小学校の卒業アルバムには、一年ごとの学級写真が並んでいる。
入学した年の写真から、卒業する年の写真まで。同じ校庭、同じ桜の木の下で、毎年、同じように撮られてきた写真だ。
わたしの通っていた学校は、町はずれの、古い木造校舎だった。校庭の隅には大きな桜の木があって、毎年、学級写真は、必ずその木の下で撮られることになっていた。桜が咲く季節ではなく、二学期の初め、木がただの緑色をしている頃に撮るのが、なぜか昔からの決まりだった。
わたしがそれに気づいたのは、六年生になった春だった。
三年生の写真を見ていて、隅の方に、うっすらとした影があることに気づいた。人の形をしているようで、していないような、ぼんやりとした影だった。誰かが動いてしまって、写真がぶれたのかとも思った。でも、四年生の写真にも、同じような影があった。五年生の写真にも。
影の位置は、毎年、少しずつ違っていた。三年生の時は右端、四年生の時は真ん中の少し後ろ、五年生の時は前列の隅。まるで、その影が、毎年、少しずつ場所を移動しているようだった。
わたしは、担任の先生に聞いてみた。
「この写真の、この影は、なんですか」
先生は、写真をちらっと見て、それから、少しだけ困ったような顔をした。
「さあ、なんだろうね。古いカメラだから、光の加減で、そう見えることもあるよ」
それだけだった。先生は、それ以上何も言わなかった。わたしも、それ以上は聞かなかった。
夏休み、わたしは古いアルバムをもっと遡って見てみた。学校の資料室に、何十年分もの卒業アルバムが並んでいた。埃っぽい棚から、一冊ずつ引っ張り出しては、机の上に広げていった。誰もいない資料室は、外の蝉の声だけが、やけに大きく響いていた。
どのアルバムにも、同じような影があった。位置は、年によって違う。でも、必ず、どこかに一つだけ、あった。古い年のものほど、影は薄く、判別しづらかった。だが、目を凝らせば、確かにそこにあるとわかった。まるで、写真という写真すべてに、最初から織り込まれていたかのように。
わたしは、影の位置を、年ごとにノートに書き写してみた。右端、真ん中、前列、後列――順番に並べても、はっきりした規則は見つからなかった。ただ、なんとなく、影は、少しずつ、写真の中心に近づいているような気もした。
二学期が始まって、学級写真を撮る日が来た。
カメラを持ってきたのは、いつもの写真屋のおじさんだった。もう何十年も、この学校の写真を撮り続けているという、白髪の、背の低いおじさんだった。おじさんは、三脚を立て、黒い布をかぶって、カメラを覗き込んだ。
「はい、動かないで」
シャッターの音がした。
できあがった写真を見た時、わたしは、影が、今年は、ちょうどわたしの立っている場所のすぐ横にあることに気づいた。去年よりも、ずっと近い。
わたしは、少し怖くなった。でも、誰にも言わなかった。先生に聞いても、きっと、同じ答えが返ってくるだけだとわかっていたから。
三学期のある日、わたしは、写真屋のおじさんが、誰もいない校庭で、一人でカメラを構えているのを見た。誰も写っていないのに、おじさんは、シャッターを切っていた。
「何を撮っているのですか」
おじさんは、振り返って、少し笑った。
「毎年、撮っておくのさ。誰も気づかないけどね」
「何をですか」
「さあ、なんだろうね」
先生と、同じ答えだった。わたしは、それ以上聞くのをやめた。おじさんの顔は、笑っていたけれど、どこか疲れているようにも見えた。長い間、同じことを、誰にも気づかれないまま、繰り返してきた人の顔だと、わたしは思った。
卒業式の日、最後の学級写真を撮った。わたしは、いつもの場所に立った。写真ができあがるまでには、少し時間がかかった。
できあがった写真を、わたしは今でも持っている。影は、今年もどこかにある。ただ、今年の影は、これまでのどの年よりも、わたしの立っていた場所に近かった。
あれから、もう何年も経った。わたしは今、あの写真屋のおじさんと同じくらいの歳になった。
時々、あの影のことを思い出す。あれが何だったのか、わたしは今でも知らない。ただ、一つだけ、確かなことがある。
わたしが子供の頃に見たあの影は、毎年、少しずつ、誰かに近づいていた。そして、今、もし誰かが、あの頃の学級写真をもう一度並べて見るとしたら――その影は、いったい、今、誰に一番近づいているのだろう。
完
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