二〇二一年七月、緑色の要介護認定証を母が受け取ったことにより、一年にわたる私の一人相撲は終わった。私が毎日二時間続けた朝晩の介護だけではなく、日中もヘルパーさんが介護してくれることにより、食事・入浴・排泄の負担がほぼなくなった。とりわけ、リハビリパンツの導入が画期的だった。粗相をしてもトイレに設置したゴミ箱にポイっと捨てて、ちょいちょいっと拭けば終わりである。
これはあとで知ったのだが、介護離職を経験する介護者のうち、排泄・入浴介助を行なっている介護者の割合は高いそうだ。つまり、親の風呂トイレを介護していると、離職リスクが高まるのである。これは、それらの介護の心理的負担が高いことが原因なのか、それとも風呂トイレを手伝わなければならないほど症状の進行した親を単独で介護していることが原因なのか、どちらかまでは私は知らない。しかし、それぐらいリスキーな介護なのである。この大半をプロに任せることができて、私は安堵した。深呼吸して「空気がおいしい!」と叫びたいぐらいの気持ちだった。
ヘルパーとも毎朝顔を合わせ、夜の訪問を十時ぐらいに遅らせるようにした。夜になるとノートに今日は何を食べた、夕方に妄想を話した、などの状況が書かれている。たまに、ヘルパーからの相談事が書いてあると、赤ペンで返答を書いた。介護が始まってもいくつかのトラブルはあったが、それでも一人でやっていた頃に比べたらイージーモードである。
さて、あとは要介護二級から三級にランクアップするための証拠集めが私の仕事の一つだったのだが、それはあっというまに集まることになってしまった。この一年の悪化は驚くべき速度だった。
ある朝、私が実家を訪れると、魔女のように伸びたあとに切ったはずの爪が、すっかり剥がれ落ちて、親指から血を流していたのである。母はそのことにまってく気づいていなかった。居間の床を見渡すと、はたして親指の爪が落ちていた。私は母を連れて皮膚科に向かい、処置してもらった。もちろん、このすべてを逐一写真に収めるのだ。ちなみに、この親指の爪は数ヶ月を経てすっかり元通りになった。あれだけ老いても、人体というのは不思議なものである。
定期的にカメラを監視していたが、真夜中、廊下に横たわっている母を発見することも多かった。ぼんやりと虚空を見つめ、まんじりともせず寝転がっている。パーキンソン病特有の無動状態である。一度動作を停止すると、脳からの運動せよという指令が届かなくなってぴくりともしなくなってしまう。監視カメラには遠隔通話機能がついていたので、私は「起きろ!」と怒鳴りつけた。そうすると、母はムクっと動き出すのである。「がんばれ! がんばれ!」と、私は続けた。やはり、人間は外界からの刺激がないとダメなのだ。声をかけ続けると母はむくりとおき、ベッドに寝そべった。
しばらくすると、母は歩けないときにハイハイでトイレに向かうようになった。これはうまいアイデアだと思ったが、膝が血まみれになってしまった。私はまた通院か、と思ったが、ケアマネは膝に大きい絆創膏を貼るといいですよ、という思いもよらないアドバイスを提供した。私の仕事は定期的に絆創膏を補充することらしかった。これを繰り返すことで膝の皮が厚くなり、出血もしなくなるのだそうだ。老人には多いそうだ。経験に裏打ちされた発想の転換は、やはりプロならではと感心した覚えがある。
また、粗相をすることも多かった。私は下半身丸出しで廊下に寝転がる母が「あの女がお金を盗んだ!」と叫ぶの宥めたりした。もちろん、そういうときも写真に収め、発言内容をメモした。
そして、私を最大におののかせたのは、母が外で寝ていることだった。夕方、ヘルパーが帰った後、コンビニへ行く。なんとか家まで辿り着く。しかし、玄関の一段が越えられずへたり込む。そのまま横になる。パーキンソン病の無動状態、しかもアウトドアバージョンである。そこで十時ごろに実家を訪れた私が、玄関前で横になっている母を発見するのだ。もちろん、私はそれを写真におさめた。廊下で寝転がっているだけでも介護認定区分変更には十分な気もするが、夜の屋外は衝撃的な写真だ。そもそも危険である。夏だったからよかったものの、冬なら凍死だ。私がいけない日はどうなるのか? もし私がちょっとぐらい大丈夫だろうと一泊二日の家族旅行に出かけたら、母が玄関前で凍死していました、ということにはならないだろうか。
