ここにいるよ(4)

ここにいるよ(第4話)

高橋文樹

小説

5,770文字

美しい時代を過ぎて社会人になった「私」ははじめて勤めた会社で天才プログラマーの幹と出会う。

『人は美しい季節が過ぎても生きていける、生きてしまう』――そんなことを言った詩人がいたような気がする。名前はわからない。もしかしたら、そんな詩人はいなかったかもしれない。

ぼくは――いや、この頃はすでに「私」だった。学生時代が終わりを告げ、社会人としての振る舞い――お辞儀の角度や、名刺の同時交換法や、上手下手の席順や、宴席や旅館の手配法、クレーム処理法など――を身に着けていくにつれ、「私」という一人称を用いることに違和感がなくなっていった。そんな過渡期だったと思う。

予定通り、私はパソコンソフト会社の営業部に配属された。研修期間を経て、外回りや家電量販店でのキャンペーン、顧客対応など、一通り必要なことをやっていった。期待されていたわけでも、されていなかったわけでもない。三十人いた同期の中でニュートラルな位置につけ、淡々と仕事をこなしていった。もっとも、スマートにこなしていたとも言えない。時代はITバブルの真っ只中、新しい会社ということもあり、拘束時間も長く、激務だった。必死の努力で淡白を装っていた。いくつかの倫理的葛藤を経て、やっとのことで身に付けた労働態度だった。

どうしてそうなったのかというと、他でもない、自分の売っている物がわからなかったからだ。就職以前の私にパソコンの知識はほとんどなかった。仮に世界からパソコンが消えたところで、私はそれほど困らなかっただろうし、困ったとしても、その原因をパソコンに求めたりはしなかっただろう。就職してからは、営業職に求められる知識を学びはしたし、若くして起業した社長の理念にも共感していた。本当に熱くて、変革意識に満ちた会社だった。しかし、そこに血は通わなかった。CD数枚のソフトが入った数千円のパッケージは、あいかわらず軽い。その軽さが信用できなかった。空虚そのものを売っているような罪悪感が常につきまとっていた。

短い期間とはいえ、それでも仕事を続けることができたのは、他ならぬ一人のプログラマーの存在だった。

彼は幹といって、私と同期入社で、異例の採用が噂になっていた人物だった。なんでも、有名国立大学の修士に在籍中から、社長自ら出向き、小さな会社には珍しい高待遇でスカウトしたという話だ。他にも、いくつかの尾ひれがついていた。彼の持つ幾つかのハンドル・ネームのうちの一つは、インターネット内のある狭い領域においてカリスマ的な響きを持っていたらしい。いくつかの重大なクラッキングは彼の手によるものらしい。アメリカの有名IT企業からもスカウトがきていたらしい。とにかく、社会人らしからぬ彼は、二十人いる同期の中で何かと注目が集まった。歴史の浅いこの会社にあって、技術部門のトップに君臨する日も遠くはない――そういった話が公然と囁かれていた。

外見も人目を引いた。百九十センチを越える長身、膝まで届きそうな長い手、細い三白眼、坊主頭。彼が背を丸めてパソコンに向かっている姿は、異様ですらあった。特に、頭の後ろで手を組んで椅子にもたれかかっている時など、あつかましいほど才気走っていた。ありとあらゆる種類の近寄りがたさを持つ彼に話しかけることは難しかった。彼自身が人嫌いということもあり、もし有能でなかったら誰も話しかけなかったに違いない。

それでも、幹は私を気に入っていた。たぶん、私には高校時代、彼と似た――外見や性格ではなく、信条や倫理観の似た――友人がいたから、その種の人々の扱いに長けていたのだろう。私はあつかましくも彼に話しかけ、彼もそれを心待ちにしていた。二人で飲みに行くことも多かった。他に彼を誘いたがる人間はいっぱいいたし、時には会社の上役からの誘いもあったようだが、彼はそのほとんどをきっぱりと断り、私との約束を優先させた。

何を話したのか、あまり詳しくは思い出せない。大体、人生哲学のようなことばかり話していたと思う。私はなるべく聞き役に回るようにしていた。幹は様々なものを罵倒し、軽蔑を露わにした。吐き出すことそれ自体が楽しかったのだろう。

「みんな、不安なんだ」

彼はよくそう言っていた。何かを批判した後、付け加えるのだ。その言葉はいつも、彼に対する敬意を私の心に芽生えさせた。分からないものを前にした時、人は怯え、苛立つ。だが、彼にとってそれは当たり前のことだったのだろう。わからないものを前にして粛々と前進を続けようとする勇敢な態度は、私にある小説家を思い出させた。『後世という名前で呼ばれる、くだらない永遠のことなんて口に出すのはやめよう』――そんな風に、彼はかっこよかった。私は彼と話をするたび、自分の職業的罪悪感に向き合うことを決意した。

三年間もその会社にいたのは、まさに彼のためだったと言ってもいい。その会社はソフトフェア専門だったので、当然、技術部門の占める力が大きかった。彼は早晩高い地位につくだろう。そして、もしも生贄山羊スケープ・ゴートを必要とする時があったら、喜んで身代わりになろう。そんな英雄気取りの空想だけが、私を会社に向かわせていた。

もっとも、振り返ってみれば、純粋な英雄意識だけかはわからない。彼の出世が火を見るより明らかな以上、ひっついていればついでに出世できるというのもまた明らかなのだ。そういった下衆な目算などなかった――言いきることはできるけれど、証明することはできない。

 

会社を辞めたのも、やはり幹が原因だった。三年目も半ばを過ぎ、秋の人事が済むと、私は間近に控えた大きなイベントに携わることになった。営業部の後輩三人の上に立ち、今までよりも少しだけ責任のある地位にいた。ビジネス向けのソフトを開発した直後で、私個人のキャリアにとっても、会社にとっても、重要なイベントになるはずだった。

新商品説明のために多少の専門知識が必要だったため、プログラマーである幹とも一緒に仕事をすることになった。

詰めのミーティングで忙しくなった頃、日曜出勤できるかどうか、と幹が訊いてきた。私はてっきり営業面と技術面の意見を詰めるための相談でもあるのかと思い、内容も聞かずに承諾した。

当日、会社に行っても誰もいなかった。窓から差しこむ光で薄暗い化粧を施された職場は、それだけでもう見なれないものだった(あの場所は、今まさに私がいる場所に似ている)。

会議室のドアを開けると、幹が一人で待っていた。ノートパソコンのディスプレイが暗い微光を放ち、彼の顔を照らした。

「よう。休日出勤とはおまえらしくないな」

彼はディスプレイに視線を落としたまま言った。

2015年7月28日公開

作品集『ここにいるよ』第4話 (全26話)

ここにいるよ

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© 2015 高橋文樹

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