死んでくれないかな

ハムスターに水を(第5話)

高橋文樹

小説

18,001文字

寛美が姿を消してから失意の日々を過ごしていた「ぼく」。やがて、ぼくの元に電話がかかってくる。

拝啓、諸岡教室長殿。

師走の候、時下ますますご隆盛のこととお喜び申し上げます。

さて、このたびは本年をもちましてはなまる進学館を退職いたしたく、このようにご連絡差し上げました。かようにご多忙の時節に書状をもちまして辞意を申し上げること、心苦しく思っております。

辞職の理由としましては、一身上の都合とさせていただきます。年度の途中でクラス担当を離れることは、同僚の諸先生方、またなによりも生徒たちにご迷惑をおかけすることになりますが、それもすべて私の不徳のいたす所です。なにとぞ、引継ぎの先生によろしくお伝えいただけますよう、丁重にお願いいたします。

教室長におかれましては、在職中、たいへん御世話になりました。栃木出身でもなく、塾講師としての経験もない根無し草の私を厳しく、また暖かく叱咤激励していただいたことは、今後の私の財産になることと思われます。重ね重ね御礼申し上げます。ありがとうございました。

今後につきましては、近々に栃木を離れる予定でいます。身の落ち着け先は決まっておりませんが、新天地となる場所を探す予定でおります。場合によっては、新しい職場からそちらにご連絡差し上げることもあろうかと思いますが、その節にはなにとぞよろしくお願いいたします。

それでは長々と駄文を連ねまして、大変恐縮です。はなまる進学館のますますの発展をお祈りして、筆を置くことといたします。

敬具

 

 

ぼくはそう書いている。真白な封筒を買い、便箋には柔らかな質感のものを選んだ。書くのに選んだのは、無精子症の快気祝いに貰ったモンブランの万年筆だ。もっとも、無精子症は治っていないから、「快気祝い」という表現は間違いなのだけれど、両親がくれた包みの熨斗のしにはそう書かれていたのだから仕方ない。

ともかく、「退職願」と書かれた封筒が手元にあるのは、他でもない、受理されなかったからである。十二月の半ば、返事代わりにかかってきた姫岡さんの電話で、ぼくは事態が大きく変わったことを知らされた。

「君さ、来週の月例会議に来いよ。休まないように」

「でも、教室長には辞表を出したんで……」

「いや、君がいない間に色々あってね。今は私が教室長なんだ。だから、辞表は無効だ。宛名が間違っているんだから」

ぼくは驚いて言葉を返すことができなかった。なにせ、副教室長はまだ三十代前半なのだ。普通、塾講師というものはある程度の歳を取っていないとまずい。生徒の親になめられるからだ。それが教室長となれば、なおさらである。それに、前の教室長は、部下に対してはともかくとして、親に対する評判は結構良かったし、時期も中途半端だから、この人事は異例中の異例と言えるものだった。

「でも、契約更新の件は……」と、ぼくはなんとか言った。

「安心しなさい。そう悪くはしないから。うちは採用を減らしてるから、あまり人が減ると困るんだ」

姫岡さんの話し方は以前とまるで違っていた。薄い膜を一枚隔てたような、冷たい物言いはぼくを屈服させ、会議に出席しなければならないような気にさせた。

姫岡さんが中央に座る会議室は、これまでと違った風景になった。冬期講習へ向ける事前準備のことなどまったく耳に入らず、この交代劇の実情についてばかり考えが集中してしまう。ぼくと違ってその交代劇をリアルタイムで経験したはずのハイエナ達にさえ、どこか浮き足立っているような雰囲気があった。

会議と授業を終えると、姫岡さんがみんなを誘い、飲みに行くことになった。いつもは雰囲気を盛り上げるために受け付けアルバイトの女の子を誘うのだが、この時は講師だけだった。なぜそんな人選にしたのかは、すぐにわかった。飲み会の最中、「問題」についての説明があったのだ。

ぼくが休んでいる間、塾の統括本部に一本のeメールがあった。前教室長が若い女の子と二人、ラブホテルらしい場所で撮ったと思われる画像ファイルが添付されていた。マルシンの幹部たちは某宗教団体の熱心な信者だから、婚前交渉も駄目、浮気も不倫も駄目、風俗に行ったことが公になっても駄目、ましてや援助交際などもってのほかだった。はじめは目を疑った本部長だったが、前教室長に問い詰めると、あっさりと事実を見とめた。彼は金銭を払う代わりに、ホテルでの猥褻行為に及んだという。タレこんだのは、誰かはわからないが、新教室長によると、前教室長の配下でリストラされた五十五歳の契約社員が怪しいらしい。ともかく、その事件は内々に処理され、前教室長はあっという間に内勤へ異動になった。今ごろは授業マニュアル作成に勤しんでいるという。いつか、ぼくがそう願ったように。