その写真をケアマネに見せると「ありゃー!」と驚いていた。玄関に外からかける鍵をつけることも提案された。ちなみに、この写真は母にも見せた。母は自分が玄関前で寝転がってぼんやりと夜空を見上げている横で愛犬パッキンが心配そうに匂いを嗅いでいる写真を見て、「これ私! 信じられない!」と爆笑していた。笑う母を見て、私もなんだかおかしかった。
こうした証拠の数々を集め、二ヶ月後には介護認定調査の市職員に見せた。写真に収めていないトラブルは日付とともにメモしてあった。この二ヶ月でこれだけの惨事が起きたのだ、と。このままでは、私と妻と四人の子供たちの生活が滅茶苦茶になる。こうして、母は介護三級になった。これで、いつでも特養に入れる。いまになって思うのだが、これから親の介護の準備をする人は、すべて記録をとっておくべきだ。時系列順でよく観察をしておいた方が、病気の早期発見にもなるし、介護サービスを受けられる。私の母も息子に風呂を入れてもらうのは屈辱だったろう。
八月には自宅から車で十分ぐらいの特養と契約し、ショートステイを利用できるようになった。さっそく、夏休みも終わりになろうという時期、私は子供を連れて市内のキャンプ場に向かった。もちろん、母をショートステイに預けて。
二級から三級に上がったとはいえ、朝晩の介護は続けていたし、基本的な体制は変わらなかった。月々の支払いがちょっと安くなった程度だ。もちろん、通院も私の担当業務だった。
毎月通っていた心療内科で、そろそろ一年が過ぎたので、認知症検査を行うことになった。すると、前回よりも大幅な低下が見られた。前回は三十点中二十八点ぐらいだったのに、一七点ぐらいまで下がっていたのである。実際、私も母が完全にボケていると確信していた。
暇つぶしに映画『007/スカイフォール』をつけてやったら、その晩には私に電話をかけてきて、いま外に変な人がいて銃を持っていると怯える。いまはもう一緒に住んでいない孫が帰ってこないと警察に電話し、警察から私に電話がある。両親(私にとっては祖父母)が二人とも亡くなっていることを忘れ、「お爺さんとお婆さんはいつ帰ってくるのか」と見当識も壊滅的である。とりわけ、デイケア施設から帰った後は、見当識が滅茶苦茶になっているので、自分の家に帰っているのに「早く帰らなきゃ」と何度も椅子から立ち上がるのだ。その度、私は「ほら、あのカレンダーうちのでしょ」と母を宥めた。
Iクリニックの院長は認知症の薬を追加した。私はレビー小体型認知症の検査を受けた方がいいですか、と尋ねた。ダンディな院長は、この歳になると原因は大した問題ではない、と説明した。レビー小体型であればアルツハイマーであれ、どちらもありうる。それを突き止めたところで、よくなる方法はない。パーキンソン症状の進行が原因しているのかもしれないし、アルツハイマーが進行しているのかもしれない。いずれにせよ、薬を増やしたところで事態はあまり改善しない。実際はもう少し詳しい説明を受けたし、私の要約も記憶違いによって医学的な正確さを欠いているかもしれないが、おおむねそんなところだった。要するに、現代医学にこの状況を劇的に好転する手段はないのだ。
そして、二〇二一年十月になった。あのにっくき整形外科に骨粗鬆症の注射を受けにいく日である。が、なんと先述した嫌な男性医師は数々の患者トラブルでクビになっていたのである! 他人の失職がこれほど嬉しかったことはない。
新しい男性医師は大変柔和そうだった。この医師は前回の診断時の血液検査結果を見て、数値がもう骨粗鬆症でない、という驚くべき診断を下した。これはあとになってわかったことだが、母は同居初期、つまり六年ぐらい前にはすでに骨粗鬆症になっていたのだが、それ以前の独居時代の母は異常な倹約思考から、ナスの煮浸しと白米だけというような江戸時代レベルの質素な食事を摂り続けていたのである。それが私たちと同居するようになって肉魚などを食べて栄養状態が改善し。結果、骨粗鬆症は治っていたのだ。腰の圧迫骨折も完治し、腰痛は改善していた。この男性医師は、母にこんこんと説いた。
