ぼくは不倫をしたことがない

応募作品

高橋文樹

小説

3,605文字

合評会2017年04月「酒と不倫」参加作品。「ぼく」には好きな人がいる。彼女がゴールデン街のカウンターで寝物語をするのが、ぼくは苦しくてたまらない。

三十センチもないカウンターにつっぷして苦しげな青柳都々とつ子はいまにも吐きそうだった。彼女の人生が、そのように仕向けているのだ。それまでほとんど酒を飲まないような人生だった。まじめに、熱心に生きてきた、というわけだ。二十七歳になって、そのあてがはずれて、新宿ゴールデン街の狭い路地にある店のカルピスサワーに酩酊しながら、終わらない繰り言が続いているというわけだ。

都々子はつい二時間ほど前、金井悟に抱かれてきたばかりだった。もう二時だ、ほんとうは泊まるつもりだった。

いや、より正確には……大久保にほど近いラブホテルで宿泊プランの金を割り勘で払い、いつものように、セックスをした。その日は金井の誕生日前夜祭だったので、都々子はすごい下着を身につけて準備をしていた。その演出は上手くいった。金井は都々子の下着をよだれまみれにしながら口で脱がせた。不器用に舌を動かす金井を見て、都々子の下腹部は熱く疼いたに違いない。キリストでさえこれほど誕生日前夜祭を楽しく過ごしたことはなかっただろう。都々子は時計を見た。十時四十五分だった。都々子はいままでとは違うレベルの絶頂を迎え、激しく痙攣した。腰から肩にかけて快感が波打ち、そのあと引き波のように体温が低下した。息苦しく、喘ぎ声が喉に引っかき傷を残していった。ほとんど死ぬのではないかという忘我の境地で、都々子は意識がいままでとは違った姿で戻ってくるのを感じた。勇者としての運命を受け入れた幼い弟が、厳しい冒険の旅に出て、恩師の死や仲間の裏切りや恋人との別れなどをへて、結果的に世界を救い、ある晴れた春の日の玄関に、ずっとたくましくなって立っている、そして、「ただいま」と屈託なく笑う——そんな感じだったらしい。これは愛の力だ、と都々子は思ったらしい。人生の階梯を上がったのだ。おそらく、成功した人間だけが到達できる境地に都々子は立ったのだ。きっかけはセックスだったかもしれない。ただの快楽だったかもしれない。だが、紛れもなくそれらをもたらしたのは、愛の力だった。

そうした気づきは都々子に新たな認識をもたらした。いや、認識というのは少し違う。それは新大陸発見に近いものだった。都々子は「ずるいぞ」とさえ思った。こんな重要なものが人生にあるだなんて誰も教えてくれないのはおかしい。都々子はネクストステージに上がったことで、深く確信した。もし自分が親になり、子を持つことがあったら、いつかいってやろう。愛なんだ、と。愛が次のネクストステージに連れていってくれるんだ、と。それからの都々子はひと味もふた味も違った。これまでが猫だとしたら、いまの都々子は獅子だった。想像が時間を追い越していった。思いつくことすべてが型にハマり、金井を悶えさせた。浴室で陰毛を剃らせるのも、尿道に強く吸い付くのも、いままで思いもよらなかったことだった。乳首を噛みちぎったってよかった、金井にその勇気さえあれば。そして、その挑発に乗り切れずお為ごかしを言う金井を許すところまで織り込み済みで、自分の乳首に噛みついて見せた。力を入れるそぶりを見せると、金井は慌てて止めに入り、すっかり萎縮していた。怖くなっちゃった? 都々子が挑発すると、金井は役割の変更を受け入れ、一人称が「僕」になった。

というクライマックスに続くクライマックスがだいたい深夜零時ぐらいまで続いたのだが、金井へかかってきた電話がその高揚を打ち消した。電話に出た最中、都々子は金井の肛門に指を突っ込みながらフェラチオしていた。「電話に出る僕ちゃん」をかわいがる術としてこれ以上ないというほど丁寧に。しかし、一時間ほど前から男のくせに喘ぎ声をあげるようになっていた金井の声が、電話の相手に伝わったらしい。相手も女だったのだろう、「もしかしてフェラチオされてない?」という声が漏れ聞こえた。金井のペニスは一瞬にして萎えた。口の中で綿あめが融けるようだった。金井は萎えたペニスをくわえた都々子の頭をぐいっと押しのけ、言い訳めいたことを言いながら服を着はじめた。え、なんで? 金井は「やべえよ」と病的に繰り返しながら、あっというまにネクタイを締め終えるところまで到達していた。都々子は身につけるものなどなにひとつくなく、しかも先ほど剃毛したせいでひりつく股をラブホテルの乾いた空気に晒しながら、「もしかして、いまの彼女?」と尋ねた。これまでもそういう兆候はあった。金井はなぜか自分が被害者だというような表情で「ちげえよ、嫁だよ」と答えると、最後に「おまえなんなんだよ、こええよ」と言い捨てて出ていった。その後、十分ぐらいに渡って真っ裸のまま床に座っていると、フロントから電話がかかってきた——いま、お連れさまが出て行かれましたけど、大丈夫ですか? 都々子は反射的に「大丈夫です」と答えた。ぜんぜん大丈夫ではなかったし、股がひりひりしてしょうがなかったのだが、とりあえず家に帰ろうと思ってホテルを出た。

