ここにいるよ(3)

ここにいるよ(第3話)

高橋文樹

小説

5,382文字

Mの家庭教師として過ごす「ぼく」にとって当時の記憶は圧倒的な色彩を帯びている。

当時の記憶は、私の人生の他の部分と比べると、圧倒的な色彩に満ちている。お手伝いさんの白髪がどんな具合だったかも、私の一人笑いを怪しげに眺めたOLの着ていた服――たしか白いシャツにベージュのパンツで、こげ茶色のトートバッグを抱えていた――も、まざまざと思い浮かべることができる。もちろん、Mのことも。

幸福を喜びだと捉えるならば、あの時の私は人生で最も幸福だったのかもしれない。あれほどうきうきした気持ちでいたことはなかった。Mは私の人生で出会った人間の中で、もっとも好ましい人間だ。彼女と一緒にいる瞬間、一秒ごとに時を重ねていくこと、たったそれだけのことが喜びに他ならなかったのだ。

『私の活動領域は時間だ』――たしか、そんなことを書いた大家がいた。当時の「ぼく」なら、あつかましくもそんなことを言ってのけそうな気がする。

 

 

Mと一緒に過ごした期間は二年。彼女が高校を卒業するまでに家庭教師として過ごした期間だ。

週に一度、彼女の家を訪れ、二時間の授業をした。夕飯を一緒に食べることも、ちょっとした買物に付き合うこともあった。一般的な家庭教師像というものがあるとしたら、それを少し逸脱していたことになる。

しかし、彼女を好きになろうとは思わなかった。というよりも、好きにならないように理由づけるのに必死だった。

たとえば――彼女の両親は共働きで、それぞれに会社を経営している、当然、家にいる時間は少ない、だから、Mがぼくと一緒に夕飯を食べたがるのは、両親のいない寂しさを紛らわすためなんだ――こういった具合に。彼女がいたことを理由にしたこともある。女子高生と付き合う人間は意気地なしだと自分に言い聞かせたこともある。

ぼくは言い訳がましく、彼女の引力へと抗っていた。それはとても難しい仕事だった。ふとした瞬間、Mに心を奪われそうになった。

通学用の自転車が壊れてしまったので、一緒に見てほしい――そう言われたことがあった。ちょうど梅雨の時期で、道路のあちこちに水溜りができていた。自転車屋へと向かう道すがら、Mは水たまりの一つ一つを「ちゃっ」という掛け声と共に飛び越えた。成功すると、得意げな表情でぼくを見た。踵が水を跳ねてしまったりすると、悔しそうに嘆いた。大きな水溜りを見つけると、わざわざ遠回りして、飛び越えに行った。ぴったりしたサブリナパンツの裾から覗くふくらはぎは、跳び立つ瞬間、うっすらとえくぼを浮かべた。

自転車屋に着くと、ぼくはMの好みを訊いた。これといった希望はなかった。値段も、デザインも、機能も、何も。結局、ぼくは無難な赤い自転車を選んでやった。暗くなると自動的に点灯して、サドルに盗難防止のロックがついていて、前カゴが大きくて、三段変速で、最新式の錠を備えたやつだった。自転車を転がしながら店を後にすると、Mは大はしゃぎで乗ってみたが、あまり上手ではなく、よろよろしていた。しばらく安定するまで、自転車の後を持ってやることにした。すると、Mは自転車を漕がなくなり、そのまま家まで押して行ってほしがった。ぼくは特に文句も言わず、そのまま家まで押してやった。

後日、この日のことを大学の友人に伝えた。友人達はそんなにかわいいならその子を紹介しろと言ったが、ぼくはその反応に苛立った。Mの女の子としての魅力を伝えたかったんじゃない。自転車を買いに行く、たったそれだけのことでこんなにもチャーミングな一日が訪れるということ――それを伝えたかったのだ。

それがきっかけというわけじゃないけれど、Mを教えるようになってから、大学の友人達との会話をそれほど楽しめなくなった。特に、第三者の中傷や批判を肴に酒を飲むことが嫌になっていた。わざわざ醜いものを見るのではなく、基本的なことに喜びを見出すような、些細なことにでも真摯な幸福を探せるような、そんな態度に憧れるようになっていた。ぼくがMに吸いこまれそうになるのも、彼女がそういう態度を見せた時だったのだ。

そういえば、Mと一緒に美術館に行ったこともあった。美術の課題のために、何か参考になるものはないかと相談されたからだ。美術などまったく趣味ではなかったが、たまたま電車の広告で、近所の美術館がシャガール展を開催していることを知っていたので、そこに行くことにした。

