あの肉の思い出

高橋文樹

エセー

3,520文字

東日本大震災から六年が経った。当時のことを思い出しながら写真を見返していて、あの日のことを振り返ろうと思った。衝撃的な写真が含まれるので、心の準備ができていない人には閲覧を進めない。

2011年3月11日、私は経堂の自宅で仕事をしていた。私の書斎は本棚が五本ある上、破滅派の在庫が段ボールで重ねられていたので、いかにも危なかった。すぐさま寝室へ戻ると、愛犬のニッチを抱え、ベッドの上にうずくまった。棚の上からガラス製の赤い花瓶が落ちて割れた。彼女が同棲を始めるにあたって持ち込んだ、足の細い花瓶だった。かなり長い揺れが収まったのち、私は彼女に連絡を取ろうと思ったが、ニッチが怯えて外に出たがったので、古いマンションの二階にいるよりは安全だろうと、余震(あるいは本震)が来る前に外に出た。

赤堤通りの交差点に走る車はなく、人もいなかった。ただ、白人の女性が泣きながら携帯電話で話していた。彼女はベビーカーを押していた。おそらく、慣れない異国の地で歴史的な強さに震え上がったのだろう。仕事で不在の夫と話しているようだった。

ほどなくして、一緒に住んでいる彼女と連絡がついた。彼女はすぐそばの金融機関でアルバイトをしていて、無事だった。夜、経堂の駅前に出かけると、帰宅難民の列があった。テレビの映像が私のかすかな期待を裏切り、災害の凄まじさを深々と墓標に刻んでいった。

何日かのち、仙台に住む破滅派同人の月形与三郎氏と電話では話した。仙台在住の彼は無事なようだったが、やはり東京に住んでいる私とは比べ物にならないほどの「被災者」だった。その後も継続的にやりとりをするうち、ぜひ東北に来て欲しいということになった。五ヶ月後、東北道がすでに一般車の通行を許可した頃になって、私は東北へと旅立った。旅の道連れは同人のアサミ・ラムジフスキーだった。旅のテーマは「基準値を超える放射能が出た牛肉を食べにいく」というグルメツアーだ。当時の様子は破滅派八号所収の『国家の終わりとハードグリルドアトミックビーフ』にまとめている。

破滅派八号

破滅派八号¥500

破滅派

今年の3月に発生した東日本大震災によって我々の生きる国家がいかに脆弱かということを思い知らされたこと、そして破滅派のDIY精神の延長で実際に国家作るとしたらどうやるんだろうという疑問が湧いてきたこと、この軽重両極端な理由によって今回の特集が組まれました。充実の内容で500円、ぜひ皆様お手に取ってください。

あれから六年が経った。当時の彼女は妻となり、そして三児の母となった。あれ以来地震を怖がるようになったニッチは、つい先月、癌になって死んでしまった。月形与三郎氏とはまったく連絡を取っていない。

私は3月11日の夜、撮りためた写真を見返していた。破滅派に掲載したごく一部の写真とは別のものを眺めていると、震災から五ヶ月後の東北を巡った旅が懐かしく思い出された。雑誌に掲載することのなかった写真とともに、私が何を感じたかをここに記す。

東北道

東北道は復旧したばかりで、道の両脇のそこかしこで工事が行われていた。道の両脇に草木が茂っていたのをよく覚えている。それはたぶん八月の気候のせいというより、高速道路の草刈りをする余裕もなかったことを示していた。

東北道のそこかしこがツギハギだらけだった

仙台・松島海岸

月形さんの住む仙台市に入ったとき、私は思ったほど被害はひどくなかったのだなと早合点した。七夕祭りを控え、市内は賑わっていたからだ。しかし、松島海岸まで出ると、その思いは一変した。海岸に打ち上げられた木々、そしてひび割れた石段を見て、被害が甚大だったことを思いしった。海岸には水族館の職員がいて、磯の生物を集めていた。子供達に見せるとのことだった。

石巻市

仙台市から海岸へ降りる形で石巻に向う途中、被害の深刻さは更新された。家々はまばらになり、そこかしこに基礎だけが残っている。道路は波打ち、私が運転する車はそこに乗り上げ、ひどくきしんだ。

女川

原発を見るために女川へ向かったのだが、そこは私が見た中でもっとも被害の激しい地域の一つだった。かつてそこに集落があっただろう場所はほとんど平野となり、鉄筋の頑丈な建物以外はまったく残っていなかった。丘の上にある原発は無事だったが、目当てだった資料館は閉鎖し、中にはいることはできなかった。漁港には大量のブイが打ち上げられ、突堤は海面すれすれまで下がっていた。当初は女川の民宿に泊まるはずだったが、工事関係者で満室となり、宿は見つからなかった。私は率直にいって、この町はもうダメだろうと思った。夜の小学校には避難民が多くいた。

ふたたび松島海岸

私たちは松島海岸まで戻り、当初の目的だったバーベキューをした。八月だというのに、そんなことをしている人は他にいなかった。

相馬市

相馬は女川と同じく、もっとも被害のひどい地域だった。原発の影響だろうか、復興もほとんど進んでおらず、海岸線に近づくにつれ、田畑であったあろう場所に船が置き去りになり、海には家やバスがそのまま沈んでいた。

福島第一原発

福一にはぜひ行ってみようと足を運んだのだが、入ることはできなかった。入り口には数十人のマスコミ関係者がいた。近隣の住宅には入ることができない。おきざりにされたピカチュウのぬいぐるみと、妖しげに咲き誇るひまわりの黄色が印象的だった。「海岸でサーフィンをする」という馬鹿げた企画のため、サーフボードを持って行ったのだが、とてもそんなことをできる雰囲気ではなかった。海岸では、遺体の捜索をする一団がいた。

 

 

以上で六年前の思い出は終わる。私が勝手にダメだろうと決めつけた町も、確かに復興しつつある。それぐらいの歳月が流れたのだ。

2017年3月15日公開

© 2017 高橋文樹

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