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見出された病

プルーストが読みきれない(第1話)

高橋文樹

二〇一九年、私は母の介護を始めた。母がパーキンソン病になったのである。二〇二五年問題を先取りする形ではじまった私の介護記録。

タグ: #病気

エセー

6,762文字

二〇一四年から二〇二〇年にかけて、私は千葉県千葉市で母と同居していた。私と妻のあいだに双子が生まれ、育児があまりにも大変だったので実家に転がり込んでいたのである。その後、さらに二人の子供が産まれ、子供四人と大人三人(さらに猫二匹と犬一匹)の大所帯で生活していた。母は老体に鞭打って、夕食の準備や子供たちの風呂上がりを手伝ってくれていた。母は家族カウンセラーの仕事をしていたが、電話カウンセリングが中心になっていて、開店休業状態だった――といっても子育てを手伝うために自発的に時間を空けてくれたのだが。育児のサポートをしていないときは一階の和室で読書や昼寝、書き物などをしていた。書き物をするときは一年中出しっぱなしのこたつに座り、MacBookに向き合っていることが多かった。そのMacBookは私が選んだもので、使い方を教えるときにMacユーザーである私にとって楽だからという理由で一般的なWindowsではなかったのだ。母の部屋を根城ねじろにしている猫たちが座るので、キーボードの上は毛だらけだった。こたつ机のすみにはA4のコピー用紙の束があって、鉛筆の走り書きがしてあった。本を読み、構想をメモして、文章を書こうとしていたのだろう。母は若い頃にライターをしていて、本を四冊ほど出版したことがあり、そのときの習い性を老いてからも続けていた。藤原道長についての評伝を出したいらしく、その資料として岩波書店の『日本古典文学大系』が部屋の隅に重なっていた。もう十年ぐらいマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読破するという目標を掲げていた。自分は老い先が短いからすでに歴史的に高い評価を得た作品を読みたい、ということで全十巻の大著を選んだのが、読むたびに寝てしまうので、読了まではいたっていなかった。ちくま文庫に入っている井上究一郎訳を持ってこたつに入り、そのまま居眠りしていた。「花咲く乙女たちのかげに」というパートを繰り返し読んでいた。一度六巻まで読んだが、内容を忘れてしまったので読み直しているのだという。『失われた時を求めて』は会話や内省がほとんどで、ストーリーなどあってないようなものだから、それでかまわないらしかった。

私が母の異変に気づいたのは、二〇一九年の春ぐらいだった。あまり風呂に入らなくなったのである。母はもともと風呂が好きではなかった、というのも、中高年に見られるヒートショックによる突然死をとにかく恐れていたからだった。冬は毎日風呂に入らず、洗面台で頭を洗うだけで済ませることも多かった。しかし、だいぶ気温も上がった春先だというのに、一週間ぐらい風呂に入らないことも多く、かなりせきたててようやく入る、という具合だった。私は風呂掃除当番だったので、一番最後に風呂に入ったついでに済ませてしまいたかった。母は「最後に風呂に入ると私が洗わなきゃいけないんでしょ」と言い訳をしたので、仮に私が母より先に風呂に入っても母は風呂掃除をしなくてよい、私があとでやるからと説明したのだが、腰は重かった。疲労を訴えることも増えていて、物忘れが多くなった。一階の和室が母の書斎で、二階に母の寝室があったのだが、寝室まで上がらないまま和室でこたつに潜り込んで眠る日が増えた。階段を昇るのが億劫おっくうそうだった。私は、なんだかよくわからないが医者に見せた方がいいのでは、程度の疑念を持つようになった。私はこういうとき、あまり相談しない。勝手に医者の予約をして、「いまから病院に行こう」と騙し討ちをするタイプの人間だ。認知症検査を一回ぐらいやっておいた方がいいだろう、なにもなければそれでいいし、ぐらいに思っていた。