「お母さんもね、息子さんがこうやって病院に連れてきてくれるなんて幸せなことはそうないよ。もう施設に入ったりして、息子さんを楽にしてあげなよ。私もね、親の介護をしたんだけど、本当に辛かった。これだけやってくれる息子さんがいて、もう十分幸せじゃない」
母は「ねえ、本当にいい息子ですよ」と答えた。私はほとんど落涙しそうになっていた。これまで誰もこんなことを言ってくれなかった。この点に関して、私の家族や親戚はショックを受けるかもしれないが、この世でもっとも私を優しい言葉でいたわってくれたのは、この一度だけ診察を受けた、私より年嵩の白髪混じりの男性医師であった。いまでもそう思う。ほんとうに感謝している。この医師はビタミン剤は神経内科でも処方できるということで、申し送り書を書いてくれた。もうこの病院に来る必要はないとのことだった。治療に優先順位をつけ、通院先を減らすのは重要である。
そして十二月一三日になった。私は破滅派(私の経営する出版社)から私の新潮新人賞受賞作『アウレリャーノがやってくる』を出版した。時間は前後するが、もともとやろうと思っていた出版計画について、要介護認定が降りたあたりから私は猛然と動き出していたのである。取次を何社も当たって契約し、印刷会社を見つけ、自分の原稿を直し、旧知であった今日マチ子先生にイラストを頼み、本を作ったのだ。その本を母に渡すと、本当に嬉しそうにしていた。母は「バンザーイ!」と手を挙げて喜んだ。そして、ボケ老人とは思えない集中力を取り戻し、その本を読み、私を「フミちゃん天才!」と誉めそやした。私は幼い頃からよく母に「フミちゃん天才!」と言われていた。何の根拠もなく新しいことに挑む私の性格は、母のこの教育の賜物である。できれば、私も子供たちにそう言ってあげたい。
が、その五日後、一気に地獄へ突き落とされる。冬は死の季節なのだ。
その日、子供達と一緒に実家を訪れ、写真を撮っていた。いつも、これが最後かもしれないと思いながら家族写真を撮るようにしていたのである。母が飼っていた猫のうち一匹であるマオが痩せたことに長女は驚いていた。背骨が浮き上がり、胴体をつまめるほどになっていた。
私が翌日の夜に実家を訪れると、母は椅子の上で貧乏ゆすりをしながら、「マオちゃん死んじゃった」と不安げにいった。マオはこたつから半身を出して事切れていた。私は段ボールに毛布を敷き詰め、マオを入れてやった。マオは、私が二十代のときに母が家に連れてきた保護猫だった。保護猫活動をしている母の友人から譲り受けた、アメリカン・ショートヘアの血が入った美しい容姿をしていた。名前の由来は、三島由紀夫を好きだった姉が、これまた三島の好きな『ドルジェル伯の舞踏会』の登場人物マオである。その週末、私はマオを火葬場に連れて行った。母を車椅子で連れ、私の子供たちにとっては六年間一緒に過ごした、そして私にとっては十六年間を見つめてきた猫を火葬した。母はお骨を前にして声を上げて泣いていた。
年が明け、千葉では雪が降った。降雪量は少ない地域だが、何年かに一度路面凍結するぐらいの雪が降る。歩道に凍結した雪が残るある朝、母は両親に会うために一人で出かけたのだ。もう何年も前に死んだ親に会うために。母がいるのは千葉県で、その両親の家は東京都武蔵小金井市にあるというのに。
その朝、ヘルパーから電話があった。家に母がいない、というのだ。私はすぐさま母の携帯に電話をかけた。すると、男の人が出て、お母さんは雪道で転倒して救急病院にいます、と告げた。車で駆けつけると、母は顔をぱんぱんに腫らせてベッドに横たわっていた。顔面の瘤からは血が滲んでいた。会話はできたので事情を聞くと、両親に会いに行こうと思ったのだという。ほら、すぐそこに住んでいるでしょ。祖父母の家は武蔵小金井で、電車で二時間ぐらいかかるよ、と告げた。そして、もうおじいちゃんとおばあちゃんは死んじゃったよ、とも。すると、母は「え! 嘘でしょ!」と叫び、そのあと声を上げて泣き出した。母は祖父母の葬式に参列している。その時もやはり泣いていたのだが、さめざめと両親への感謝を感じながら。そして、母自身が仙川にある特養に毎週通いながら過ごした介護の日々から解放されていた安堵感もあったように思う。そうした親の看取りの経験はもうすっかり消え去り、母は子供に戻ってしまっていた。いままさに両親を亡くした子供のように泣いていた。もう限界だった。
