二〇二一年七月、緑色の要介護認定証を母が受け取ったことにより、一年にわたる私の一人相撲は終わった。私が毎日二時間続けた朝晩の介護だけではなく、日中もヘルパーさんが介護してくれることにより、食事・入浴・排泄の負担がほぼなくなった。とりわけ、リハビリパンツの導入が画期的だった。粗相をしてもトイレに設置したゴミ箱にポイっと捨てて、ちょいちょいっと拭けば終わりである。
これはあとで知ったのだが、介護離職を経験する介護者のうち、排泄・入浴介助を行なっている介護者の割合は高いそうだ。つまり、親の風呂トイレを介護していると、離職リスクが高まるのである。それらの介護の心理的負担が高いことが原因なのか、それとも風呂トイレを手伝わなければならないほど症状の進行した親を単独で介護していることが原因なのか、どちらかまでは私は知らない。しかし、それぐらいリスキーな介護なのである。この大半をプロに任せることができて、私は安堵した。深呼吸して「空気がおいしい!」と叫びたいぐらいの気持ちだった。
ヘルパーとも毎朝顔を合わせ、夜の訪問を十時ぐらいに遅らせるようにした。夜になるとノートに今日は何を食べた、夕方に妄想を話した、などの状況が書かれている。たまに、ヘルパーからの相談事が書いてあると、赤ペンで返答を書いた。介護が始まってもいくつかのトラブルはあったが、それでも一人でやっていた頃に比べたらイージーモードである。
さて、あとは要介護二級から三級にランクアップするための証拠集めが私の仕事の一つだったのだが、それはあっという間に集まることになってしまった。この時期の悪化は驚くべき速度で、パーキンソン病についての本に書いてあった。「寿命には影響を与えない」という記述は本当なのか、訝ったものである。もしかしたら、パーキンソン症状に伴う運動能力の低下が認知症の進行に拍車をかけたのかもしれない。
ある朝、私が実家を訪れると、魔女のように伸びたあとに切ったはずの爪が、すっかり剥がれ落ちて、親指から血を流していた。母はそのことにまったく気づいていなかった。居間の床を見渡すと、はたして親指の爪が落ちていた。私は母を連れて皮膚科に向かい、処置してもらった。もちろん、このすべてを逐一写真に収めるのだ。ちなみに、この親指の爪は数ヶ月を経てすっかり元通りになった。あれだけ老いても、人体というのは不思議なものである。
定期的にカメラを監視していたが、真夜中、廊下に横たわっている母を発見することも多かった。ぼんやりと虚空を見つめ、まんじりともせず寝転がっている。パーキンソン病特有の無動状態である。一度動作を停止すると、脳からの「運動せよ」という指令が届かなくなってぴくりともしなくなってしまう。監視カメラには遠隔通話機能がついていたので、私は「起きろ!」と怒鳴りつけた。そうすると、母はムクっと動き出すのである。「がんばれ! がんばれ!」と、私は続けた。やはり、人間は外界からの刺激がないとダメなのだ。声をかけ続けると母は懸命に上体を起こそうとするが、腹筋を使ってその場で起き上がるのはもう無理なのだ。私は「台所の壁にある手すり使って」と指示をする。母は少し体勢を変え、なんとか手すりをつかむと立ち上がるために膝立ちの姿勢になる。そこでしばらくの間止まってしまう。私が再び声をかける。左膝に手を乗せる、あるいはもう片方の手で反対の壁の手すりを掴む、といった具合だ。うまくいくと、母は壁にすがるように立ち上がり、ベッドにたどり着く。こんなことがしょっちゅうあった。
しばらくすると、母は歩けないときにハイハイでトイレに向かうようになった。これはうまいアイデアだと思ったが、膝がフローリングで擦れて血まみれになってしまった。私はまた通院か、と思ったが、ケアマネは膝に大きい絆創膏を貼るといいですよ、という思いもよらないアドバイスを提供した。私の仕事は定期的に絆創膏を補充することらしかった。これを繰り返すことで膝の皮が厚くなり、出血もしなくなるのだそうだ。そういう老人は多いという。経験に裏打ちされた発想の転換は、やはりプロならではと感心した覚えがある。
