二〇二〇年の春から私と母は別居するようになり、毎日朝晩の訪問で介護を始めたのだが、別居してから驚くまもないほどあっというまに状況が悪化していった。地獄の始まりである。
あとから知ったのだが、介護が始まった直後は「パニック期」と呼ばれ、介護者が訪れる理不尽の波に押し流されてしまうそうだ。私も危機的状態になっていたのだろう。
最初に言ってしまうと、二〇二一年の春に要介護認定を受けるまでの一年ほど、私は母をほぼ一人で介護するのだが、仕事と子育てと介護を同時に行ったため、忙しすぎて記憶が曖昧である。この期間に仕事で何をしたかもよく覚えていない。いまでも私にとって人生でもっともハードだった一年である。母の認知機能と生活機能は徐々に低下していったのだが、これから紹介するトラブルは時系列的に前後している可能性もある。そんな不確かな回想であるが、その不正確さも私の混乱を反映しているので、そのまま共有しておきたい。
ビジネスケアラーとしての一年の記録
先ほど述べたように仕事と育児をしながら介護をしていた私の一年をジャンル別にまとめると、以下のようになる。
食事
独居開始後の母は、一人で駅まで出かけることができていた。したがって、食料や日用品の買い出しも自分で行なっていたのである。が、夏頃に私は母の財布がパンパンに膨れ上がっていることに気づいた。年金が降りるとそれをすべて下ろし、財布に詰めていたのである。二ヶ月に一回の受給だから、二十万近い金額だ。そのうえ、小銭入れもパンパンに膨れ上がっていた。少なくとも、同居していたときにそんな習慣はなかった。もしかしたら、同居していた息子がいなくなった不安から、手元に現金を置いておきたくなったのかもしれない。
しかし、高齢者はひったくりなどの被害に遭いやすく、紛失の可能性も高いので、母が大量の現金を持ち歩いているのはいかにも不安だった。私はせめて三万ぐらいにしておき、必要とあらば私が代わりにおろしてきてやるということで、通帳を預かることになった。そこで気づいたのだが、母の貯金がここ数ヶ月、思いのほか減っているのである。なぜこんなに使うことがあるのか、と部屋を見回すと、居間のそこかしこにマロンドという千葉県を中心に展開するチェーンのパン屋の袋がごろごろ転がっている。そして、そのどれもに三つ四つの惣菜パンが入っていて、酸っぱい匂いを放っているものもあった。
なんでも、最近は毎朝バスにのって駅前のマロンドに向かい、その日の食事として五、六個のパンを買い込むが、帰りはバスを待てずにタクシーを使っているという。毎日三千円ぐらいを使っているわけだ。年金額は九万円だったから、食費に九万円も使っていたら、毎月赤字である。とはいえ自炊も難しいだろうから、できあいのものを食べる生活自体は間違っていない。
対策として、まず冷凍の宅配弁当を注文し、それをチンして食べるよう説明した。が、まったく食べる様子はなかった。その場でチンして出してあげないとダメなようだ。不思議だったのは、私と話しているときの母は基本的に意思の疎通ができていたことである。「冷凍食品注文したから、チンして食べなよ」と私がいえば、「わかった」と答えるのだ。しかし、私がいないときは食べないのである。億劫だからなのか、忘れてしまうからなのか、区別はつかなかった。
宅配型の弁当を頼み、昼食用を朝に届けてもらうようにした。母はその弁当の到着を楽しみに待つようになり、届くと朝に食べるようになった。それ以外の食事やおやつなどはある程度買いだめしておいておいた。弁当は日持ちしないので、二日に一度ぐらいスーパーによって二日分より少し多い程度を冷蔵庫に入れるようにした。冷蔵庫にあった古い食材はすべて捨ててしまった。届けた弁当は少し余ることも多かったが、足りないよりはいいだろうと割り切った。あんなに食べ物を捨てたのは、私の人生ではじめてのことである。
猫の世話
二匹の猫を飼っていたが、世話をしなくなってしまっていた。猫用トイレのシートは尿でびちゃびちゃになっていた。餌もあげているのかいないのか、はっきりしない。それでも、猫の世話をしているかと尋ねると、していると答えるのだ。猫の餌やりとトイレ掃除も私がした方がよさそうだった。
とはいえ、猫の世話というのは病気がなければ水と餌とトイレ、たまのノミよけ薬ぐらいである。通販でペットシートや餌などを購入して備蓄しておけば、母の訪問時に定期的に入れ替えるぐらいだった。この点、飼っていたのが猫で良かったと思う。犬だったらとんでもない目にあっていたはずだ。高齢になった親がペットを飼おうとしていたら、この点をよく話し合っておいたほうがいいかもしれない。
