白い布の男

第40回文学フリマ東京原稿募集応募作品

高橋文樹

小説

30,728文字

「アベノマスク」が世界を救った世界線を描く近未来SF。誰もが憧れる日本のマスク製造企業で働くジェイク・ライスフィールドはある日プレミアのついた「シンゾー・オリジン」を発見する。そのマスクをくすねてメルカリで売り抜けたジェイクは、とある組織の戦いに巻き込まれることに……。

聞こえ始めた「別れのワルツ」は終業時間までの残り十五分を意味していた。更衣室に向かって歩を進めたジェイク・ライスフィールドは、掘り出し物に目を止めた。目の前のラインを流れる返品段ボールのラベルに20という数字があった。オリジンだ。

ジェイクはこのオリジンをどうやって持ち帰るかについて算段を巡らせた。最初から完成された製品なので、性能的にオリジンと現行モデルはまったく等価だ。しかも、年間二〇〇億枚生産されている。だが、従業員が一枚ぐらいちょろまかしてもわからない、ということはない。返送品であっても、倉庫に入る前にIDが振られているので、どうあってもバレることはバレる。この場合、考えることがあるとすれば、バレた後にどうするかだ。労働記録で遡っても、それが仕方ないと評価されるように。少なくともクビにするほどじゃないな、と思ってもらえるように。その後、段ボールを積み重ねたパレットがリフトに運ばれていってしまう前に、ジェイクは髪をかきあげる仕草をした。親指が紐に引っかかるよう、大袈裟な動きをして、マスクを外す。うっかり耳紐が切れてしまったというわけだ。呼気検出アラームがすぐに鳴り、慌てて在庫から補充するフリ。いちどパレットの上に倒れ掛かり、段ボールの山を崩すと、20の数字が入った段ボールの上を開け、そこから袋を二つ取り出し、一つを開けてすぐに装着する。アラームが鳴り止む。もう一袋はポケットにしまい、予備にいれておいたマスクを段ボールにしまう。あとで何か言われたら、「あのときは焦っていて」と言い訳するつもりだ。すぐにラインに戻り、監視業務を再開する。誰も来ない。業務監視機ソンタークを呼び出して異常を報告する。あやまってマスクの紐を切ってしまい、在庫から補充しました——ソンタークはすぐに返答を返した。三ドルが給料から引かれるそうだ。それぐらいならお安いもんだと、ジェイクは思う。彼の作業着の右ポケットには、二〇二〇年製のシンゾーマスク・オリジンが未開封のまま入っているのだから。

倉庫に鳴り響く「オールド・ラング・サイン」が終業時間を知らせた。ソンタークがラインを見回りながら、「業務を停止してください」と呼びかける。ジェイクはラインの脇でスキャンの順番を待った。虹彩をスキャンして業務終了だ。ソンタークになにか指摘されないかと内心怯えていたが、特に問題はなかったようだ。他の従業員より先に更衣室に向かうと、そそくさと着替え、ザックにマスクを突っ込んだ。

「どうした、ロトでも当たったか?」

肩を叩かれて振り向くと、同僚のホセがグラスを傾けるジェスチャーをしている。バーにでも行こうという、いつものお誘いだ。

「悪いな、水曜日にはバーに行くなって爺さんの遺言があるんだ」

「おまえ、先月は木曜日って言ってなかったか?」

「爺さんの遺言は七つあるんだよ。月曜から日曜までカバーしてる」

ホセは肩をすくめると他の従業員に声をかけにいった。ジェイクはどの従業員よりも先に更衣室を出て、駐輪場へ向かった。

日本式の自転車通勤チャリトゥーは会社によって奨励されているし、なにより健康保険料が安くなるから採用しているが、十五キロは少し骨だ。ロビン・ヒル・ストリートの緩い傾斜も行きは最高なのだが。ジェイクはハンドルに取り付けていたソニーの折りたたみ式携帯トゥーパックを開き、対話モードに切り替えた。約四〇分の道中で下調べを終え、メルカリでシンゾーマスクのオリジンを販売するための準備を終えておくつもりだ。

