なんでもない男

ハムスターに水を(第4話)

高橋文樹

小説

16,565文字

プロサッカー選手を目指して塾をやめた教え子のことは、半ば失望を抱きながら眺める「ぼく」。しかし、家に帰った彼を待っていたのでは、いままでよりもずっと狂った寛美の姿だった。

忘れることの恐ろしさ

会社員 匿名希望

(栃木県今市市 27歳)

ニューヨークを襲った沈鬱なテロから一ヶ月がたち、テレビの前にいた我々を襲った悲しみは、少しでも癒されたように思う。しかし、癒されることは必ずしも人を幸せにしない。とりわけ、それが人類全体に関わるようなとき。

我々をただただ呆然とさせた同時多発テロの実行犯たちは、アメリカに空爆をけしかけられるアフガニスタン人ではなかった。それはエジプト人であり、サウジアラビア人であり、イエメン人であった。彼らはいったい何者だったかと問われれば、絶望した者達であると言うしかない。

アラブ諸国の失業問題はかなり深刻だと聞く。とりわけ若年失業率は日本の比ではなく、四十パーセントに達するという。がんばれば偉くなれると青春時代を勉学に費やし、いざ就労年齢になって知るのは、コネがなければ駄目だという残酷な現実。この絶望は根深い。

そしてまた、彼らが思う偉さとはなんだろうか。それは高い車に乗ることであり、高性能の家電を揃えることであり、瀟洒な邸宅に住むことであり、高級リゾートへ旅行することであり、一流企業に勤めることであり、つまり、資本主義的な勝利を収めることである。それは他でもない、西洋と同じルールのレースに参加するということだ。

そこでの敗北感を拭い去るために、資本主義に背を向けて伝統的な生活に回帰すればすむというわけではない。彼らは自分の身体に染みついた西洋的なものを徹底的に拭い去らねばならない。そのためには自分の身体を破壊することも恐れてはならないのだ。

こうした問題を後進国のアラブ社会にだけ見ればよいのだろうか。いや、対岸の火事ではない。日本でも近年の雇用の悪化、とくに大きなメディアではほとんど語られることのない若年失業率の高まりは深刻化している。

アラブ社会に見られる現象は、それより小さな規模で日本にも起きているのではないか。和ブーム、ネットでの韓国叩き、フリーターの増加。そう遠くない時期に、日本からテロリストが出ることもありうる。

そもそも、現代社会はこのような危機を前提に発展してきた。我々は少しでも安く、少しでもいいものを求める。当然、生産者側は少しでも製造コストを削る。雇用は減る。貧しい人間が増え、より安いものが求められる。いったい、誰が得をするのか。ごく一部の金持ちだけではないのか。

いつかこの世界で金持ちが一人だけになれば、彼が人格的に優れているだけで、世界は救われるだろう。しかし、そうはならない。金持ちはごく一部だが、とても多い。彼らは自分の行動が世界に影響を与えているなどとは思わないだろうし、改めるよう言われれば、不公平だとさえ思うだろう。誰も悪くない。しかし、誰もが悪い。これが現代の抱える困難である。

私は先日、ある知人に聞いた。二十一世紀、大多数を占める貧乏人はその種の絶望を抱えて生きねばならないだろう。それは苦しく、辛い人生である。少しでもその苦しみを和らげねばならない。その方法とは、多重人格になること、禅を学ぶこと、そして身体を捨て去ることだそうである。

 

 

ぼくはそう書いている。寛美と姫岡さんの対話をそっくりそのまままとめ、eメールで一般紙四社に送った。どこも採用はしてくれなかったが、ぼくの昂揚がそれで冷めるということもなかった。

H君と会ってどうするのか、それは決まっていた。「最悪」を見せるのだ。彼に見せるべき「最悪」とは、他でもない、ミスターの彼氏でもある、二十六歳のJリーガー志望だった。もしかしたら、本人のせいではなく不運な巡り合わせから不遇に甘んじているのかもしれないけれど、独学でサッカーを学ぶなら、単身ブラジルに渡るとか、もっと思い切った方法がある。栃木でコツコツやるなんて、かなりテンパった奴であることは確かだった。希望の予感が背中を縦に貫いていた。ぼくはすぐさまミスターの携帯に電話をかけた。

「あれ、先生? 久しぶりじゃん。どしたの?」

「なあ、前言ってた彼氏とまだ付き合ってる?」

ミスターは答えなかった。

「あ、もしかして別れちゃった?」

彼女は、うん、と答えた。しかし、その声は意外に明るくて、子供らしくあっけらかんとしていた。

「まあ、遠距離だったしね。たまにしか会えなかったし。それに、なんか私がいると、サッカーに身が入らないんだって」

「え、そんなにマジでやってるのか」

「うん。今年の十二月になんだっけな、トライアル?」

「トライアウトじゃないのか? 合同の入団テストみたいなやつだろ」

「そうそれ。受けんだって」

「そうか。見込みは?」

「わかんねえけど、練習はグラウンドが空いた時を狙ってちゃんとやってたよ。普段は中学生が部活で使ってるから。ストーカーみたいに」

「じゃあ、その彼に会いたかったら、ずっとグラウンドを見張ってないと駄目なのか?」

「そうだよ。あっ、でも、日曜の午後四時過ぎたら、絶対に旭中のグラウンドが空くって言ってたかな」

「そっか、ありがとう。そういえば、医者になるうんぬんの話は、もういいんだな」

「うん、自分の人生だし、もうちょっと考えるよ」

「そうしな」

「うん。ありがと。じゃあね、先生」

ぼくは言い知れぬ思いを抱えたまま電話を切った。ミスターは途切れた電話の向こうで、新しい恋を見つけることだろう。

次の土曜日、ぼくはH君に電話をかけ、宇都宮市内にある旭中のグラウンドへ行く約束をした。彼は快諾した。電話を切って寛美を誘ったが、卒論の要旨を作成しなければならないからと苛立たしげに断られてしまった。

