ケアする惑星

プルーストが読みきれない(第6話)

高橋文樹

エセー

9,931文字

ビジネスケアラーは孤独である。今回は「親を介護する働き盛りの中年男性」がどうやって倫理的なモデルを見出していくかについて書く。

私が若い頃、ウォン・カーウァイの映画『恋する惑星』がヒットして、そのポスターを部屋に貼るのがオシャレだということになっていた。他にも『グラン・ブルー』『トレイン・スポッティング』あたりが定番だった。単館映画系というジャンルが存在し、わざわざ渋谷の映画館に行かないと見られない映画を見ているのがかっこよかった。

『恋する惑星』という邦題は原題『重慶森林』とは全然異なっており、いかにも邦画らしいマーケティング的改題だが、「惑星」という言葉が若者のふわふわとした迷いをよく表している。換骨奪胎といってもいいだろう。惑星の語義は惑う星、つまり恋する若者のようにフラフラとした状態を示す。対義語は恒星で、自ら光を放ち、周囲の天体を引きつけ、惑星系の中心に存在する星を意味する。

 

私は介護をしているあいだ、ずっと孤独で頼りなく感じていた。そもそも身の回りに親の介護をしている働き盛りの男性というのがいなかったのである。恋する若者ではなく、家族を持つ中年男性としてよるべない惑星になっていた。それが本章のタイトルの由来である。

私が母の介護記録を公開しようと決めたのは、そもそもこの頼りなさをなくすためだった。本書の実践的な内容について私は自信を持っているわけではない。専門家からは多くのツッコミが入ることだろう。しかし太陽の光を反射した火星の光が地球に届くように、私の体験があなたの孤独な介護生活を照らせば良いと思っている。今回はケアをする私たちの精神面の構築方法、要するに心の持ち方をどうしたらいいかについて、私なりの考え方を紹介したい。

まずはIクリニックの一場面から始めよう。

私は母を伴って心療内科であるIクリニックを何度も訪れた。近隣の認知症患者が集うこのクリニックの待合室には、私と母よりそれぞれ十歳ほど年嵩の親子が多かった。子供が五十代、親が八十代といったところだ。付き添いが息子だけのパターンは少なかった。息子が来ている場合は大抵その妻や子を伴うことが多く、一家総出のグループがいると待合室は混雑した。母親と息子だけ、という珍しい組み合わせを見つけると、私はその様子をじっと観察した。息子の多くはイライラして、母親は申し訳なさそうにしていた。中にはブチギレている息子もいた。待合室なので小さな声ではあるが「おまえよー〇〇っつったろ」という具合で、かなり乱暴に叱責している。その母親は悔やむような、恥じいるような表情でその言葉をじっと受け止めていた。反抗期の息子とその母といった趣だが、もっとずっと棘があり、そして、二人とも老いていた。私はその様子を見ながら、みんな同じような気持ちを抱えているんだ、と息子の方に共感を寄せた。私は母を怒鳴りつけるようなことはなかったが、怒鳴りたくなる気持ちを何度も押さえつけていた。介護している親が改善していくことは基本的にない。認知機能は低下していく一方である。母を叱責する彼よりも私の方が寛大だと自負するのは少なくともその時点においては時期尚早だった。いつか私も甲斐のない介護の日々に心を暗く尖らせていくかもしれない。私は母を虐待してしまわないだろうか。そのことがずっと心配だった。私を存分に愛してくれた母の晩年を私の怒りで昏く染め上げたくなかった。

そもそもこの怒りはなんなのだろう。誰だって、怒りたくはない。わざわざ親を傷つけたくはない。しかし、怒りというのは生物に備わった防衛反応なのだ。でも、何から? 私たちは何から自分を守るために怒っているのだ? 介護をする私たちが怒らないためには、何があればいいのだろう。