外出
独居状態になってから半年後、東京に住む姉が母と観劇に行く約束をした。まだバスに乗るなど公共交通機関の利用はできていたので、最後の母娘外出ぐらいに思っていたのかもしれない。この遠出に関して、普段から様子を見ている私は少しリスクが高いと感じたが、姉のやりたいように任せた。姉も私のように現実に向き合う体験をしておくべきだと思ったからだ。
はたして約束の当日、母は待ち合わせ時刻よりはるかに早い朝五時に東京駅に向かった。早朝に目覚めたそのタイミングで自動時刻合わせの壁掛け時計がぐるぐる回る様子に焦った母は、すぐ行かなきゃと朝五時に家を飛び出て総武線に乗った。そして、東京駅の喫茶店でまんじりともせず姉を待ち、なかなかこないとあちこちをうろうろし、ついに歩けなくなった母は、警察に保護されたのである。姉は連絡をうけて東京駅に向かい、タクシーで母を連れて千葉に戻った。それなりに高価なチケット二枚とタクシー代を無駄にした姉は「もう出かけない」と意気消沈していた。このとき、母は喫茶店で姉を待つ自分の様子をユーモラスに語っていて、おっちょこちょいエピソードを披露するぐらいの軽さがあったが、結果的に一人で遠出をしたのはこれが人生最後となった。
接骨院の院長から電話を受けたこともあった。私の実家のすぐ近くにあるその接骨院に、中高時代に柔道をやっていた私はよく通ったので、院長とも顔馴染みだった。なんでも、その院長が母を保護したというのである。家から歩いて五分ぐらいの場所にセブンイレブンがあるのだが、そこに買い物にいった母は、転倒して動けなくなってしまい、院長がおぶって家まで運び込んだというのである。私はすぐさま実家に行き、母の様子を見に行った。母はIKEAの肘掛け椅子に腰掛け、フーッと息をしていた。院長に礼を言うと、しばらく様子を見てから帰った。私は家に戻るとすぐさま仕事に戻った。そう、このときは平日の昼間で、仕事中だったのである。もしこれがコロナ禍ゆえのフルリモート勤務ではなく、岩本町に通っていた時代だったら、計り知れない困難だった。
こうした類の事件は、母が独居を開始してからの一年でどんどん増えていくことになる。
- 母は同居時から私が誕生日プレゼントに送ったカート(天板が椅子になっていて座れる製品)を押して歩くようになっていたが、自転車を引いて出かけて転倒するというトラブルがあった。私はすぐさま粗大ゴミで自転車を捨てた。この「不要で危険なものはすぐ捨てる」というのは、介護初期の早い段階で実践しておいた方がよい。私の母は運転免許を返納していたが、車を処分した方がよい場合もありそうだ。
- 妻のママ友から電話がある。私の母が道路に座っていたけど大丈夫、という様子伺いの連絡である。
- 近所のご婦人から「このあいだお母さんが道でうずくまっていたから家まで送ったわよ」と唐突に言われ、恐縮する。
- いつもどおり実家に向かっていると、道路にうずくまる母が通りがかりの女性(この方はたまたま介護職の方だった)に介抱されている場面にでくわし、おんぶして家まで連れ帰る。
こうしてみると、結構な頻度で帰宅をサポートしてもらっていたことがわかる。おそらく、私が知っているのは氷山の一角で、それに準ずるヒヤリハットはもっと高い頻度で起きていたのだろう。昨今は近所付き合いを面倒くさがる人も多いが、私は母を助けてもらったことでご近所さんのありがたみを知った。また、助けてくれた人の多くは女性だったことも私にとっては印象深い。
そして、最大の精神的ダメージを受けるのが、救急車からの呼び出しだ。またしてもセブンイレブンの帰りに転倒し、動けなくなったところを保護されたらしい。熱中症では、という診断だった。私はすぐ実家へ駆けつけた。母は六月であるにもかかわらず、冬物のコートを羽織ってでかけたのだ。万が一を考えて病院搬送も検討したが、当時のコロナ禍で逼迫していた救急医療体制下では、遠く離れた市まで受け入れ先病院を探す可能性もあるとのことだった。朝晩訪問しても仕事中に呼び出される状況が続いているのに、遠くの病院まで通わなければならないというのでは、たまったものであはない。救急隊員も搬送したくなさそうだった。とりあえず様子を見ると救急隊に告げて、その日は落ち着くまでそばにいた。
