方舟謝肉祭(11)

方舟謝肉祭(第11話)

高橋文樹

小説

8,545文字

ついに宗おじさんは南陽群島からの帰路についた。強い決意を秘めた旅路は、成功への予感を秘めて終わるはずだった。しかし、ほんの小さな過ちが、大きな災厄を呼ぶこととなる。宗おじさんら一向を待ち受けていたのは、深い深い絶望だった。

Chapter Three……方舟

三‐一 聖者の帰還

 

大正十一年七月一日。海光丸は二ヶ月近い旅路の復路についた。

コロール港の埠頭には何人もの見送りが来ている。南洋商会の面々や南洋庁の役人などの日本人ばかりではなく、土人の姿もあった。パラオ本島のルバックは礼の独乙(ドイツ)軍服を着て、鉄兜を(かぶ)っている。精一杯の礼装なのだろう。泣いている者も多くあった。

松屋汽船の一行からは三人が残った。旅館建設の責任者である郷中金之助と、洋食コックの萩俊介、そして、宗光が群島視察に出かけている一月の間に萩と(ねんご)ろになっていた芸者の一人であった。一月後、宗光は再び南洋を訪れるつもりでいる。その時は金之助の家族を連れて来る。一家丸ごと移住してもらう以上、中途半端な気持ちではない。

汽笛が響き、海光丸が離岸していく。埠頭には声が響いた。さようならと口々に交わされる哀切な響きは、海鳥の鳴き声に混じった。船が離れていくに連れ、惜別の声は小さくなる。いつしか、海鳥の声だけが残った。

別れの悲しみも束の間、宗光はすぐに真面目な顔に戻った。また危険な船旅につかなくてはならないというのも勿論(もちろん)、新事業に向けて一時の離別を悲しんでいる暇はなかった。日本に帰ったら、すぐに神戸銀行の中村へ事業報告書を提出しなくてはならない。また、井狩に旅行記を書かせ、出版する。もう新聞に広告は打ってある。

海光丸の船足は十ノットと、決して速くない。中古船の多い松屋汽船の船でも、十五ノットほど出る船は沢山ある。解っていた事だが、この時ばかりはその遅さがもどかしい。

寸暇を惜しむ気持ちが宗光を船橋(ブリッジ)へと駆り立てた。

「種村氏ィ、近道は出来んじゃろうか」

種村にしてみれば、扉を開けるなりそう言われたのである。驚いて目を丸くしていた。

「なんですか、急に」

「いや、近道が出来んものかと思ってな」

種村は腕を組んで黙り込んだ。机上の海図に目を落としているが、その表情は曇っている。宗光は「のおた、無理か」と肩を落とした。

「無理じゃありませんがね」

「おお、行けるか」

「しかし、ヤップ島とサイパン島に寄る件はどうするんですか。穂積社長の息子さんとの約束もあるでしょう」

「そんなもん、日本に帰ってからで()えんじゃ。今は()(かく)、一刻も早く日本に()ぬらんとならんけえの」

種村は再び考え込んでいるようだった。そして、しばらくの間を置いて「少し時間を下さい」と小さな声で言った。

宗光は船橋を出て、甲板の木椅子に寝転がりながらも、どこか落ち着かず、そわそわと寝返りを打った。こうしている間にも手遅れになるかもしれない。しかし、何が? それはわからない。宗光はいつも焦っていた。彼は速度の人であった。

甲板を打つ踵の音に振り向くと、小見が立っていた。逆光のため、表情は見えない。

(にぃ)ま、近道するんですって」

「なんじゃ、耳が早いの。種村氏ィに聞いたんか」

「そら、(わし)は一等航海士ですけえの。それに、船長が機関部の連中に燃料の事を訊いちょったから、なんとなしに解りました」

「で、どうじゃ、あんたの見込みでは」

「大丈夫じゃと思いますよ。この船は遅いですが、船倉がでかいけえ、石炭は沢山積める。二〇〇〇海里は()う行きます」

「まあ、おまえの見立てじゃそうかもしれんが、種村氏ィの意見はどうなるかわからんけえの」

憶測を重ねている間に、種村がやって来て「行けますよ」と笑いかけた。小見もまた「ほれ」と言って笑った。その二つの笑顔は宗光の焦燥感を少しだけ宥めた。

船はヤップ島へ向かう東北東から、北に進路を取った。神戸港まで直行するのである。一七〇〇海里の長丁場だが、途中の海を遮るものは一つも無い。だだっ広い太平洋を突っ切ればいいのである。途中、海流が複雑にうねる海域もあるが、種村の経験と松屋汽船の優秀な船員の力をもってすれば、どうという事も無い。

航海から二夜が明け、七月四日、宗光は甲板に出ていた。そうしていれば速度が増すというわけでもないのに、舳先(へさき)に身を乗り出し、行く末を眺めていたのである。事業報告書を(まと)める傍ら、息抜き代わりにそうするようにしていた。前方には島影は無く、魚群を狙う海鳥の群れがある。海鳥は次々の水中に飛び込み、魚を(すく)い上げた。(くちばし)に挟まれた魚の鱗は、太陽の光を照り返し、直視できないほど眩しくなる。それでも、宗光は前方から目を逸らさずにいた。

「松永はん」と、呼びかけたのは芸者の一人、ちよである。「お忙しいんどすか」

芸者達の中で一番若いちよはもじもじと居た堪れないように膝をすり合わせていた。

「なんちゅう事も無い。ただ見てただけじゃ」

2007年8月14日公開

作品集『方舟謝肉祭』第11話 (全24話)

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© 2007 高橋文樹

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