翌日、ぼくは背中に〈MARADONA〉と書かれたアルゼンチン代表のゲームシャツを着て、約束の場所へミニ・クーパーを走らせた。てっきりH君も同じアルゼンチンのシャツを着てくるだろうと思ったのだが、彼が着てきたのはASローマのゲームシャツだった。背中には〈NAKATA〉と書かれていて、ぼくを少なからずがっかりさせた。

ちょうど四時に中学校のグラウンドに着くと、ミスターの元彼氏らしき人物がすでに練習を始めていた。ゴールから二十メートルぐらいの位置でフリーキックを蹴っている。

「あの人がプロ目指してる人?」

H君はグラウンドに巡らされたフェンスの間から指を突き出して尋ねた。

「そうだよ。今年のトライアウトを受けて、Jリーガーになることを目指してるんだって」

「はあ、先生、凄いシュート打ってるよ」

確かに、彼の言う通り、ミスターの元彼氏が打つシュートはかなりの威力があった。それに加え、ほとんどゴールの枠を外すことがない。外れたとしても、ゴールポストに当たったり、数十センチ外側だったりで、見当違いのシュートは打たなかった。

「ちょっと行ってみよう」

ぼくはH君をうながし、彼に近づいて行った。だが、彼がぼく達を気にかけるということはなかった。だだっ広いグラウンドの中で五メートルまで近づくものがあったら、普通は気にかける。おそらく、かなり集中しているのだろう。近くで見ると、背はそれほど小さくなかった。鍛え上げた太腿の幅が凄いので、バランスが悪くて小さく見えるのだ。ぼくより少し高いので、一七五センチぐらいはある。黒いウィンドブレーカーを着ているのでわかりづらいが、かなりガタイはよさそうだった。外見も坊主頭に不精ヒゲで、下ばかり向いていることもあり、かなり求道者じみていた。

ミスターの元彼氏はシュートを五本打ち終えるたびに、ボールを取りに走った。たぶん、以前はミスターが玉拾いをしていたのだろう。どうせだったら、別れなかった方が便利だったのではないか。ミスターをフった彼のストイシズムがよくわからなかった。

と、突然、彼の打つシュートが乱れ始めた。酷いものになると、ころころと地面を転がった。

「緊張してんのかな」

H君がぼくに耳打ちをした。すると、その言葉が聞こえたのか、元彼氏がこちらを振り向いた。

「なあ、あんた達、何してんのけ? 見学?」

「まあ、そんなところです」

ぼくは丁重に答えた。簡単な自己紹介をして、彼の名前が早瀬ということを知った。

「もしかして暇?」

「まあ、暇と言えば暇です」

「そう、じゃあ、壁になってくれねっけ?」

「あとでフリーキック教えてくれんなら、やるよ」と、H君が答えた。

「ああ、いいぜ。教えてやんべ。でも、そうだな、坊主はちょっと小さすぎっから、ゴールの裏さ行って、玉拾いやってくれっけ」

「ハイ!」

「あんたは? 壁になってくれっけ?」

ぼくは半ばH君の勢いに引きずられるようにして、頷いた。そして、早瀬君が線を引いた地点に立つと、両手で股間を隠した。

「俺が蹴る瞬間になったら、飛んだり前に走ったり、適当に動いてくれ」

ほとんど知らない人間に命令できる彼は、なかなかの度胸の持ち主である。H君にはその部活的雰囲気が気に入ったらしく、「ハイ!」と元気よく返事をしていた。

頭の上を何本かシュートが越していってからはじめてわかったのだが、早瀬君がさきほど急に変なシュートを打ち始めたのは、カーブをかけようとしているからだった。十本ほど打つと慣れてきたらしく、三本に二本ぐらいはコーナーを突いた良いシュートが飛んだ。思ったよりも技術はあるようだった。伊達にトライアウトを受けるつもりではないらしい。

「なあ、あんた達、親子?」

H君がボールを一つ一つ蹴り返している間、早瀬君が尋ねてきた。

「いや、違います。塾の教師と生徒ですよ。中学生の息子がいるように見えますか?」

「へえ、仲いいんだね、塾なのに。ここさ練習しに来たんけ?」

「まあ、そんなところです」

ぼくは早瀬君の矢継ぎ早な質問に焦った。あまり突っ込まれると、早瀬君に会いに来たそもそもの意図がバレてしまうかもしれない。だが、幸いなことに、それ以上会話が続く前にボールが揃った。早瀬君はまた黙々とシュート練習に励んだ。

やがて、五十本を打ち終えると、早瀬君は壁にならなくていいと言った。練習メニューを変えるらしい。

「そのかわり、キーパーやってくれっけ? まっすぐ打つだけだからさ。取れそうだったら取ってもいいよ」

親しげに「~け?」を連発されては断るわけにもいかず、ぼくはゴールマウスに立った。H君はというと、ボールを一つ借りて、ゴールポストの脇でリフティングの練習を始めていた。早瀬君が見せるであろう失態を、きちんと見てもらわないと、わざわざここに来た意味がない。