転倒したという連絡が入ったので母を迎えに行き、土曜日に病院を駆けずり回ったこともある。頭を打ったかもしれない、という報告を受けたので、頭から上の怪我を見てくれる病院を探した。こうした場合、整形外科では断られることが多く、確実に受け入れてくれるのは脳外科のある病院だ。さらに、土曜日に開業している病院はそもそも少ない。結局、隣の習志野市にある総合病院まで出かけてレントゲンを撮る羽目になった。このときは特に問題なかったからよかったのだが。
思い返してみると、「いつ母が出かけたことで連絡がくるか」という不安を常に抱えているのは、介護生活での最大のストレスの一つだった。
私なりに考え、監視カメラと開閉センサーを導入した。まず、最近の監視カメラ(みまもりカメラとも言う)はWi-Fi接続でスマートフォンから遠隔監視できる製品がアマゾンなどで安く売っている。このカメラを母の居住空間になっていた居間に設置した。いちおうプライバシーの観点から母にも確認をとったのだが、母は息子が見ていてくれるなら安心だと快く引き受けた。そしてもう一つ、ドアの開閉を探知するスマート家電である。SwitchBotなどで三〇〇〇円程度だ。これをトイレのドアに設置した。トイレのドアがしばらく開かない場合はまずい状況だと判断できる。夜間以外で五時間以上通知がない場合はカメラで確認するという具合だ。この二つはけっこう役に立ったので、ぜひ導入をお勧めしたい。
通院
通院サポートは働きながら介護をするビジネスケアラーにとって、神経をすり減らす労働である。平日の午前や午後という、一般的な労働者にとってメインの労働時間に病院にいく必要があるからだ。私の母の場合、主な病気はパーキンソン病治療の神経内科通院だったが、それとは別に、高齢者ゆえの通院が他にも色々とあった。
たとえばある日のこと、私は母の犬歯が突然なくなっていることに気づいた。あれっ、と思った私はすぐさま母をかかりつけの歯科医に連れて行った。虫歯が多く、歯石が溜まっていた。抜けた歯自体はそのまま放置ということになった。てっきりインプラントや差し歯をするものと思っていたが、老齢の場合は誤飲の危険性もあるし、入れ歯の管理自体をすることが難しい。そういう割り切りもあるのか、と関心した。母は朝晩十分ずつの歯磨きを欠かさず、キシリトールが日本に普及し始めた時期から噛み続けていたが、その歯磨きに対する情熱も老いの前では無力だったようだ。
心療内科でも問題が発生した。なんと、ここ三ヶ月ほど、処方されていた薬をまったく飲んでいなかったのである。もう薬を自分で飲むこともできなくなっていたのだ。私は薬の残量を数えて飲んでいない期間を算出し、Iクリニックの院長に報告した。投薬管理のためのカレンダーを買って、薬をそこに入れて投薬を管理するようにした。毎日薬がなくなっているかをチェックし、飲んでいなければその場で飲ませるというルールである。
そして、骨粗鬆症である。母は骨粗鬆症の診断を受けていたので、半年に一度ほど注射を打つ必要があった。注射の時期を告げる手紙も届いていたので、母を連れて診察に向かったのだが、この担当医師がとんでもなく嫌な男であった。開口一番、なぜ病院に来なかったのかと母を詰問しだしたのである。私が代わりに事情を説明しはじめると、私の言葉を遮って「あんた誰ですか」と聞いてきた。「あんた?」と私は驚いた。看護師の方を見やると、なんだか困ったような笑顔を私に向けてくる。私は自分が息子であること、そして、母の病状を説明した。パーキンソン病に固有の症状として加速歩行というのがある。筋肉が強張っているので、前につんのめるように歩いてしまい、トットットッと加速して転倒してしまうのだ。だから、車の送迎場所に一人で向かうのも危険だし、私は働いているので毎日母を病院に送り迎えすることはできない。なにか他の治療方針を打ち立ててほしい。すると、医師はチッと舌打ちをした。とはいえ骨粗鬆症の注射を打ちにきたのだから打ってもらい、ビタミン剤を処方してもらった。毎日リハビリに来ないと治らない、という主張をその医師は最後まで続けた。この病院というのは、近隣では有名なヤブ医者で、高齢者の送迎バスがあるという以外には何一つ取り柄がなく、大量の高齢者を集めて電気をピピピと当てて湿布を配るような病院だった。グーグルマップでのレビューでも二点台である。半年後、また骨粗鬆症の注射を受けにこの病院にこなければならないかと思うと、ひどく憂鬱だった。
排泄と入浴