また、粗相をする回数も増えた。私は下半身丸出しで廊下に寝転がる母が「あの女がお金を盗んだ!」と叫ぶのを宥めたりした。「あの女」とはおそらくヘルパーのことで、人員の都合でいつもとは違う人が来ることも当然あったのだが、見知らぬ人が家の中にいる状況で母はかなり疑心暗鬼不安になるようだった。私は助け起こすより先に横たわった母の写真を撮影し、物盗られ妄想の内容をメモした。
そして、私を最大におののかせたのは、母が外で寝ていることだった。夕方、ヘルパーが帰ったあと、母は私がプレゼントしたカートを押してコンビニへ行く。なんとか家までは辿り着く。しかし、玄関の一段が越えられない、あるいは、玄関の鍵を開けている最中の手間取りのうちにへたり込む。そのまま横になる。パーキンソン病の無動状態、しかもアウトドアバージョンである。そこで夜十時ごろに実家を訪れた私が、玄関前で横になっている母を発見するのだ。もちろん、私は助け起こすより先にその様子を写真におさめた。廊下で寝転がっているだけでも介護認定区分変更には十分な気もするが、夜の屋外は衝撃的な写真だ。そもそも危険である。夏だったからよかったものの、冬なら凍死だ。私がいけない日はどうなるのか? もし私がちょっとぐらい大丈夫だろうと一泊二日の家族旅行に出かけたら、母が玄関前で凍死していました、ということにはならないだろうか。
その写真をケアマネに見せると「ありゃー!」と驚いていた。玄関に外からかける鍵をつけることも提案された。ちなみに、この写真は母にも見せた。玄関前で寝転がってぼんやりと夜空を見上げている母の横で愛犬パッキンが心配そうに匂いを嗅いでいる写真だ。母それを見て、「これ私! 信じられない!」と爆笑していた。笑う母を見て、私もなんだかおかしかった。
こうした証拠の数々を集め、二ヶ月後には介護認定調査の市職員に見せた。写真に収めていないトラブルは日付とともにメモしてあった。この二ヶ月でこれだけの惨事が起きたのだ、と。このままでは、私と妻と四人の子供たちの生活が滅茶苦茶になる。こうして、母は介護三級になった。これで、いつでも特養に入れる。いまになって思うのだが、これから親の介護の準備をする人は、すべて記録をとっておくべきだ。少し残酷かもしれないが、時系列順でよく観察をしておいた方が、まだ判明していない病気の早期発見にも寄与するし、介護サービスを受ける際のあなたの説明も説得力をます。そのほんの少しの残酷さは、あなたとあなたの親を守るために役立つのだ。私の母も息子によって風呂に入れてもらうのは屈辱だったろう。
八月には自宅から車で十分ぐらいの特養と契約し、ショートステイを利用できるようになった。さっそく、夏休みも終わりになろうという時期、私は子供を連れて市内のキャンプ場に向かった。もちろん、母をショートステイに預けて。
二級から三級に上がったとはいえ、朝晩の介護は続けていたし、基本的な体制は変わらなかった。月々の支払いがちょっと安くなった程度だ。もちろん、通院も私の担当業務だった。
毎月通っていた心療内科で、そろそろ一年が過ぎたので、認知症検査を行うことになった。すると、前回よりも大幅な低下が見られた。前回は三十点中二十八点ぐらいだったのに、一七点ぐらいまで下がっていたのである。実際、私も母が完全にボケていると確信していた。
特に見当識が壊滅的で、直近の時間や場所の感覚はほぼ失われていた。暇つぶしに映画『007/スカイフォール』をつけてやったら、その晩には私に電話をかけてきて、いま外に変な人がいて銃を持っていると怯える。いまはもう一緒に住んでいない孫が帰ってこないと警察に電話し、警察から私に電話がある。両親(私にとっては祖父母)が二人とも亡くなっていることを忘れ、「お爺さんとお婆さんはいつ帰ってくるのか」といった具合だ。とりわけ、デイケア施設から帰った後は、見当識が滅茶苦茶になっているので、自分の家に帰っているのに「早く帰らなきゃ」と何度も椅子から立ち上がるのだ。その度、私は「ほら、あのカレンダーうちのでしょ」と母を宥めた。
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