ちびっこジャーナリスト

北千住ソシアルクラブ(第7話)

高橋文樹

小説

5,414文字

荒川河川敷でホームレス生活をはじめたひきこもりの元へ、ついにジャーナリストが訪れる。

折りよく、それからしばらく雨が多く、フェンスの檻にひきこもりがちだった。芒の藪の面々は雨に難儀している素振りを見せながら、ひきこもりの様子を静かに見守っていた。

満寿屋の原稿用紙は手が切れそうなぐらいピンとして、汚されるのを待っていた。五十君と暮らした部屋での長いひきこもり期間、ワープロ画面を映し出したパソコンをまんじりともせず睨み続けるのが惰性となっていたから、それが原稿用紙に変わっても睨みつけてしまう。もう書くことは決まっているのだが、なかなか筆が飛び降りない。冷気を吸ったコンクリートが尻から熱を吸っていく。歯の根も合わず、ことこと震え、肌がつっぱり、そうした感覚の鋭さをすべて合わせても、一文字も出てこない。オイオイ。

男と簡潔に書くか、凝った名前をつけるか、一人称で書くか。どれも良く、どれも駄目な気がした。簡潔だと技巧派で、名前に凝れば喜劇っぽくなり、一人称なら読みやすい。そう思って万年筆のキャップを外した三秒後には別の考えが浮かんでしまう。簡潔だと味気なく、名前に凝ると厭味っぽい、一人称だと拙劣という具合。そうこうしているうちに、架橋から墜ちた雫が文学の処女地を濡らし、まん丸の痕を残した。安い万年筆は雨垂れに先を越された。ファック。

ひきこもりの万年筆が足踏みをしているうちに月齢がぐるぐる回った。寒さの底さえ越えてしまっていて、髭と髪は伸び放題、覗くのは目と鼻だけで、髪はナチュラルドレッドになった。しかも、鉄から貰ったビニール紐を頭に巻いているから、まるで晩年のジョン・レノンといった風情だった。

見舞いに来た五十君も、そのあまりの変わりぶりを面白がった。フェンスに指をかけ、原稿用紙の白さを嬉しそうに眺めていたが、ひきこもりがダンボールの下に隠れると、「今回は根気あるね」と真面目な顔になった。

「二ヶ月もってるんだから。亀夫くんが逃げないって、こりゃ事件だよ。すぐ戻ってくるかと思ってたよ」

「俺がいなくて淋しいかい」

「いや、嬉しい」

五十君はフェンス越しに頬笑んで、その素っ気無さに勿体付けた。ひきこもりはジーンズの膝に開いた穴のほつれを、夢中になってりまくった。オイオイ。細く縒ったほつれは、指を放すと花のように開く。

「俺は亀夫君がこのまま終わると思ってたからね。家でうじうじしてるだけじゃなあ、書けなくなるだけだよ」

ひきこもりは縒るのを止めた。薄蒼いジーンズはもうすでに穴だらけで、冬の冷気を吸い込み続けてている。さらなる褒め言葉を待つが、五十君はやっぱり勿体ぶって、その間にもひきこもりの下半身は深々と冷えていく。

「顔もだいぶ迫力出てきたね。ヒッピーっぽいよ」

ようやくそう言われて、ひきこもりの顔は、そうかい、と明るくなった。

「俺クラスになると、鏡見ないからなあ」

「虹の広場に公衆トイレがあったでしょ。あそこにあるんじゃない」

「鏡なんて、河原者には贅沢物さ」

「じゃあ、荒川に映して見りゃいいじゃん」

「水鏡かい。ファンキーだね」

そう言って右手を突き出し、親指を立てて見せたが、自分の手首が薄汚れていてぎょっとした。五十君の清潔な顔色で気づいたが、尋常じゃない汚れが溜まっているのだ。動揺ついで、がんばろうぜ、と呼びかけたが、五十君はにこりともせず、「俺はずっとがんばってるよ」と答えた。そして、そのまま飛ぶように走り去った。

同居を再開する気配の無い五十君が消え、手首の汚れ程度には絶望も色濃くなった。が、ひきこもりは夢見がちにこれで良かったと思い直す。五十君は圧倒的な生活者で、芸術の素養は無かった。今までのひきこもりは金銭的な面を除けば五十君におんぶにだっこ、ぬるい生活だった。

慣れない原稿用紙だから悪い、パソコンが欲しいと思ったが、河川敷には電源が無い。そもそも快適さへ戻ろうとするのが間違っている。追い込んでない。俺の家はこの檻の中だ。大体、尊敬している作家はみんな手書きだった。パソコンで書く奴にろくなのはいない。ファイルになった原稿なんか、ゴミ箱行きだ、ペン先から情念パトスが漏れ出るのだ。右手が腱鞘炎になるぐらい、書いて書いて書いて書きまくる。身を削って原稿用紙に叩きつけ、小説に己を刻み込むんだ。