買い物や通院のサポートはあっても、食事や排泄は自分でできていた。風呂に入ったかどうか聞くと「入ってる」と答えるが、どうも入っている気配がない。私は風呂を沸かし、待っててやるからいま入ってくれ、と頼んだ。このときはまだ入浴介助が必要なほど衰えていなかったのと、母自身がそれを望まなかったので、私は脱衣所の外で待っていた。
が、風呂から出て着替えた母の足元を見て私はたまげてしまった。母の足の爪は指の裏側に回り込むほど伸びていたのである。魔女じゃん、と私は思った。半年やそこらでここまで伸びるはずはない。きっと、私と同居していた頃から足の爪も切れないぐらいに弱っていたのだ。水虫もひどく、十センチはあろうかという爪を大型の爪切り鋏で切り、爪垢を掻き出したが、親指の爪は丸く変形してしまっていた。水虫もひどかった。皮膚科に行き、水虫薬の処方をしてもらった。塗るタイプだったから、私が訪問したときに塗るようにしていた。
排泄も自分でできるといっても、母はトイレに行くのにかなり難儀するようになっていた。独居してからほどなく、私は実家の居間だけを母の居住スペースと決め、カフェテーブルやソファなどは処分して、布団を敷いていた。布団の周りには手すりをつけて起き上がれるようにした。それでも、玄関ホールにあるトイレまでのせいぜい七メートルぐらいが母にとってかなり大変だったようである。その苦闘は監視カメラで見てとれた。ドアノブ、椅子の背などに手を這わせながらトイレに向かう。そして、トイレの扉は外開きだったので、一度手前に引かなければならない。しかし、母はドアノブにしがみついてしまっているので、そのドアを引くことができない。何分もその場所でじっとしている。月日が経つごとに動作の緩慢さが深刻化していた。
決定的な事件は二〇二一年の六月頃に起こった。ある晩私が実家を訪れると、母がトイレの前で倒れていた。意識はあったので、パーキンソンの無動状態である。話しかけると少しずつ起き上がったが、粗相をしてしまっていた。私は母に肩を貸して風呂場に入ると、汚物を洗い流し、汚れた下着を捨てて、新しい下着を用意した。風呂場で裸になってうずくまる母はとても老いていた。母の裸を見るというのが、それこそ三十五年ぶりぐらいである。このとき、私はかなり心が折れていた。ここまで急速に弱ってしまった母を見て、別居したのは間違いだったのではないか、私は母を見捨てたのではないかと激しく後悔した。母も恐縮しきりだった。
なんにせよ、私のストレスはこのときピークに達した。職業柄、私は人からよく相談を受けるのだが、このときはいつも「おまえ、俺は母ちゃんのおま◯こ洗ってんだぞ!」と内心怒鳴りつけていた。
そして要介護申請へ
母の粗相があったあと、私はすぐさま地域包括支援センターに向かった。前回は素っ気なかった窓口の人も独居という現状に身構えるようなところがあった。今度はいけそうだった。介護制度には要支援二段階、要介護五段階の七段階がある。人による支援は要介護から一気に充実するので、要介護以上の認定は受けたかった。
ところで、日本の支援制度はなんでも申請主義である。助けを必要とする人が自ら積極的に助けてもらおうとしないと制度は利用できない。そもそも支援を必要とする弱者はどんな支援がありうるのかもよくわかっていないからこそ困っているのに自ら申請しなければならない、という構造自体に問題がある。フランツ・カフカという作家は『城』という「城に雇われた測量士Kが城に行こうとするがさまざまな妨害にあってぜんぜん辿り着けない」という不思議な作品を残している。この作品についてミラン・クンデラという別の作家は「『城』は東欧の官僚機構との戦いを示しているのであって、ぜんぜん不思議ではない」という評を残している。城に来いと言っておきながら複雑すぎて城に辿り着けないという状況は、日本の官僚制度にも共通するところがある。だいたい、私が支援センターに相談に一年間行かなかったのは、前回「大丈夫そうですね」と言われてしまったからであった。そのため、「こんなことはみんなやっている」と早合点して一人で七転八倒していたのである。
とにかく、二回目の面談では、市の相談員が実家に来たときに色々とアピールすることに決めた。前回の轍はふむまいと情報収集もしていた。母が粗相をして倒れているところを私は証拠として写真に収めてさえいたのである。
- 母は独居でパーキンソン病の診断を受けていること。
- 私は毎日通って介護をしているが、子供が四人いる一家の大黒柱で、仕事にも支障がでていること。
