大地の力を感じる木

北千住ソシアルクラブ(第3話)

高橋文樹

小説

3,385文字

病魔に冒されたひきこもりは、ふらふらと荒川の河川敷に出る。

目が覚めたら、お花畑にいた。

涅槃に来たかと本気で思ったが、別にそうではなく、北千住の中心街をよたよたと彷徨しつつ、かつて散歩道にしていた荒川の河川敷に入っていただけだった。管理事務所と公衆トイレが寄り添う周りに、花壇が弧を描く。虹の広場という名は嘘ではなく、季節が季節ならパンジーが虹色の列をなすのだが、秋も暮れにかかると、枯れた茎が老いた猿の頭に生え残った毛髪のようにうそ寒く鳴るだけだ。

荒川を下流沿いに進めば、人の多い場所を通ることなく、堀切橋のたもとから家に帰れる。ことおうちへの最短経路を選ぶことに関して、ひきこもりの計算は慎重だった。いつも最新の注意を払い、人の少ない道を選ぶ。人ごみへ行くとパニック障害で倒れてしまう、などという高級な悩みではない、酔いが冷めてしまうのが嫌なのだ。

「すいません、取ってくれませんか」

ボールが転々と寄ってきて、丁重な小学生が後に続く。まだ地に落ち着かないボールをハーフボレーで蹴り返せば、胸元に強めのボールを受けた子供は尊敬と驚きで見返してくるだろう、そしたら俺はファンタジスタだ――それらはみな、妄想だった。蹴り上げた足は空を切り、すっ転んだ。子どもたちはそれを笑うでもなく、「スイマセン!」となぜか恐縮する。

「こうはなるな!」

ひきこもりが叫んだ自虐の詩は、うわんうわんと河川敷に反響した。オイオイ。声にならない吐息は、求める思いがはらで腐って発したガスだった。いっそ誘ってくれたなら、俺だって一緒にサッカーするのによ。とはいえもう三十一歳だった。子供から誘われるには歳を取りすぎている。別にサッカーでなくたっていいんだ。なんでもいい、誘われたらやるんだ。

アメフトやサッカーやフリスビーや、荒川の日の出緑地にはスポーツに興じる人々が三島由紀夫的な喜びに息を切らせていた。ひきこもりは憎々しげというより、伏せがちな目で窺い見た。健康そのものだ。スポーツマンどもめ! 俺は健脚だったんだよお、飛ぶみたいに歩くんだよお。が、いかんせん、久方ぶりの外出だったから、足の裏は柔らかい。踏みしだく地面の感触さえ懐かしいのだが、そんな感慨が病的というか、いかにもひきこもりに似つかわしい。

――亀夫くんは書くんだろ。あんなどん詰まりにひきこもってないで、外に出てみろよ。

回想するだけでも、肩をすくめてしまう。さっき湊屋で五十君に言われた言葉だった。言った当人はひきこもりの怯えを見抜いてはいただろうが、慰めとも軽蔑とも無縁なまっすぐの目で見詰めて来た。五十君がそんな風に見るのは、世界をまるごと肯定しているからだった。それは信念などというのではない、もっとずっと深い層に刻み込まれた倫理だった。たしかに、ひきこもりは五十君のそういう部分を買って、自分から近寄ったのだ。五十君の汗の匂いは優しく鼻腔を撫でた。匂いはいつも、回想と独り言を連れて来る。

――亀夫くんはこのまま終わりじゃないかと思ってたから。

ヘイヘイヘイ、そりゃ大袈裟だぜ。

――なぜ? と、五十君は譲ることを知らない彼らしい間合いで問い返した。だってもう、半年だぜ。半年間一回も外出しないで、一枚も書かなかった奴が立ち直れるなんて、どうしたら思えるんだい。

長い夏休みももう終わりだよ。

――その言葉は何度も聞いた。でも、終わらなかった。

五十君は単なる同居人に過ぎないひきこもりを怒らなかった。家にい過ぎるためにかさむ光熱費についても、トイレや風呂を汚す大量の陰毛についても、冗談めかした小言一つ無く、ジャイナ教徒のように粛々と家事をこなし、共用費の増額に耐えた。宥す代償が軽蔑だとひきこもりが邪推しても、五十君はそれさえ見抜いていた。

――で、今日はどうすんの?

そこら辺で寝泊りするよ。それから仕事を探して……。

皆まで言わせず、五十君はにっこりと笑った。そうだ、笑ったんだ、あいつは! 五十君が何も言わないだけ、ひきこもりは惨めになって目を落とした。いつの間にか、スニーカーの爪先が破れて鰐のように口を開けていた。

――そもそも書く道具はあるのかい?

