拝啓、H君。
夏が過ぎたとはいえ、まだまだ暑い季節が続いており、油断をするとバテてしまいそうですね。お元気ですか。突然の手紙で驚いたでしょう。どうしているかと思って筆を取ってみました。サッカーの調子はどうですか。君のお母さんはK学院に行かせると言っていましたね。新しい塾にももう慣れたころだと思います。
さて、今回手紙を書いたのは、他でもなく、君のことを思い出したからです。今年は受験だからきっと大変な思いをしているだろうな、なにか役に立つことを言ってあげられたらな、と、次々に思いが湧いてきました。
先生は勉強という点に関しては心配していません。君はとても頭のいい生徒でした。成績が一番だということはありませんが、頭がいいのです。要領がいいとも言えますね。君は自分ががんばればできるということもわかっていて、作新の総合進学科でいいんだなんて言うんですから。
サッカーで高望みしないことも、大人びていますね。中学生ぐらいだと、ついつい司令塔をやりたがるものです。サイドバックのプロになりたいなんてことを言う中学生ははじめて見ました。中学生のサッカーチームで足が速くて、強いキックを蹴れる選手がサイドにいたら大活躍だと思います。
ただ、先生が心配なのは、君のその賢さです。君は「こざかしい」という言葉を知っているでしょうか。知らないなら、国語辞典を引いてみましょう。下に漢字で「小賢しい」と書いてあるはずです。意味はあまりよいものではありません。怒らないで聞いてください。君は小賢しいのです。
君の賢さは、きっと君の将来を助けるはずです。しかし、君はその賢さを正しく使っていません。その小賢しさは今の君を守るかもしれませんが、遠い未来に君を傷付けるでしょう。
先生は塾の行き帰りに車に乗るんですが、いつもラジオベリーを聞きます。あるとき、「私のプチ自慢」というコーナーがありました。
その中で、「甲子園に出たことがある」という人がいました。市立船橋という千葉のスポーツ名門高の出身で、ショートのレギュラーだったそうです。DJの人は当然、プロには行かなかったのかと尋ねました。すると、その人は練習を見に行ったがついていけないと思ってしまったそうです。そして、長距離トラックの運転手になりました。
君はどう思いましたか? 先生はこの人のことを根性なしだと思いました。なぜやってみないんだろう、と。しかし、よく考えたら、その人は市立船橋の野球部でレギュラーだった人です。一生懸命やらなかったはずがありません。血の滲むような練習を耐えてきたのです。先生は千葉出身だから聞いたことがあるのですが、市立船橋には全国からエリート選手がスポーツ推薦で入ってきます。普通入試で入った人は、部活に入ることすらできないそうです。
少し暗い話になってしまいました。ですが、このうんざりするような暗い話から、たった一つだけためになることがわかるんです。それは、人は思ったよりも先にはいけないということです。
君は中学生にしてサイドバックを目指すことが、君を宇都宮一のサイドバックにしてくれると思いますか? 高校に入ったら、中学で司令塔をやっていた上手な選手が、サイドバックにコンバート(ポジションを変えることです)してくるかもしれません。そういう選手はたくさんいます。ベッケンバウアーやロベルト・カルロスなんていう名ディフェンダーもそうだったんじゃないでしょうか。子供の頃はなんでもできた天才が集まって、そこでようやく役割分担がはじまるというのが普通です。君は中学のサイドバックというポジションを積極的に選んでいますか? そこなら簡単にレギュラーになれるから、などという弱い気持ちでいませんか?
君はサッカー部員だからわかると思いますが、筋トレってありますよね。あれは、筋肉に負荷をかけることで、筋肉を疲労させ、その後に筋肉が回復することで、前よりも強い筋肉が作られるという仕組みです。これは超回復というんですが、簡単なことで、重いものを持ち上げると、前よりも重いものを持ち上げられるようになるという仕組みです。
筋肉に限らず、人はそうやって成長していきます。もうだめだ、そう思ったときは前のめりに倒れましょう。そうすることで前よりもほんの少しずつ成長していきます。君は賢いから、ついつい自分はこの程度だと見限ってしまうのではないでしょうか。そんな小賢しい考えは捨ててみませんか? もう少しだけ、精一杯やってみませんか。サッカーも、勉強も。
長々と書いてしまいました。ごめんなさい。君を嫌な気持ちにさせようと思ったのではありません。なにかアドバイスをしたいという気持ちが高まって、こういった形にさせてもらいました。
先生は、水曜日と土曜日は塾にいるので、良かったら電話を下さい。午後四時より前で、夜九時以降なら、授業もないのでいつでも出られます。それでは。
敬具
*
ぼくはそう書いている。いったんワープロで書き終えたあと、思い直して無精子症の快気祝いに貰ったモンブランの万年筆で清書をした。手書きの方が思いを伝えやすいというのは、自己啓発本で学んだとおりだ。手紙の内容も、できる限り思いが溢れた風にしたつもりだった。
勧誘文を書き終えたぼくは、大いなる自己満足にどっぷりと浸りきった。その手紙はH君を再び塾に戻すためのものだったけれど、まるで自分が言ってもらいたかったことを自分に言い聞かせているみたいだったからだ。自己満足を丁重に折りたたんで封筒に入れると、生徒管理ファイルの中に残っていたH君の名簿を見て住所を書き、投函するために家を出た。
速達で出したものの、返信には早くても一週間はかかるだろう。そう思いながらも、毎日郵便受けを開けるのが習慣になってしまっていたが、一週間目、九月の涼しい夜風を切りながら家へと戻ったぼくが発見したのは、ぼろぼろになったプロケッズの靴だった。今市の靴屋で二九八〇円だったダサい靴は、寛美の外出に連れまわされた結果、だいぶ磨り減っていた。しかも、彼女が極度の内股であるせいで、靴の内側だけが磨耗しており、仲睦まじげに寄り添っているように傾いていた。
