられてきた出来事の数とが、奇妙なほど符合することに気付いた。
念のため、村役場に残る古い戸籍の写しにも目を通した。すると、ある一定の年代にだけ、不自然に転出届が集中している一族があることに気付いた。転出先の記載は、いずれも「詳細不明」「遠縁を頼る」といった曖昧なものばかりで、その後の消息を追える者は誰もいなかった。転出、と届け出ながら、実際には村のどこかで、静かに命を終えていたのではないか――そんな疑いが、私の中で拭えなくなっていった。
村には、正式な葬儀を出されなかった死者が、幾人かいるという噂を、私も幼い頃から聞いたことがあった。掟に背いた者、心中を図った者、村の秩序を乱したとされた者――そうした死は、共同体の名の下に、なかったことにされてきた。だが、香典帳の余白は、その「なかったこと」を、誰に指図されるでもなく、代々の記帳者たちが無意識のうちに、同じ場所に、同じだけの重みを持って刻み続けてきたのではないか。
私は、村で唯一、古い記憶を持つ老女――かつて産婆をしていたという古老――のもとを訪ねた。老女は炉端に座り、私の問いに、初めはぽつりぽつりとしか答えなかった。だが香典帳の余白の話をすると、その目に、それまでにない色が浮かんだ。
「ああ、あの余白かね。わしも若い時分、聞いたことがある。あれはな、書けなかった名前の場所じゃ」
「書けなかった、とは」
「昔、この村に、想い合った男と女がおった。だが女の家は本家筋、男は水呑みの家柄でな、決して添い遂げることは許されなんだ。二人は、ある雪の晩、連れ立って村を出ようとした。が、途中の川で足を滑らせたか、それとも自ら望んでか、二人して冷たい流れに沈んでな。村の衆は、これを「不慮の事故」ということにした。そうせねば、本家の面目が立たなんだからじゃ。だから、女の方の名は、香典帳にも過去帳にも、一切残されておらん。ただ、その日から、帳面には妙な余白が空くようになったと、わしの祖母が言うておった」
「女の名は、わかりますか」
老女はしばらく黙り、それから、掠れた声で、一つの名を口にした。長い間、誰の口にも上ることのなかった名だった。
「その名を、誰かに話したことは」
「ない。話せば、本家の恥を暴くことになる。わしもこの歳になるまで、胸の内にしまっておいた。だが、お前さんが香典帳のことを尋ねてきたのは、何かの巡り合わせかもしれん。わしが死ねば、この名を知る者は、もう誰もおらんようになる」
老女はそう言うと、皺だらけの手で、自分の膝をそっと撫でた。まるで、長年抱えてきた重荷を、ようやく誰かに手渡せることに、安堵しているようだった。
「その娘は、どんな人だったのですか」
「気立ての良い娘じゃったと聞く。歌がうまく、村の祭りでは、いつも真っ先に音頭を取っておったそうな。それが、あんな終わり方をするとはな」
老女の目に、うっすらと涙の膜が浮かんだ。私はそれ以上、何も尋ねることができなかった。
私は家に帰り、代々の帳面の、最も広い余白がある頁を開いた。この余白こそが、老女の語った女のためのものだろう、という確信があった。硯に墨を磨り、筆を執る。手が震えた。これまで、香典帳に書き込むのは、生きて弔問に訪れた者の名だけだった。すでに死して久しい、しかも正式には弔われたことのない者の名を書き込むということが、はたして許されるのか、私にはわからなかった。
だが、老女の言葉が耳の底に残っていた。「あの余白はな、書けなかった名前の場所じゃ」――ならば、その場所に、今度こそ名を記すことこそが、この帳面を継ぐということではないか。
私は、震える手を静め、余白の中央に、その名を書きつけた。他の記帳と同じように、日付と、金額の代わりに「香典なし」とだけ添えて。
書き終えた瞬間、何か不穏なことが起こるのではないか、と身構えていた。だが、蔵は静かなままだった。ただ、長年その場所に凝っていたはずの、重く湿った空気のようなものが、ふっと緩んだ気がした。恐怖ではなく、安堵に近い感覚だった。まるで、長い間立ちっぱなしだった誰かが、ようやく腰を下ろすことを許されたような。
その夜、私は久しぶりに、夢を見ずに眠った。
翌朝、帳面を開き直すと、私が書き入れた名の頁には、もう新たな余白は生まれていなかった。だが、その次の頁、まだ何も書かれていない真新しい行に、ごく僅かな――半行にも満たない、微かな空白が、すでに空いているのに気付いた。
それが何のための余白なのか、私にはまだわからない。あるいは、村にはまだ、弔われぬまま眠っている誰かがいるのかもしれない。あるいは、いつか私自身が、誰かの帳面に、書かれざる余白として残ることになるのかもしれない。
香典帳を継ぐということは、死者の記録を守ることではなかった。まだ名を持たぬ余白に、いつか誰かが気付き、そこに名を与える日を待ち続けること――それこそが、この帳面の、本当の役目だったのだ。
私は帳面を閉じ、蔵を出た。村の空は、いつもと変わらず晴れていた。裏山では、季節外れの鳥が一羽、短く鳴いて、すぐに静かになった。それだけのことだったが、私にはその静けさが、これまでのどんな沈黙よりも、穏やかなものに感じられた。
完
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