姫岡さんはハキハキとした口調で物語った。会話の端々に前教室長への少しの同情と、これからの塾の雰囲気を決定付ける態度とが垣間見えた。

「はっきり申しまして、私もこんなことになるとは思いませんでした。諸岡さんは堅い人でしたからね。娘もいたし」

姫岡さんはいつの間にか伸ばした口ひげを撫で、以前よりもずっと高圧的になっていた。真ん中わけのツーブロックも短くして、「王子」めいたところはかけらもない。昔のフランクな様子はどこかへ消えてしまい、権力者としての威厳を無理に印象付けようとしているみたいだった。居酒屋へ移動してくるときの車も、ボロいパルサーから、シルバーの新型スカイラインに変わっていた。

そのうち、姫岡さんはぼくに向かってこう言った。

「君も今までご苦労だったね。私達が巻き添え食らわなかったのも、君のおかげだよ」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ、君が休みの日なんか、ひどかったよ。君みたいな存在がいかにあり難いか」

確かに、前教室長はぼくを目の敵にしているところがあった。しかし、他の人達もかさになってぼくを責めることが多かったし、身代わりになっているという感じはまったくなかった。

すると、ハイエナ達までがぼくのことを褒めはじめた。彼らが言うところでは、結局、ぼくが人柱になっていたらしい。組織には必ずそういう人間が必要だ、良く耐えたものだ、こういう役割を果たせるのも君が若いからだ、これからも調整役をよろしく頼む。いつもは攻撃の対象になるはずの「若さ」を褒められたことは、特に驚きだった。

飲み会は遅くまで続いた。新教室長が飲み代をすべて持ったということもあって、一人も帰らなかった。三軒目に行った人の少ないキャバクラを出た頃、深夜二時を回っていた。ハイエナ達は代行運転を呼ぶために電話をかけまくり、電車の者は駅のタクシープールへ向かった。ぼくもその流れに合流しようと思ったのだが、姫岡さんに呼び止められた。

「おまえはもうちょっと付ぎ合えよ」

姫岡さんが不意に漏らした栃木的イントネーションは、フランクというか、露悪的でさえあった。顔は真っ青で、後ろめたいような表情を浮かべている。ぼくは後ろを振り向いた。ハイエナ達はすでにタクシーに乗りこんでいる。

「二人でですか?」

「こわいけ?」

「なんで怖いんですか?」

ぼくがその意味を捉えかねて聞き返すと、姫岡さんは恥じるように、疲れたか、と言い直した。

「いえ、別に、そういうわけじゃ……。でも、もう二時過ぎてますよ」

ぼくはそう言って、腕時計を見せた。

「明日の仕事は遅いだろう?」

「でも、寒いじゃないですか」

「したっけ、サウナで暖まんべ。な?」

姫岡さんは半ば強引にぼくを引っ張って、サウナへと向かった。王子の笑顔は、いまや赤黒く照っていた。

はじめて入る北関東のサウナには東京のサウナよりもずっとたくさんの筋者がいて、その他にも怪しげな酔客で混み合っていた。あまりゆっくりできる雰囲気ではない。洗い場に立ちこめるかび臭い匂いが、身体の奥底を腐食させていく。

ぼくと姫岡さんは簡単に身体を流すと、腰に手ぬぐいを巻きつけて、スチームサウナに入った。電灯が暗い上に湯気がかなり濃く充満していて、他の客は影にしか見えなかった。

「でも、おめでとうございます。その歳で教室長なんて、大出世じゃないですか」

ぼくはそう言いながら、姫岡さんの顔を見た。濡れた髪を後に撫で突け、オールバックになっている。前は長めのツーブロックだったし、会議のときは前髪を下ろしていたからわからなかったが、だいぶ額にキてしまっていた。口ひげを蓄えたということもあって、ほんの短い期間に十歳も歳を取ったようだった。

「まあ、人の不幸を喜ぶつもりはないが、ラッキーだったよ。他に代わりがいなかったんだ。それより、悪かったな。おまえが諸岡さんに怒られてたとき、見捨てちゃって」

「そんなことないですよ」

「いや、俺は卑怯だったよ」

「ぼくが余計なことしたんだから、しょうがないです。なんでかわからないけど、素直に謝れないんです」

「若い時はみんなそうだよ。ほら見ろ、俺なんか、もうこんなだぜ」

新教室長はそう言うと、自分の腹の肉をつまんだ。引っ張ると、贅肉がラテックスのように伸びる。ぼくも真似をして、自分の腹の肉をひっぱった。少しは伸びたが、新教室長ほどではなかった。新教室長はそれを見て、ほらな、と笑った。