母を介護した四年間、私はそのことをずっと考えてきた。

書かれ始めた息子介護

繰り返すが、私は母を介護する日々において、私のような人には出会わなかった。「私のような人」とは、子育て世帯で仕事をしながら介護をする四〇代男性のことをさす。

これはたまたまなのか? 私に同世代の友人が少ないのかもしれないし、介護当事者がその事実を隠しているためにわからないのかもしれない。いずれにせよ、私が同胞にめぐり合わなかったというこの過去の蓋然性は高い、つまり、ありうべくしてそうなった、と私は考えている。そしておそらく、あなたがもし私のような人であれば、同じように孤独になる可能性が高い。

孤独には幾つか問題がある。まず、寂しい。愚痴を言える相手も共感を寄せてくれる人も少ない。参考になる情報も入手しづらい。何よりも人生の指針が存在しないことが問題だ。

私は母の介護を終えてからも、介護とは私にとってなんだったのか、という点について考えていた。もう過ぎたことだからいいではないか、とはならなかった。私は介護という体験をできれば肯定的に捉え直したかったのだ。すでに述べたように、この介護生活によって私はキャリアの幾ばくかを喪失している。これは揺るぎない事実だ。また、そもそも私が母に提供した介護が良いものだったのかどうかを客観的にはかる指標も存在しない。もっとうまくやれば、母はより幸福な晩年を迎えられたかもしれない。私は母と私の物語が単なる損失によって終わることに抗いたかった。

倫理的な指針が必要だった。私はこういうとき、専門家がすでに答えを用意している可能性を考える。

ほどなくして私は昨今隆盛している「ケア」という概念に注目するようになった。語義的には「世話・介護」などを意味するが、その単語はファミニズムに関連した用語として流通している。キャロル・ギリガンによって提唱された「ケアの倫理」は、それと対照的な「正義の倫理」――男性的な倫理――とは異なる価値を提言した。コロナ禍において、エッセンシャル・ワーカー(看護師・ゴミ収集人・教師など)がまさしくこのケアの倫理の体現者として称揚されたことを覚えている人も多いだろう。そのような経緯を経て私は「ケアの倫理」に関連する書籍何冊か読んでみたのだが、どこか「ここに自分のことは書いていない」という疎外感を拭い去れなかった。ケアの倫理がその出発点にフェミニズムを持つのは理解できるが、三〇〇ページの本を読んでも、私に関係ありそうなことが二ページぐらいしかなく、あとは私自身が有害な男性性について自省するパート、といった印象だ。女性差別の長い歴史を前に私が自省しなければならないと言われたら、それはそうなのかもしれない。だが、「自分が母に対して行ったケアが倫理的にどう位置付けられるのか」を追求する意味では迂遠なルートに思えた。

とはいえ、「ケア」の概念周辺を探ることは無意味ではなかった。ほどなくして、そのものズバリの情報「息子による介護についての研究」と出会うことになる。代表的な研究者は平山亮らしかった――というより、他には単著としてまとまっている研究は見当たらなかった。平山はジェンダー、とりわけ男性性について研究する社会学者であり、介護研究の専門家ではない。したがって、平山の書いたものに介護についての実践的な内容を期待することはできないのだが、それでも「介護をする息子としての私」について外からの視点を持ち込むためには有用だ。ウェブで読みやすい紹介記事として、勁草書房のサイト「《ジェンダー対話シリーズ》第3回 平山亮×上野千鶴子:息子の「生きづらさ」? 男性介護に見る「男らしさ」の病 ――『介護する息子たち』刊行記念トーク」で上野千鶴子との対談を読むことができる。

さて、平山の主著『迫りくる「息子介護」の時代 28人の現場から』(二〇一四年、光文社新書)と『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房、二〇一七年)を読むと、以下のようなことがわかる。

