プレイボーイ

北千住ソシアルクラブ(第4話)

高橋文樹

小説

6,609文字

河川敷で一夜を明かしたひきこもりは、金もなく、ホームレスにすがる。

河川敷の夜は思ったよりも昏かった。夜が降り立つまでに話しかけてきた人々の優しさを、ほっといてくれの一言で振り切って、依怙地いこじのままに夜を迎えた末に、後悔した。闇は彼を閉じ込めた。

が、閉じ込められて鬱屈した末に元気を取り戻すのは、ひきこもり自身もいぶからずにいられない奇妙な心性だ。彼は立ち上がった。甦れ、俺の健脚! 胡散臭い仏教説話に出てくる韋駄天坊主ばりの健脚! 自己暗示だけは裏切らなかった。足に力が篭もる。五十君のように鍛え上げられたふくはぎではないが、同じコースをぐるぐると歩き続けた彼の健脚は、飛ぶような勢いで地面を蹴り始めた。

両側を土手で挟まれた河川敷を歩くと、闇で満たされたすり鉢の底を歩いているような気になった。街灯は一つもなく、明るいのは濃紺の空だけだ。排ガスをまぶされて星は息絶え、新月の夜空には暗灰色に霞む雲だけがある。鉄棒やら雲梯やら、遊具たちはのっぺりとした闇の中で息づいて、付け狙う異界の者の佇まいになる。

向こうから小さな光の点が揺れてくる。彷徨う風に揺れながら、腰ぐらいの高さでまっすぐこちらに向かってくる。鬼火だ……と古臭い思い付きに我ながら怯えて、きゃっと傍に飛びのけば、ただの自転車で、漕ぎ手は舌打ちをする。向こうからしてみれば、暗闇から突然ひきこもりが現れた訳なのだが、その苛立ちは恐がった自分へも向けられているのだろう。その証拠というのではないが、漕ぎ去る足には少し力が篭もり過ぎている。街中を厭う人嫌いの会社員などが漕いでいるのだろう、鬼を見たのは向こうも同じだった。

運動と遊戯のために整備された日の出緑地が終わりかけると、まっとうな人々が忌むだろう宿泊客たちがちらほらとベンチに寝そべっている。草木も伸び放題で、川縁かわべりで穂先をもたげる葦の隙間からは、葛飾の明かりが川面に照る。対岸には小菅の拘置所が傲然とそびえていた。

闇の中にとろけてしまいそうな恐れを胃の腑に押し込めながら遮二無二歩く。気づけば悪心は消えていた。

東武伊勢崎線の架橋に差しかかって、ようやく光が訪れた。押上へ向かう列車が軌条と枕木を轢ませながら南下していく。乗客のほとんどいない車内から漏れる光は、架橋下の闇底を乱暴な手つきでさっと払い、明るみに出す。しかし、芒の茂った区画だけはホームレスたちのシートハウスをしっかりと抱きかかえ、昏さの中に守り通していた。枯れた芒は悪魔の手つきで風にそよいでいる。

伊勢崎線の準急用架橋をくぐった後、五メートルも隔てないうちに各駅用架橋があった。ひきこもりは途方もなく歩き続けるつもりでいたが、土手の頂点と接する架橋下の小段にふと目を止めた。堤防の途中で平面になっている小段は、ホームレスの定宿とされることを拒むためのフェンスで囲ってあったが、扉状になったフェンスには南京錠がついていない。簡単に開けられそうだった。どうして、そこを宿とする者がいないのか。それだけの疑問で、そこが自分のためだけに用意された場所のように思えた。ひきこもりは斜面をゆっくりと昇り、フェンスに手をかけた。かんぬきは訳も無く上がった。わずか二メートル四方の区画は、彼だけのために歓迎の声をきいと上げた。

その狭い空間はひきこもるにうってつけで、ひきこもりは掛け値なしの安堵を覚えた。方形に出っ張った素っ気無いコンクリートの上に座り込み、徹底するぞ、と呟いた。それから口元を握り拳で隠すと、まんじりともせず闇を見詰め始めた。

そうやって自棄やけになり、誰とも口を聞かないまま三日を過ごした。俺は書くぞ、と時折呟きながら。

別になんにも書けなかった。オイオイ。ただ腹が減り、空腹がもたらすキリキリした痛みに堪えかねていた。

折りよく「腹が減っているんじゃないか」と声をかけてきた男がいた。ところが、その男は「兎屋」としか名乗らない。もしかして俺を勾引かどわかそうとしているのか? それとも兎とはホモか何かの隠語で、俺を掘ろうとしているのか? いくつかの可能性を想像してはみたが、囲いのある草っ原に兎が放たれている放兎場としか呼びようの無い場所に連れて行かれると、「ああ」と観念にも似た納得のため息が漏れた。いじけて張り付いたままだった喉が開いた。