シャープ資本の日系企業に入れたのは幸運だが、給料に満足しているわけではなかった。本社勤務の日本人の給料は別次元だ。日本人にはなれないが、本社に採用でもしてもらえば生活は変わるだろう。なんにせよ、マサチューセッツで燻っているよりははるかによい生活ができるだろう。

「ヘイ、アキ。メルカリでシンゾーマスクの平均価格を調べてくれ」

少しの間があってからトゥーパックは「二千五百ドルです」と答えた。高くはないが、ちょっとしたボーナス程度。

「ヘイ、アキ。メルカリでシンゾーマスクオリジンの最高価格と条件を調べてくれ」

「二十万ドルです」

ジェイクは思わず自転車を止め、トゥーパックに条件を問いただした。未開封。初期ロットの四月分。三密トリ・デンシティについての日本語注意勧告文付き。ザックを開けて現物を確かめると、ビンゴだ。ありがとう、ホセ。ジェイクは胸の前で手を合わせた。ロトに当たったわけじゃないが、似たようなもんだ。

アパートメントに帰り、二十万ドルでメルカリに出品した。すぐに反応があった。日本人からの即決返答、値引き交渉もなし。信託補償オプションをつけてくれるというので、夕飯も食べずにドラッグストアへ向かい、UPSの一番高い便に保険や履歴確認をつけて発送した。送料はしめて三◯◯ドルだった。帰りに一度も行ったことのないスシ・バーにより、一番高い酒と握りを注文した。アンガスビーフ握りを頬張って鼻息を出しながら、鼻腔を突く天然の肉の香りが八年振りだということに驚いた。

二〇四七年四月十九日の朝、ジェイクは銀行口座に二十万ドルが振り込まれているのを確認した。なにをしようかとあれこれ考えてはいたが、半分を学資ローンの返済に充てることにした。あきらめていた博士号も取得したいが、それには少し足りない。住宅ローンを組むのもありだが、まだパートナーもいないのに家を買っても無駄になるかもしれない。日本への留学というのはいい案だ。ずっと日本語は勉強したいと思っていた。日本語を勉強して日本企業に入社したら、アイドルや声優と付き合えるかもしれない。十枚ぐらいくすねておくべきだった。突如振り込まれた大金の処遇について決めあぐねていたある日、配達業務でリバー・ロードに向かった。マスクの配達は倉庫勤務では最良の気分転換だ。トヨタのハイエースを駆って街中を回るのは悪い仕事じゃない。マスクは喜んで受け取ってもらえるし、なによりノルマが少ないのがいい。マサチューセッツの人口は低下の一途を辿っており、高齢者ばかりだ。COVIDに怯える老人たちはマスクの配達員を福音の伝道者のごとくありがたがってくれる。そんなわけで、煉瓦造りのアパートメントの一室で出迎えた女が紙のマスクをつけていたのを見たときは少し身構えた。いまどき紙のマスクをつけているなんて、裸で外を歩き回るようなもんだ。

「えーと、ティンバリーさん? マスクのお届けです」

女はジェイクが差し出した紙袋を受け取ると、それを肩越しにぽいっと投げて、「毎晩電話してコール・ミー・ナイトリー」と言った。「え?」と聞き返すと、ゆっくりと音節をくぎりながら「ナイトリーと呼んで」と言い直した。手元の端末には確かにナイトリー・ティンバリーと表示されている。名付け親はきっとラッパーか詩人で、韻を踏みたかったんだろう。ナイトリーはジェイクが差し出したタブレットの指紋認証は拒否して、サインで受け取りを済ませた。普通はここで配達完了、さっさと次の家に向かうところだが、ナイトリーは腕組みをしたままこちらを眺めている。正しいマスクをしない人間とあまり長い時間を共にしたくないのだが……。