寛美は部屋の中で寝袋をバタバタとはたいていた。そして、ぼくを見つけると、寝袋を放り出し、忠実な犬みたいに腰を振りながら駆け寄ってきた。ベロベロと下手くそなキスで唇を舐め回すと、今にも始めそうな勢いだった。まだ玄関も閉め切っていないし、帰って早々ではこちらの気持ちも盛り上がらないので、やんわりと押しのけると、寛美は誰も逆らえないような顔で、したくないの、と尋ねた。
「そうじゃなくて、まずは鳥取砂丘がどうだったか聞かせてよ」
その問いは大正解だったらしく、寛美は顔を明るくした。放り投げていた寝袋を拾い上げ、その中から何かを取り出し、ほら、と手を開いて見せる。手の平から砂がザーッと零れ落ち、フローリングの上に散らばってゆく。その音に驚いたハムスターは、カゴにぶつかって音を立てた。
「そんなんで寝て、気持ち悪くなかった?」
笑顔で砂丘のかけらをまきちらす寛美に気遣い、散らばってく砂を集めることさえできず、ぼくはそう尋ねた。寛美は、まさか、と大きな声で叫んだ。
「見てよほら、こんなにたくさんの砂があったんだから。すごい不思議な気分だった。なんか、色んなことがわかった」
「色んなこと?」
「うん。なんて言うんだろう。凄く大事なもので、認識したと思った瞬間、霧みたいに消えちゃうんだけど、それはすごい切実で、なんていうか……」
そこから先は聞き取れなかった。しかし、その夜の彼女は、それで思考の闇に堕ちていくということもなく、ますます躁状態になっていき、フローリングに砂をまぶしつづけた。
感情の昂ぶりを抑えられなくなった寛美は、自分の親指のつけねを噛みながら、ぼくを押し倒した。寛美を下にするわけにもいかない。ぼくはフローリングと砂で背中を擦りながら、彼女に溺れた。彼女はハムスターが怯えてあちこちにぶつかるぐらいの激しい声を出した。いったん終わったあとに立ち上がると、鳥取の砂がぼくの背中に描いた幾筋もの赤い線条が彼女をますます興奮させたらしく、もう一度はじまった。彼女はぽたぽたと際限なく濡れた。それは床に小さな雫を落とし、砂と混じり合った。蛍光灯の光に照らされた雫の球面に鳥取砂丘の小さなかけらが踊る様を、ぼくはじっと眺めていた。
やっと欲望に一段落がつくと、寛美はパソコンの電源を入れた。なにか調べものでも始めるのだろうか。ぼくはふと思い当たり、卒論やるの、と尋ねてしまった。そんなことは言うべきではなかった。それは彼女にプレッシャーを与えないためにも、ぼくからは絶対に口にしないようにしていた話題だったが、鳥取砂丘から戻って調子を回復したらしい彼女の様子が、ぼくを油断させていたのだ。しかし、彼女はそんな取り越し苦労を無視する瞳の輝きで、違うよ、と明るく言い放っただけだった。
「あ、そうなんだ」
「どんな蛇か、調べてるの。毒のある種類だったら困るし……」
「蛇って?」
「うちに出る奴」
ぼくには答えようがなかった。カチカチとマウスのクリック音が響く。ハムスターはそれに合わせるように回し車を鳴らしたが、ぼくには立てるべき音などなかった。
「ねえ、ちょっと、これじゃない?」
寛美に招かれてディスプレイを見ると、アナコンダが映っていた。パンパンに張った胴体を複雑に絡ませて樹上に鎮座している。単独で映っている写真ではわからないが、ぬらっとした光沢のある胴体は、きっと人間の胴体ぐらい太いのだろう。ぼくは寛美を傷つけないよう、笑いながら答えた。
「四メートルもあるんなら、隠れるところがないよ」
「でも、子供かもしれない」
「そうかもしれないけど、他のも見てみたら。せいぜい一メートルぐらいじゃないの。それに、アナコンダは毒がないよ」
ディスプレイにはコブラ科の蛇が映りはじめた。斑模様のや、黒光りするもの、三色のぶち、とりどりの蛇が映るたび、寛美は神経質な叫び声を上げた。どの蛇も体長が一メートルぐらいであることが、彼女にとってはリアルな証拠になるらしかった。ぼくは少しでも彼女の興味を蛇から逸らそうと、遅すぎる夕刊を広げてから、気付いたように、そういえば、と呟いた。
「ぜんぜん話変わるけど、フロイトって精神分析の人だったよね」
「そうだけど」
「それがインド哲学と何の関係があるの?」
ほんとうにたまたまだったのだが、彼女の意識を蛇から離すことには成功したようだった。というのも、フロイトによると、蛇のように先端の尖った長いものはなんでもかんでも男性器を連想させるものとして解釈されるらしい。つまり、少しはリンクしていたわけだ。彼女の思考は徐々に蛇から離れていき、マウスのクリック音も聞こえてくる間隔が長くなっていったのだが、その代償として、約一時間に渡りフロイトの思想の要約と唯識思想の関連についての講釈を聞く羽目になった。
寛美はなんだかんだいって頭が良く、難解な用語をたくさん知っていた。ぼくは「メタフォリカル」や「アラヤシキ」や「反復強迫」が何を意味するのかも良く理解しないまま、なるほど、などと促した。彼女は相槌を得るたびに饒舌さを増していったが、その口調は話す喜びよりも切迫感に満ちていて、これまでぼくがさんざん気を使ったのにも関わらず、自分で勝手につまずく形になった。
「その、実践のね、菩薩の行とかがどうやって理論から結びついていくのかがうまく書けなくて……」
そこまで言って、寛美は破裂した水風船みたいに泣き出した。
涙腺なんて、たかだか親指の爪ぐらいの大きさだと思っていたのだが、涙は果てしなく零れ落ち、ぼくの膝を濡らした。人間の身体はほとんど水でできているというが、寛美はそれをぽろぽろと外に零してしまう。あんまり泣くので、彼女の身体すべてが水になり、バシャンとはじけてなくなってしまうような気がした。ぼくは何度も彼女の身体をさすった。そうすれば、彼女の緩い輪郭を保つのに役立つような気がしたから。