- 投薬管理ができていないこと。
- 外出によるトラブルが頻発していること。
- 家の中で倒れている写真もある。
相談員は母にも質問するのだが、そうすると母は「大丈夫、できます」と答えてしまう。私はすぐさま「大丈ではないです」と口を出した。相談員は午前に来ることが多いのだが、その時間帯において一般的に高齢者は元気である。だが、母は夕方や深夜の薬が切れ始めた時間に不穏な状態になることが多く、被害妄想や混乱が見られた。睡眠時間も細切れになっていた。以前の面談時はこちらの状況をくみとって最大限の認定をしてくれるのかと思いこんでいたが、いまはそういうナイーブな気持ちはなかった。こちらの苦境を大アピールし、就職活動さながらに頑張らなければならないのだ。
面談を終えると、晴れて要介護二級がおり、ケアマネージャーがつくことになった。二〇二一年六月の末である。これで一人ぼっちの介護は終わった。
Kさんという、まんまるメガネのケアマネージャーがついたのだが、やはり餅は餅屋、介護を人生ではじめてやるド素人ががんばってもほとんどは空回りに終わる。先述した整形外科の意地悪な医師のような人間も稀にいるが、プロというのは基本的にそれで飯を食っているし、基本的な職業倫理もある。ケアマネがついて、介護計画を立ててもらうと、物事が劇的に改善した。以下がそのリストだ。
- 居住環境の改善。そもそもIKEAの肘掛け椅子は座面が深すぎて立ち上がりづらい。もっと座面の浅い椅子の方がよい。私は近所の家具屋にいってすぐさま買い換えた。
- 手すり・ベッド・杖などの補助具は助成金が出るのでどんどんつけた方がよい。パーキンソンだと布団から起き上がるだけでも大変。ベッドと杖は紹介された業者からレンタルし、手すりはホームセンターで買ったものを母の通る場所すべてに取り付けた。洗面所やリビングの室内ドアはケアマネのアドバイスにしたがってすべて取り外した。
- 熱中症対策としてエアコンはつけっぱなし。リモコンが目の届く場所にあると消してしまうので隠す。
- 歯科医は訪問診療があるので、それを使う。
- 毎日できるだけ人がいる状況を作るべきなので、ヘルパーと訪問看護を組み合わせる。投薬管理はヘルパーと訪問看護で行う。朝晩は私が担当する。
- 食事はお弁当の宅配に加え、ヘルパーが用意する。
- 日用品の買い出しはノートにまとめておいてもらい、それを見た私が買っておく。
- 危険なのでガスの元栓は締め、料理はレンジと電気ポットだけを使う。料理は母がやりたがったときだけサポートつきで行う。
- 入浴はヘルパーとデイケアセンターで行う。
- 介護者の家族が旅行に行く時は特別養護老人ホームのショートステイという二十四時間看護制度を利用できる。
- 排泄介助のため、リハビリパンツを使う。これも助成が出る。
- パーキンソン病なら指定難病の認定を貰えば医療費支援が受けられるの申請を出すべき。これは言われてみればそうなのだが、そもそもマイナンバー制度などで勝手に認定されるようにしてほしいといまも思っている。
そして、ケアマネの話によると、母の状態は要介護三級ぐらいで、二級というのは低すぎるとのことだった。それに、特別養護老人ホームに入所するためには、三級以上必要である。近いうちに区分変更申請をするので、なるべく記録を残しておくように言われた。
こうして私のパニック期は幕を閉じた。母はヘルパーに慣れるまで少し不安だったようだが、同じヘルパーが通うようになると徐々に慣れていった。特にデイケアによる入浴サービスとリハビリパンツは画期的だった。舛添要一の介護本『母に襁褓をあてるとき: 介護闘いの日々』という有名な書籍があるが、そもそも親が粗相をするようになったら、シェイクスピア劇のような悲壮感を漂わせて汚れた下着をゴミ箱に捨てるのではなく、おむつを使えばいいのである。大人用おむつなんて、ドラッグストアにも山ほど並んでいるのだ。そんな単純なことに気づかないほど、パニック期の私は視野狭窄に陥っていた。特養でのショートステイを利用すれば、子供達と気兼ねなくキャンプに出かけることもできるようにもなりそうだった。毎日二時間の訪問も続けていたが、当初の地獄のような状況は脱したように思われた。しかしこの後、要介護区分変更のためケアマネに集めておくよう言われた「証拠」が山ほど集まるのである。
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