とこう、やきもきしているあいだに、早瀬君はスタンバイしていた。彼はぼくから見て、ちょうどボールの向こう側、真正面にいた。普通、フリーキックを蹴る時というのは、インサイドキックをするため、ボールの横に立つ。こっちから見て、右利きなら右側、左利きなら左側だ。だが、彼はボールに対して正対していた。ぼくがその理由について考えていると、答えも出す間もなく、早瀬君が小走りに動き出した。タイミングを計りづらい走り方、ちょうど、イタリア代表のファンタジスタ、アレッサンドロ・デル・ピエロにも似たチョコチョコと距離を刻む走り方だ。

浮き上がったボールは、まっすぐにぼくの方へ向かってきた。軽くジャンプすれば、簡単に処理できそうなボールだ。一つ一つの縫い目まではっきりと見えている。野球選手なんかは調子のいい日はボールの縫い目が見えると言う。ぼくみたいに運動をしない人間でも、日によってはそういった境地に達することがあるのだ、などと考えながら、両膝を軽く曲げて飛ぶ準備をした。

ところが、ボールはぼくが思ったよりも早く頭の上をかすめていった。頭と上に伸ばした両手の間だ。まさか、と振り向くと、背後ではゴールネットにじゃれつくようにしてボールが揺れていた。それから、老化が始まって運動能力が堕ちているのかという一抹の不安をあざ笑うように、ボールは地面を跳ねた。

「次行くべー! こっち向いてくれー!」

早瀬君はそう叫ぶと、再びボールに対してまっすぐ立った。もう一度、シュートが飛んでくる。また取れそうなボールだ。縫い目がはっきりと見えている。

そう、縫い目だ。決定的な事実に気付いた。有能なプロ野球選手が見る縫い目と、ぼくが見た縫い目は、それぞれ違う理由で見えている。前者は動体視力が優れているから、後者はだ。無回転のボールは、空気抵抗をモロに受けるため、不規則に揺れて落ちる。事実、早瀬君の蹴ったボールはまたしてもぼくの頭の上をかすめ、ゴールネットに突き刺さった。

彼はその後も二本蹴り、その内の一本は失敗してゴロになってしまったが、もう一本はやはり無回転のシュートになった。

「すごい球蹴るね」

ぼくは早瀬君に向かってそう言った。彼は別に照れる様子もなく、再びシュート体勢に入った。

まったく、驚くべきことだった。美しい弧を描く高速シュート――ベッカムや中村俊輔のようなフリーキック――を蹴る選手なら日本にもたくさんいるが、無回転のシュートを蹴れる選手なんて、世界的に見てもそうそういない。思い当たるとしたら、ブラジル代表のサイドバック、ロベルト・カルロスぐらいだろうか。それだって、いつも蹴るわけじゃない。アウトサイドでシュート回転をかけたり、インサイドでカーブ回転をかけたりと、使い分けている。確率的にそれほど自信があるわけじゃないんだろう。テレビで見た限りでは、筑波大のサッカー部員が実験したところ、五十八本に一本だった。コースや威力はともかく、早瀬君が無回転のボールを蹴る確率はおよそ八割ぐらいだった。これはかなり優秀な成績である。

五十本の練習を終えると、早瀬君はぼくに近づいて礼を言い、ゴールポストの脇に置いてあったスポーツドリンクを飲んだ。ぼくはそこへ近づいていって、興奮剥き出しで話しかけた。

「すごいシュートだね。ロベカルみたいだったよ」

「俺はあんなに威力のあるシュートは打でねえよ。それに、俺、右利きだ」

「でも凄いよ。あれは取れない」

早瀬君はもごもごとなにかを呟いたが、よく聞こえなかった。誉められるのは苦手なようだ。ぼくが微笑みを浮かべると、彼はうつ向いて顔をそらした。やや内斜視気味だから、そうする癖ができてしまったのかもしれない。

「目標とする選手は?」

「尊敬する選手? 誰だろ、わがんねえよ」

「適当でいいから挙げてみてくれないか」

「適当に……わがんねえ。ほんとにいねえよ」

「別に現役の選手じゃなくてもいいよ。ペレとか、ジーコとか」

「別に見でねえしな。今のサッカーとレベル違うし」

「じゃあ、ジダンとか? まさに現代のファンタジスタだよ。ワールドカップもユーロ2000も取ったし、今年のチャンピオンズリーグも取ると思うよ」

「確かにまあ、上手いと思うけど……尊敬してるかって言われると、別にな」

「じゃあ、これは?」

ぼくはそう言って振り向き、背番号一〇番を見せた。

「はあ、マラドーナけ」

早瀬君の反応はかんばしくなかった。ぼくはなぜか熱くなり、ディエゴがいかに素晴らしいか、熱弁を振るってしまった。早瀬君の表情が怯えを不機嫌で割ったような感じになってやっと、ぼくは自分が興奮しすぎていたことに気付いた。これじゃ変態だ。急に恥ずかしくなって視線を逸らすと、そこにはいつの間にかH君がいた。彼の顔は熱気に輝いている。本末転倒の尊敬が早瀬君に向けられていた。