そのとき、ぼくは姫岡さんの左手にあの数珠がつているのを見つけた。彼はぼくの告発を先回りするように、これな、と説明を始めた。

「教室長になるにあたって入信したよ。別に氣なんざ信じちゃいないが、入らないことにはな。まあ、訓話を考えるのが大変だけど。おお、やだ」

誰が聞いているかわからない、とたしなめると、姫岡さんは頬を引きつった笑いを浮かべ、暗いから大丈夫だよ、と叫んだ。

「なんだかどんどんずるくなっていくな。若い頃はもっと生真面目だった。理想もあったよ。もちろん、今も持ち続けてるつもりさ。でも、駄目だ。歳を取ると、自分を肯定することばかり覚える。これはその罰だよ」

姫岡さんは再び腹の肉を引っ張った。もう顔は笑っていなかった。

「そんなに悲観的にならなくても……上手に歳を取る人だっていますよ」

「そうか? ごまかしてるだけじゃないのか? 後から理屈をつけるなんて簡単なんだから。ほら、おまえの彼女が言ってただろう、実践の難しさ」

返答に詰まったぼくをよそに、姫岡さんは話を続けた。

「なあ、俺はなんでテロリストになれないんだろう? 東京の有名私立出たのに、こんなクソ田舎でカルト教団の塾講師やってさ。どうせだったらテロリストになっちまえばいいんだ」

「そこまで追い詰められてないじゃないですか。出世もしたし。まだ目標もあるんですよね」

「そりゃそうさ。俺、以前におまえに言ったろ。教育が大事だって。あれは本気だよ。この会社に入ってから、ずっとそう思ってた。別に俺一人で世界を救えるとか、日本を救えるとかは思ってない。でも、少しでも大きなものに関わりたいじゃないか。俺の教えた子供達が立派に育って、ほんの小さなことでもいい、活躍してくれたら本望だよ」

「だったら、今のところはいいじゃないですか。その若さで教室長ですもん。少しでも偉くなれば、その分だけ大きく教育に貢献できますって」

姫岡さんは顔に浮かんだ汗を拭った。濡れ雑巾のような匂いが漂ってくる。別の客が一人、立ち上がった。上に行くほど濃く霧がかり、どんな顔をしているのか、見えなかった。その客は逃げるようにして出て行った。

「俺はね、教職を持ってるんさ。元々教師になろうと思ってたんだ」

「じゃあ、どうして塾講師に?」

「やめちまったんだよ。公務員なんて、なにかを変えようと思ってる人間がなるもんじゃないのさ。結局、教育で一番大事なのはマニュアルだよ。型通りの人間がたくさんできるなんて批判はあるけどさ、それは問題のすり替えだろ? 大事なのは、どれだけ応用の利くマニュアルを作るかだ。まあ、応用が利かないのがマニュアルの特徴だけど、それを嘆いたってしょうがない。少しでも理想のマニュアルに近づくしかないんだ」

「だったら、なおさら今のままでいいじゃないですか」

「そうか? たしかに、出世することは大事だよ。前の教室長の下にいたら、俺のやりたいことはほとんどできない。でもな、もしかしたら、あの人の方が、正しいことをしてたのかもしれない。俺の教育理論は間違っていて、もしかしたら、現状を悪化させてしまうのかもしれない。少なくとも、もう少しあの人の下にいた方がもっといい結果を生んだってのは有り得るな。実際、あの人はものすごく働いた。生徒管理にも気を配ってたしね。もしかしたら、俺は自分が間違っていなかったことを証明するために、ムキになっているのかもしれないんだ」

「そんなこと……」

「タレこんだのは俺だよ」

ぼくは姫岡さんを見た。どこか救いようのない笑顔に見えた。

「頼んだんだ。卒業生にね。ほら、俺は生徒に人気あったろ。その中に、どうしようもない子がいてね。援助交際をやりまくってて、しかもそれを自慢するんだ。ちょっとしたイタズラみたいなもんだったんだ。師岡さんを誘惑してみろってね。そうしたら、一週間で写真が来た。仕事早えよな、ヤリマンのくせに。はじめはショックだったよ。でも、すぐにチャンスだと思った」

新教室長がそう言ってから漏らした笑いは、聞くに耐えない音だった。

2015年7月20日公開

作品集『ハムスターに水を』第5話 (全6話)

ハムスターに水を

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© 2015 高橋文樹

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