絵画の見方などさっぱりわからないぼくは、一つ一つの絵の前で長い時間立ち止まった。そうすれば、美術鑑賞らしく見えると思ったのだ。Mはぼくの隣りで感想を耳打ちした。館内の中年夫婦などはかなり大きな声で話していたので、そこまで気にしなくても、とも思ったが、Mはヒソヒソ声で通した。そんな奥ゆかしさがなんだか微笑ましかった。

Mが特に気に入ったのは、どの作品にも繰り返し表れる、山羊だか牛だかわからない動物だった。赤いのや、白いのがあって、タイトルには「ロバ」と入っているものもあれば、「牛」と入っているものもあった。ぼく達は議論の結果、それを山羊だと思うことにした。Mは「これかわいいね」としきりに耳打ちを繰り返していた。

それからだいぶ経って、Mに勉強を教えている最中、英語の参考書にシャガールの山羊を真似た絵を発見したことがあった。それもかなりの量だ。そんなに気に入ったのかと尋ねると、Mは「一日一個書いてるんだよ」と答えた。たしかに、それぐらいの量だった。家庭教師を終えるまで、Mはシャガールの山羊を書き続けた。

他にも、いくつものエピソードを積み上げていくことはできる。Mという人間に関するビビッドな記憶には事欠かない。その記憶は、Mに引き寄せられまいとする「ぼく」の苦い言い訳と共に甦ってくる。

どうしてそこまでMの魅力に抵抗したのか。意固地になっていたのか、臆病だったのか……当時のぼくにはよくわからなかった。今の私は後者だと思う。メグに語った言葉に答えはある。

Mは、私がこれまで出会ってきた、けっして少なくない人々の中で、「聖性」を備えた唯一の存在だった。その性質を彼女の幼さに求めることはできるかもしれないが、私の見た「聖性」とは、単なる子供じみた純粋さとは違う。時の侵食を受けないもの――不壊なるものだ。誰にでも素質はあるが、ほとんどの人はそれを眠らせたまま腐らせる。

だからこそ、多くの人が彼女のことを好きになるだろう――当時の「ぼく」はそれを恐れた。見返りなしに誰かを好きになったりできるほど勇敢な人間じゃなかった。Mがぼくだけを好きでい続けることは絶対にない――最終的に到達する真理がそれであることは間違いなく思えた。そして、その真理を得たぼくが激しく苦しむであろうことも。臆病な人間は遠回りをしたがる。

『深淵を覗きこんだ者は、深淵に覗き返される』――ある哲学者の言葉。ヘーゲルか、ニーチェか、ハイデッガーか――わからない、とにかく、ドイツ語圏の哲学者の言葉だ。

 

Mに対する諦観に達したのは、彼女の卒業直前、家庭教師として最後に会った時だ。

その日、ぼくとMは「城」へと向かった。ぼくも卒業間近というのもあって、もう「城」のバイトは辞めていたけれど、話を聞いたMが行きたがったのだ。

Mは卒業後、付属の女子大学へと進むことになっていた。トップクラスの私立大学に受かる実力を持ってはいたが、結局は受験しなかった。ぼくはぼくで、小さいながら勢いのあるパソコンソフト会社の営業部に内定していた。それぞれの進む道はまったく別の方角を向いていて、なんの努力もしなければ、その道が交わることはない。ぼくは色々なことを話す必要を感じていた。もしかしたら、Mもそうだったのかもしれない。彼女は薄いピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織り、メイクもしっかりして、いつもより大人っぽい格好だった。

店内に入ると、常連客はぼくとMの顔をじろじろと見比べた。みんな、どんな顔をしていいかわからないみたいだった。怒ったような顔の人もいれば、微笑む人もいる。とにかく、分不相応な女性を連れてきた、あの冴えないアルバイト――つまり、ぼくのことだが――に対して、様々な感情を含んだ視線が遠慮なしにぶつけられた。

席についたMは、常連達の注視の中、例の五百円のブレンドコーヒーと、ショーケースの中で化石になっていたチーズタルトを注文した。その瞬間、店内には沈黙のどよめきが上がった。チーズタルトの注文自体が稀だったし、何より、Mのような少女が、常連客の飲むあの怪しげなコーヒーを注文するのは、有史以来の出来事だった。

出てきたコーヒーは夜よりも暗い色をしていた。Mはカップにそっと口をつけ、少しだけすすった。カップの縁に、彼女のつけてきたグロスがうっすらと跡を残した。

「どう? こういう店で出すコーヒーは」

ぼくは無言の圧力に圧され、そう聞いた。

「うん、おいしい。大人っぽい味がする」

再び沈黙のどよめき。聞き耳を立てていたらしい常連客達は、いっせいに浮き足立ち、新聞をめくったり、煙草に火をつけたりと、とにかく何かをしだした。常に物静かなマスターですらそうだった。彼はニーチェのような口ヒゲを少しだけ動かし、いかにもいやらしくほくそ笑んだ。マスターがあんな風に下卑た笑いを浮かべたのは、あれが最初で最後だったと思う。