  • ここ三〇年のトレンドとして、嫁介護が減り、実子介護が主流となっている。息子による介護は少数派だが確実に増えている。
  • 介護虐待加害者のうち、息子の占める割合は4割。全般的に男性の方が割合が高いが、息子は頭抜けている。もちろん介護する息子すなわち問題介護者ではないので周囲が決めつけることはよくないのだが、当事者としてはその蓋然性の高さを知っておいた方がよいだろう。
  • 介護する息子は兄弟の序列(長男役割)にこだわってはいないことが多い。介護しないきょうだい(例・次男)によってのみ「長男」という言葉が言い訳(例・兄貴は長男だから介護をすべき)として使われる。
  • 親を介護する息子は、自分の嫁が介護を手伝わないことについてそれほど不満を持っていない。ただし、介護の基礎(洗濯など)は嫁に依存していることが多い。
  • 介護にまつわる家事(掃除・洗濯・料理)をできる男性は増えているが、自己評価は低い。母・嫁・姉妹ならもっとうまくできた、と考える。しかし、かならずしもそれは悪い方向に働かない。たいしてできないからこそ気負いなく取り組める。
  • 介護する息子は職場などで自分の介護について語らない。自助グループなどにも参加しない。語ったところで意味がない、と考えるからだ。したがって、介護する息子は社会から「不可視化」される。男性の助けを求める行動ヘルプ・シーキングの困難さは研究対象にさえなっている(マイケル・アディス)
  • 息子は要介護状態に伴う衰退に抗う。つまり、親が能力を失いゆくことに抵抗感を覚え、能力の向上あるいは回復を目指す。たとえば、老母が再び自炊をできるように台所に椅子を置く、など。
  • 介護する息子はときに、過剰に面倒をみようとする親族を介護から排斥しようとする。そして息子はほとんど「母がしんどい」とは言わない。親にはいつまでも親のままでいてほしがる。介護する息子と女きょうだいはもっとも悪い組み合わせである。

平たくいえば、介護する息子たちは増えているが、誰にも言わず、孤独に介護を続けるわけだ。私自身のことをそれぞれの項目について当てはめて考えてみたい。

  • 私はたしかに東京在住の姉に私と同等の介護労働を求めなかった。私は姉にLINEで母の様子を報告していた。
  • 炊事洗濯についてはそれほど大変だった思い出がそもそもない。これは私の世代において普通のことだろう。ただし、風呂とトイレの介助には惨めさと哀れみが混濁した感情を抱いた。
  • 私は介護について周囲に語っただろうか? 隠してはいなかったが、私がこの文章を通じて書いたように理解していた人は家族を含めて誰もいないはずだ。そんなに大変だったとは思わなかった、というのはよく言われる。
  • 母がいつか書き物を再開するかもしれない、と考えて執筆環境の整備などを手伝ったが、パーキンソン病発覚以降は諦めていた。母は私があれほど苛立ちながら教えたパソコンの使い方もすっかり忘れてしまっていた。

どうだろう。すべてがあてはまっているわけではないが、かなりの部分で私は「典型的な介護する息子」だったといえるのではないか。多かれ少なかれ、人は似たように生きる。そして、あなたもきっとそうなる。

とくに息子の語らなさについては、有害な男性らしさとしていかにも批判されそうだが、おいそれと直すことはできないだろう。有害な男らしさと呼ばれるものが生得的なものか後天的なものかについてはここでは問題にしない。親の介護をする年齢になって自身の男らしさを無害化サニタイズするのは至難の業だ。自身を家父長制の弱点を体現する者として悲観的に考えておいた方がよい。「よし、介護のセミナーに行ってみよう」とあなたが一念発起する可能性を否定はしないが、かなりの確率であなたはいかない。あなたは同性の友人たちに介護の悩みを相談しないし、同性の友人たちも意味のある言葉を持っていない。だからこそ、私はこのようにして書いている。

二〇二五年はまだ始まったばかりだ。今後ビジネスケアラーは掃いて捨てるほど増えることだろう。すると当然その体験記も徐々に増えていく。平山の仕事はまさにその嚆矢と呼べるものだ。しかし、介護する息子にまつわる知識が一般的なものになり、ほおっておいても介護する当事者の耳に入るような状況になる頃には、あなたにとってすでに手遅れの可能性が高い。あなたは少ない情報の中から意味のある選択をしなければならない。そうすると、かなりの確率で間違えたり、自身の選択に自信を持てなかったりする。あなたは介護の素人なのだから当然だ。とても悲しいことなのだが、あなたが突然巻き込まれた介護生活という撤退戦は失敗に終わる可能性が高い。あなたはあなたの持つ武器だけで、なんとかしなくてはならない。そういえば、フランツ・カフカは『八つ折判ノート』で次のように書いている。