「あなたが名乗るのを待ってるんだけど」

「ああ、ユースバイオの配達員です」

「それは知ってるわ」

「え、なんですって?」

ナイトリーと名乗る女は、肩をすくめてから「あなたの勤め先は知ってる。合衆国で他にマスクを配達する会社はないものね」と付け加えた。こいつ、クレーマーなんじゃないか、とジェイクは仮説を立てた。若い世代では珍しいが、マスク配達員に因縁をつける人間はそれなりにいる。それに、ユースバイオはちょっとした会社だ。かつては時価総額ランキングのトップを独占していた米国企業の中でランキングに残っているのは他にアマゾンだけだ。そのアマゾンもあと五年もすればランキング圏外になるだろう。

結局のところ、こういう手合いと話し合っても時間の無駄なわけだ。企業イメージに悪影響がないよう、適当に話を切り上げて帰るに限る。と、腕を組んだ女の手が缶を持っているのに気づいた。シルバーに青と赤、間違いない、レッドブルだ。

「珍しいものを飲んでいますね。もう売っている店はほとんどないでしょう。オーツカ以外のエナジードリンクは売ってないですからね。結局、一番強いのはオリジナルだ」

「レッドブルはオーツカのパクリだけど、エナジードリンクっていう言葉を考えたのはレッドブルよ」

女は手元に視線を移しながら言うと、いきなりマスクを外し、唇を露出した。そして、唇を突き出して缶をあてがうと、それを傾けて喉を鳴らした。女は再び腕を組むが、マスクは顎に下げたまま元に戻さない。妙に赤いと思ったら、口紅を塗っている。

「あの、マスクを上げてもらっていいですか。屋外ですから」

女は足元に向けてちょんちょんと指さした。ドア枠に寄りかかった女の足は、確かに屋外に出ていない。

「失礼しました」と、帽子のつばを下げて一礼。とっとと逃げるに限る。「それでは、また配達に伺いますので、ご利用をお待ちしております。レビューや配達指名があれば、ジェイク・ライスフィールドまでお願いします」

逃げるように階段を降りていくと、後ろから「ヘイ、ジェイク」と呼ぶ声がした。

「やっと名乗ったわね」

そう言う女の口は笑顔を浮かべていて、赤い唇が綺麗な半月を描いていた。

 

 

ジェイクの総資産はこれまでゼロのあたりを行ったり来たりしていたが、晴れて奨学金を完済し、無借金の身となった。まず期待したのは、これまで深い仲になる前に去っていったガールフレンド達が自分のことを真面目に考えるようになるのではないか、という点だった。しかし自分から「俺はついに奨学金を返済して二十九歳で無借金になったんだぜ」と自慢するというタイミングは訪れそうにない。それもそうだ、無借金かどうかを気軽に話し合える仲ならば恋人関係ステディになるのも簡単だろう。いまはそれ以前に候補を探さなければならない。続いて検討したのは引っ越しだった。マサチューセッツでは仕事らしい仕事があまりない。カリフォルニアへ移住して日系企業に就職すれば、いつか日本にも行けるかもしれない。いや、日本人女性との結婚だって夢じゃない。アキハバラやシブヤ、キョウト、オキナワ、ニセコ……行きたいところは山ほどあった。無借金にはなったが、カリフォルニアへの引っ越しとなると、手元資金はやや心許ない。どっちみち、カリフォルニア企業への転職を決めてからでないと移住は無理だろう。

結局のところ、シンゾーマスク・オリジンの横流しで得た利益はジェイクの生活を何も変えなかった。それでも、生活に余裕が出ることで上向くものはある。最近はご無沙汰だったホセとのバー通いも週一ぐらいで復活した。気になっていた自転車のリムも新調したし、メットもソーラーチャージャー付きのものに変えた。期待していたほどよくなかったが、悪くはない。オリジン横領が高いペナルティになるのではとも危惧したが、ユースバイオにとってマスクはマスク、その一つ一つに違いはないということなのだろう。実際、あのあとでSNSを検索してみたところ、結構な数のオリジンがメルカリに出回っており、いまは千ドルまで値下がりしているから、ジェイクが高額で売り抜けたのはかなりラッキーだったというわけだ。