この緊急搬送事件ののち、私はケアマネに特養への入所を相談した。Iクリニックの院長も診察時に説得してくれた。私は母に特養入所に合意するよう何度か頼み込んだ。その様子を動画に収めたりしていたのだが、母は渋々ながら入所に応じていた。その動画の冒頭で母は「まだ大丈夫だと思うけど」と言っていた。最終的には私と子供達の生活を守るためだと言われて折れた。かねてより、母は私にも妻にも「私に介護が必要になったらいつでも老人ホーム入るからね! ぜんぜん嫌じゃないからね」と言っていたのに、である。まだ認知症状が出ていない親の「子供に迷惑をかけるつもりはない」という言葉はあまりあてにならない。
こうして、二〇二二年の一月末、母は入所に応じた。自宅から車で十分の特養なら空きが出るまでロングショートという制度を利用できるのである。先述したショートステイを一ヶ月間繰り返すことで、月の大半は介護保険の支援を受けられるが、最後の一、二日分だけ自費診療になるというのだ。月間十万円を少し超えるぐらいだったので、それほど問題にならなそうだった。
当然だが、認知機能や運動機能の低下で特養に入った人が自宅に戻ることは基本的にない。看取りのときぐらいだろう。しかし、空き家になった家にはまだ一匹の猫がいた。ジンジンといって、マオと一緒に引き取った白ぶちの猫である。マオよりは元気だった。自宅に引き取ることも検討したが、長男が喘息持ちで妻も難色を示したので、私が毎日面倒を見にくようにした。正直なところ、誰か他の人に引き取ってもらうという手段もとりえたのだが、このまま慣れ親しんだ家で最後を迎えた方がジンジンにとって幸せなのではないか、と思ったのだ。マオが死んで母がいなくなり、ひとりぼっちになったジンジンは数ヶ月後に家で亡くなっていた。玄関を開けて横を向くとクッションマットの上で仰向けになっていた。その顔は忘れられない。私の判断は正しかったのかどうか、いまもわからない。
さて、特養に入った母だが、急速に衰えていった。外出時は車椅子生活になり、持たせたスマホもなぜかホームの入居者にあげてしまっていた。コロナ禍ということもあって、私は母に一切面会できていなかったので、スマホが唯一の通信手段だったのだが、トラブルの元となるので持ち帰って欲しいということになった。
初期は本当にトラブルが多く、ある担当看護師が私に檄文を送ってきたこともあった。院内をうろつくのをどうにかしてくれ、という内容である。私がそれをどうにかできたら、プロのサポートを必要としないのだが……。結局、Iクリニックの院長と相談して、うまい落とし所を見つけてもらった。院長は笑いながら、「あなただってそんなこと言われても困るよね」と言った。結局、弱い睡眠薬を処方してもらった。どうしようもないときはこれを飲ませてくれと専門家である医師に言われました、と特養にその薬を持参するのである。ちなみに、この事件は特養のマネージャーと話し、看護師の独断による越権行為だと判明した。そもそも、私に直接言わないで、上司に相談すればよいのである。なお、これは一般的な知識として知っておいて欲しいのだが、ヘルパー・ケアマネ・看護師などから苦情を言われた場合は、いちいち言い返して衝突せずに、小さなことでもいいから対応をするのが重要である。売り言葉に買い言葉を避ければ、大抵はなんとかなる。
ロングショートだと病院の送り迎えはやってくれないので、通院は相変わらず私の仕事だった。二ヶ月に一度の通院で、私は母をいろんな場所に連れて行った。長男長女の通った幼稚園、次男の通った保育園、自宅(自宅は里心がつくのでやめておけとのちにアドバイスされた)、孫たちの揃っている時間帯に自宅についれていくこともあった。私と姉のことは覚えていたが、もう孫たちのことは忘れていた。ただ、このときの通院時間は私にとって鮮やかな記憶として残っている。「懐かしいわぁ」と感嘆する母の声を聞くのが私はとても嬉しかった。春から夏にかけて咲くとりどりの花を見るために近所の公園に立ち寄って車椅子を押すときのえもいわれぬ感情を私はよく覚えている。