スポイトで二十五メートルプールを満杯にできるぐらいの時間が流れた。泣き疲れたのか、寛美はもう眠ろうとしていた。寄せては引きながら潮が満ちていくように、彼女の意識が明瞭と不明瞭を行ったり来たりしているのが、傍目にも明らかだった。彼女は残された力を振り絞ってのそりと首をもたげると、ベッドの上に這い上がった。その緩慢な動作は、さっき見たコブラを思い出させた。
ぼくから顔をそむけて横になった寛美を起こさないよう、音を立てずに砂まみれの床を拭いた。部屋着を身につけ、鳥取砂丘の砂を抱えた寝袋を玄関先ではたいた。それから、シャワーでも浴びようかと、部屋の中に戻ると、眠っていたと思っていた寛美が、馬鹿みたい、と呟いた。
「起きてたんだ」
ぼくは馬鹿の主語がわからずに臆病な口を聞いたが、寛美はそんな問いには答えなかった。
「身体なんてなければいいのに」
「どうして?」
「馬鹿みたいだから」
寛美が零れてしまう。ぼくは慌てて彼女に駆けより、身体を撫でさすった。あまりに汗ばんでいたので、ほんとうにゾッとした。彼女は撫でられるのを鬱陶しがり、身をよじった。まるで脱皮する蛇みたいに見えた。
「そんなこと言うなよ。寛美の身体はすごいよ。芸術作品みたいだよ。もしも若くして死んだら、石膏像になってルーブル美術館入り間違いなしだ」
彼女は振り向いた。泣いていた。ぼくは思いつく限り誉めまくる必要を感じた。
「ほんとだよ。このあいだ買ったワンピース、まだ着てないだろう。着てみなよ。すごく似合うと思う。ぼくなんて、いくらいい服着たってダサいまんまだから、羨ましいぐらいだ。もし自分がそれぐらい美人だったら、男を弄びまくって……」
寛美は愛撫しているぼくの手を取って、自分の股の間に導いた。ものすごく濡れていた。
「他の子もこうなの?」
動揺したぼくが、なにが、と問い返すと、寛美は悪魔みたいに真っ赤に晴らした目で見据え、他の子もこんなに濡れるの、と問いを重ねた。
「……どうだろう、そんなに経験豊富じゃないから、なんとも言えないけど」
「濡れないと思う」
「そうかな。けっこういるんじゃないの」
「いない。だって、なにもしなくても濡れるときがあるんだもの。あんまり出るから、生理用品つけるときだってあった」
あまりにもあけすけな会話は、ぼくを沈黙させた。寛美は、もうやだ、と言って顔を覆った。自分が濡れすぎることに絶望した女の姿は、ぼくの胸を打った。
「いいじゃないか。嬉しいよ、こんなに濡れてくれて、こんなに美人だなんて。寛美とセックスしてるとき、ぼくはもう死んだっていいって思うよ。寛美の身体は最高だよ。もし身体がなくなったら、ぼくも一緒に死ぬよ」
寛美は再び破裂した水風船になり、ぼくにむしゃぶりついた。蛇のように執念深い彼女の欲望を鎮めるため、三枚のバスタオルが犠牲になった。
寛美が極度に淫乱であることに、悩まなかったとはいわない。しかし、両手を広げて歓迎することにしていた。それはマゾヒズムの一種でもなんでもなく、単にぼくが救われるからだった。「種無しブドウ」であるぼくには、目的のあるセックス、「正しい」セックスができない。誰もが振り向く美人が濡れそぼっている様は、ほんの少しの疲労と引き換えに、ぼくに自信を与えた。
欲望を満たした寛美は、満腹になった天使みたいな笑顔を浮かべ、大きな声で叫んだ。
「これでセックスおしまい! もう死ぬまでしない!」
言い終わるや否や、すでに寝息を立てはじめていた。ぼくの葛藤などそっちのけで無意識の淵に落ちた彼女には、なんの悩みもなさそうに見えた。だらしなく無垢な寝姿に見入っているぼくの、胸の内に広がっていく感動は捉えがたく、その不明瞭な印象が、そのまま二人の関係の不確実性を物語っていた。
寛美が完全に寝たのを確かめると、ぼくは冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ヘッドホンをはめてテレビをつけた。外国人のキャスターが映っている。NHKの衛星チャンネルでもつけてしまったのかと思い、色々なチャンネルをザッピングしたが、流れてくる映像はどれも似ていた。よく見ると、大きなビルからもうもうと煙が立ち昇り、炎上している。興奮気味の声が、ニューヨークは貿易センタービルからお届けしております、と何度か繰り返している。話を聞いていると、飛行機がビルに衝突したようだ。そして、しばらく画面を眺めていると、もう一台の飛行機が、ビルに激突した。抜け目ないキャスターは、二機目が衝突した瞬間から、これは事故ではなくテロだ、と主張した。
地球の裏側で起きている歴史的な事件を見て、一番はじめに考えたことは、一体誰がこの飛行機に乗っていたのかということだった。
アメリカという国には、無敵のイメージがあった。北米大陸を覆うバリアーみたいなものがあって本土に到達できないとか、気に食わない奴の家にピンポイントで核ミサイルを落とすとか、そんな類の幼稚なイメージだったが、先進国の軍事力を全部足してもアメリカに勝てないと聞いたこともあったし、そのイメージはそれほど現実とかけ離れたものではないはずだった。
あの飛行機に乗っていたテロリストは、そういうありきたりな想像力を軽く超えて見せ、アメリカに甚大なダメージを与えた。それは「神の手」にも似た最悪だった。
興奮を覚えたぼくは、立ち上がって部屋の中をうろうろした。この後に続いてディエゴの五人抜きに似た最高の出来事が起きれば、奇跡が完成するような気がしたからだ。どういった事件がこの場合の最高になるのかについては――奇跡がいつもそうであるように――想像力が及ばなかった。とにかくぼくは期待していた。と同時に、飛行機を操ったテロリスト達に嫉妬していた。