「ねえ、ぼくにも今のシュート、教えてくれっけ?」と、止める間もなくH君は言った。

「ああ、でもちょっと待っててくんねえ? 俺、せっかく相手がでぎたから、ドリブルの練習もしてえんだよね。それ終わったら、教えてやんべよ」

早瀬君はそう言うと、スパイクの踵を引きずって、半径三メートルぐらいの円を地面に書いた。

「この中で俺がボールをキープすっから、二人で追っかけてくれ」

「ハイ!」

H君は弟子としてもっとも正しい発音でそう言うと、円の中に入った。ぼくはH君が目指すヒデへの道をますます後押ししまう気がしたが、しょうがないので加わることにした。

ドリブル練習を始めてから十分もたつと、先ほどぼくが抱えていた不安が杞憂に過ぎないことがわかった。フリーキックの実力に比べ、早瀬君のドリブル能力は圧倒的に劣っていた。これではそこら辺の高校生にすら勝てないだろう。一人で黙々と練習を重ねたせいなのだろうが、どっちみちJリーガーになれる見込みはなかった。それは素人目に判断しても間違いない。

ぼくとH君は、たやすくボールを奪うことができた。第一、早瀬君はフェイントに間をかけすぎだった。フェイントだということがバレバレだ。もうちょっとテンポよくやらなくてはならない。それに、相手との距離の取り方も遠すぎた。取れるか取れないか、ギリギリの所でプレーしないと、こっちも動く気になれない。右へ右へと逃げる癖は、ほとんど致命的だった。左足をまったく使わないのも問題だ。要するに、百点満点中で三十点ぐらいだった。ぼくが疲れて抜け出すと、H君と早瀬君の一対一になったが、それでも早瀬君は単純なコントロールミスからボールをカットされることがあった。ボールを取られた早瀬君のクソッという呟きを嘲笑うように、カットされたボールは転々と遠くへ転がっていった。

「なあ、H君、もう帰ろう」と、ぼくは言った。

「ええ、でも先生、ぼく、この後にさっきのシュート教えて貰うんだけど……」

「そうだよ、アンタ、先帰ってなよ」

ぼくはそう言われたが、しばらくの間、そばで練習風景を見ることにした。汗にまみれた頬を秋風がくすぐる。そういった感受性は、ぼくの余裕を表していた。H君はサッカーの奥深さを知り、勉強を少しはまじめに考えるようになる。確信は人に自然を楽しむ心を与える。

早瀬君は最初に講義形式で練習を進めた。まず、H君に普通のインフロントキックを蹴らせる。すると、ボールはくるくると回りながら、右斜め前方に飛んでいく。次に、H君が伸ばした足の甲にボールを乗せ、それをポーンと前方に放り投げるように蹴らせる。すると、ボールはほとんど回転せずに、真っすぐ上がる。早瀬君はそのボールを指指しながら、「無回転だろ?」と言う。

「さっきのインフロントキックに、今やったみたいなボールを足に乗せるような感覚をチョットだけ加えるんだ」

「チョットってどんぐらい?」

「チョットっつったらチョットだべ。それを感じるための練習だべ。俺なんか、四年もかかったんだぞ」

「えー、四年も?」

「そうだよ。やんなっちったか?」

「ううん、大事。がんばる」

「よし、いい根性だ」

彼らはその練習を何度も繰り返した。一向に止める気配はなく、ただ黙々とやっている。H君が疲れて足を止めると、早瀬君は、止めんな、と冷淡に言い放った。H君はそれに反抗する素振りもなく、素直に再開した。すでに夕陽が彼らの頬を橙色に染め始めていた。H君がボールを蹴り上げるたび、楕円の影が地面を這い回った。

やがて胸の奥が震え出した。汗をかいたままじっとしていたからだろう。冷えすぎた身体を起こし、無言でグラウンドを後にした。歩き始めてもしばらくの間は震えが止まらなかった。寒さだけではなく、怯えのようなものがあったのかもしれない。

駅前の餃子館で餃子を買い、ミニ・クーパーを今市に走らせるあいだ、ぼくは早瀬君のことを考えつづけていた。いったい、彼はなんなのだろう。「目標とする選手は?」という問いに対する答え「別にいねえ」は不遜でさえあった。その一方で、練習方法は愚直でストイックだった。あのアンバランスは捉えようがない。もしもぼくの生徒であんな人種がいたら、どう対応したらいいのだろう。そもそも、彼のような人間をなんと呼んだらいいのだろう。あの得体の知れなさは人を戸惑わせる。

家に着くと、寛美はテレビを見ていた。プロ野球のナイターである。勝率は一位なのに、なぜかゲーム差で二位に甘んじているヤクルトと、定位置の最下位にどっしりと腰を据えている阪神とのゲームだった。ちょうど十一回裏阪神の攻撃が始まるところで、マウンドではヤクルト抑えのエース高津が投球練習をしていた。二対二の勝負所だ。しかし、ぼくが興味を持って見ていたのは、高津の投げるスライダーの球筋ではなく、寛美がブラウン管に投げかける視線だった。慈しむようにナイターを観戦する寛美は、得体の知れない生命力に満ち溢れていた。