五十君の言葉は真面目な熱を帯びた。いやその、とお茶を濁そうとしたが、肝心の緑茶割りが空っぽでは、問いから逃げるだけの遊びはなかった。五十君はそれを追求せず、情で解いたのだった。

言い返したかった思いを奥歯で噛み潰せば、五十君の顔が回想から消えて行った。視線の先には隣り合ったサッカーグラウンドが二面あり、その狭間に銀杏の木がひょろりと立っていた。

大地の力を感じる木。

ひきこもりはその木を目指して歩き出した。鋪装されたサイクリングロードを逸れ、河川敷の芝生を踏みしだいた。おっかなびっくり進みながら、なぜ逸脱はこんなにも難しいのかと思う。ただ外に出るというそれだけのことに、半年もの月日を費やした。

トレーニング中の五十君は、よくその木によりかかって瞑想していたらしい。裸足になれば、芝生の柔らかな抵抗が、命そのものの感触のように伝わって来るのだという。ひきこもりは変なスニーカーを脱いだが、晩秋のしなだれた芝生からは、ちくちくと肌を刺す感覚は得られなかった。初夏でなければ、そういった青々とした固さは感じられなかった。ひきこもりがひきこもることを始めた初夏でなければ。

なんにせよ、徹底してなかった。太宰だ安吾だと、一端いっぱしの小説家みたいな口を聞いてはいたが、少なくとも、彼らは小説を書いた。書く書く言って、結局一字も書いてない男からは、いかんともしがたい距離が離れている。文字の刻まれた原稿用紙だけでも、もはや憧れだった。

苦りきった思いが喉の奥で真物ほんものの苦味となって、胃の腑へと降りていく。そうして生まれたそのどうしようもないむかつきのことは悪心おしんと呼んだりするのだと、教えてくれたのは他の誰かが書いた私小説だった。悪の心とは、なんとも的を射た表現だ。そうだ、「的を得た」ではないと教えてくれたのも誰かの私小説だった。

グラウンドのはてには、ひきこもりが冗談めかして「お仲間」と読んだ無宿者たちが蠢いていた。今しがたひきこもりがくぐってきた東武伊勢崎線の線路の下にはすすきが生い茂る区画があり、そこには彼が将来像を重ね合わせる男たちが生活していた。

まあ、俺もそのうちああなるんだと、いつものように自虐の檻へと逃げ込むひきこもりを同居解消の事実が遮った。訳知り顔など意味がない。現実の手ごたえに面喰らったひきこもりは、唾を飲んだ。苦く粘ついた唾が悪心の禍々しさを増していく。

自分が将来宿無しになるなんて、わかりきっていた。そして、引き受けた苦しみが俺に書かせるだろう、とも。問題は、そういう人が結構たくさんいるという、のっぴきならない現実である。人生の苦しみはそこかしこに溢れていた。かつて無宿者のための同人誌を手伝ったことがあるが、投稿は多かった。しかも、胸を鷲掴みにする、破綻だらけの掌編ばかりである。ああいうのは、たぶんまだ書けない。今日々きょうびに私小説を書くということに対する悪辣さが足りないのだ。

ひきこもりは内部へと落ち込んでいくのを感じた。半年間一枚も書かなかった奴――五十君の声が遠く響く。その言葉が真実味を帯びて冷たく輝く分だけ、意味が剥がれ落ちていった。魚の鱗のように零れ落ちるその意味たちの美しさを、ひきこもりは憐れむように耳で殺した。河川敷の上に広がる空は、砂糖で固められたようにキンと張っていた。

湊屋での会話がまた蘇る。五十君の言葉は空を凍らせる。

――今すぐホームレスになっちまえばいいんだ。俺に家事やってもらって、一日中安穏あんのんとひきこもって、ワードのカーソルが同じ場所にあるのを見張ってるぐらいなら、ヤングホームレスになればいいんだよ。それが書くってことだろ。原稿用紙の差し入れぐらいするよ。

ひきこもりは立っていられなかった。疲れた。オイオイ。軽蔑がゆるしの毛布を身にまとっているのが五十君だった。時折露出狂のように毛布を剥いで、その酷薄さを見せつけずにはいられないという修羅も、彼は引き受けていた。

「ああ、ロックンロール!」

河川敷に寝転がったひきこもりの呪詛は、優しく余韻を残して消え去った。空から闇が降り立って、ひきこもりをくっきりと際立てる。薄いベージュのスエードジャケットは、脇の下のフリンジをアスファルトの上にだらしなく広げ、気持ち悪い触手に見えた。

2015年7月18日公開

作品集『北千住ソシアルクラブ』第3話 (全10話)

北千住ソシアルクラブ

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© 2015 高橋文樹

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