少しの上向いた生活に気を良くしていたジェイクは、再びナイトリーに呼び出されることになった。ちょうど一ヶ月、マスクの再配達期限にあわせて指名が入ったというわけだ。あの紙マスクをした未開人から呼び出されたとなるとぞっとしないが、仕事は仕事だ。前回同様、さっと渡して帰ろう。

古びたアパートメントの呼び鈴が百年モノかと思わせる音を鳴らすとドアが開いた。ナイトリーは上下にレザーの服を合わせていて、前を開けたジャケットから襟ぐりの深い赤のシャツが覗いている。バイカーかマトリックスか、といった見かけだ。彼女はジェイクの顔に目をとめると、「それって、オリジン?」と尋ねてきた。二つくすねたうち、一つは洗いながらいまでも使っていたのだ。反射的に自慢しそうになったが、入手の経緯を問われると面倒そうだ。

「いや、そういうわけじゃ……」

「わかるわ。ステッチが周囲に入ってるもの。それはシンゾーマスクのオリジンだけ。二〇二四年モデルもステッチ入りだったけど、耳紐の太さが違うわ」

ジェイクは観念したとばかりに肩をすくめて、両手を上に上げた。

「たしかに、これはオリジンですよ。たまたま手に入ったんです。ラッキーでしたよ」

「オリジンは厳格に在庫管理されてるわ」

「ええ、我が社のマスクはすべて厳格に品質管理されています」

「そうじゃなくて、すべてのシンゾーマスクオリジンはロットナンバーが振られてるのよ。だから、たまたま手に入ることなんてありえない。あなたが処分されていないのは、ただ単にどういう罰を与えるか決まってないからというだけよ」

ジェイクは思わず口に手を当てた。もう二ヶ月ぐらい経っている。てっきりペナルティはないと思っていた。ということは、職を失うのだろうか。いや、それだけならディーメイカンでもウーバーでもやればいい。ただ、損害賠償を請求されるとなると、話は別だ。ユースバイオはオリジンの価格を幾らだと見積もっているのだろうか。二十万ドルなのであれば、ジェイクは帳消しになったと思った借金がそっくりそのまま残り、職を失う羽目になる。マサチューセッツで新たな学位を必要としない仕事はすべて年収三万ドル以下、ユースバイオに匹敵する仕事は一つもない。

「入って」

ナイトリーは顎をくいっと動かし、ジェイクを部屋の中へと誘った。入ってどうする? そう思いながら、この女が明らかに自分よりも事情通だと理解してもいた。

「私は何もあなたを脅迫しようってんじゃないわ」

ナイトリーは居間へと繋がる廊下を歩きながら、羽織っていたライダースジャケットを脱いでいた。その下は赤いタンクトップで、あらわになった肩から先の腕は白く、美しい頭足類の足を思わせた。彼女は奥にあるソファにドカンと腰を下ろす。ソファ脇にはサイドテーブルがあって、クレラップで包まれた白いオニギリが乗っていた。彼女は日本食を食べるのだろうか。

「ただ、ちょっと協力して欲しいことがあるの。他でもない、ユースバイオに勤め、強請ゆするようなネタを持っている、ジェイク、あなたにね」

「そういうのは協力とは言わない。脅迫って言うんだ」

ジェイクはそう言うと、背負っていたウーバーバッグを下に置き、バッグの上に腰をかけた。ソファに座ったら、ナイトリーに主導権を握られるような気がした。ウーバーバッグの天板をわずかに沈ませる彼の尻の重みが最後の矜持だった。

ナイトリーの要請は次の通りだ。ナイトリーはとあるNPO組織に雇われた調査員で、ユースバイオのある重大な秘密を探っている。その秘密については言うことができない。秘密をさぐるためには、ユースバイオに潜入する必要がある。そのためにはライン工員以上の従業員のIDが必要だ。以上。

ジェイクは少し考え込んでから尋ねた。

「協力すると、俺にどういう見返りがあるんだい?」

「少なくとも、協力しない場合はあなたの窃盗がばらされて、人生設計が台無しになるでしょうね。あなたは表にある素敵な自転車を売っぱらって、二〇年落ちのベスパでウーバーをやることになる。ブンブンってね」