「蛇は出た?」

冗談混じりにそう尋ねると、寛美はテレビを食い入るように見つめながら、出るわけないでしょ、と返した。

たとえその理由がナイター観戦だろうと、元気な寛美は綺麗だった。ぼくは身体中に満ち溢れる幸福の予感を持て余しながら室内をうろつきまわったあげく、ナイターに夢中になっている寛美からそっと離れ、ハムスターに餌をやることにした。向日葵の種をざらざらと手に取り、食いきれないほどの量を餌皿に入れてやった。

ハムスターは寝ているのか、まったく動かなかった。それが悪いことと知りながら、ハムスターを突いた。この喜びを誰かと共有したかった。ところが、ハムスターは動かない。不信に思って手にとって見ると、固まった身体のまま、ぼくの手の平で仰向けになった。少しだけ開いた口から覗く二本の不揃いな前歯が、淡く黄ばんでいるのが印象的だった。

慌ただしくハムスターの飼育教本を探し出し、ページをめくった。もしかしたら、残暑の厳しい時期にもかかわらず、間違えて冬眠してしまったのかもしれないと思ったのだ。しかし、ハムスターにはそれらしい兆候は現れていなかった。焦燥に駆られて片っ端から読んでいくと、それなりに信憑性のある文が目に止まった。

《ハムスターは鼻血が出ただけで窒息して死んでしまうことがあります。》

すぐさま、握りしめていたハムスターの鼻を見てみた。赤黒い塊が鼻腔から覗いている。悲しみ? そんなものじゃなかった。ただ、その無様な死に方に言い表しようのない絶望を感じただけだった。犬死にだ。ペットショップでカゴとセットで購入されたハムスターは、名前もつけてもらえずに、一年にも満たない短い時を生きた。その生には何の意味もなかった。ただ単に飼われただけだった。大して愛されもしなかった。ぼくの手の平に感じるかすかな重みですら余計に思えるほど、ハムスターが残したものは何もなかった。

「寛美、ハムスターが死んだよ」

ぼくは、相変わらずナイターに見入っていた彼女にハムスターが死んでいることを伝え、彼女が苦しんでいるハムスターに気付かなかったことに対して嫌みったらしいことを言った。彼女は泣き出しそうな顔で、ごめんなさい、と言った。だが、それ以上の喧嘩には発展しなかった。ぼくは寛美を責めたことで自己嫌悪に陥った。せっかく良くなりかけている寛美の調子を崩すことなんて。

しばらく話し合った結果、マンションの入り口近くにあるツツジの植え込みに、ハムスターを埋葬することにした。墓標は作らなかった。ハムスターには名前がなかったし、戒名も思いつかなかったのだ。

土葬を済ませ、二人で手を合わせて拝んでから部屋に戻ると、野球の試合はちょうど終わったところだった。劇的なサヨナラゲームで阪神が勝利を収めたようである。寛美は疲れた仕草でテレビのリモコンを取ると、溜息をつきながら電源を切った。ぼくはその溜息を二通りに解釈した。一つは野球の試合を最後まで見られなかった無念の溜息。もう一つは、ハムスターが死んだ後にヒーローインタビューを聞きたくないという溜息。どちらでも良かった。ぼくはただ、ハムスターの死に対して、言い表しようのない苛立ちを抱えていた。ハムスターが死んだのはこれがはじめてではなかったのに、今回だけはどうしようもない無駄死にに思えた。

 

 

その後、H君からの音沙汰も無いまま、一ヶ月近くが経過した。わざわざ休日を潰したのに無駄骨だった、などとふてくされていると、数珠を纏った筋肉質の手がぼくの肩を叩いた。

「オメーさ、なんでこういう余計なこどすんだ? 俺もうやんなっちった」

教室長はぼくに見慣れた封筒を差し出しながら言った。受け取ってよく見ると、それはぼくがH君に出した手紙だった。

「退会した生徒に接触すんのがどんなことか、わかんべ?」

「いえ、それは変な意味じゃなくて……」

教室長はぼくの言葉を聞く素振りも見せず、この内容、とため息混じりに呟いた。

「頭、狂ってるっぺ。何様のつもりだね。こんな手紙見せられたらな、腹立つに決まってんべ。しかも、サッカーのコーチを紹介したんだってな。そのコーチって、どこの馬の骨だ」

「早瀬と申しまして、まあ、知り合いの知り合い程度ですが……」

「そいつはなにをやってんだ?」

「は?」

「だから、そいつはどこでなにをやってる人間なんだ」

ぼくはなんと答えたらよかっただろう。バイトをしてないからフリーターではないが、純然たる無職とも言い切れない。じゃあJリーガーの卵かといえば、そうなれる可能性はゼロに近いし、そもそもあの練習法はJリーガーになることを念頭においていない人間のやることだった。

「そんな素性の知れねえ人間に、元教え子を引き合わせたのけ?」

「得体の知れないというより、求道者というか、ストイックというか……」

「どっちだっていいんだ!」

教室長は説教する場所を選ばなかった。講師達の机が並び、教室へ向かう生徒達から丸見えの所で罵詈雑言を浴びた。男らしく反抗すべきだったのかもしれないが、ぼくは一つの可能性にすがっていた。

ぼくはちらりと目を逸らした。視線の先には姫岡さんがいて、コピー機の脇にいた。別段、何かをしているわけではなく、手持ち無沙汰にキョロキョロとしていた。その視線がぼくと会うことはなかった。わずかに見えた横顔は、草食動物に似ていた。