「これ、食うためっすか」

久々に話すと喉がふがふが鳴る。ひきこもりは照れを浮かべながら会話が生まれるのを待った。兎屋はじっとりと見詰め返してくる。鼻の下がふっくらとしているのは確かに兎っぽいが、彫りの深い目は幾つもの諦めを知っているらしい輝きを湛えていた。

「食うためではないよ。勝手に増えたんだ」

会話が生まれた。こういう風に、親しさへの通路がぽっと開けたとき、ひきこもりはどうしていいかわからない。酒の飲み過ぎで荒れた唇をきゅっと結び、黙り込んでしまう。そうしていると、折角せっかく開いた扉が閉まってしまう。それがなぜなのか、いつもわからなかった。

放兎場は伊勢崎線準急架橋の下、芒で覆われた一角にあった。ひきこもりが定宿に決めたフェンスの檻の対面である。誘われるままに分け入った先に、十畳ほどの開けた場所があって、しかもそこに白い塊がうぞうぞしているのを見つけたときは、ついに精霊を見るようになったかと恐くなった。

「こんな柵で、跳んで逃げないんすか?」

「逃げねえよ」

兎屋はそう言うと、柵をまたいで中に入った。兎どもは逃げるどころか、兎屋の足元にわらわらと寄って行った。兎屋はいかにも気まぐれに一匹をつまみ上げた。両耳を掴む手の力の抜け具合は、神の手つきに見える。兎は両足を前に揃え、きちんとしていた。諦めてんだ。兎屋が独言ひとりごちた。その言葉には、たぶん、いくつもの主語が隠されていた。

兎屋は兎を持ったまま家へ入った。中を窺うと、段ボールとビニールシートだけではなく、多少の木材も使って頑丈に作られているらしい。十四型の古いテレビの下では、不釣合いにしっかりした作りのテレビ台が口を開けている。どうやって電源を取るのか。カセットコンロもある。見れば見るほど興味深いが、覗き見ようとするひきこもりの視線は、戻ってきた兎屋の姿にかすめ取られた。生活と人生の汚れで年齢不詳になったオッサンが、左手にちょこなんとかしこまった兎を持ち、右手には全然砥がれていない包丁を持っている。凄惨なものがあった。

書けると思った。こんな凄いものを見たんだから、書ける。肩から背中へと創作の予感が走った。しかし、書く道具が無いのだから、兎料理の完成をじりじりしながら待つしかない。

「おい、ここ持っててくれ」

そう言われて、ひきこもりは逆さになった兎の脚を掴んだが、予想外の抵抗にあって放してしまった。

「そうじゃない。両手使え」

兎屋はもう一度兎を掴み、ひきこもりに手渡した。喉の奥が緊張で震えていた。が、覚悟して掴めば、兎の抵抗など柔いものでしかない。両腕をわずかに揺する程度の動きを感じながら、ひきこもりは女の肉の手ごたえを思い出した。兎はごふっと小さな声で鳴いた。

兎屋が屠る手つきは見事だった。首筋にすっと切れ目を入れると、白い毛に赤が伝う。ぽたぽたと地面に落ちて、わずかに舞い上げられた土埃が匂うと、細い両足はもう動かなかった。

二羽を屠った。毛をむしり、包丁を入れれば、見る見るうちに兎は肉片になった。机の天板だったらしい木板を俎板まないた代わりにして、骨から身を切り分けている。包丁を持った手首をいったんくるりと回してから切るのは、いかにも職人らしい癖だった。書ける、書ける。臓物を入れるための雪平鍋を持ちながら、ひきこもりはそればかり考えていた。

「料理人だったんすか」

「そういうことは訊くな」

俎板を打つ包丁の音がわずかに高くなった気がした。小柄で、鼻の下が兎みたいにぷっくりしているオッサンの凄味は、背の高い芒の枯れ草の中でキンと張った。すいませんという呟きを口の中で揉み殺していると、なぜか抵抗する兎の脚の感触が戻って来た。かれこれ二年も女を抱いてなかった。