興奮しすぎて、ヘッドホンのコードの長さよりも遠くまでテレビから離れてしまった。プラグが抜け、同時通訳の声が響く。それを聞いて、寛美が目を覚ましてしまった。ぼくはすぐにヘッドホンを外し、寛美に言った。
「おい、見ろよ、凄いことになってるぞ!」
暗闇の中に広がるテレビの青白い光が、美しい泉のような寛美の目をしばらくのあいだ照らしていた。ぼくは彼女が何かを言うのを待った、なにか、特別なことを。ところが、ヘッドホン使ってよ、寝れないから、という冷たい言葉を呟いたきり、彼女は布団を頭からかぶってしまった。ぼくは落胆し、彼女の言う通りにプラグを指しこんだ。同時通訳の音が消え、カラカラという音が聞こえてくる。たぶん、ハムスターが回し車の中で走っているのだろう。夜行性だからだ。その音はあまりに小さかったので、ヘッドホンをはめたら聞こえなくなってしまった。
*
世界の中心が崩れ落ちていった日からしばらくの間、誰もが歴史の証人になり、浮ついていた。そして、それ以上に大きな効果として、週二回のマルシン宇都宮教室でつまはじき者にされていたぼくが、同僚と話し合う話題を持てたということである。つまり、同時多発テロは、アメリカ国内の世論だけでなく、栃木の進学塾の講師陣を結束させる効果も持っていたのだ。資本主義への挑戦、世界恐慌、第三次世界大戦、ウォサマ・ビン・ラディン、アルカイダ、オマル師、タリバーン、イスラム原理主義などなど、九月十一日以前にはほとんど使わなかったボキャブラリーが活発に飛び交い、至るところで議論がなされた。
あるハイエナは言った。
「アメリカさんは、他の国を攻撃すっことでアイデンティティを確立してきたんだよ。そのツケが回ってきたんだべ」
受け付けアルバイトの短大生は言った。
「あの映像、凄かったですね。なんか、映画みたいで。逆にリアルでしたよね」
事務社員のおばさんは言った。
「私の友達の友達の旦那さん、たしかあそこのビルで働いてたのよ。怖いわよね。訊ぐに訊げないわ」
こんな風にみんながその事件について語り合った。特に大きな変化は、あの冷徹な教室長がにわかに饒舌になったことである。彼は喫煙室にぼくを呼んだりした。名指しで話しかけてくるなんて、それまで一度もなかったものだから、ぼくはカチカチに緊張して応対した。
「君たちの世代はあんまり団結心がないっぺ? 私らが若い頃はベトナム戦争があって、知らない人でもこうやって腕を組んで、デモさ出かけたよ」
「教室長はそのとき、おいくつだったんですか」
「高校生……いや、中学だな。中三だ。まだ生っちろぐてね」
鏡室長はそう言うと、若い頃にラグビーで鍛えたという二の腕を愛おしむようにさすった。
「ちょっとぼくなんかじゃ考えつきませんね。そんなに行動力ないですよ。たとえ、中学の頃だったとしても」
「おい、なんだ、老けたこと言うな。君はまだ二十三ぐらいだったけ?」
「二十七です」
「なんだ、まだ若いじゃねえか」
教室長はぼくの背中をどんと叩いた。三年も働いていたのに、ぼくの年齢を知らなかった。そしてまたぼくも、教室長の体育会系の快活さをこのときはじめて見たのだった。
もしかしたら、ぼくの不遇は人間関係のもつれのせいなのだろうか。そもそも、ぼくは処世術において優れていなかった。起業に躍起になったくせに、人集めができないぐらいだ。話すためのきっかけさえあれば、すべての誤解はとけるかもしれない。それは幸福な空想だったかもしれないが、マルコ今市教室から抜け出す手立てがあまりないぼくにとっては、たしかに一つのよすがとなった。
しかし、そんなに長い時間がたったというわけでもないのに、九・一一の話題は下火になっていった。はじめは熱い語り口だった教室長もそのことに触れなくなり、ハイエナたちに至っては、アフガニスタン派兵が決まっても、アメリカって国はホントにしょうがねえなあ、と吐き捨てるぐらいが関の山となった。人間関係修復の夢は瞬く間にしぼんでしまった。
とはいえ、副教室長の姫岡さんだけは別だった。東京の大学で社会学を専攻し、バックパッカーをやって世界中を回った彼は、この世界的事件に関して一家言あるという感じで、喫煙室の車座には加わらなかった。マスメディアによって流されていた欧米への同情的なメッセージにも、それに対する脊髄反射みたいな嫌米主義にもうんざりしているようだった。
彼の意見によると、アメリカの一国主義を憂える声は無意味だそうだ。帝国などと揶揄する者もいるが、アメリカは純粋な意味で帝国ではない。全世界を敵に回す前に退くだろうし、風当たりが強くなれば民主党政権に戻るだろう。アメリカにとってみれば、戦争なんてインフレを起こすための公共事業にすぎない。問題は経済システムなのだ。本当は、この地球に生きるすべての人間、特に先進国の人間は、そういう経済システムに依存しているのだから、責任がある。ところが、民主主義が巧妙に分散した責任に気付くことなどなく、戦争を「向こう側」からやってきた悲劇みたいに受け止め、『イマジン』歌ったり、世をはかなんでカルト教団にハマったりしただけで終わりにしてしまう。自分もその「帝国」の一部じゃないかと、疑ってもみない。これでは何も変わらない。第三次世界大戦が起きて地球が滅びるなんてことはありえなくても、小規模な戦争は繰り返されるだろう。そして、それは決して対岸の火事などではない。すべての人間は学ばなくてはならない。民主主義について、経済システムについて、責任をめぐる道徳形而上学について。生まれてしまった以上、それは義務だ。そのために何よりも大事なのは教育だ。不況の昨今は即戦力を求める企業が多いらしいが、それでは駄目だ。これ以上バカを量産してどうする。義務教育の期間を長くし、子供の養育費を増やすべきだ。パチンコに朝から並ぶぐらいなら、子供に参考書を買ってやれ! 全栃木の父兄どもに告ぐ! 塾に行かせてやれ!
