Chapter Five……謝肉祭
前編 フェアリーテイル(二)
順風満帆、と言えば古い喩えになるが、旧式レシプロエンジンの調子も猛々しく、船は太平洋の波頭を切って進んだ。神戸港から鳴門海峡を抜けて紀伊水道に入り、南東に二〇〇海里、黒潮を乗り越えた。波も穏やかになり、紫紺の海はその優しい表情を見せる。海豚が矢のように船と並走する。鯨の尾が海上に聳える樹木のようにその姿を表す。航路に現れた鱶の背びれが輪舞するように回っている。長い間船に乗っていれば、そうした光景に出くわす事も無いではないが、立て続けに見るのは珍しかった。水夫がわざわざブリッジまで呼びに来て、是非見るようにと勧めたほどだ。私は甲板に出て、海の獣達の共演を見た。思わず歓声を上げずにいられぬ見事な光景である。一緒に甲板に出ていた二等航海士の一人は「吉兆ですね」と言った。
海棲獣を隣人のように見知っているはずの水夫達でさえそうであったから、乗客達の嬌声は凄まじいものがあった。特に、まだあどけなさの脱けない芸者達など、独楽のようにくるくると回って喜び、そのまま卒倒してしまいそうな勢いである。
かつて香港巡りの欧州航路に一等航海士として勤務していた時分は、ショーガールのような船客をよく見た。裕福らしい男に連れ添い、追従じみた笑みを浮かべながらカクテルドレスで一等キャビンに現れるのである。私はそうした売笑婦を軽蔑していた。しかし、海豚や鯨を見て笑い転げる芸者達も、いざ船長となって見ると、随分気持ちが変わってくるものである。彼女達もまた、大事な客であった。
ふと、私は後部甲板の避難艇の脇に一つの影があるのを認めた。その影は海の光景に見惚れるでもなく、圧倒的な自然の熱に冒されたように、大人しく影になっている。私は気になって近づいていった。影は怯えたように二つに別れた。
「なんだ、小見君か。油を売ってないで、たまにはブリッジに来たまえよ」
小見は決まり悪そうに目を逸らした。そそくさと去っていく影は一人の芸者である。たしか、柳井小町と称される若い芸者だった。
「あれは君のごひいきかい?」と、私はひやかし半分で小見に耳打ちした。しかし、小見は真剣な顔で「兄まには言わんといて下さい」と頼んだ。私としては、事情も知らないのに急な告白をされたようなものである。
「なんだ、君の横恋慕か。しかし、一人のものでもないだろうから、別に構わないだろう。君もこの航海で出世するだろうから、揚げ代ぐらいは稼げるんじゃないか?」
小見は遠慮がちに「いやあ、儂なんかはとても」と唇を噛んだ。その子供っぽい仕草は、彼の思いを真摯な色彩に染める。あるいは、そうした相剋が松永との間にあるのかもしれないと、鈍感な私も想像を巡らせずにはいられなかった。
はじめは小見という男に対して、良い印象を持っていなかった。歳は三十にも至らず、航海士としての青さが目立つ。水夫達に対してすぐに暴力に訴える事が多かったし、近代的航法に疎かった。松永の腰巾着、というのが正直な感想だった。
小見への印象が変わったのは、ブリッジでの告白だった。小笠原へと向かう線を海図上に引きながら、小見はふと彼の生い立ちについて語り出した。まるで、言い訳でもするように。
阿月の貧しい漁民の子として生まれた小見は、ごく幼い頃に母を亡くし、そのすぐ後には海難遺児となった。瀬戸内の漁法とは、小さな船で二、三人、一本釣りをするというものである。一隻の船はほとんど家族で構成されていた。つまり、一隻が転覆すれば、一家の働き手をすべて失うというような事がよくあったのである。貧しい漁民はそうした危険を冒しながら日々の糧を得ていた。
一人になった小見を引き取ったのは、まだ船に乗ったばかりの松永だった。彼は小見を弟のように遇し、丁稚として柳井の本家に置いた。それから数年、松永は阿月の漁民達に海難遺族基金の創設を持ちかけ、まがりなりにも制度を整えた。
「兄まは儂にすべてを与えてくれたんです」
だからどうだ、という訳ではない。小見はそれきり黙りこみ、海図から目を上げた。その視線は船の舳先に向かっている。ブリッジのガラス窓には、何らかの不注意でついた小さなひびが入っていた。
私は彼の背負ってきた抜き差しならない境遇を聞き、彼の見方を変えるようになった。彼の持つある種の子供っぽさは、失われた過去への郷愁として、拭い去りがたい性向なのだ。
それにしても、こうした話は松永宗光という名にまつわる印象を、またしても捻じ曲げる。天に唾しかねないほど不遜な目をしながら、時として聖者のような博愛を示す。私はこうした逸話を忘れた方がいいのだろうか?