わたしが究極的な問いに攻撃を仕掛けられて背後の武器をつかむときには、いろんな武器から選ぶことはできない、選ぶことができたとしても、「無縁な」武器を選んでしまうだろう。われわれすべてには武器の備えは一種類しかないからである。

物語を武器にする

さて、平山はフィールドワークの手法を用いて当事者から意見を引き出すのだが、私にとってとりわけ興味深かったのは、息子介護者たちがそれぞれに説明可能性を模索していたことだった。辛いから説明しているのか、説明できるから辛くないのか、因果関係がどちらかまではわからない。ただし、結果だけを見れば、人は自分の行いが辛いものであったとしても、うまい具合に説明可能であれば納得できるのではないか。それが真実であるかどうかはともかく。

たとえば、平山のフィールドワークでは当事者が介護の理由として挙げなかった「きょうだい役割」を例に考えてみよう。

自分は長男だから介護している、と考える人は予想より少ないと平山は報告している。が、私はたまたま長男なので、自分が介護しているときに「自分は長男だから母親の介護をしている」と説明することはできなくはない。私にはあてはまらなかったが、由緒正しい家柄の出身者であれば、「自分は誇り高き◯◯家の長男だからその責任として母親の介護をしている」とより強い説明をすることもできる。もっとも、この「きょうだい役割」自体が核家族化の広まりによって説得性を欠いており、名家の長男(そういう家では嫁が介護する)と介護する息子は矛盾している。だからこそ当事者達が介護の理由に挙げなかったのだろうが。

互酬性レシプロシティ――「贈り物を受けたらそのお返しをする」という関係性――はよりシンプルで説得力のある説明要因だ。「育ててもらったから恩を返す」という考えは多くの人にも当てはまるだろう。とりわけ、すでに自分が親になっている人は自身の子育て体験を通じて「これだけのことをやってもらったのだから」と感謝の念も強いはずだ。「シングルマザーとして苦労して育ててくれた」などのより強い理由づけも見出しやすい。互酬性という観点からは、より打算に満ちた考え方も可能だ。たとえば、あなたの親が唯一の財産として一軒家を所持しているとする。その家を売れば2,000万円だかの値がつくとする。このとき、あなたは「将来的に2,000万円もらえるのだから介護を頑張ろう」と考えることができる。平均年収から考えれば四、五年分の報酬だ。仕事を続けている限りの副収入、つまり副業として考えれば、かなりのものだろう。もちろん、あなたがやりくりして親の財産を減らさずに介護をしきることができれば、の話ではあるのだが。

他に社会的な規範意識から来る贖罪も説明要因として働く。ある意味で負の互酬性のようなものだ。たとえば、あなたには子供がいなかったとする。その場合、社会通念的には「孫の顔を見せてやれなかったからせめて介護ぐらいは」と考えやすいだろう。ただし、過度な贖罪意識は自尊心を低下させる可能性もあるので、あなたの精神にとって致命的な影響があるのなら、「親の介護を自ら引き受けることで他の誰かの子供への負担を軽減している」とポジティブに捉え直すなど、工夫をした方がよい。

もっとシンプルに「近いから」のような理由を見つけられる人もいるだろう。私にとって私が介護をしなければならなかった理由付けの一つに「近いから」がある。犬の散歩のついでに寄れる距離なのだから、やってやれないこともないだろう。