やや我田引水の趣はあるものの、姫岡さんの意見はなかなかに正論だった。少なくとも、野次馬的な興味を示しただけで忘れてしまったハイエナ達に比べたら、ずっとマシだった。王子と揶揄される姫岡さんがカッコよく見えたのははじめてだった。
「なんか、日本の美大生がニューヨークの人のための追悼イベントやるってニュース見ました?」
仕事終わり、ぼくは塾の駐車場でパルサーに乗り込もうとしている姫岡さんを呼び止めて尋ねた。彼はいったん開けたドアを閉め、ボンネットの上に手をついた。
「見てないけど」
「あのですね、美大生の一人がですね、鯉のぼりを作って、その鱗一枚一枚にテロ犠牲者の名前を書いたんですよ。全部で二千枚ぐらい。そうしたら、リポーターがですね、すごい意地悪なんですけど、アフガンの空爆の犠牲者の名前は書かないんですか、って尋ねたんですよ。そしたら、その女の子が、あ、なんて詰まっちゃった」
「そんなもんだろ。人間なんて。お人よしがいい人間とは限らないからな」
「ぼくはちょっとその子が可哀想だなんて思ったんですけど」
「甘いねえ。子供の落書きじゃねえんだから。たとえ五千人の名前を書いたって、人の命を大事にしたことにはならないよ。だったらアフガニスタン行って、井戸掘って来いっつうの」
ぼくは姫岡さんの発言が面白くってニヤニヤしていた。それは大人しい子供がいたずらっ子に向ける期待の眼差しと同じだったかもしれない。彼はそれを察してくれて、ぼくを飲みに誘った。姫岡さんとサシで飲みに行くのははじめてだったが、ここから教室長への突破口が開けるかもしれないという下心もあり、快諾した。
「その代わり、俺は車置いてくから、家まで送ってくれよ。おまえ、あんまり飲まねえだろ」
「いいですよ」
ぼくはミニ・クーパーを出して、パルサーの横につけた。姫岡さんは助手席に乗り込むと、ドアの内側の皮を撫でながら、俺のパルサーと交換しようぜ、とため息をついた。
「駄目ですよ。けっこう高かったんですから」
「こんなサックスブルーのやつあんだなあ。緑のなら知ってるけど。新しく出たやつ?」
「中古ですよ。九十四年式のクーパー1.3iってので、新車同様のを探してもらって、内装変えて、ペイントしてもらって……」
「それだけやると、三百万ぐらいするな」
ぼくが頷くと、姫岡さんは、やるねえ、と唸った。
「おまえって車好きなの?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
「じゃあ、なんでクーパーのカスタムカー乗ってんだよ。ボンボンか」
「違います。自分で貯めたんですよ。アルバイトして」
「なに、ホストでもやってたか。そういや、おまえって、スーツも高そうなの着てるもんな。どんなバイトしてたんだよ。教えれ。転職するから」
「普通のバイトですよ。学生時代と卒業してからしばらく、ベンチャーを目標に貯めまくったんです。結局駄目で、今はこうしてますけど。車とか服は、ヤケになって貯金崩して買っちゃったんです」
マルシンの人には言わずにいた秘密をぽろっと漏らしてしまったことに、ぼくは自分があけすけになりすぎていることを感じたが、姫岡さんは、おまえはおまえで色々あったんだな、と呟いただけだった。
いつもは同僚達と連れ立っていく駐車場つき居酒屋はガラガラで、奥まった座敷に案内された。二人には広すぎるその部屋では、他の客の笑い声も聞こえないし、沈黙が優勢になる。姫岡さんはおしぼりで顔を拭うと、覚悟を決めたような唐突さで、日本人は草食動物なんだよ、と話しはじめた。
「アメリカは肉食動物。ほら、ライオンなんかがシマウマの群れに飛びかかると、シマウマはパーッと逃げるだろ? 蜘蛛の子散らすみたいにさ。で、その中の一匹が捕まったとする。そうすると、無事だったシマウマはさ、はじめはポカンと見てるんだけど、そのうちにむしゃむしゃ草を食べ始めるんだ。生き残るには効率的だがね。ホント、どうしようもないよ」
姫岡さんがそこまで言い終えると、注文しておいた生ビールのジョッキが二つ届いた。表面に薄い氷の膜が張っている。キンキンに冷やしてあったのだろう。ぼくはそれを受け取ると、一つを彼に渡し、自分のジョッキを軽く当てた。彼は笑っていたが、明らかにぼくの意見を待っていた。ぼくもまた、そのたとえ話に負けないようなものを考えようとしたが、一つも浮かばなかった。
「じゃあ、ロシアはなんですかね」
「ロシア? あれは象かなんかだな。ほら、象はライオンに襲われないだろ? 昔は熊かなんかだったんだろうけど、ソ連崩壊以降はね」
「中国は? 中国はアメリカに匹敵する力になれるかもしれないですよ」
「いや、無理だろう。あの国は人が多すぎる。眠れる獅子なんて言うけど、サイかカバだね。無駄にデカい」
「中東諸国なんかはどうですかね。サウジとか、UAEとか」
「あれは完全な草食動物だよ。インパラとかガゼルだね。部族社会でまとまりがない上に、石油がある。ローリスク・ハイリターンだよ」
「へえ、うまく喩えますね。じゃあ、ならず者国家は?」
「あれも草食動物じゃないかな。群れてない分だけ、狩りやすい。民主主義の敵ってことにすれば、いつでも戦争をふっかけられるからね」
「じゃあ、カナダとか、イスラエルとか、ポーランドとか、アメリカの同盟国はどうですかね」
「ありゃハイエナだよ。アメリカのおこぼれにあずかりたくって、周りをうろついてるんだ」
「じゃあ、日本もそうですかね?」
「うん、日本は草食動物と言うより、ハイエナかもしれないな。アメリカが倒れて一番困るのは日本とかイギリスだからね」
「でも、ハイエナって食事の六割ぐらいは自分で取ってるらしいですよ。屍肉だけじゃ間に合わないから。うまくできてますよね」
「うまくできてる?」
「そうですよ、日本だってアメリカの陰に隠れてるだけじゃなくて、せっせと自動車作ってたんですから」
言ってから後悔した。姫岡さんは切れ長の目をまん丸にして、ぼくを見つめている。たとえ話を破綻させることは簡単だけれど、無意味だった。ぼくの目的は九・一一に関する意見を聞くことであり、マルシン宇都宮教室のナンバー2と懇意になることなのだ。
しかし、姫岡さんはフランクな様子を失うことなく、むしろ率直さを増したようだった。