夕方が来ると、ひきこもりはほっとした。昏くなってしまえば書けない。薄闇の中でぼんやりと白い紙面に向かい、ひきこもりは頭を下げた。明日こそ汚してやるからな。

しかし、汚す前に取材が来た。フェンスの周りに群がって、携帯のカメラを向けている。盗撮防止のために大きくしてあるシャッター音だが、遠慮なくちろりんちろりんと、原稿用紙の前でしかめっ面をしているひきこもりを画像ファイルに閉じ込める。

「ヘイヘイヘイ!」

と、得意のフレディ・マーキュリーの物真似で、不躾ぶしつけなカメラマンたちを押し止める。

「餓鬼ども! 取材は事務所を通してくれ!」

携帯を構えた子供たちは、ディスプレイを覗き込んだまま笑い声を揃えた。ひきこもりは戸惑いの中でも冗談を忘れなかったが、フェンスを取り囲む五匹の子鬼がなんとなく怖い。

「何だ、お前ら、どっから来た」

子鬼はえへへと笑い合い、答えない。今時の餓鬼はここまでフリーダムかと激昂して、檻の出口に手をかけると、子鬼たちの顔には恐怖の色が差して、きゃーっと逃げ出した。

「ファック・オフ!」

ひきこもりの捨て台詞は架橋の下で反響した。その余韻が消えないうちに電車が来て、轟音の中でぽつんと取り残される。

子鬼たちの無断取材がどういうことなのか判明するのは、一週間を要した。同じく取材を受けた兎屋が子鬼たちの無礼をやんわりと説き伏せたところ、学校の調べ学習だと口を割ったらしい。汐入しおいり小学校の課題だという。

当然、ひきこもりは激怒した。

「汐入小学校って、南千住なんせんにある新しい町っすよね? ブルジョワの子供じゃないっすか」

「ブルジョワって金持ちのことだろ。そんな奴、足立にゃいねえよ」

「いるんすよ、俺、新聞で読んだんすから」

ひきこもりが新聞という言葉に強勢を付けたのは嘘ではなく、実際に新聞でそういう記事があったのだ。昨今の高層マンション建設ブームは末期を迎え、建設用地の確保が困難になっている。二十三区内で空いてる土地はほとんど無いから、ついに南千住にまで食指が及んだ。東京のことを少し知っていれば、寄せ場の山谷や花街の吉原に近い南千住は避けるだろうが、地方出身者はそもそも知らない。マンションは建設予定時に完売したという。

「高層マンションに住んでんすよ? どう考えたって、ブルジョワの餓鬼じゃないっすか」

兎に餌をやっている最中だった兎屋は、ひきこもりの熱気に押される形で肯いた。

「でも、まあ、子供のやることだからな。お兄さんもちょっとは協力してやれよ」

「でも、チョウさんは俺のこと取材じゃないかって」

「だからあ、子供のやることだから」

兎屋が手にした餌を苛だち混じりにぶちまけると、白い弱者たちが散り散りに逃げる。脱兎の動きが素早い分だけ、踏みしだかれた枯れ草はぱさぱさと鳴った。枯れ草は少しずつ頭を起こし、不平を訴える。ひきこもりはぶんむくれて放兎場を後にした。

師走がすぐそこまで来ている時期だった。ひきこもりは疎らになった藪を出ることなく、枯れ芒を押し分けてチョウさんの家を目指した。子鬼たちはチョウさんの元へも来たらしかった。彼もまた、子供だからと譲歩していた。

「でも、タイ人のことだってばれるかもしれないっすよ」

「まあ、それは上手くやりますよ。家に上げなければいいわけだから」

「でも、ブルジョワっすよ。俺らのこと面白がってるんですよ」

チョウさんはふっと笑いを漏らした。その仕草のせいで、ひきこもりは自分が何も知らないような気分になる。油の抜け切った小屋の材木が垢臭い。俺らという言葉に込めた積もりの自負は、チョウさんの前だといつも霞んだ。

タイ人は小屋の奥で小さな寝息を立てている。呼吸の間隔は狭く、いつ末期の吐息に変わってもおかしくない。子鬼だけが許されていることへの嫉妬心は急に萎んで、遅ればせの気遣いが首をもたげた。

「具合、どうっすか」

チョウさんはタイ人を見やると、ため息をついた。

「まだ意識は戻りませんね。もしかしたら戻っているのかもしれませんが、まあ、ここではね。満足に治療も」

「俺、医者探しましょっか? 闇医者みたいなの。山谷やまとかに行けば、一人ぐらいいるんじゃないっすか」

「いませんよ、そんな人。お話だけの作り事です」

「なんか、できることないっすか。俺、やりますよ」

「大丈夫。あなたも一々動揺しないで、子供なんか適当にあしらってやればいいんですよ」

チョウさんは扉に手をかけた。優しい拒絶の速度で閉まり始めた扉はきいとかん高く鳴いた。扉が閉じると、垢の匂いは消え去って、川面を走る風に乗った土埃の匂いが鼻を塞いだ。