常連達の監視はずっと続いた。その中で、ぼく達はいくつかのことを話した。Mは、男の子と付き合った事がないという、あまりに率直すぎる話を蒸し返した。

「大学は女子大だし、出会いないよ。ホント、どうしよう」

「でも、合コンとかいっぱいあるから、すぐにできるよ」と、ぼくはなるべく関心がなさそうに答えた。

「そうかなあ。そういう場所で近づいて来る人って、なんかやだ」

「しょうがないよ。そういう風にしか近づけないこともあるんだから」

「そういうもんなのかなあ」

「そうだよ。高校を出たら、世界が一気に広がる。そうしたら、たくさん寄ってくる。そのほとんどはクズだけど、中にはいい男もいるはずだから、注意深く選べばいい」

「ええ、そうかな? 私、モテないし。告白されたこともないよ」

「違う違う。Mは高嶺の花すぎるんだ。それに、中高と女子校だったろう? そのせいで恋愛経験がない子はけっこういるぜ。俺の大学にもいたよ。顔も性格もいいのに、恋愛経験がない子は」

「でも私の友達のスッゴイかわいい子は、K高校で一番かっこいい子と付き合ってるよ」

「それはたまたまさ。Mを町で見かけて好きになって、そのまま想いを胸に秘めてる奴はたくさんいるよ」

Mはじっとぼくを見た。

「たとえば、朝の通学電車が一緒の奴とか」と、ぼくは弁明するように言った。Mは「でも、私、チャリ通だよ」と笑い、溜息をついてから続けた。

「じゃあ、私から積極的に行った方がいいのかな?」

「その方がいいかもね。Mが好きだって言ったら、それだけでその人は幸せになれるよ」

Mはまじまじと私の顔を見つめていた。あけっぴろげになることを恐れた私は、「でも、Mはどんな人になるんだろう」と、話の方向をずらした。

「わかんない。変なのにならないように、一生懸命生きるよ」

彼女の頬は呆れたようにひきつっていた。

「そんなこと気にしなくていいんじゃないか。色々なことをして、好きなように生きればいい。他人の目なんて気にすんな」

「そしたら彼氏できないかも」

「Mなら大丈夫だって。最終的には俺のとこにくればいいって」

Mは悲しそうに笑いながら、コーヒーを一口含んだ。

「でも、先生はそれまでどうすんの? ずっと先のことかもしんないよ」

「それまでは……ふらふらしてるよ。誰も好きにならないで」

「でも、彼女いるんでしょ?」

「あれは……たぶん、本当に好きじゃないんだ。いざとなったら、全部かなぐり捨てるよ」

「ふうん。『あれ』だって。彼女がかわいそう」

Mはそう言って小さく溜息をついたきり、何も語らなくなってしまい、スプーンでコーヒーをかき回した。それはぼくの愚かさを慰めるようでもあったし、ただ単に弄んでいるようでもあった。Mはそんな風にして、自分だけの儀式的な行為に耽ることがよくあった。スプーンがカップの内側を擦って音を立てると、まるでそれが美しい旋律であるかのように、誰もが耳を傾けた。スピーカーからはジョニー・ミッチェルの物憂い歌声が流れていたが、ほとんど聞いている人はいなかった。

その後、ぼく達はこれといって記憶に残るような話はしなかった。将来の話を漠然としたことだけは憶えている。

N駅の改札まで送って行く途中、Mが何かを言いかけた。ぼくは立ち止まり、彼女の顔を見た。口を閉じたまま、その左端を引いていた。考えこむ時にする表情だ。なかなか言葉は出てこない。待ち切れなかった。ぼくは彼女の名前を呼んだ。

「なんですか?」

「元気で」

そう言って笑いかけると、Mは口元の緊張を緩めた。そして、口を開きかけ、ためらうような仕草を見せてから、「先生も」と呟いた。

彼女が私のことを「先生」と呼んだ瞬間、ある色彩が彼女の顔から消えた。去って行く後ろ姿を見つめながら、彼女がぼくの名前を呼ぼうとしたこと、そして、それは叶わず、ぼくはあくまで「先生」のままだったことを知った。悲しいのは確かだったけれど、同時に安堵を憶えたのもまた確かだ。

それから、Mと連絡を取ることはなかった。

2015年7月28日公開

作品集『ここにいるよ』第3話 (全26話)

ここにいるよ

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© 2015 高橋文樹

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