「でもさ、問題はそういうことじゃないんだよな。はっきり言って、これは世界的に見ても、経済の問題だぜ」
ぼくは新展開にほっと一息ついて、お通しの切干大根を箸でねぶった。姫岡さんも同じように箸を弄んでいる。
「おまえさ、実行犯の国籍がバラバラなこと、不思議に思わなかった? それも、サウジアラビアとか、エジプトとか、アメリカと仲良しの国の奴らだったじゃないか。理由はわかるか?」
「理由って……親米政府なだけで、国民はそうじゃないんじゃないですか?」
「半分正解だな。でもさ、ただの国民があんなことできるかい? ハイジャックしてビルにぶつかるなんて、けっこう難しいぜ。外国語も話せなきゃいけないし」
「だから、インテリなんじゃないですかね。あまりにも嫌米の人が多すぎて、テロ集団にインテリまで入ってきたんですよ」
姫岡さんは、それ正解、とはっきり発音し、人差し指をぼくに向けた。それは姫岡さんが英語の授業なんかで、正解した生徒を誉める流儀だった。
「俺はね、けっこうアラブ諸国に行ったことがあるんだよ。ほら、実行犯の首謀者はカイロ出身のエジプト人だろ? カイロなんて、えげつない都市だぜ。町中にカフェがあってさ、どれも一杯なんだ。大の大人が昼間っからコーヒー飲んで、水パイプふかしてんだよ。今話題のスローライフでもなんでもない、単に仕事がないからなんだ。大卒だって、失業率四十パーセントぐらいだってよ」
「四十? そりゃハードですね。日本なんて、まだまだじゃないですか」
「どうだかな。若年失業率は大して変わんないかもよ。基本的な構造は同じ。受験競争だってメチャクチャ激しいんだぜ。カイロ大学だっけな、とにかく、エジプトの東大みたいなのがあるんだけど、そこに入るために、親は物凄く金をかけるんだ」
「へえ、エジプトなんて、後進国だと思ってたけど、日本と変わんないですね」
「そうだよ。あのテロリストたちはいわば、インテロリストだよ。結局さ、エジプトとかチュニジアとかサウジとかでも、勉強して出世するっていう競争は用意されてるんだけど、実際に就職するとなると、コネが必要だからな。そもそも、勉強するのに金がかかる。中途半端に夢見て、一家の期待背負って頑張って、そんな現実知ったらどうする」
「でも、自爆テロするほどですかね? インテリなら、そこまで追い詰められてないような気が……」
「そりゃおまえ、先進国民の傲慢だよ。ほんとうに仕事がないんだ。それによ、その国で一番貧乏な奴は、なにもしないんだ。義憤もないし、大義を持とうともしない。そんな気力さえないんだよ。ああいうテロをするのは、中産階級出のインテリって決まってるんだ。一度でも夢見た奴の絶望ってのは、マジで深刻なんだよ」
「はあ、それはそうですね。一応、頑張れば上に行けることになってますから」
「そんなのが建て前だって知ったときの絶望ってわかるか? おまえだって、必死こいて東大出て、タクシーの運転手ぐらいにしかなれなかったら、テロしたくなるのもわかるだろ」
姫岡さんの話はとても理路整然としていてわかりやすかったのだけれど、ぼくの頭を巡ったのは、アラブ社会の抱える雇用問題よりも、「不思議」の三文字だけだった。なぜ、これほど頭がよく、見ず知らずの社会問題に造形が深くて、そこいらを飛び交っているニュースの裏にある情報を掴むことができる人が、栃木の塾講師なんてやっているのだろう。それに、教室長の出た地方の教育大なんかより、姫岡さんの出た有名私立大の方がずっと偏差値が高いのだ。
その場の率直な雰囲気がぼくを正直にさせた。たとえ尋ねるべきではなかったとしても、言わずにはいられなかった。
「どういう縁でマルシンに入ることになったんですか」
副教室長は笑顔を浮かべ、ぼくの肩を叩いた。
「言ったろ、構造は日本も同じなんだ。おまえだってそうだろ」
その言葉を理解することは難しかった。ぼくは自分の惨めさを納得のいくものとして受け止めていたし、個人的な状況を社会に還元するほどの知識もなかった。ぼくは起業という賭けに出る代わり、安定した職につくチャンスを失った。それを一生背負わなくてはいけない。ただそう考えていた。
「よし、今夜は飲もう!」
姫岡さんはそう叫ぶと、気軽さに加速をつけて、冷酒を三本注文した。ぼくはそれほど酒に強くないから、日本酒は飲まない。姫岡さんは断る部下を怒りもせず、お銚子を三つ抱え込んだ。
べろべろに酔っ払った姫岡さんは、とある宗教団体の名前を口にした。仏教と儒教と科学を組み合わせて作った、新興宗教だ。ぼくはそれをなにかの冗談だと思い込み、無理矢理面白がったが、姫岡さんの目は酔いの中にも真摯な輝きを宿していた。
「違うよ、ほんとうだって。うちの理事長はあそこの信者なんだ」
「え、だって……」
「ほんとうだよ。教室長はそれで帰依したんだから」
「え、そうなんですか?」
一向に信じようとしないぼくにため息をついてみせると、今にも吐きそうにげっぷをしながら、はなまる進学館の成り立ちについて説明しれくれた。
はなまる進学館は純粋な営利団体というより、某宗教団体の幹部信者が団体の活動財源を稼ぐために作ったものらしい。理事長たちはすべて信者だし、講師の中でも出世を志す者は帰依することが多いという。
「けっこう多いんだぜ、教育産業には。ほら、教育って洗脳に近いところあるからさ、宗教とセットになることが多いんだよ。例えば、ヤマトタケルとか卑弥呼とかをポスターにしてるところ。あれなんかモロだよ」
「そういえば、そもそもミッション系の学校ってのはそういうことですもんね」
姫岡さんは、それ正解、と人差し指でぼくを差し、トイレに中座した。そして、しばらくたって戻ってくると、ネクタイを緩めてからおしぼりで顔を拭いた。
「大体よ、おまえおかしいとおもわなかった? 教室長が会議の前にする訓話。いっつも氣のこと言うだろ。なんだよ、氣って。株式会社の会議で氣の話なんかしちゃダメだろ、フツーは。それにうちの国語教材、『論語』と坊主の説教が多すぎると思わねえ?」
ぼくは、あ、と間抜けな声を出した。たしかに「国語理論」を実践するにあたり、その種の教材を選ぶことが多かったはずだ。姫岡さんは訳知り顔で笑うと、数珠もな、と呟いた。