その後、JRの終電に間に合うべく急いだ新宿駅東口で僕と再会し、「なにしてんの?」と雑談をしているうちに終電を逃し、朝まで飲むことになって、三十センチほどしかないカウンターにほとんど倒れかかりながら「ひどくない?」と息巻いているのだが、僕にはもう何一つわからなかった。たしかに、彼女はひどい目にあったかもしれない。でも、僕よりはましだろう。僕は今日、かれこれ五年は続いてるくだらない仕事に疲弊しきって、彼女もいなくて、なんとか毎日を生き残ることだけをこの数年の目標にしてきたというのに、たまたま新宿で初恋の同級生十年ぶりに再会した。なにか、人生が変わるかもしれないと思ってもおかしくないだろう。正直なところ、僕は終電の時間を知っていて、都々子を引き止めた。会話が長引けば、僕たちは新宿でふたりきりだ。そうなれば、なにかが起きてもおかしくない。が、そのなにかというのが、不倫相手に剃毛されただとか、ネクストステージがどうたらいう話だったなんて、誰が思いつくだろう。だいたい、金井って誰だよ。

都々子は三時を回った頃、カウンターで突っ伏して眠ってしまった。二の腕を枕にして眠る姿は中学の頃と変わらなかった。僕は緑茶割りを飲み干すと、カウンターにいた安紀子さんに「そろそろ帰るわ」と告げた。安紀子さんは「え、なんで?」と答えた。もう他に客はいなかった。

「いや、だって、こいつ送ってかなきゃいけないし」

「どうやって送るの?」

「タクシー」

「いままでタクシーで帰ったことなんてないじゃん」

「でもほら、いちおう女性だし、地元いっしょだし」

「いやだから、タクシーとか二万ぐらいかかるじゃん。ヤろうとしてるんでしょ?」

そう言われると、元も子もない。僕にはそれぐらいの権利があると思ったのだ。ずっと忘れられなかった初恋の相手と再会した直後、なんだかよく知らない十二歳も上の金井とかいうおじさんに抱かれてネクストステージがどうたらこうたらという話を聞くはめになった。それだけでもう、僕は都々子を強姦する権利さえあると思っていた。が、それをそのまま言ったものかどうか悩んでいるうちに、安紀子さんはカウンター台の下をくぐって出てくると、忿怒の表情で僕の手をひいてトイレに連れていった。そして、僕のズボンを脱がすと、「すごい勃ってるじゃん、バカみたい」と怒鳴りつけて、フェラチオをした。僕はなんだかよくわからないが、負けてはいられという気持ちが湧き上がってきた。洋便器に手をついた安紀子さんの後ろから挿入して、懸命に腰を振り、「ほら、赤ちゃん欲しいか?」と言いながら絶頂を迎えようとしていたのだが、安紀子さんの「え、赤ちゃん? わかんない、でもがんばって育てる!」という長ったらしい答えを聞き終えるより前に射精した。安紀子さんはそのまま便器に座ると、おしっこをしているようだった。「中に出されるとおしっこしたくならない?」と言われたのだが、そんなことが僕にわかるわけがなかった。

トイレを出ると、都々子はまだ眠っていた。しばらく、沈黙の中でウーロンハイをすすっていたのだが、二十分ぐらいするとマスターがやってきて、「おまえらセックスしてたんだって?」とわりと本気で怒っていた。隣のマスターが電話で密告したらしい。安紀子さんはカウンターの中で泣き崩れるし、都々子は寝ているし、もうなんだかどうしようもないのだが、始発が動き出すまではまだ四十分あった。

「こいつ、都々子っていって、中学のときはバスケ部のエースだったんですよ」

僕はなにかをいわなければと思い、そう告げた。マスターは「だからなんだっていうんだよ」と、カウンターにあった七味唐辛子の瓶を外に投げた。瓶は割れずに、硬い音を立てて飛び跳ねた。もうだいぶ明るくなっていた。夏だなあ、と僕は思った。

2017年4月21日公開

© 2017 高橋文樹

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"ぼくは不倫をしたことがない"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2017-04-23 14:50

    今回の5作の中で、いちばん勢いのある作品だと思います。一回目は電車の中で読んでいたのですが、笑いをかみ殺すのに苦労しました。
    少し雑かな、と思うところもありましたが、それもいい味を出していると思います。何より面白い。
    後半の怒涛の展開に「僕」のみならず読んでるこっちも訳が分からなくなりながらも、いやあ愉快でした。ありがとうございます。

  • 投稿者 | 2017-04-23 16:34

    都々子がした話を語る「僕」の一人称でテクニカルな構成なのに王道の作品に感じました。「都々子は金井の肛門に指を突っ込みながらフェラチオしていた。」という文章に本気のエグさを読み取れましたが全編通してユーモアがあって楽しく読み終えることができました。この話を読んでたまには泥酔するまでお酒を飲みたくなったです。今回の合評会でテーマと一番一致した作品だと思いました。

  • 投稿者 | 2017-04-25 07:24

    Slice of lifeとでも呼ぶべき掌編。物語の筋そのものよりも描写や洞察の冴えが光る。奇抜な比喩に向けて語りを脱線させる技術や「喘ぎ声が喉に引っかき傷を残していった」などの表現はさすが! 終わり方もきれいだ!

    ただ、短時間のうちに書いたためか、文章の粗が気になる。文章そのものの躍動が本作の魅力なので、実に惜しいと思った。「なにひとつくなく」「負けてはいられという」など、すぐに直せる誤字脱字は直してほしい。表記に関しても、タイトルと本文とで「ぼく」「僕」が表記ゆれしている。また、金井が使う「僕」と語り手の「僕」は、カタカナかひらがなを使って書き分けたほうが分かりやすいのではないか。

  • 投稿者 | 2017-04-25 22:44

    生々しい描写が続くので、読み終えた時には不倫の要素の事が俺の頭からどっかに消えていた(酒はまだあった)。男も女もとっかえひっかえで、変態なようで案外等身大の人々の姿が良い。
    不倫も酒もとても難しく、年齢と経験の壁が俺の前に立ちはだかっているが、これは比較的親しみやすかった。

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