「どこ見てんだよ!」

教室長の怒号が響いた。姫岡さんの肩がびくっとすくむのが見えた。

「オメー、自分の立場わがってねえのか! 一人でコソコソコソコソしやがって! わがんねえことがあったら、訊けよ! オメーが全部できるなんて、こっちだって思ってねえべよ! オメーが考えてやったってどうせろぐなことになんねえんだから!」

教室長の唇は細かく震えていた。そして、ぼくは泣き出しそうだった。何かを言おうと思ったが、言葉を発した瞬間に涙がこぼれてしまうのが怖くて、内へ内へと引きこもった。頑として謝らないぼくを見てうんざりしたのだろう、教室長はあからさまに溜息をついた。

「君、今日はもう帰っていいよ。あどの授業は私がやっておくから」

急に優しげな声色を作ると、教室長は机へと戻って言った。ぼくの足は根をはったように動かず、その場にたちつくしていた。そんな様子を見て、教室長は舌を打つ。後ろから、今日のところは早く帰った方がいいよ、ね、というハイエナの声が聞こえた。そんなことはわかっていた。自動車の前に飛び出した猫と同じで、すくんでいただけだった。

そのうち、ハイエナの一人がぼくの鞄を持ってきて脇へ強引にねじ込み、背中を押した。一歩を踏み出すと、自分の意志とは関係なしに足が動き出す。それは徐々に速度を増し、エレベーターの前につく頃には、走り出さんばかりになっていた。そこには三人の女子中学生がいて、どれもぼくの受け持つクラスの生徒だった。

「先生、大事?」

一番背の低い女の子が言った。それに続けて、他の二人も口々に優しい言葉をかけてくれる。怒られちゃったよ、とおどけようと思ったのだが、うまくしゃべれなかった。ただ、頬を無理やり吊り上げて笑顔を作り、逃げるようにエレベーターに乗りこんだ。

いつもより早い時間、夕暮れの日光街道をミニ・クーパーで北上しながら、ぼくはヤバいヤバいと一人ごちた。来年三月の契約更新はなされないだろう。寛美は大丈夫だろうか? ぼくの報せを聞いて、寛美は調子を悪くさせたりしないだろうか。生活することの不安は彼女をきっと押し潰すだろう。たぶん、そのストレスから救われるために必要な修行は上手くいっていない。彼女のインド哲学は、まだ彼女を救わない。

様々な不安が浮かんでは消え、ぼくを半狂乱にさせた。寛美と話し合わねばならないのだが、話し合うことそれ自体が寛美を狂わせるかもしれない。解決しようのない大量の問題をお土産に、家へと到着した。

寛美……寛美、寛美。ぼくは玄関の前で発声練習をした。リストラされるかもしれないことを、なるべく明るい声音で伝えなくてはならない。新しい職探しのための引越の可能性さえ、彼女を怯えさせかねないのだ。ぼくは何度も彼女の名前を呟き、その回数が五十回を超えた頃、真ん中の「ロ」にイントネーションを置くことで、明るい響き――おどけた苦情みたいな響き――になることを発見した。

寛美は居間にいた。練習の成果を見せようと思ったが、彼女は入ってきたぼくに気付くでもなく、何かに夢中になっていた。

「ただいま」

寛美はこちらを振り向くと、手伝って、と眉をひそめた。その悩ましさにぼくはただ命令を待つ顔になった。彼女は、蛇捕まえるの、と憎々しげに呟くと、ぼくに布団叩きを渡した。

「その先の割れた部分で、押さえ込んで」

寛美は、ソファやベッドの下、押入れの中などに菜箸を突っ込み、蛇を追い出そうとしているようだった。なかなか捕まらないし、捕まるはずもなかった。彼女が幻想の中で育てたその獣は、決まってぼくのいないときに現れ、追いかけても追いかけても姿は見えなかった。

「ゴミ拾い用のトングみたいのがあったろ。あれの方が便利じゃない」

「駄目よ。早く動くものをつまむのって難しいんだから。お箸で蝿を捕まえるようなもんでしょ。それより、バッと地面に押さえつけちゃえばいいの。お巡りさんも凶悪犯をつかまえるときはそういうやつを使ってるの」

「布団叩きみたいなやつを?」

「違うわよ、なんだっけな……。刺股さすまたよ、刺股。先っぽがこうなってるの」

両人差し指を動かして空中にUの字を描く寛美は、世界を滅ぼす呪文を知っている魔法使いみたいだった。蛇捕獲に関する技術的な説明が細かくなるほど、彼女は狂って見えた。蛇なんて本当はいないんだ、ぼくは半ば諦めぎみにそう呟いた。その言葉は彼女の調子を悪化させるだけだったかもしれないが、幸いにしてそうはならなかった。寛美はムキになって唇を尖らせた。その唇は無意味に瑞々しく、誘うような光沢を放っている。

「いるわよ。だって、帰ってきたら、ハムスターのカゴが開いてて、空っぽだったの。きっと食べられちゃったのよ」

寛美は菜箸でそれを示しながら言った。そして、かたきを討たなきゃ、と小声を付け加えた。それはまるで、子供が決意を固めるときのまじないのようだった。

ハムスターは鼻血を詰まらせて死んだ。それは寛美も知っているはずだったが、ぼくはあえて言わなかった。そんなことを今さら言ったって、彼女がそう言うのだから、仕方がない。