「数珠って……どの数珠ですか」
「教室長のだよ。左手につけてんだろ」
「そうでしたっけ?」
「なんだよ、おまえ、カッコつけるだけがファッションじゃないぜ。どんなにダサいものだって、それなりの意味はあるんだ。まあ、そういうところがおまえの抜けてるところだよ」
姫岡さんは言われたぼくが感心するぐらい見事に言い切ると、もう帰ろうぜ、と立ち上がったが、ぼくは引き止めた。
「ちょっと、ぼくの彼女と話し合ってくれませんか?」
姫岡さんは、え、と不思議そうな顔をしたが、ぼくの唐突な願いをゆっくりと噛み絞めているようだった。
「まず、いま思ったこと言っていい?」
「どうぞ」
「おまえって彼女いたんだ」
ぼくが深く頷くと、姫岡さんはふんふんと細かく鼻を鳴らした。たぶん、カッコつけだが本質はダサい部下の評価を変更しているのだろう。
「で、こんな遅くに大丈夫か? あと、俺は会ってどうすりゃいいの?」
「大丈夫です。ちょっと話してみてくださいよ」
「なんで?」
「ぼくの彼女、すごい哲学に詳しいんです。インド哲学やってるんですよ、大学で。話し合ったら、すごく面白いと思うんです」
「でも、おまえんちって今市だろ」
そう言って難色を示す姫岡さんを、ミニ・クーパーで家まで送るからと約束し、なんとか連れて行くことに成功した。
今市までの道のりを寝っぱなしだった姫岡さんを揺り起こす前に、寛美の様子を見に行くことにした。どうせ大学には行っていないから、起こしても大丈夫だろうが、いきなり帰ると全裸だったり、むしゃぶりついてくるかもしれない。
その危惧は当たらなかった。寛美はきちんと服を着ていて、大人しく本を読んでいた。着ている服は以前買ったままだったトッカのワンピース、本は彼女の大好きな哲学者、竜樹――これで「ナーガ・ルジュナ」と読むらしい――の書いた哲学書『中論』の注釈書だった。
「その服、着てくれたんだ」
寛美は、うあ、と変な声を出してから立ち上がった。室内だというのにミュールを履いていて、床をドカドカと鳴らしたが、ぼくが心配したのは近隣トラブルよりも、そのあまりに美しい立ち姿だった。ぼくは文字通り息を飲み、あとちょっとで窒息するところだった。
「服がなくなっちゃったの。洗濯サボったら」
「そう。でも、似合ってるよ」
寛美は照れる素振りもなく、にっこりと微笑むと、再びベッドの上に寝転び、『中論』の注釈書に目を落とした。ぼくは彼女を誰にも見せたくないと思ったが、車の中に置き去りにしてきた姫岡さんが目を覚ましてしまい、おまえどこだ、と携帯で苦情を漏らした。
「寛美、いまからぼくの会社の上司が来るけど、いいかい?」
寛美はこっちも見ずに頷いた。羞恥心と無縁の彼女が断るはずはなかった。
途中のコンビニで買い込んだビニール袋を下げた姫岡さんは朦朧としていたが、寛美の姿を見て、ぼく以上に息を飲んだ。靴も脱がずに玄関で立ちすくんでいた。
「どうぞ、上がってください」
姫岡さんは居間に入ると、テーブルにビニール袋を置いて、どうも姫岡です、と寛美に挨拶をした。寛美は『中論』の注釈書から顔を上げ、ぺこりと小さく会釈をした。そのときの彼女は、なんの作為も感じさせない、胸をかきむしられるような上目使いをした。
「靴、履いてるんだけど。部屋の中で」
姫岡さんの耳打ちに、試着の最中だったんです、と言い返した。寛美は下着もつけておらず、テロンとした生地のワンピースでは胸や腰のラインが丸見えになっていた。しかし、ショーのモデルがそうであるように、そういう服は裸の上に着ることで一番美しく見える。寛美のように完璧な身体の持ち主は、そういう風に装うのが正しいのだ。実際、ベッドに肘をついて横たわる彼女は、生ツバを飲み込む音が栃木の夜を覆い尽くしてしまうぐらい綺麗だった。
「で、俺はどうすりゃいいの?」
姫岡さんの戸惑いはぼくを誇らしくさせる。とりあえず座って話しましょう、と囁くと、姫岡さんは寛美の姿をちらちら見ながら、すっかり醒めた酔いを深めるために、汗かきの缶チューハイをプシュッと鳴らした。
仕切り直しがぎこちなくしたのか、それとも寛美の存在感か、姫岡さんの論調は冴えなかった。メディア批判というか、九・一一の報道の仕方を批判したが、宇都宮の居酒屋で話していたときとは異なり、具体例を欠いた、内容空疎なものだった。なんとか先ほどのインテリぶりを取り戻して、寛美と熱い議論を交わして欲しい。ぼくはそう願い、寛美に水を向けた。
「姫岡さんみたいな論理的な考え方をなんて言うんだっけ?」
寛美は『中論』の注釈書から顔を上げ、唯物論、と呟いた。その知的な響きとくつろいだ姿勢は、寛美をとても美しく見せた。
「そう、唯物論。寛美みたいなのを唯心論って言うんだよね」
「まあ、それでいいけど」
少し侮辱されたような響きに驚いたが、寛美が会話に加わるのはいいことだった。ぼくが用語の間違いを犯すのは大したことじゃない。姫岡さんが寛美と話し合うことが大事なのだ。ぼくは姫岡さんの方を向き、やっぱり雇用問題って大事なんですね、と話を戻した。
「まあ、そうだろうけど、現実的にはワーク・シェアリングぐらいしか思いつかねえな。技術発展の歴史は人間が楽になった歴史だからね」
「なるほど」と、ぼくは答えた。「人類全体の仕事の量は減ってるから、失業者は増え続けると。そういうことですね」
「だな。そのくせ人は増えてるし。まあ、もっとまったりした方がいいんじゃねえの。あくせく働いたってしょうがないし」
その姫岡さんの意見を受けて、寛美に尋ねると、そうならないわ、という強い言葉が帰ってきた。ぼくが理由を尋ねると、寛美は『中論』の注釈書をベッドに伏せて、その完璧な身体を起こした。フローリングについたヒールがかつんと上品な音を鳴らす。
「あくせくしなければ、もうなに一つ維持できないもの。凄くストレスフルな状態で生きてかなきゃならないの。だから、必要なのはそれに耐えるための技術じゃない」
ぼくは少し長い話をした寛美に対して思わず、おお、と感嘆を漏らした。そのまま姫岡さんに目を向けると、茸みたいなツーブロックの前髪から覗く目には理性の輝きが戻っていた。