医者の予約を入れるか入れないかの時期に、私はtwitterでダイレクトメールを受け取った。なんでも、私の母の知人であるらしい。母は家族相談士の資格をとってカウンセラーをやっていたから、仕事仲間かクライアントといったところだろう。彼女は最近、私の母と喫茶店で会って話したそうだ。その会話の中で、彼女は私の母が着替えの最中につんのめって転倒することがある、と自虐めいて披露したエピソードに注目した。その症状は彼女の母が患ったパーキンソン病に酷似していた。「治療が早ければ予後もいいので、受診した方がいいかもしれません」と私に忠告してくれたのだ。あとから考えてみると、この忠告はとても正しかった。母に伝えるのではなく、私のSNSアカウントを見つけてまでメッセージを送ってきた理由は、そうした方がいいだろうという経験者なりの配慮だったのだろう。そして、その忠告を受けることができた私はラッキーだった。私はほとんどのSNSを実名でやっており、誰でもアクセスできるようにしているので、知り合いの知り合いぐらいから連絡を受けることがたまにある。実名ゆえに困ることもたまにあるのだが、このようなメリットもまた存在するのだ。

二〇一九年六月、私と母は市内にある神経内科Iクリニックの待合室にいた。母はかなりプリプリしていた。「あんた、私がボケてると思ってるでしょ!」という具合だ。私は正直なところボケ始めていると思っていたが、これが介護を必要とする段階なのかはわからなかった。まだ七十一歳の母が怒るのも無理はないのだが、私は「もうそういうお年頃だから」「念のため検査しておいた方がいいでしょ」などと曖昧になだめすかした。診察室に呼ばれて入ると、白衣に明るいスラックスをあわせたダンディな院長が診察してくれた。母の手をつかんで何度か上下させ、歩行の様子を見た。そしてこともなげに「パーキンソン症状があるね」と告げた。その後、認知症のテストを受けることになった。別室に通され、先ほどの院長ではなく、女性が出てきた。医師ではなく、臨床心理士とか、そういった専門職の人だった。普段の生活ぶりについて軽い面談があって、母は自分が家族相談士の資格を持っていることなどを嬉しげに話していた。テスト開始にあたって、私は待合室で待機するよう言われ部屋を出た。ちらりと母を見ると、先ほどの笑顔は消え、挑むような顔つきになっていた。しばらくたって部屋に招かれ、テストの結果を告げられたのだが、見当識(時間・場所・人間関係を把握する能力)などの認知機能を計る三十点満点だかのテストで二十八点だった。たぶんMMSEだと思うのだが、とにかく二十三点以下が認知症の疑いありと診断されるテストだと事前に言われていた。結果だけ見るに、問題なしというわけだ。最近の物忘れの様子から考えて、とても問題がないとは思えなかったのだが「歳相応」とのことだった。医師がそう言うのならどうしようもない。今回の診療で薬の処方などはなかった。パーキンソン病かどうかを確定させるために国立病院での検査を受けることになったので、その場で予約をした。DATスキャンという検査でドーパミン神経が減っていないかを調べる必要があるらしい。薬の処方などはその検査結果次第のようだ。診察があまりにもあっという間に済んでしまったので、私は呆気に取られた。パーキンソン病はたしか不治の病である。母はその診断に対し、どこか人ごとのようであった。帰りの車の中でこれからの闘病生活について告げると、「えー、大変ね!」と驚いていた。それよりも認知症テストで合格点だったことの方が嬉しかったらしく、私が母の認知症を疑ったことがいかに罪深いことか、嬉しそうに話していた。最後に自分を指さして「天才!」と満面の笑みを浮かべた。

国立病院での検査を受けるまでの間に、私はパーキンソン病についての本を何冊か読み、情報収集をした。その結果、以下のようなことを理解した。

  • パーキンソン病は脳内でドーパミンを分泌する神経細胞が減少し、運動能力に支障をきたす病気である。
  • 症状は振戦しんせん(手足が震える)、筋固縮きんこしゅく(筋肉のこわばり)、無動状態、姿勢反射障害(バランスを崩す)など、運動機能の低下。
  • ドーパミンの分泌を助ける薬での対症療法が主で、根治はしない。不治の病である。初期(五年程度)は治療が奏功しやすいハネムーン期と呼ばれるが、徐々に薬の効きが悪くなっていき、改善することはない。
  • 重症度は五段階にわけられ、四段階ぐらいから介護が必要になる。最終的には車椅子・寝たきりとなり、全面介護(食事・入浴・排泄での介護)が必要となる。
  • 高齢者に特に多い病気で、六十五歳以上では一〇〇人に一人程度が発症する。
  • 国の指定難病である。
  • 致死的な病気ではなく、寿命にそれほど影響を与えない。つまり、適切な介護をしていればパーキンソン病が原因で死ぬことはない。
  • レビー小体型認知症というアルツハイマー病とは異なるタイプの認知症を併発することがある。