Iクリニックの院長には他にも特養からのクレームを相談した。院長によると、入所初期に起こしたいくつかのトラブルのうち、他の入居者の部屋に勝手に入っていくというような行動は、私の母の「他の誰かをかまってあげたい」という良い性質の表れではあるのだけれども、それは特養の介護者たちにとって面倒を増やすだけで、退所を促されるような事態に発展する可能性もある。それならば、どうせ全面介助が必要な状況は変わりないのだから、認知症を進行させたまま大人しい入居者でいてもらった方が、私も母も幸せなのではないか。なるほど、と私は思った。残酷ではあるが、プロとしての現実的な対処法である。
そうして、母はゆっくりと衰えていった。やがて二〇二三年六月、母がはじめて介護認定を受けてから二年が経った。
このとき、祖父の法事があり、私は母を連れていくことに決めた。東京都あきる野市にある築地本願寺西多摩霊園に母方の親戚一同が集うことになっていた。千葉からは二時間超の長旅である。私は母を車に乗せ、あきる野市に向かった。コロナ禍で親戚一同が集まるのは久しぶりだった。母は三人きょうだいの末っ子で、上に姉と兄がいた。二人とも母より高齢で、八十代だったが、まだ公共交通機関を利用できた。きょうだい仲はとてもよく、私が二十歳前後のときに独り身になった母をいつも気にかけていてくれた。伯父・伯母は私たち姉弟のことをよく可愛がってくれたし、私のいとこたちも母によく懐いていた。いとこが「おばちゃーん!」と話しかけると、母は「いぇーい!」などと戯けていた。自分の孫の名前は忘れていたけれども、私のいとこたちの名前はよく覚えていた。これがきっと最後の写真になるだろう、と思った私は、三きょうだいに並んでもらい、祖父母の墓前で写真を撮った。会食では親戚一同、二十名超で写真を撮った。この時の笑顔の写真は、母の遺影に使われることになる。
さて、同じ頃、介護保険の審査がふたたびあって、母はもうハイハイもできなくなり、車椅子生活の全面介助となっていた。介護保険は四級に上がった。しかし、なぜか本格入所は始まっていない。私は特養のマネージャーに「まだ入所の空きは出ないんですか」と尋ねたところ、マネージャーは「えっ」と驚いた風だった。ケアマネにも連絡したが、「入所の申請は出してないですか」と聞き返された。なんとなく釈然としなかったが、申請書を出すとすんなり入所が決まった。私を含め、誰も申請書を出していなかったのである。ロングショートという不安定な状態を余計に続けた期間について、ちょっと損をした気分がないではないが、いまさら別の特養に移ったところで母にとってはリロケーション・ダメージ(引越しによる精神的負荷)が残るだけだろうと思い、不問にした。本格的な入所になると、通院の付き添いも不要になる。これで、私の介護生活はいったんの区切りを迎えた。
月二回ぐらい面会に向かうというのが私の唯一の介護になった。相変わらずコロナ禍で、以前はLINEによるオンライン面会しかできなかったが、月に二回まで面接をできるようになっていたのである。もっとも、この頃には面会に行っても、制限時間の十五分が来る前に居眠りをして終わり、ということもままあった。
さて、母が特養に入所してから新たな仕事が増えた。空き家の管理だ。私は空き家になった実家を賃貸契約に出すつもりでいた。アパートの建て替え計画は二世帯住宅から私たち家族が住む一軒家に変更する。これは姉と相談して了承してもらった。というのも、千葉市で2Kのアパートをリフォームしても、需要があまりないのだ。一部屋リフォームで一五〇万円、相場の家賃が四万弱だから、回収に三十八ヶ月はかかってしまう。空き部屋率を考えるとさらに割に合わないし、千葉市で需要の多い戸建て購入前の若い家族向け(夫婦と子供一人で一〇万ちょっと)に建て替えると五千万はくだらない。私自身の家もないのに、アパートのための投資をする気にはなれなかった。幸い、私はDIYが好きで、アパートのリフォームも水道・電気以外は自分でやったぐらいのなので、一軒家を予算一五〇万ぐらいでリフォームして、賃貸に貸し出すつもりでいた。外壁塗装はプロに頼んで、内部は自力で直す。一年ちょっとで元が取れるだろうし、家族向け物件は千葉市で需要が多い。そうすれば母の財産をできる限り目減りさせないようにできるし、十年単位での特養入所費用も極力節約できそうだ。