ぼくはしぶしぶ蛇捕りを手伝った。もっとも、手伝うと言ってもただ待っているだけ。彼女が狭い場所に菜箸を突っ込んで大袈裟に音を立てているのを側で見守る、ただそれだけだ。ぼくは存在しない蛇を待っている振りをした。そして、何も出てこないと、彼女に倣ってさも無念そうに溜息をついた。

そんな絶望的な時間が二十分ほど続くと、寛美はついに諦めたらしく、ソファに座り込んだ。

「お茶でも入れてよ」

ぼくはどうせ駄目だろうと思いながら頼むと、彼女は小さく頷いた。台所へ向う彼女の後ろ姿は、折れてしまいそうなぐらい繊細だった。

「どうしてかしら……絶対にいるはずなんだけどな」

お湯を沸かしながら、寛美が呟いた。目をやると、涙を零している。ぼくは彼女の側にいって、撫でさすった。ぽろぽろ涙を流す女の横で、おろおろ胸を痛める男。その惨めさが、ぼくたちを感じやすくした。どうしてそんなに蛇にこだわるのかを訊ねたところで、彼女は納得のいく説明をすることなどできないだろう。彼女の持つ切実さはぼくに伝わらない。感情が分断されていることを認めるのはとても辛いことだった。

目の周りを少し赤くして、寛美はお茶と新高梨を持ってきた。千葉県の松戸市に住む彼女の祖母が送ってきたものを、実家の両親がおすそ分けしてくれたそうだ。実家と連絡を取っているのかと尋ねると、卒業のことで色々、と怯えたような声が返ってきた。ぼくは、この梨おいしいね、と話を逸らすと、お茶だけをすすった。寛美は何個も梨を剥いた。三個も、四個も。せっかく剥いてくれたんだから、食べなくちゃならない。その新高梨は水っぽく、味も薄かったが、大きさだけはあった。切り方が下手なせいで角張った梨の切り身を、次から次へと口に運ぶ。寛美は果物ナイフの刃を睨みつけるようにして、梨と格闘を続けた。梨を切り分ける彼女の肘を、果汁がつうっと伝う。まるで彼女の身体から漏れ出た液体みたいだった。

「もしかしたら、ここを出なきゃいけなくなるかもしれないよ」

口の中に新高梨の滓を残したまま、ゆっくりと理由を告げた。寛美はさしたる興味もなさそうにお茶をすすった。部屋の中は静かだった。

ぼくは寛美の充血した目を眺めながら、彼女の今後について考えていた。このまま狂気に加速がついたら、ぼくには一つの恍惚が訪れるかもしれない。それは忍耐を必要とするだろうが、ぼくは彼女の狂気に寄り添うようにして、粛々と生きられるだろう……なんてことを。

 

 

寛美は体調を崩した。吐き気がすると言っては本当に吐き、頭が重いと言っては一日中蒲団に包まっていた。具体的にここが悪いというものではないらしく、全体的に調子が悪いようだった。彼女は病院も薬も拒絶した。じっと寝てなれば治ると、ほんとうに一日十五時間ぐらい寝ていた。

どうせクビになるのだ、できる限り寛美の側にいよう。半ばヤケになっていたぼくは、これまで貯めに貯めた有給休暇を取りまくった。一ヶ月の内に半分くらいは休みになる計算だ。教室長は呪いの呪文でも唱えそうな表情をしたが、新しい講師の派遣がすでに決まっていたこともあって、しぶしぶと受理した。その事実によって、ぼくの失職はますます確定的なものとなった。

こうして、寛美と二人きりの時間を過ごすことが多くなったが、それは以前の生活と少し違っていた。これまでのぼくは、美しい寛美を支える忍耐に喜びを見出していた。しかし今では、妙な一体感だけがあった。寛美は起きているあいだずっとセックスをしたがり、ぼくはできる限りそれに応じた。発する単語の数は少なかった。その一体感は、ペットショップのハムスターが折り重なっているときに感じるものと同じ、獣じみた感覚だったかもしれない。

十一月の頭、日韓ワールドカップへの前哨戦として、日本対イタリアの親善試合が行なわれた。寛美は興味もないくせに、ぼくの隣りにちょこんと座り、一緒に見た。前半、ボランチの稲本がかなり高い位置でトッティからボールを奪った。すぐに左サイドからゴール前へとクロスが上がる。走りこんだフォワードの柳沢は、右アウトサイドで芸術的なボレーを放ち、そのボールはイタリアの守護神ブッフォンの頭上をかすめ、ネットに突き刺さった。日本がイタリアのアズーリから奪った、歴史的な一点。スタジアムの青い群集は色めき立った。

そのゴールはたしかに素晴らしかったけれど、奇跡への予感めいたものは何一つない。ぼくは淡々と画面を眺めた。オフサイドの判定が出ると、寛美はその理由をぼくに尋ねた。億劫がって答えないでいると、つまらないのだろう、唇を尖らせた。僕はその唇にキスをした。その間にもイタリアの反撃は続いていたみたいだが、ぼくらはだらだらと長く愛し合った。ぼくが愛撫を中途半端にやめて画面に見入ると、寛美はわけのわかない理由で泣き、ぼくの背中をしつこく叩いたりした。それでぼくが怒るということはなく、無関心にその打撃を受け止めた。

後半、イタリアのドニがその長身を生かしたヘディングで同点に追い付くゴールを決めると、ぼくはテレビを消した。翌日、新聞で一対一という結果を確かめると、それ以降、サッカーの試合を見なくなった。恐ろしく退屈なスポーツに思えた。ぼくはディエゴが好きなだけで、サッカー自体を好きなわけじゃなかった。

