ここにいるよ(1)

ここにいるよ(第1話)

高橋文樹

小説

1,990文字

編者による異言――序に代えて

ある男がいた。控え目で我慢強いようでいながら、瑣細なことで子供じみた我の強さを発揮する男だ。

彼はまた、バランスを欠いた記憶力の持ち主だった。詰まらない会話をそっくりそのまま憶えていることもあれば、心に深い印象を残すような出来事を綺麗さっぱり忘れていることもある。

自分のことを他人事のように見る男でもある。単なる冷酷な人間なわけではない。ほとんど関わりのない人間に熾烈な好奇心を抱いたりもした。

彼のような人間を端的に表す言葉は日本語にない。寒い異国の言葉を借りれば、『あれは複雑な人間だから』とでもなるだろうか。もっとも、それで何か新しいことを言ったことにはならない。そもそも人間は複雑なものだ。

この書物は彼の書いたノートを編集したものである。『優れた完成はいつも未完の形を取る』――そう断っている書物に言葉をつけ加えるのは蛇足になるかもしれない。が、読むにあたってのルールを三つだけ補足しておこう。

一、間違って届けられた手紙のように読むこと。

小説めいた様式で書かれたこの書物は、その実、誰に向けて書かれたという性質のものではない。むろん、日記のようにその著者が自身の過去を読み返すために書かれた、というわけでもない。おそらく、彼はこの文章が一体誰のために向けられているのかさえわからないまま、綴り続けた。

しかしそれでいて、この書物自体は誰かに読まれることを期待しているようにも読める。それもあながち間違ったことではない。言葉はみな、そういう誤配性を含んでいる。

宛先の無い手紙を想像して欲しい。現実では差出人に返送される。だが、もしも郵政公社が野暮な判子(宛先不明!)を押さなければ、それは誰か適当な人の元へ配達されるのではないか? そして、宛先がないために、たまたまそれを受け取った人が正しい宛先、言葉本来の意味での適当な宛先だったということになる。

実際には起こりえない、ロマンティックな手紙の誤配。この書物はそのように読まれなくてはならない。

二、無名のものを名付けないこと。

この書物の中でほのめかされている事物を特定することは、それほど難しくない。実際、あなたもこの書物をよく読み、少し頭を働かせれば(あるいは、新聞などの保存記録アーカイヴを利用すれば)、すぐにわかる――あの時、あの事件を起こした、あいつだ!――と。

警察庁広域重要指定事件***号と、ここで具体的な数字を挙げることもできなくない。それであなたの労力は一気に軽減されるだろう。インターネットで検索にかければいいのだ。だが、それは一番やってはならない、無粋の極地だ。

下衆の勘ぐり、とまでは言わないが、現実と照応することはやめた方がいい。この書物では、日付も、場所も、人名も、そのほとんどが剥ぎ取られている。それにはきちんとした意味があるのだ。

固有名詞は呪術めいた力を持つ。そして、その呪力は、言葉のもっとも正しい意味を失わせてしまう。彼は言葉というものに対して、本当に真摯だった。だからこそ、固有名詞の使用には慎重だった。

その一方で、この書物は固有名詞を巡る書物とも言える。ある特定の時間や、場所や、そして個人が特別であるということ――あるものは他のどんなものとも取り替えが利かないということ。彼はまさにその厳粛さそのものを書こうとし、それゆえに固有名詞を排した。

本物の唯名論ノミナリズムには名前がないものだ。

三、理解するのではなく、ただ受け止めること。

ほとんど鈍感にすら思える彼に対して、共感を抱くことは難しいだろう。「なんでこいつはこうなんだ」と苛立つこともあるかもしれない。赤の他人の落度は目立つものだから。

とはいえ、場合によっては、ある些細なエピソードがあなたに「その気持ちわかる」と思わせるかもしれない。どんな人間でも、だいたい同じような日常を生きているものだ。それは彼に対して親近感を抱く契機となるだろう。

しかし、そのような共感は誰かを本当の意味において理解するためには、何の役にも立たない。それどころか、存在していることの聖性を剥ぎ取ってしまう。時として世界は奇妙な手応えを持つ。それをありのままに受け止めることでのみ、世界は本当の姿を晒す。

ある種の人々にしかめ面をさせ、遠ざけてしまうふてぶてしさ――彼はそれによって何に近づいたのか。共感しようとする限りは、そこには行けない。ただ理解できないものを理解できないまま放っておくこと。「それはそこにあるのだ」という認識だけを持ち、見つめ続けること。そうすることでのみ辿り着ける逆説的な聖域がある。

 

以上三点がこの書物を読むにあたっての最低限のルールだ。つけ加えるべきことはもうない。

単なる友情から、この筆者とイニシャルを同じくする憂鬱性の作家の言葉を残そう。扉辞エピグラフではなく、墓碑銘エピタフとして。

『誰でもMの名前を傷つけてみろ……たとえそれが親父だって殺してやる!』

――F・K

2015年7月24日公開

作品集『ここにいるよ』第1話 (全26話)

ここにいるよ

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© 2015 高橋文樹

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