そういうと、ナイトリーは右腕を捻ってバイクのアクセルを吹かすジェスチャーをした。やはり、見返りはないということだ。ジェイクは脅迫されている。従えばいままで通り、逆らえば破滅が待っている。奨学金返済と同じ、厳然たるルールだ。

「その、協力というやつは具体的に難しいのか? 俺はIDを使って作業所に入る。それで終わりか?」

「終わりというわけではないわね。秘密を突き止めるまでは一緒にいてもらうわ」

「その秘密ってのはなんなんだ? それを突き止めるってのはどれぐらい難しいんだ?」

ジェイクの言葉を聞くと、ナイトリーは顎に手を当てて考え込んだ。

「突き止めるのは簡単よ。あなたに作業所に入れてもらえれば、すぐわかるはずだから。お役御免になったら、帰ってもいいわ。放課後の陰キャナードがロッカーからカバンをひったくって家に帰るみたいにね。でもきっと、あなたは知りたくなるわ。その秘密がなんだったかってね。なんたって、シンゾーマスクのオリジンをかすめるぐらいなんだから」

「おい、いい加減いってくれよ」と、ジェイクは風呂に入れられた犬のようにかぶりを振った。「なんで先にその秘密とやらを言わないんだ。俺は誰にも言ったりしないよ。それとも、いま知られちゃ困るのか? 俺がいますぐニューヨーク・タイムズに駆け込むとでも?」

「それはないわ。でも、あなたはユースバイオにまつわる秘密を信じないのよ。私がその秘密を伝えてもね。体験するしかないの。それこそ、セックスみたいにね」

その言葉の卑猥な響きにギョッとなったが、ナイトリーは平然としている。なにか、教義の違いのようなものを感じる。目覚めているウォークのか? だが、それとは少し違う。うまく言語化できなかったが、ナイトリーはとても日本的だった。ダークブラウンの瞳。後ろに結んだ髪は黒く染めているのだろうが、丁寧に撫で付けられ、窓から差し込む太陽の光を柔らかな白に照り返している。唇は薄く、肌は信じられないほど白かった。

「まずかったかしら?」

ジェイクが何も言わないでいると、ナイトリーは突然足をソファの上にあげ、膝を開いてMをかたどった。彼女のレザーパンツの股の部分にあるジッパーはマットブラックで、比翼フライがないタイプだった。そして、いまこうしてあらためて見て驚いたのだが、尻の部分までジッパーがつながっていた。ナイトリーはゆっくりとジッパーに手を伸ばすと、焦らすような音を立てておろしていった。そこに見えたのはレザーパンツによく似合うソング・ショーツなどではなく、脱無毛化デパイパナイズドされた毛むくじゃらの性器が破廉恥に口を開く様子だった。

「セックスなんて言ったの、まずかったかしら」

ジェイクは「クソッファック」と小さく呟いたが、実際ファックしてしまった。ソファに寝そべって息を切らしながら、同意を得ずに挿入してしまったことをどう謝ろうか考えていた。しかし、その考えはうまくまとまらなかった。何も言えずにいるうちに、ナイトリーは立ち上がり、奥の部屋へ行くと、ジーンズを持って戻ってきた。セックスのあとにピタピタのレザーパンツなんて履きたくないのだろう。ボーイフレンドサイズのジーンズだった。そのゆったりとしたシルエットでも、彼女の尻がつんとしているのがわかった。あんな素晴らしい尻を持つ女とセックスしたのは、生まれて初めてだった。

「こんなこと言えた義理じゃないんだが……その、何も言わず性行為に及んだのは明らかに俺の過失だ。それで、もしよかったらなんだが、これから緊急避妊薬をもらいに薬局へ行かないか。もちろん、俺のおごりで」

ジェイクは言った。窓枠に片肘をかけてよりかかりながら、ナイトリーは煙草をふかし始めていた。彼女はへの字口を作り、少し首を横に曲げた。何を言っているの、という感じだ。それが「それぐらいで済むと思うの?」なのか、「なんでそんなことを言っているの?」なのか、どちらともとれない表情だった。