「そうかもしれない。実際、九・一一だって、あいつらじゃなくてもよかったんだ。アメリカを狙ったっていうより、そういう現代社会の象徴みたいなものをアメリカに見てるだけだからな。なんというか、自分を拒絶した資本主義経済を全否定するには、徹底的にイスラム原理主義に走るしかないもんな」
「どうしてですか?」と、ぼくは尋ねた。
「だってよ、あいつらって普段は西欧の文化を楽しんでるんだぜ。リーバイスのGパン履いてるし、ブリトニー・スピアーズ聞いてるし、コーラ飲んでる。そういうのを身の周りからすべて排除する方法なんてないんだよ。原理主義以外に」
「じゃあ、ああいうテロは増えるんですかね」
「増えるし、もっと複雑化するな。だって、もう目立つところならどこだっていいし、そこを狙うのは直接的な恨みを持つ奴じゃなくたっていいんだ。インドの銀行でリストラされたインテロリストが、日銀を狙うかもしれない」
「なるほど……すると、そういう風にさせないための宗教みたいなのが必要になってくるわけですね?」
「まあ、そうだろうけど、それがなにかはちょっとね。おまえの彼女はどう思ってるんだ?」
姫岡さんに水を向けられた寛美は、両手をベッドについて、肩をすぼめ、足をぶらぶらさせた。少しあごを突き出したその姿勢は、愛苦しいことこの上なかったが、出てきた言葉はその愛らしさと正反対だった。
「傷つかないように、まずは多重人格になる。それで、禅を学ぶの。最後は身体を捨て去るの」
寛美はぼくと姫岡さんの反応を待たず、再び『中論』の注釈書に飛びついてしまった。その言い切り方は彼女の言葉の正しさを裏付けるようだった。実際に、ぼくらはなんの反応もできず、しばらくたってから姫岡さんがひゅうっと口笛を吹いただけだったのだから。
深夜三時ごろになり、姫岡さんを送っていくことにした。寛美が身体を捨て去るべきだと断言してから、会話は途絶えがちだった。それらしい会話が生まれたのは、今市市と宇都宮市の境界あたり、黄色の点滅信号ばかりになる夜の日光街道では珍しく赤々と灯る信号の下だった。
姫岡さんは突然、ブーッと吹き出し、変わってんなあ、と一人ごちた。ぼくは、インド哲学やってるぐらいですから、と応じたのだが、帰ってきたのは再び吹き出し笑いだった。
「違うよ。おまえがだよ」
「ぼくが?」
「そうだよ。家の中で靴を履きーの、豪華なドレス着ーの、インド哲学やりーの、で、ちょっとメンタル弱い彼女と同棲し、千葉県出身で、東京の大学で学び、栃木で働き、カスタムのミニ・クーパーを駆る塾講師」
「はあ、まあ……」
「ミケランジェロ・アントニオーリが映画にしそうな設定だな」
ぼくが返事もできずにいると、姫岡さんは、アントニオーニだったかな、と一人ごち、そのままくすくすと笑っていた。
*
なんにせよ、ぼくは姫岡さんと親しくなった。それは週に二度行くマルシン宇都宮教室での話しぶりにも明らかだった。目ざといハイエナたちは、それとなく尋ねてくることさえあった。教室長と懇意になれずにいることは不本意だったが、姫岡さんとあれだけ親しくなったのは収穫である。事実、そのことによって、マルシンが宗教団体の傘下にあると知ることもできた。場合によっては、そこに入信するという手立てを取ることもできるわけだ。
そうやって少しずつ希望を見出しつつある中、さらなる希望をもたらしたのは、一本の電話だった。
アルバイトの事務員がぼくへの電話を取り次いだ瞬間、ぼくは興奮にまみれ、受話器に飛びついた。保留を示す内線番号十三番の赤いダイオードは、脈打つ心臓のようにちかちかと灯っている。受話器の向こうから聞こえてくる声はどこか疑うような尻上の栃木訛りが聞こえてきた。
「先生? Hですけど……」
「おお、H君か。待ってたよ。どうした?」
こうして、H君がその諦めの哲学の裏に押し隠し、これまで決して明らかにすることのなかった心情を吐露することになった。
彼が一番最初に言ったのは、勉強は母親にやらされているだけということだった。彼の家が母子家庭であり、幸い実家の援助があるために金銭面ではそれほど困っていないということはぼくも知っていた。そしてまた、母子家庭の塾通いによくあるように、母親は息子の勉強に対して病的に熱心だということも。ぼくがH君の口から直接聞いたのは、そこに彼という個人の歴史を塗りこめたものだった。
H君の離婚した父は、長距離トラックの運転手だった。父親がトラックのデコレーションに金をかけすぎるので、母親が離婚を切り出した。お父さんみたいになってもいいの、が母親の口癖で、学のあることだけが負の連鎖から抜け出す唯一の方法だった。なんでもいいから大学に入って、ネクタイをしてデスクワークの仕事についてほしいという。
H君はというと、一人になった母が可哀想で勉強しているだけで、本当は宇都宮一のサイドバックではなく、ヒデのようになりたいということだった。ヒデ? ぼくは電話であるのをいいことに、悲しい微笑みを浮かべた。ヒデといっても有名なヒデはたくさんいるが、H君がなりたいのは、中山ヒデちゃんでも、ヒデとロザンナのヒデでもなく、サッカープレイヤーの中田英寿である。
中田英寿。おそらく、日本のサッカー史に名を残すことになる人物だろう。二〇〇二年のワールドカップが終わってみないとわからないが、よっぽどの怪我でもしない限り、二〇〇六年のワールドカップでも活躍するだろうし、二〇一〇年だって、守備的な位置からの貢献はできる。現時点でも釜本と同じぐらいの評価を得るのは間違いない。目標を高く持つのはいいことだけれども、H君がヒデのようになるためには、歴史を三億回ほどやりなおさなくてはならない。もちろん、そんなことは言わなかった。ただ、もしヒデのようになれなかった時に備えて、勉強をしておきなさい、サッカーを頑張りなさいとだけ言っておいた。今は彼の夢を打ち砕かず、それとなく気付かせてやろう。ぼくはそう考えていた。
「とりあえず、近いうちに会おうよ。知り合いにサッカーをコツコツがんばってる人がいるんだ。きっと、君の相談に乗ってくれると思う」
泣き声まじりの返事を聞いたぼくは、勝利の予感に震えを覚えながら受話器を置いた。
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