料理は単純だったが、火が入った途端に旨そうな音を立てた。コンロにかけられた鍋では、肉の脂がひたひたに張った水の中に融け出していく。七輪の上では、兎の腿肉が粒胡椒を塗されて、じりじりと油を浮かべ始めている。ひきこもりは口の奥に唾が溜まっていくのをどうすることもできなかった。五十君に作ってもらった料理を食べたことは何度もあったが、こうやって川原で肉を焼くのは格別な風情がある。ちぐはぐの箸で肉をひっくり返すと、滴った油がぼっと炎になった。

「わちゃあ」

兎屋はそう言うと、ぼろぼろの軍手をつけた手を振った。大丈夫ですか、と案じると、兎屋は照れたように、「そうじゃねえんだ」と吐き捨てた。

「火を使うと、うるせんだけど」

「誰がですか?」

「ここいらに住んでる奴等だよ。火事になるって」

「そりゃ気にしいですね」

ひきこもりは生まれかけた会話の端緒を必死に掴んだ。見知らぬ者同士の気詰まりから逃れたいだけだったのが、この世の最後の係累に嫌われまいとするぐらいの剣幕だった。

兎屋はぽつりぽつりと兎の話をした。この白い兎はジャパニーズホワイトという品種で、普通の野兎のアルビノを定着させたものである。要は白子だから、目は赤く、体毛は白い。白子を一族として固定させるなんて、むごいことをする。そんな同情が、どういう理屈か、飼い始める動機になった。ところが、兎はやたらと増える。なぜ兎算という言葉がないのだろうか。あっという間に数は増えて、そのうち食うようになった。毛を毟るのは一苦労だが、肉は鳥と小鹿の中間程度、フランスでは普通の食材にも使われるという。

「兎はすけべえなんだってよ」と、兎屋は狡い笑いを浮かべた。「プレイボーイってあんだろ、アメリカの雑誌の。あれ、兎のマークだろ」

「そういえば、そうですね」

ひきこもりが感心すると、兎屋は嬉しそうに笑った。きししという下卑た笑いは、これまでの彼と打って変わって、いかにも親しみやすく見えた。

腿肉の油が七輪に落ちてぱちぱちと爆ぜた。それでも兎屋は火から退けなかった。表面が真っ黒になるまで待って、ようやく火から退けた。

素人目に焼き過ぎと思うところがいい塩梅らしい。肉は口の中でほろほろと崩れるほど柔らかかった。美味い、書けるぞ。五十君が作ったカレーや親子丼に舌鼓を打っていたことが危うくなるほど美味かった。美食ってのは、こういうことを言うんだ。そうやって、ひきこもりが意図せず守ってきた現実の底は、また一つ抜けた。

「ああ、美味い」と、ひきこもりは漏らした。「これだけたくさんいたら、絶対に食いっぱぐれないですね。やわっこい肉がこんだけ……」

ひきこもりは兎が沢山いることの豊かさを熱っぽく弁じ立てた。これまで収入の見込みも無く、審査のゆるい消費者金融から借りた金で自転車操業をしていた日々のことは忘れた。兎屋はひきこもりの稚気を笑うでもなく、じっと耳を傾けながら、時折こぷっとたぎる鍋を見詰めていた。兎の肉は震えながら、徐々にほぐれた。

「あの、兎の餌は何なんすか」

ひきこもりは尋ねた。満腹を迎えたが、帰る気にはなれなかった。兎屋は黒く汚れた指を放り投げ、家の脇を指した。傾いた建付けを助けるように、土嚢のようなものが積まれている。近づいて見ると、単純な絵の白い犬がぺろりと舌を出していた。よく見るドッグフードだ。

「これで大丈夫なんすか、兎」

「人間だって大丈夫だよ」

兎屋はいたずらっぽく笑った。兎屋がはじめて感情らしいものを見せたので、ひきこもりは打ち解けられたと思い込んだが、餌代はどうしてるんですか、と尋ねると、「なんでも聞けば教えてもらえんのか」と問い返され、首根っこを掴まれたようになった。

「すいません」

「別に怒ってんじゃねえんだ」

兎屋はコンロの火を止め、鍋の蓋を閉じた。蓋には把手が付いておらず、本来の取り付け部が小さく口を開けていた。その穴から湯気が出て、獣の匂いがした。ひきこもりは再び黙り込み、兎屋が許してくれるのを待った。沈黙に篭城することで壊れた友情を取り戻せたことは一度もなかったが、他に取る方法を知らなかった。