その過程で壁紙の張り替えや床の塗り替えなど進めていたところ、少し早い遺品整理のようなこともしはじめた。
大量にあった本のうち、母に関係なさそうなものは処分していった。母が大事にしていた文芸書、たとえばついに読み切ることのなかった『失われた時を求めて』などはとっておいた。写真や手紙、骨董品や嫁入り道具と思われるものも慎重に選り分けて行った。手紙を整理し、母と付き合いの長そうな友人をよりわけた。
やがて、母の若い頃のアルバムが出てきた。紐綴じの布張り表紙の古いアルバムだ。二十代そこそこの母が自分の写真を切り抜いて一冊にまとめていたのである。現在でいえば、若い女の子の自撮りインスタグラムアカウント、といったところだろう。そのアルバムには、私の知らない母が写っていた。めいいっぱい可愛く写ろうと、色々な構図を試していた。顎に手をそえたボケの多い写真や、左翼活動の一環だろうシュプレヒコールをあげる勇ましい姿、色々な姿だ。私はそのアルバムを特養に持っていった。いつももの面会中でほとんど寝ているようだった母は、急に鮮明な意識を取り戻した。アルバムをめくる母に「この写真、いつのやつ?」などと尋ねると、「いつのかしら」と釈然としないながらも嬉しそうに答えていた。母は一九四八年生まれで早稲田大学の全共闘世代だったから、労働歌「インターナショナル」を歌ってみて、と頼めば嬉しそうに歌った。母は茨城の土浦一高出身だったので、そのときの卒業アルバムを持っていったこともある。寄せ書きのページを眺める母は本当に嬉しそうだった。親友二人の名を愛おしむように読み上げていた。
昭和天皇と同じ日に生まれた母は、この春に七十五歳になっていた。こんなにも老いた母がようやく後期高齢者となったのだった。保険証もその七月に変わっていた。
そして、二〇二三年十二月になった。私は夜中、特養から電話を受けた。母が食事中に誤嚥してしまい、提携病院に緊急搬送されるということだった。万が一のことがあるので、私にもきて欲しいということだった。私は車で駆けつけた。はじめて会う特養の職員に経緯を説明してもらった。誤嚥性肺炎になったけれども、命に別状はなさそうということだった。医師は慎重に「とはいえ、万が一がないとは言えない」というので、私はその夜、姉に電話をして、翌日千葉市の病院まで来てもらうよう頼んだ。一瞬だけ、母に会うことができた。母には意識があって、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、「フミちゃん、苦しい」とだけ言っていた。
翌日、病院に訪れた姉と一緒に受付にいくと、予約がないと面会できない、とすげなく断られてしまった。私は食い下がり、昨晩十時頃に医師が「明日お姉さんも呼んでおいた方がいい」と言ったのだ。そちらが言ったのだから、こうして来ている。だったらそのとき面会の予約を取るようになぜ言わなかったのか? 医師に確認をとって欲しい。その結果、面会できるようになった。母は呼吸器をつけて、眠っていた。このとき会話したかどうか、よく覚えていない。病院を去るときに次回は次回はかならず予約を取るように言われた。平均入院期間は一ヶ月ということだったので、私は二週間後の金曜日に予約を取った。
