嫁いでこの町に来て三月目、私は交換局に勤め始めた。夫の家が口を利いてくれたおかげだった。都会育ちの私には、手動式の交換台も、この町の言葉も、何もかもが不慣れだった。
交換局は、町役場の隣に建つ、古びた二階建ての木造建物だった。一階には交換台が並び、壁一面に配線盤が張り巡らされている。差し込み口の数だけ、この町に暮らす人々の声が、そこに集まってくるのだと思うと、最初は妙な緊張を覚えたものだった。窓の外には、電信柱から伸びる幾筋もの電線が、空を裂くように交差していた。
「もしもし、こちら交換」。この一言を、私は一日に何百回と繰り返した。プラグを差し替え、回線をつなぐ。声と声との間に立つ、それが私の仕事だった。
局には、私の他に四人の交換手がいたが、皆この町で生まれ育った者ばかりだった。私だけが、どこか輪の外にいるような感覚を、いつも拭えずにいた。先輩たちは親切だったが、時折、私には理解できない目配せを交わすことがあった。特に、夜勤の申し送りの際に。
「交信録の、応答不可の欄はね」古参の交換手が、ある日、ぽつりと言った。「気にしなくていいから」
交信録には、日々の接続記録が几帳面に記されている。誰から誰へ、何時何分、通話時間――だが時折、その記録の中に「応答不可」とだけ書かれた行があった。発信元の欄には、局内でも使われていない、古い番号が記されていることもあった。
「気にしなくていい、というのは」
「昔からのことだから。深く考えない方がいい」
それ以上は、誰も語ろうとしなかった。
私は密かに、古い交信録を遡ってみた。「応答不可」の記録は、十年近く前から、数ヶ月に一度の頻度で現れていた。発信元の番号を調べると、いずれも、かつてこの局に勤めていた交換手たちの自宅番号だった。名簿と照らし合わせると、皆、結婚や事情でこの職を辞め、そのままこの町を去った者たちだった。
辞めた者が、なぜ、局に電話をかけてくるのか。それも、応答できない形で。
ある晩、私は当直に当たった。深夜、交換台の一つのランプが、ふいに灯った。番号を見ると、交信録で何度も目にした、あの「応答不可」の番号だった。
私は、先輩たちの忠告を思い出した。応じるべきではない、と。だが、深夜の静けさの中、ランプは点滅し続けていた。まるで、誰かが根気強く、こちらの応答を待っているかのように。
私はプラグを差し込んだ。
「もしもし、こちら交換」
最初は雑音しか聞こえなかった。だが、やがて、掠れた女の声が、遠くから届くように聞こえてきた。
「――もしもし。つないでもらえますか」
「どちらへおつなぎしましょうか」
「わかりません。わからないのです。ただ、誰かに、伝えたいことがあって」
そう言った直後、声は不意に、幾つもの声に重なり合った。若い女の声の下から、老いた声、幼い声、男の低い声が、次々と滲み出してくる。「伝えて」「まだ言えていない」「もう遅い」「間に合わない」――声たちは互いに譲り合うでもなく、ただ折り重なって、一つの束のように震えていた。
私は思わず、受話器を強く握りしめた。
「――どなたか、お一人、お話しいただけますか」
そう言うと、声はまた一つに戻った。先ほどと同じ、掠れた女の声だった。
「あなたは、以前、この局にお勤めでしたか」
「そう、だったと思います。もう、随分前のことのように思えますが」
「何を伝えたいのですか」
「それが、わからないのです。伝えたい、ということだけは覚えているのに、何を、誰に伝えたかったのか、思い出せません。ここにいると、時々、他の人の言葉と、自分の言葉の区別が、つかなくなるのです」
声は、そう言って途切れた。回線は、そのまま静かになった。
受話器を置いた後も、私はしばらく交換台の前を離れられなかった。手のひらに、まだ微かな痺れのようなものが残っていた。
翌朝、私は思い切って、古参の交換手にそのことを話した。彼女は驚くでもなく、ただ静かにうなずいた。
「あなたにも、聞こえたのね」
「あれは、いったい」
「この局はね」彼女は、配線盤を見上げながら言った。「言えなかった言葉を、飲み込む場所なのよ。伝えたくて、伝えられなかった言葉が、行き場を失って、ここに溜まっていく。交換手は、その言葉を、毎晩、耳で受け止め続けているの」
「なぜ、声が幾つも重なるのですか」
「言葉が言葉のまま置き去りにされると、誰の言葉だったかも、そのうちわからなくなるものよ。溜まって、混ざって、一つの束になる。それを、時折、誰かが取りに来るの。あなたが聞いたのは、その中の一人だったのでしょう」
彼女の声には、恐れというより、諦めに似た響きがあった。
それから、私は時折、あのランプが灯るのを待つようになった。応じてはならないとわかっていながら、深夜、一人で当直するたび、心のどこかで、あの声をもう一度聞きたいと思っている自分がいた。
声の主が誰であったのか、私はついに突き止められなかった。名簿にある「辞めた交換手」の誰と符合するのか、記録を見比べても、決定的な証拠は見つからなかった。ただ、彼女らは皆、この町を出ていく際、何かを言い残せなかったのではないか、という思いだけが、私の中に残った。
結婚、あるいは事情による退職。その慌ただしさの中で、誰にともなく伝えたかった一言――それを言えないまま、この町を、この回線を、後にした者たちがいる。そして、その言葉だけが、宛先を持たぬまま、いつまでも局の回線を彷徨っているのではないか。
数年が経ち、夫の転勤で、私はこの町を去ることになった。荷物をまとめる間も、頭のどこかで、あの声のことを考えていた。伝えたいことがあって、と彼女は言った。だが結局、何を、誰に伝えたかったのか、最後までわからないままだった。
最後の出勤日、私は交信録の最後の頁に、これまでの日々の礼を、短く書き記した。それ以上のことは、特に書き残さなかった。窓の外では、電信柱の影が、夕暮れの中で長く伸びていた。
だが、私が去って何年か経ったある夜、新しく着任した若い交換手が、当直中、一つのランプが灯るのに気づいたという。番号を確かめると、それは局内でも使われていない、古い番号だった。彼女は交信録を遡り、その番号の記録を探した。
そこには、こう記されていた。
「応答不可」――発信元、旧局員某(婚姻により退職、転居先不明)。
名の欄には、かつて私がここで名乗っていた名が、几帳面な筆致で記されていた。
新任の交換手は、先輩に尋ねた。「これは、誰の記録ですか」
先輩は、少し困ったような顔をして、こう答えたという。
「昔からのことだから。深く考えない方がいい」
夜の交換局には、それからも変わらず、幾筋もの声が行き交う。誰かが誰かに用件を告げ、誰かが誰かの無事を確かめる。その合間に、ごく稀に、宛先のわからないランプが、静かに灯ることがある。それに気付く者は、これから先も、また新しく現れるのだろう。そして、その者もまた、いつか同じ言葉を、次の誰かに手渡すことになるのかもしれない。
完
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