これらの説明要因をたやすく見つけられるかどうかは、はっきり言って人による。たとえば自らの親が「毒親」であるという認識を持つ人にとって介護生活は耐え難いものになるだろう。「絶縁状態の親の介護をするよう役所から連絡があったが断った」という類の話はSNSでも人気だ。もちろん、「介護をしない」も一つの選択ではある。仮に親のことを憎んでいる人が介護をしなければならなかったとして、説明要因として私が思いつきそうなのは「ひどい親の介護をすることで自分は立派な人間になる」などであろうか。ケア、つまり人の世話をする仕事では、感情労働という概念が存在する。機嫌良く人の面倒を見ることは、労働なのだ。ホテルの受付やフライトアテンダントがニコニコと機嫌良さそうにしているのは、その人が愛想のいい人だからではなく、プロとして労働しているのである。そういう意味では、あなたが憎い親の介護をしながら虐待をしないというのは、立派な労働なのである。

長い介護生活の中で、あなたはいくつかの価値観の変容を受け入れることになるだろう。たとえば、「長男だから」という考え方は古いイエ制度に基づいており、それゆえに現代では説得力を持ちづらい、と書いた。あなたが典型的なリベラル高学歴層の長男であれば、「長男だから介護をする」を受け入れ難い、旧弊な制度の温存と受け止めるかもしれない。しかし、あなたは介護する息子である自分を納得するために家父長制の意味を再発見するかもしれない。この転向はあなたのこれまで築いてきたリベラルな価値観とは逆のものであるかもしれないが、介護生活とはそれほどインパクトのある出来事なのだ。変わってしまった自身の価値観が馴染まないものであるかもしれないが、あなたは自身の転向を成長小説ビルドゥングス・ロマンのように捉えた方がいい。コロナ禍においてもよく読まれたアルベール・カミュ『ペスト』において、医師リウーは治療成功の喜びも、神による救済も当てにすることなく、ただ人間としての誠実さl’honnêtetéを守るためだけに治療を続けた。そのように、あなたは介護生活を通じ、転向によってあなたの守るべき実存を見出すかもしれない。その意味で、あなたが見出すべき価値は倫理的な、人間としての成長、人格の陶冶である方がいいだろう。こうした「修養」的な考え方に古臭さを感じる人も私の世代には多いだろうが、歴史的によいとされてきたものには価値がある。介護を乗り切ることで人間として成長する、というのはシンプルかつ簡単な説明だ。

あなたの介護生活を物語化するにあたり、あなたは説明可能性を自ら見出すべきだ。他のきょうだいから「あなたは長男だから介護すべきだ」と言われるのではなく、あなたが自ら「長男だから介護すべきだ」と思う。親に「あなたには子供がいないのだから介護すべきだ」と言われたから介護するのではなく、「私は親に孫の顔を見せられなかったから介護するのだ」と自ら引き受ける。「介護して人間的に成長すれば」と他人に言われるのではなく、あなた自身が「介護によってよい人間になる」と決意する。主体的に引き受けることによってこそ説明可能性は増していくのだ。そういえば、私は姉に介護の総括として「作家としていい経験になったんじゃない」と言われたとき「何様のつもりだコイツ」と怒りを覚えたのだが、他人に言われてもまったく意味がないという好例である。介護をしていない素人の他人(たとえそれが家族でも)にできることは誉めたたえ、感謝することだけである。

これらの説明可能性をかき集めて、あなたの介護物語の説得力を増していこう。ハリウッド映画脚本の三幕構成のようによくできたものであればなお良いが、必ずしも人に話せる内容でなくても構わない。「親に教育虐待を受けていたが介護を完遂することで復讐を果たす」でもよい。とにかく、あなたの介護を倫理的な側面から肯定しうる物語を紡ぐのだ。なにもしなければあなたの介護物語は「キャリアと金と時間を失い、親は衰えて死んだ」となる可能性が高い。

 