おそらくだが、私がSNSで報告を受ける前からすでにパーキンソン症状は現れていたのだろう。いまになって思うことだが、風呂に入るのを億劫がったのも、二階の寝室に上がらずにこたつで眠っていたのも、面倒だからではなく運動能力の低下による不便が原因だったのかもしれない。そうすると、この発見の時点ですでにホーエン・ヤールの重症度分類五段階中の二ぐらいまでは進行していたのではあるまいか。もう少し治療が早ければ違った結果になったかもしれない、というのはいまでも少し後悔している。

さて、情報収集を経て千葉市にある国立の千葉東病院へ検査に行くことになった。エイズ治療も行っている高度専門医療施設で、建物は古いが敷地は広かった。DAT検査は放射性の薬剤を注射したあと、それが脳へ浸透するまで長い待ち時間がある。六時間ぐらいかかると事前に言われており、開院する朝九時から午後までの長丁場だった。私は母を送り届けた後、家に戻って仕事をし、午後十五時ぐらいに迎えに行くことになっていた。検査時間が長いので体力的にこたえるのではないか、と心配したが、そんなことはなかった。母は病室のベッドでずっと寝ていたから気持ちよかったと言う。よく居眠りをしていたから、ちょうどよかったのかもしれない。

二週間ほど経った。Iクリニックから検査結果が届いたとの連絡があり、いざ診察へ向かうと、やはり院長の見立て通りパーキンソン病を宣告された。治療薬として二種類の薬(アジレクトとマドパー)を貰い、月に一度の通院をすることになった。薬を飲めばひとまず症状は緩和されるのだが、これらの薬は病状の進行に伴って薬の量を少しずつ増やしていくらしい。つまり、これ以上はもう効かない、という量に至るまでゴールポストを少しずつずらしていくような治療になるわけだ。現代医学をもってしても撤退戦めいた手法しかとれないことは残念だったが、治療のメドが立ったことで母が不治の病になった衝撃は和らいだ。少なくとも、私にとって。

ちょうどこの頃、私は実家を出て近くのアパートに移り住む計画を立てていた。このアパートは母が祖父母から相続したアパートで、実家から歩いて十五分ぐらいの距離である。八〇坪程度のそれなりに広い敷地があったが、築五〇年以上と古く、空き部屋だらけだった。これはのちに判明するのだが、管理を委託していた不動産屋は母が何も言わないので特に募集をかけていなかった、ということらしい。母は不動産管理をできなくなっていたのだろう。ともかく、まったく収益をあげないアパートだったので、私は実家を処分してその敷地に二世帯住宅として建て替えようと考えていた。理由は二つあった。

まず、私には子供が四人いたのだが、一番上の子供(よりによって双子)が二〇二〇年の春には小学校入学を予定していたのである。母の実家にそのまま住んだ場合に通うことになる中学校は学級数も少なく、自治体の発表する消滅予定校リストに入っていた。その一方で、アパートの学区にある中学校は千葉市のモデル校である。教育という意味では大きな学校に通った方が良さそうだった。

そして、もう一つは母が介護制度を利用しやすくするためである。はじめてIクリニックでの診察を受ける直前に地域包括支援センター(行政による介護保険の相談窓口)になんらかの介護支援を受けられないか相談したのだが、面接に来た市の相談員は「これなら大丈夫ですね」とさっさと帰ってしまったのである。「さっさと」というのは冗談ではなく、十分ぐらいで帰ってしまったのだ。「あー、はいはい」という感じだった。同席した支援センターの職員も、「なーんだ」と拍子抜けしたような顔をしていた。理由は告げられなかったのだが、とにかく何の支援も受けられなかった。私は自分が大袈裟に言いすぎたのかと不安になり、ほとんど羞恥心にも似た気持ちでネットを検索した。同居家族がいること、猫を飼っていること、本人が大丈夫と主張したこと――これらの要因は要支援とは認められない主因らしかった。となると、私たちが同居しているより、母が独居をした方が介護制度を利用しやすいのではないか。