そして、二〇二三年十二月一五日になった。午後が母との面会予約時間だった。朝の八時ぐらいに病院から電話が入っていた。面会について準備が必要なのかと思って九時ごろに折り返すと、病状が急変したのですぐにきて欲しい、とのことだった。なにがどう急変したのかわからなかったが、私はすぐに車で病院に向かった。自宅からは三〇分ぐらいだった。病院につくと、私は母のベッドがあった部屋とは違う部屋に通された。ピーという甲高い音が鳴り続けていた。看護師がやってきて、母は今朝がた朝食を食べた後に看護師と会話をしている最中、急に胸を押さえ、そのまま亡くなったそうだった。突発性の致死的な不整脈、というのが診断内容だった。母の頬に手を当てた。まだ少し暖かかった。
「なにもなければ一ヶ月程度で退院」と聞かされていた私の頭に医療ミスの一言が頭をよぎった。とはいえ、母が長年高血圧に苦しめられてきたことは知っていたので、そういうことがあっても不思議ではないような気がした。待合室で姉の到着を待つあいだ、私はスマートフォンで不整脈による死亡事例を検索した。いわゆるポックリいくというのは、突発性の不整脈も多く含まれるようだった。私はあっけに取られていた。東京から駆けつけた姉も似たような感じだった。あまりにもあっけなくて、本当に死んだのか、よくわからなかった。パーキンソン病になってから寿命十年というのはなんだったのだろう。母はまだ七十五歳になったばかりだった。日本の女性の平均寿命より十年近く早かった。でも、死んだのだ。そして、驚くべきことに、私はほっとしたのだ。
私は妻に電話をして、母が亡くなったことを伝えた。私の妻はそれより七年ほど前に父を亡くしていた。そのときの経験から、葬儀会社を探しはじめてくれた。肉親の死後の混乱期に訪れる葬儀社選択を経験していた妻は、方々に電話をかけ始めて見積もりを取りまくった。葬儀社は自宅最寄りのJR駅前にある葬儀会社に決まった。
すべてがあっという間に進んでいった。葬儀は親戚だけで行った。二十年以上前に別居状態になっていた父は来なかった。私の母世代の親戚は叔父叔母含めて十二名いたが、母が一番乗りだった。いとこたちはほぼ全員が揃っていた。葬儀が進み、告別式の出棺のとき、私は伯母が、つまり、母の姉が「三恵子、さようなら」と言ったときに胸を突かれるような思いがした。この仲の良いきょうだいのうち、母が一番先に死んでしまったということがたまらなく悲しかった。お別れの曲はサッチモこと、ルイ・アームストロングの “Such a Wonderful World”だった。母の世代のスタンダード・ジャズ・ナンバーだ。
自宅からほど近い樹木葬の小さな墓を買った。遺骨は分骨して、半分を海洋散骨することになっていた。私と姉が幼かった頃、母は「私が死んだら灰をパーっと海に流して欲しい」と何度か言っていたからだ。とくにそのことについて確認したわけではないが、姉もよく覚えていて、自然と海洋散骨をすることになった。当時は「なぜそんな悲しいことを言うのだろう」と不思議だったが、なにか切ないような、人生の深奥に触れる印象を私たちに残したのだろう。
二〇二四年六月、私が母を残して実家を去ってから四年が経つ頃、私と姉の家族で新木場にほど近い桟橋に集まった。そこから小さな船に乗って海洋散骨に向かった。母の遺骨の半分と、それぞれの猫の遺骨の半分ずつがすり潰されて、小さな白いパッケージに詰められていた。私と姉の子供たち、つまり母の孫は六人いた。そのすべての育児に母は関わっていた。私たちはそれぞれ、粉々になった遺灰を海にまいた。その日の東京湾、それも新木場のあたりはとても匂いがきつく、下水のような匂いだった。ふだん私がサーフィンで訪れる外房(房総半島東側)の太平洋とは比べ物にならない汚い海だった。それでも、千葉・茨城・東京・千葉と移り住んできた母にとっては、いつも身近な東京湾だ。ふたたびサッチモの曲が流れた。
短いようで長かった五年間だった。いつも私を「フミちゃん、天才!」と褒めてくれた母。父が家を出てから妄執の鬼と化した母。姉と私の子供達の育児にとことん付き合ってくれた母。パーキンソン病を患ってから、子供のようになってしまった母。ついにプルーストの『失われた時を求めて』を読み切ることのできないままこの世を去った母。そのどれもが私にとって、どこまでも母であった。
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