「それで、突入の段取りなんだけど、ちょっと話せない?」

パッパッと素早く煙草をふかしてナイトリーは言った。

「ちょ……ちょ待てよ。俺はまず君に同意をしてほしいんだ」

「なんの?」

「その、俺が君とセックスをしたことに問題がないということについて」

「問題がない?」と、ナイトリーは右の口角を上げた。「セックスにまつわる問題は無限にあるわ。どれだけ課題を潰せたか、減点方式で満足度が決まるのよ。だから、問題がないかという質問に対して、答えはノーね。でも満足してるわよ」

呻吟したジェイクは頭を抱え、少し考えた。それから、「どうしたら許してもらえる?」と答えをねだった。

「許すって、何を?」

「だから、俺が君と同意を得ずにセックスしたことをさ」

ナイトリーは肩をすくめた。交渉ということに関して、彼女は圧倒的に上だ。ジェイクはこれまでレイプ犯だったことが一度もなかった。しかし、これから先も無罪イノセントであり続けられるかどうかは、ナイトリー次第ということになりそうだった。彼女はその気持ちを見透かしてか、真っ赤な口紅で彩られた口角を三日月型にして微笑んだ。

「それじゃ、段取りを説明するわね」

ユースバイオの突入計画は五月の初旬に行われる。日本の祝日である黄金週間ゴールデン・ウィークが明けた早朝、ユースバイオの役員会が開催される。役員の中に一人だけ日本人がいる。その男を拉致する。拉致したあとのことをジェイクが知る必要はない。ジェイクの役割は、役員会の終了後、役員たちがそれぞれの部屋へ移動する通路までナイトリーとその仲間たちを誘導すること。ジェイクのパスではそこまで入れないが、最後の扉は破壊工作を行う。爆弾でか、ハッキングでか、なんであれ詳細は言えない。その後、役員を拉致し、できる限り車で遠ざかる。安全な場所まで行ったら、ジェイクは解放される。パスを彼らに渡し、ジェイクは強盗に拉致された上でパスを使用させられ、挙句に盗まれたとでも言い訳をすればよい――。

いくつか気になる点はあった。まず、役員というのは誰なのだろう。ジェイクはユースバイオの役員にいる日本人というのを知らない。ユースバイオは完全な合衆国法人であって、株主に日本人が名を連ねているのは周知の事実だが、日本法人から出向している社員はいない。また、車で逃げた場合、その逃走経路はすべてトレースされるので、そもそも逃げ切れるかどうかがわからないし、ある程度遠くまで逃げ切ったとしても、今度はジェイクの帰りの足が問題になる。それに、善良な市民に課せられた通報義務はどうなる? 警察に保護されたジェイクが「実は誘拐されまして……」と告げたところで、それならお前はいままで何をしていたのだと警棒を尻に捩じ込まれる羽目になるだろう。そもそも、この犯行計画はなんのために行われるのか? 株取引にまつわる経済犯罪で役員を一時的に拉致するとかならまあいいが、日本人の老人を誘拐してミンチになるまで刻むとかいった凶悪事件だと困る。しかし、そうしたことを色々と考えてもしょうがないのだ。自分は脅迫されているのだから。

「わかったよ。とにかく俺は突入の段取りを手伝い、うるさいこと言わずに役割が終わったらとっとと退散する。そういうことだろう」

ナイトリーはすでに三本目となる煙草を指に挟んだまま、手のひらを上に向けてひらひらと振った。

「それで、俺からもお願いがあるんだが」

「なに? この計画を手伝わないという選択肢以外なら、聞いてあげるわよ」

もう一回ヤラせてワン・モア・ファックくれないか?」

ナイトリーはピュウッと短く口笛を吹くと、窓枠に手をついて尻をこちらに向け、ボーイフレンドサイズのジーンズを少しズリ下げた。

 

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2025年5月6日公開

© 2025 高橋文樹

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