Chapter Five……謝肉祭
前編 フェアリーテイル(一)
太平洋には亡霊が出る。そこでは誰もが望みの半ばで死ぬのだ。未知の希望へと向かう途中、あるいは親しい団欒へと帰る途中。そこには心ならずも死んだ者が多すぎる。
幸か不幸か、私はまだ自分以外の亡霊に遭わない。広いとはいえ、数え切れない船を飲み込んできたこの大洋の上には、数多の魂が迷っているに違いないのだが……。あるいは、亡霊はお互いを見ることができないのかもしれない。自らの不幸に目が眩むあまり。
私は亡霊と成り果てて後、ある幸運から告発の機会を手にした。奇縁とでも称すべき、不思議な巡り合わせの結果である。
私は壮年のすべてを航海に捧げたにも関わらず、詰まらない不注意から海難事故に遭い、漂流する羽目になった。いや、あれは私の所為ではない。いったい、人はどこまで責任を取れば良いのだろう?
私は避難艇の狭い船底でゆっくりと飢えながら、自分の死を自覚しつつあった。助かる可能性が潰えた事は、船乗りとしての専門的な見地から明らかだった。私は最後の力を振り絞り、それまで書き溜めた航海日誌の一部と、告発のための文書を瓶詰めにして大洋に託した。私の死が忘却の暗闇で陵辱される事を恐れたためである。それも、あの男の手によって!
その文書は様々な場所を巡り、時を隔て、ついにはある書き手の元に辿り着いた。彼は、ある意味で私を殺した男の血に連なる者だったのである。
私に与えられたのは、「口寄せ」という手馴れぬ手法ではあるが、他の死んでいった者達の魂のためにも、また、私自身の精神的健康のためにも、告発する方が得策であろう。船を沈める海妖の歌声に加勢するばかりが亡霊の処世というのでもあるまい。
さて、私はこの告発をある男の名と共に語り始めねばならない。あの、忌ま忌ましい、松永宗光という名と共に。
「五曜会ゆうのがあるんよ」
そう言って私を誘ったのは、昔馴染みの紀和久実だった。
「なんだい、それは? 社交クラブみたいなものか?」
「似とるけど違う。ちゃんとした財界の集まりや」
「そんなところに何の用がある?」
「まあ、ええから来てみいや。面白いで。松屋汽船の松永ゆうてな、ありゃ人物やで。な、行こうや」
紀和はただでさえ大きな目を見開き、じっと私の顔を覗き込んだ。見ようによっては愛嬌のあるかもしれない彼のその表情を、私は昔から好きになれなかった。
紀和はある軍部高官の息子であった。岡山の貧しい家庭に育った私は、商船学校に通うため、紀和家に書生として置いて貰った事がある。歳が近い事もあって、私はよく紀和と一緒にいたが、彼の野放図な性格とはあまり合わなかった。勉学を終え、紀和の家を去ったらそれきりだと思っていたのだが、彼は神戸まで来て私に付きまとった。すげない態度を取れないのは、世話になった負い目のせいだった。
「興ちゃん、あんたもなんや新奇なものを見んといかん」と、紀和は続けた。「それに、船長になるええ機会やで」
「船長に?」
「そやで、船長や」
紀和は再び目をまん丸にして私を見た。黒目が点に見えるほど大きなその目は、人の心を見透かそうといやらしく輝いている。しかし、船長という言葉の誘惑は私を寡黙にはしておかなかった。
「船長を探してるのか?」
「さあ。どうやろ」と、紀和は猾そうに首を傾げた。「なんやら新しい事業を始めるいうてな、人手が足りんのやと。もしかしたら船長も足らんのかもしれん」
松屋汽船という会社は名前しか知らなかった。当時の海運会社といったら、雨後の竹の子同然に乱立し、片っ端から潰れていた。名のあるところでも同じである。実情を外部から察する事は難しかった。
「新しい事業といっても、怪しいようじゃ困る」と、私は少し調子を強めた。
「怪しいかどうかは行ってみなわからん。どや、行ってみるか。無料で遊ばせてくれはるぜ」
私はしばらく考え込んでから、肯いた。紀和は猿のようによく動く口を大きく笑わせて、「ほな、決まりや」と叫んだ。彼は脇に抱えていた背広を子供のように頭からかぶった。
船長就任の前祝いと称しておでんを奢らされる羽目になった私は、紀和から松永宗光に関する話を一つ聞いた。
松永は大戦前、満州にからゆきさんを送る女衒をやっていた。九州の貧農から娘を買い取り、日本人街の女郎屋に売る。紀和はその仕事を手伝った事があると言う。
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