私の話をしよう。私は母と私の介護物語をこのように捉えている。

私は高橋家の長男として可愛がられた。人生で得たキャリアの大半を親から受け継いでいる――実力も運のうち(マイケル・サンデル)だ。私の母は私の子供四人を育てるためのサポートをしてくれた。誰も私の母のようには私の子供たちの世話をしていない。母は早稲田大学出身でウーマンリブなどにも参加する進歩的な若者で、いまでいえば自身のキャリアを追求できるスキルと学歴を持っていたが、子育てのためにそれらの大半を手放した。そんな母に私は多くを負っている。また、ここには書かない理由によって、介護をするのは他でもない私でなくてはならなかった。この介護を通じて、私ははからずもビジネスケアラーとして時代の最先端を走ることになった。この体験はきっと誰かの役に立つだろう。そんなわけで、私はいまこうして書いている。

以上が私の介護物語だ。この物語はもう少しだけ続く。

ケアの統一理論

冒頭で天体の話をしたので、ついでに関連する素粒子物理の話をしたい。素粒子物理・量子力学の分野には大統一理論(GUT = Grand Unified Theory)という言葉があるのをご存知だろうか。これは自然界の力に関する根本原理を説明しうる理論を構築しようとする試みである。

量子力学では、力には四種類あるとされる。

  1. 弱い力=陽子よりも小さい距離で働く力
  2. 強い力=陽子と原子核を繋げ合わせる力
  3. 電磁気力=もともとは電気と磁力にわけて考えられていたが、両者は統合された。理科の授業で習うように、電気と磁力は密接した関係にある。日常生活でイメージする「物を押す力」の正体はこれ。
  4. 重力=質量を持つ物体が他の物体を惹きつける力。

このうち、「電磁気力」と「弱い力」はすでにワインバーグ=サラム理論によって統一されており、一九七九年にノーベル物理学賞を受賞している。現在はここに「強い力」を統合することが目指されており、達成されれば大統一理論の完成だ。「重力」はどうなのかというと、これはまだ統合の目処が立っておらず、特別扱いのようだ。仮に「重力」まで含めて統合が果たされれば「万物の理論」が完成すると目されている。

私はこの「力の統一」が好きだ。素粒子物理のみならず、人類の科学における壮大な真理探究の試みの一つである。そして、この考え方は思考のフレームワークとして有用だと思う。もちろん、なんでもかんでも過度な単純化してしまうのはよくないが。

今回「ケア」という言葉を私は使ったが、すでに紹介したように、この用語はフェミニズムで昔から参照される言葉である。子育てや家事労働など、女性は誰かをケアする立場に置かれることが多く、その労働の価値はたとえばマルクス経済における資本と労働の関係からは排除されてきた。実際のところ、ヘルパーやケアマネ、訪問看護師など、その多くは女性だった。母を在宅介護して一年ほど、女だらけのところに私一人が混じっている気分だった。男性は介護用品レンタルや弁当配達、デイケアの送迎に多かった。特養の職員にも男性が多かった印象がある。その意味で、まだ社会の中でケアする主体としての男性はマイナーな存在であり、気づかれにくく、孤独である。

しかし、いつかは「ケアの統一理論」めいた考え方が誕生するだろう。男性であれ、女性であれ、なぜ介護をするのか。死にゆく人をケアする行為の生産性のなさはなぜ肯定されうるのか。介護をすることによって得られる倫理的価値とはなにか。これらをうまく説明し、介護に向けてうまく準備するための優れた教育体制が築かれるだろう。私の子供たちが環境保護や包摂性インクルーシブネスについてよく理解しているように。そのいつかにおいても、陰謀論めいた言説や情報にアクセスできない人々は存在するだろうが、いまよりもずっとましなはずだ。そして、そのいつかに私たちはいまいない。

 

私たちはケアする惑星だ。あなたはあなたの星の物語を作らねばならない。その物語があなたと親の介護にそして、あなた自身を守る。これは時間がかかっても構わない。あなたが親の介護をしている最中にその物語を紡ぎ出せなかったとしてもかまわない。介護を終え、傷つき疲れ切ったあなたが力を振り絞ってあなただけの物語を紡ぐとき、ようやくあなたは癒されるはずだ。

2025年7月7日公開

作品集『プルーストが読みきれない』最新話 (全6話)

© 2025 高橋文樹

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