「おい、兄ちゃん、ちょっと空けてくれ」

「あ、はい、すいません」

帰れと言われたのかと思ったが、そうではなく、新しい客が来るからだと言う。ひきこもりはほっとして、一斗缶から土の覗いた草地へと席を移った。

「約束があったんすか」

「そうじゃねえよ。匂いを嗅ぎ付けて来んだよ」

果たして兎屋の言葉通り、枯れ芒を掻き分けて現れた男は、「良い匂いさせちゃって」と告発者のような口を聞いた。ひきこもりは地べたからじっと眺めた。男は兎屋よりずっと汚れていて、首や指の節々に黒い筋が出来ていたが、剃り上げた頭のせいか、妙に清潔に見えた。男の視線はひきこもりに出会すと、じっとりと細くねめつけた。

「なんだあ、新顔か。若いのに」

「ずっとあそこに座ってたんだよ。三日ぐらい。死んじまうんじゃねえかと思ってさ」

「自殺か」

「いや、そんな元気もえみたいだ。ばくばく食っちゃってたもんなあ」

兎屋は言葉尻で、打ち解けた笑顔をひきこもりに向けた。ひきこもりは自分が自殺と疑われたことを意外に思いながら、はあ、と軽く会釈をした。それにつられたのか、汚れた男は鯱張しゃっちょこばったお辞儀を返してきた。

一斗缶に座った男は、ひきこもりに質問を浴びせかけたが、返答まで二秒も開くと、勝手に自分のことを話し出した。男は鉄と名乗り、また、兎屋にもそう呼ばれた。なんの面白味もないところでゲラゲラと笑った。ひきこもりは身の上話が好きじゃなかったが、他人のを聞くのはもっと嫌いだった。何も言わないで誰もが解り合っているというのが、未だ見ぬ理想の世界だった。

「別に鉄を拾って売るからじゃねえんだよ。解る? 俺、鉄男っつうんだよ。俺の親父が病弱だったからよ、肺炎でさ。解る、肺炎。だから鉄の男。俺が工場で働いてたときはさ、グズだったから、鉄。わかる?」

鉄はげらげらと笑った。まったく解らない。皺が多く汚れた顔は、達磨だるまにそっくりだった。太い両眉はつながっていて、見事なM字に波打っていた。

「鉄拾ってるからじゃねえんだよ。解る? 鉄が鉄拾うようになったんだよ。でも、俺、でけえんだ。見るか?」

意味が解らないまま、はあと答えると、鉄は急に立ち上がり、三枚履きしたジャージを下ろした。ひきこもりは鉄の男根にうわっと声を上げて仰向き、それがますます鉄を面白がらせるのか、下ろしたままで兎の肉にかぶりついた。哄笑を轟かせながら気の向くままに肉を噛み裂く口には、いやに白い歯がちらちらと眩しく覗いた。

「そんなもん、いきなり見せんじゃないよ。腰が抜けちまってるだろ」

兎屋がたしなめるとそれが鉄の悪戯心をくすぐるのか、ますます調子付いて腰を前後に振った。尻や腹に当たってぺたぺた鳴る音が、いったん耳を舐めてからすうっと空に消えた。

「あの、確かにでかいっすけど……」

ひきこもりは畏まってみたものの、そんなものに対してお世辞を言ったことは無かったので、言葉を次ぐのに難儀した。普段は酒の勢いに随せて書く書くと言っているのだが、肝腎なときに言葉が出ないと嫌になり、でかいっすけど……と繰言くりごとになる。

「だろ、だろ」

鉄はもう二、三度腰を振ったが、ひきこもりがあまりに痛み入るので、つまらなくなってしまったらしかった。ジャージを引き上げると、同じく重ね着をした上衣を一枚ずつ交互に入れて、最期にきゅっと腰紐を縛った。ごつい指が踊るようにくるくるっと周って、蝶結びを二重にしたような特殊な結び方をした。しかも紐をよく見ると、ビニールテープを代用したものである。その一々に、ひきこもりは、書ける書けるぞ、と呟いた。

鉄が兎の肉を食べ終え、指先についた油まで綺麗に舐め取ると、兎屋が鍋を持った。煮込みはチョウさんの所へ持って行くと言う。行くか、と言われれば首肯するのは当然で、兎の煮込みの味こそ、神が宿るというあの細部ではないかという目算があった。

2015年7月19日公開

作品集『北千住ソシアルクラブ』第4話 (全10話)

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© 2015 高橋文樹

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