……告発を続けよう。
海光丸は三日目に小笠原の父島へ到着した。予定より少し早い。まだ日本の初夏だと思っている船客達は、真夏のような暑さに驚いていた。
「一日だけ停泊します。島内観光等はあまりせず、夜九時には船内にお戻り下さい」
甲板で下船しようと待ち構えていた船客は、私の話など聞いていなかった。はしゃぎ過ぎているのがタラップを降りる足の動きで解る。そして、それは杞憂に終わらなかった。
門限を過ぎ、私は船長室で妻と息子に向けて手紙を書いていた。すると、甲板部の客室係が松永ら一行と芸者達が戻って来ないと告げたのである。松永は出発の時刻を知っている。私はあえて彼等を捜しに行かせず、待つ事にした。仮にも、松永は責任者である。
翌朝の出発の刻限になり、甲板から波止場を見つめていた私の目に入ったのは、一人いそいそと走ってくる小見の姿だった。
「面目無い。兄まは昨日、役場の連中と呑んどりました」
「それで、どうするのかね? 置いていってもいいのかな?」
「出発を一日延ばして欲しいちゅうとります。大事な話があるとか」
「何だね、大事な話とは?」
小見はうろうろと視線を泳がせ、前に揃えた両手をぎゅっと握った。お使いの小僧じみた仕草である。
「移民がどうたら言うちょりました。陣内さんが小笠原に移民を送る話で、うちがそれを手伝うとか……」
小見は途中で話をやめた。子供のような坊主頭がみるみる赤くなっていく。
「解った。出発は明日早朝、日の出までに戻ってくるように。そう伝えなさい」
小見はぺこりと頭を下げ、タラップを駆け下りていった。一体、伝言など、一等航海士の仕事ではない。遠ざかる小見は、惨めな点へと縮んでいった。その姿は私の心にべったりと張り付き、色褪せる事が無かった。
予定より一日送れ、海光丸は父島の二見港を後にした。松永達は仕事の話をしたと言うが、それもどこまで本当かは解らない。紀和はブリッジに来て、私を杓子定規だと揶揄したが、真面目に取り合ってはいられなかった。
小笠原を発った海光丸は、これから日本郵船の裏南洋航路西廻り線に入っていく。サイパン、ヤップ、パラオへと至る、長大な航路だ。一番近いサイパンでも父島からは七〇〇海里ほど離れていた。距離もさることながら、未知の航路に入るのは緊張を要した。それが珊瑚礁の多い南洋群島となれば、なおさらであった。
航海中、私は小見以下の船員に、海水の色による暗礁の見分け方を教えた。紫紺は水深七○米、もう少し薄い紫藍だと四〇米、青は二〇米、青緑一〇米、黄緑だと五米も無い。公開中は常に双眼鏡で前方を見渡し、暗礁の有無を確かめねばならない。
幸いにして、海光丸は安全な航海を続けた。そして、五月十五日、二等航海士が南南東に島影を見つけた。水平線に二つの影が浮いている。向かって左手に見えるのがサイパン島である。中央部がぽこんと高くなったのは、サイパン富士と呼ばれる山であった。
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