私の計画は次のようなものだった。まず、私の家族がアパートに移り住み、独居となった母は介護認定を受ける。三年後、アパートを取り壊し、土地を分筆して新築の二棟建てにする。母の新居は実家を売却した資金で建てる。将来的に母が老人ホームに入居した場合を考えると、母の老後資金として売却・賃貸できるような形になっている方がよいので、子育て準備世帯に需要がありそうな3LDKの小さめの戸建てにするのがいいだろう。その隣に私たち一家が住む戸建てを建てる。三年後に先延ばしたのは、私が会社経営者で住宅ローンの審査が壊滅的だったためで、住宅ローンの審査が通るようになるのに直近三年の業績を見られると不動産屋に言われたからである。三年なら母の病状が悪化することはないだろう、なぜならパーキンソン病は寿命に影響を与えないと本に書いてあったのだから……私はそう考えていた。この計画を母に話すと、母は育児の手伝いから解放されることを喜んでいた。毎晩夕食を用意するのが相当にこたえていたのだろう。この点はとても感謝している。私の子供たちは半分ぐらい私の母が育てたようなものだった。

二〇二〇年に入り、コロナ禍が本格化し始めた春に私と家族はアパートに引越した。母は待望の独居状態となった。引っ越したといっても歩いて十五分ぐらいの距離なので、実家を休まず訪問した。私は愛犬パッキンの散歩を毎日朝晩二回に欠かさず行っていたので、その散歩コースに実家を入れるようにした。往復時間は三十分程度、滞在中に何をするかというと、買いためておいた日用品を届けたり、掃除をしたり、母の話し相手になったり……ぐらいだ。朝晩を合わせると一日二時間ぐらいだろうか。

一日の生活にプラス二時間の労務が発生する、というのはそれなりに大変だろうが、私の場合は恵まれていた。まるで、介護生活に入るために神が采配したとしか思えない偶然である。まず、私は作家として破滅派という出版社を経営しているが、文芸作品はぜんぜん売れないため、生活の糧はウェブ(特にWordPressというソフトウェア)に関する開発から得ていた。このIT事業は長く破滅派の主力事業だったのだが、不穏な社名から色々と不便が多く、大手の会社で稟議りんぎに通らないことさえあった。そんなわけで二〇一七年ぐらいから破滅派でIT事業を請負うのは辞め、タロスカイという会社でCTO(最高技術責任者)として勤めるようになっていた。二〇一九年、タロスカイのオフィスは秋葉原にほど近い岩本町にあって、当然ながら私も総武線に揺られて出勤していたのだが、二〇二〇年のコロナ禍によってタロスカイはオフィスをたたみ、フルリモートワークに移行したばかりだった。つまり、ちょうどのタイミングで往復の通勤時間三時間がなくなっていたのである。リモートワークなのでチャットツールで一言断れば日中の病院への付き添いもできたし、役員ということもあっていちいちうるさいことは言われなかった。そういう状況なら、母の様子伺いをする二時間がそれほど大変とは感じない。介護というものがこの程度なら、いくらでも続けられそうな気がした。

のちに知ったのだが、介護離職の危険シグナルは一日に二時間を介護に費やすことだそうだ。私はこのとき、すでに介護離職の危険信号にさしかかっていたのだが、まったく苦ではなかった。実際、はじめてパーキンソン病の診療を受けた二〇一九年の夏から一年弱が経過した時期になっても、パーキンソン病や認知症の進行などの問題は見受けられなかった。この一年と同じような日々が続くのだろう――そのときの私はそんなふうに思っていた。このあとに地獄が待っていることも知らずに。

© 2025 高橋文樹 ( 2025年1月3日公開

作品集『プルーストが読みきれない』第1話 (全7話)

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