ユリイカは詩と批評を取り扱う硬派な文芸誌であるが、2017年4月に臨時増刊として『総特集 縄文』を出版した。ユリイカのような雑誌がついに縄文を取り扱ったことで縄文の広まりを感じはするが、時代に先んじすぎる破滅派の先進性を誇らしく思うと同時に、悔やみもする。かつて福田和也が村上龍を評した「スーツに身を包み、時代の最先端の三歩後を行く」という言葉を青土社に送りたい。
さて、本誌は各界の著名人による論文集の体裁をとっており、たとえば吉増剛造や諸星大二郎、安藤礼二、川村湊、巌谷國士などであるが、いくつかは優れており、またいくつかは「依頼されたので書きました」という出来なのだが、そのうちで私が優れていると思ったものだけを紹介する。
サイモン・ケイナー『縄文に魅せられて 国際的な観点から』
縄文時代を研究し、それが世界的に見ても考古学的に重要な時代だと示唆する外国人によるエッセーである。本論は縄文時代の発見が実は外国人によるものだったという素朴な驚きを思い返させてくれるとともに、「縄文史」はつい最近発見された史学であるという重要な示唆を与えてくれる。
縄文時代というものが日本に古来から存在していたという視座そのものが実に近代的な視点であり、この視点を一度外部化することは、執筆にリアリティを持たせることだろう。たとえば、後期縄文時代に生きていた人々は、一万年前のことなど知る由もないし、そんなものがあったとも思っていない。
川村湊『縄文神話について』
縄文時代は上に挙げたように、最近できたものである。現代の日本人がある程度の具体性をもって縄文時代を思い浮かべることができるのは、この近代的なビジョンがあってのことだ。そして、その「ビジョン」を成立させた立役者の一人が岡本太郎である。本書では目次のグルーピングに「岡本太郎」というキーワードが使われており、とりわけ土器に関連する部分では必ず岡本太郎が言及される。
岡本太郎は縄文時代の火焔式土器の「美しさ」について過剰なまでに語った。だが、美しさを求める態度こそが近代的な態度なのである。我々は素朴な日本人としての賛美を縄文時代——有史以降よりもずっと長かった時代——に求めがちだが、それこそ先祖への礼を欠いていると言ってよいだろう。本論はこうした視座を蘇らせてくれる。
瀬川拓郎『海民・アイヌ・南島 境界に残存する「縄文」をめぐって』
本論はアイヌが縄文人の血を色濃く受け継いでいるという考古学的発見について、文化史的な観点から迫る論考である。これは中世史・近世史に親しんだ人なら、網野善彦的なアプローチといえばわかるだろうか。本論でも網野は言及されている。イオマンテ(アイヌに伝わる熊殺し祭)や各地の風土記に現れる神話のモチーフ、そして漁労における獲物(ヒラメ・カジキ)など、文化的な共通項から縄文の残滓を探ろうとする人文的に優れたアプローチである。
巌谷國士『森・旅・現代美術』
巌谷はシュルレアリスムの研究者として著名だが、縄文についてもなにかを語ることができる。というのも、シュルレアリスムこそ古代復古の芸術形式であり、たとえばピカソがアフリカを、岡本太郎が縄文を称揚したように、その形式それ自体が近代への嫌悪に端を発しているからだ。驚くべきは、巌谷が漫画『ゴールデンカムイ』について言及していることである。守備範囲が広い。
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以上をもって、本誌の印象的なパートをまとめる。こうした広いジャンルから著者を募る形式のムックには、「土器や土偶の美しさ」をといった近代的な視点からのみ書き散らした文章が多い。縄文土器が力強いといっても、そうともいえるし、そうでもないともいえる。純粋に考古学的な視点から語ったもの、そして、縄文史学をメタ視点から語ったものに優れたものが多い。
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