――迷い者たちの社交である。迷ったという言葉を真面目に捉え、形而上学的陥穽だとか、意味探求の袋小路だとか、気に病む必要などなかった。開き直ってしまえば人生は半分成功したようなもので、単に無決定であるという迷いがずるずると人を貶める。チョウさんだってその蟻地獄に足を取られた哀しい迷い子で、かつて見捨てられたか見捨てたかした者の常として、人の往生の半ばを過ぎても変な純粋さを失わないでいる――ひきこもりは閉ざされた扉の向こうに向けて、そんな批評をした。

少しは悟り、ちびっこジャーナリストを手伝ってやることにした。学校の始まる前に河原へ来させ、鉄屑拾いに同行させたのである。鉄はもちろん嫌がらず、子供たちにあれこれ説明をした。子供たちはV6エンジンの相場や一日の収入などをジャポニカ学習帳に逐一書きつけていくが、その数字のいかんともしがたさについて、ちびっこジャーナリストたちは何も知らない。自分のお小遣いと比べてちょっと少ないぐらいだという程度の認識である。

芒の藪から一キロほど東に回ると、堀切橋がある。そのたもとにはやはり住人がいて、また別種の社交場が形成されているのだが、ひきこもりの属する集団と交わることは無い。遠巻きに意識しながら、お互いの領域を尊重し合う。ひきこもりは鉄のリヤカーを押しながら、そろりそろりと音を立てないようにした。彼のように若い宿無しは、とかく注目の的になる。堤を越え、鉄屑屋まで到着すると、やっと息を抜けた。

計量器の分銅が大きく下がり、七千円の値がついた。皺の寄った千円札には、一枚だけ夏目漱石が混じっている。

「な、解る? こうやって働いて、お金を貰うんだぜ。俺たちゃ働いてんだぜ。な」

鉄の噛んで含めるような口調は、歯抜けのせいでふがふがと覚束ない。ちびっこジャーナリストにはその意味が解らないのか、とりあえずジャポニカ学習帳に《はたらいてお金をもらう》と書きつけた。鉄はその従順さを見て笑顔を浮かべる。ひきこもりは応える形で笑ったが、それは子供に覚えた微笑ましさというより、酒代が出るという恥知らずな損得勘定のせいだった。子供に対する同情心など持ち合わせていなかった。

「それじゃあ、な、肉まんでも食ってくか。な」

鉄はそう言うと、堀切橋近くのコンビニへ入り、肉まんを人数分買ってきた。ちびっこジャーナリストたちは、朝飯はもう食べた、お腹減ってない、などと見え透いた嘘をついて逃れようとしたが、遠慮を嫌う鉄の顔が少しずつ赤くなってくると、身内の一人を生贄にした。

「クリボー、おまえ喰えよ」

「そうだよ、おまえ食えよ」

「おまえ、朝飯食ってこないんだろ」

一人を除いて、また子鬼に見え出した。明け透け過ぎるせっつき方のせいで、鉄の顔は赤みを通り越して紫になり始める。それがまた子鬼どもを焦らせるから、肘で小突くテンポが上がる。両脇からぽこぽこやられて、クリボーの身体はどんどん縮まっていく。肩を竦めて股を寄せるから、本当にクリボーみたいな体型になった。いじめられっ子は菌類にまで身をやつして、それでもまだ哀しそうな顔をするだけだ。怒れよ、とひきこもりは祈った。

「食わなくってもいいけどよ、ちゃんと書けよ」

ひきこもりは太い声を出した。いまや細面を覆っている髭が動いて、言葉に凄みが出ている。子鬼どもは振り向くと、意味解んないとでも言いたげな不満顔をしていたが、その底にはかすかな怯えが覗いている。

「肉まんをくれたのにキモいから食わなかった。そうやってちゃんと書けよ。で、先生に見せろ」

「そうじゃないよ」

「そうだよ。だから食わなかったんだろ。おまえらは人の優しさを踏みにじる嫌な奴らなんだから。ちゃんとそう書けよ」

子鬼のリーダーらしい子供は、しおらしい顔して、じゃあ食べますよ、と手を伸ばした。それがまた小賢しくて、ひきこもりは肉まんの袋をひょいと上げた。子鬼の手は何度か宙を泳いだ結果、ついに諦めた。連れ立って汐入大橋へと急いで行く。これであいつらの調べ学習とやらも頓挫した。ざまあみやがれ、と三十男がほくそ笑んだ。

帰路、空のリヤカーを引く鉄は悲しげだった。あるいは、彼にも子供のいる過去があったのかもしれない。ひきこもりはリヤカーを押しながら、あれこれと想像した。何かを捨てて河川敷に迷い込んできたのだ、その何かはのっぴきならないものだろう。俺だって、とひきこもりは考えた。しかし、その後に続くような何かはなかった。どちらかというと、彼は何かを探してここへ迷い来んだのだった。

2015年7月22日公開

作品集『北千住ソシアルクラブ』第7話 (全10話)

北千住ソシアルクラブ

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© 2015 高橋文樹

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