蛇に関する空想は、単に寛美が神経質になったからというだけではなく、かなり混み入ったものになっていた。

彼女は体調を崩した理由を、蛇に犯されたせいにした。ぼくはその妄言をそれほど驚かずに受け止めた。彼女の卒論に関わるフロイトによれば、蛇はペニスの象徴らしいからだ。たったそれだけの繋がりですべてを了解できた。

寛美いわく、夢に白い蛇が出てきて妊娠を告げた。仏陀が生まれた時は、母親が白い象が胎内に入ってくる夢を見たというが、それと似ている。もう蛇を探したところで手遅れなので、それまでぼくを急き立ててやらせていた蛇探しもやらなくなった。

「じゃあ、生まれてくる子供はどんな姿をしてるのさ?」

そう尋ねると、寛美はもっともらしく考えこんでから答えた。

「あんまり考えたくないけど……蛇と人間の合いの子みたいなのが生まれるのよ、たぶん。気持ち悪いわ。どうしよう」

なぜ蛇が寛美に子供を生ませようとしたのかはまったくわからないが、その子供はある使命、それもあまり良くない使命を帯びて生まれてくることは間違いない。外見もさぞ醜いだろう。鱗を持っているかもしれないし、黄色い目でじろりと睨むかもしれない。先の割れた細長い舌を持っているかもしれないし、ハムスターぐらいならペロリと平らげてしまう裂けた口をもっているかもしれない。なんであれ、一瞥に耐えないような外見には違いない。そんな子を産んでしまったら、寛美は悪しき子供の母親として生涯負い目を持ち続けなくてはならないだろう。そう遠くないうちに、寛美はお腹の中の子供を殺してしまわないといけない。

そして、寛美は泣いた。ぼくは彼女の涙に危機感を覚えなかった。輪郭が溶けてなくなってしまうという恐怖は過去のものだ。その代わり、ぼくは彼女にたくさんの水を飲ませた。好きなだけ泣き、好きなだけ濡れればいい。たらふく飲んで、元に戻せばいい。

蛇の子供の話をする寛美は、かなり恍惚とした表情をしていた。そして、聞いているぼくもまた。彼女が身ごもったという妄想は、たとえ嘘であれ、ぼくの自尊心を癒すような錯覚をもたらし、彼女の狂気と歩調を合わせた。そして、彼女はそのつましい狂気に埋もれることで、不安から逃れようとしていた。

そういった生活に終わりを告げたのは、紙切れ一枚だった。几帳面に大きさの揃った文字で、『しばらく実家に帰って卒論を書きます』と書いてあった。

彼女にそう決意させたのは、その前夜の出来事だったはずだ。

その夜、もう明け方に近くなった頃、目を覚ましたぼくは、ベッドの隣が空になっていることから、寛美も起きていることに気付いた。トイレから嘔吐するうめき声が聞こえてくる。トイレの入り口には、いまや寝巻き代わりになってしまっていたトッカのワンピースが脱ぎ捨ててあった。まるで、脱皮した抜け殻みたいだった。やがて、水を押し流す音が聞こえてくると、寛美がハンドタオルで顔を拭いながら、トイレから出てきた。ほとんど裸で、かろうじてパンツを履いているだけだった。そのパンツは寛美が自分で買った安いやつで、ゴムが伸びたために皺が寄って、今にも脱げてしまいそうな代物だった。美しい曲線を描く彼女の尻にぶら下がったボロ布という風情だ。

「大丈夫?」

寛美はぼくの言葉を無視した。足先でワンピースをつまみ上げると、ぽこりと膨れた下腹をくねらせながら身にまとった。ほんの小さな欠点を気にしすぎる美しい蛇が、ワンピースの中に這い込んでいくようでもあった。

寛美がそのワンピースをはじめて着たのは、姫岡さんがうちに来たときだった。その頃と比べると、寛美の身体は完璧さを失っていた。深い襟ぐりや身体にぴったりと吸いついたシルエットも、そっけなさ過ぎる。吐瀉物の匂いは彼女の魅力をさらに奪い、ぼくは苛立たしささえ覚えた。

「寒くないのか? 布団に入りなよ」

寛美は頷くと、頭からベッドにすべり込んだ。眠るのではなく、絡みついて来る。できる限り応じようという気持ちはあったが、彼女の口からは吐瀉物の匂いが遠慮無く立ち昇ってきた。腐臭を放つ舌が口の中を這いずり回るのは、あまり気分のいいものじゃなかった。なんとか欲望を焚きつけて寛美のワンピースを捲り上げたものの、今度は寛美がぼくから遠のいてしまった。

「手が冷たいよ」

怒りのせいでくぐもった寛美の声は、布団の中に吸い込まれていった。続けるのは難しそうだった。ぼくの欲望は冬眠したようにぐったりとしている。結局、寛美はそっぽを向いて眠った。

置手紙を書いて出て行った彼女は、いつも行き先だけを書き、一、二週間で戻ってきた。遅くとも、年明けには戻ってくるだろう。もしも、それを過ぎて戻らなければ、彼女は二度と帰ってこないだろう。ぼくはかなりの確信をもってそう思った。

2015年7月19日公開

作品集『ハムスターに水を』第4話 (全6話)

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© 2015 高橋文樹

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