方舟謝肉祭(21)

方舟謝肉祭(第21話)

高橋文樹

小説

6,574文字

海の藻屑となった海光丸。小さな二隻の避難艇とともに太平洋に放り出された松屋汽船一行。やがて彼らはわずかな可能性にかけて、途方もない距離を進み始める。しかし、激しい波に揺られながら、飢えがゆっくりと彼らを蝕んで行く。圧倒的なスケールで描く長編メタフィクション。

Chapter Five……謝肉祭

前編 デイドリーム(二)

 

白く泡立った海面に、ぽかりと大きな泡が一つ浮かんでくる。何かの印のようにして弾けたその音を、私は恩寵のように聞いた。私のはじめての船の、末期の吐息として。

生きる道が大幅に断たれた事を認めるまでに、長い時間がかかった。念仏を唱える者もいた。また船が浮かんでくるのではないかと、ありもしない望みを口に出す者もいた。急に泣き始めたかと思えば、あっという間に泣き止む者もいる。叫び声は、その役割を果たさない半端な音で響いた。

泡がすっかり消え、もとの紺碧が戻ってくると、私は海中に顔を沈めた。環礁のため水深が浅く、海底に佇む海光丸の姿が見える。その回りには、まだ砂煙が上がっていた。

避難艇に上がった私は松永を探した。突然の事故に呆然としている人々をまとめるには、指導者が必要だからだ。彼は艇の端で仁王立ちしていた。顔にはうっすらと笑みさえ浮かんでいた。私が話しかけると、「これはとんだ事になったのう」と呟いた。

二人で話し合った結果、まずは乗員の把握と、二艇への振り分け、そして、それが済んだ後に海面の遺留品を引き上げ、所持品の確認をする事と決まった。

まず、乗員は十七名であった。船客は全員無事だったが、船員の被害、とりわけ機関部の被害が大きかった。機関部長本多以下十六名全滅である。総員四十四名の船員の内、生き残ったのは僅か七名だった。その多くは、避難誘導の遅れや台風と無理な航行による疲労から逃げ遅れたのだった。また、船医の田畑を喪った事は、我々にとって確かに痛手だった。これから余儀なくされる漂流において、彼の技術や知識が大いに役立ったであろうから。

我々は船の沈んだ付近に向けて、黙祷し、それを簡単な葬儀とした。

続いて、人数を二隻に振り分けた。一隻に私を船長として、松永、紀和、二等航海士の新田、若い水夫の沖田、芸者のみつちよせいの総員八名である。もう一隻は小見を船長に、二等航海士の坂下、司厨部長の長谷浦、移民会社の陣内、民俗学者の井狩、槽舵手の柳、芸者のひでまつともの計九人であった。

そして、もっとも大事な所持品である。

まず、航海に必要な六分儀、海図、筆記用具、羅針儀などはあった。が、肝心のクロノメーターが動かない。トランクを携えた松永が避難艇に行く前に海中に飛び込んだ衝撃で、壊れてしまったのだ。精密な機械だった。これで月距測法を用いる事でしか、経度は計れなくなってしまった。月距測法はどんなに急いでも、三時間はかかる。船位測定に大きな労力が割かれる事になってしまった。

食料は小見が海中に投げ込んだ米一袋、甘藷一袋を引き上げた。十七人にとっては細々と食べて一月分である。それ以外の食料は何一つ無かった。頼みの綱としては、私が持ってきた釣り道具であるが、餌は無い。

それよりも問題なのは水だった。避難艇には貯水樽がついていたが、水は入っていなかった。もしも数日で雨が降らなければ、我々はすぐにも木乃伊(ミイラ)になってしまうだろう。

その他、各自が機転を利かせて持って来たのは、工具入れ、衣類、縄梯子、包丁などである。

現状を確認した私達は、これからどうするかを決めねばならなかった。私と松永は小見を含め、三人だけで話した。誰の目から見ても、絶望的な状況だったのである。密談に参加する資格がある小見でさえ、ほとんど何も話さないほどだった。何せ、四方何もない太平洋の上、しかも全長五米の、五人もいればぎゅうぎゅうの避難艇である。本州から南洋へと向かう定期航路の上でもなく、発見される可能性は低かった。避難艇には櫂が二本ずつ付いていたが、とても陸地に辿り着ける距離ではない。

なんとかして帆を張り、陸地へ向かおう。その点で話はまとまったが、どこへ向かうかで私と松永とで対立した。

松永は真東を主張した。一番近い陸地はパハロス島だからである。そこへ近づけば、北マリアナ諸島の漁船も出ているし、発見される可能性が高まる。

私は北西を主張した。七月のこの海域では、やや東よりの南風が吹く。手製の帆で風を流すのは難しいし、何より、北西は陸地面積が多かった。沖縄、台湾、そして、それらを外してもいつかは中国大陸にぶつかる。それに、船の交通量という点では、こちらの方が飛躍的に高かった。

私は自分の提唱した方針が理論的に最も正しかったと確信していたし、今もその思いは変わらない。が、信じがたい事に、私は自説がどんなに妥当かを説明しても、松永は東方行きを諦めなかった。

2008年8月24日公開

作品集『方舟謝肉祭』第21話 (全24話)

方舟謝肉祭

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© 2008 高橋文樹

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