私は千葉県千葉市に住んでいるのだが、市内には加曽利貝塚という史跡があり、世界でも最大級の貝塚だということを思い出したので、週末を利用していってみることにした。子供の頃、遠足か何かで訪れたことがあったような気もするが、当時はそれほど縄文時代に興味がなかったため、ほとんど記憶に残っていない。
貝塚とは、貝殻が大量に発見された場所のことである。貝塚の定義には諸説あり、「集落における貝の加工場」であるとか、「食べ物のゴミ捨て場である」とか、いろいろあるらしいのだが、加曽利貝塚では資料館でそれら諸説をまとめた展示を見ることができる。しかし、そうした文献自体よりも興味深いのは貝塚の実態を目の当たりにすることだろう。
加曽利貝塚では貝塚の掘削断面図を見ることができる。薬剤で保管され、ガラス越しではあるが、なかなか興味深い。
実際に断面図を見て思うのは、貝塚が地表から一メートルも掘らない深さで発見されていることだ。何千年も前、大量の貝殻を敷き詰めた地層がわずか数十センチにあるというのはなかなか感慨深い。そういえば、私はまだ小学校に上がる前、「恐竜の化石を見つける!」といって家の庭を一メートルセンチほど掘ったことがあるのだが、あれもあながち馬鹿げた行為ではなかったといえよう。
他にも集落跡の地層を見ることができ、これがなかなか面白い。竪穴式住居の遺跡は支柱を差す穴と貯蔵庫、炉などの特徴的な穴からなるのだが、これが密集している地域を見られる。同じ場所を使い続けないで、あっちこっちに穴を掘りまくっているのだが、そこの合理的な理由があったのか、それともそれが習い性だったのかは想像を巡らせる余地があって面白い。
貝塚にある資料館では貴重な資料をいくつか見ることができる。まず、埋葬された人骨。完全な人骨を見たことがあるという方はもしかしたら少ないかもしれないので、ぜひ見ていただきたい。
同じく、犬の骨も見ることができる。犬は当時から猟犬として人間のパートナーをしており、この事実は私のように犬を飼っている人間からすると誇らしくもある。犬の骨だけは他の動物とことなり、骨が散逸せずに見つかるのが、ペットとして寵愛されていた証拠だ。
ちなみに、猫がペットになったのは人類が農耕を始めてからで、たとえば鼠のような害虫から穀物を守るためだったというのをどこかで読んだ気がする。古来エジプトではバステト神という猫の神がいるが、あれは巨大穀倉地帯であるエジプト文明ならでは、と言えるだろう。一応、猫派の方へのフォローとして書いておく。
他にも、千葉県北西部に縄文遺跡が集中しているという統計的な図なども見られる。私のような千葉県民は、よく関西の人(特に京都民)から東京都と十把一絡げに敵視された上に「日本の中心はそもそも関西で〜」とつっかかられることがよくあるのだが、その際はこの図を利用し、「縄文時代は千葉県が最高に発達していた」という反論をしたいと思う。同様の思いを抱えている方は、積極的にこの図をシェアしていただきたい。
また、資料館で興味深かった資料の一つに、当時千葉県北西部(野田から木更津にかけて)に遺跡が集中している理由に、まずそこが住みやすかったいう点が挙げられていた。確かに私が住む千葉市は東京湾から近く、いまよりもずっと温暖で海面が高かったはるか昔は海岸のすぐそばだったらしい。小学生の頃、学校の校庭を掘ると貝殻が出てきて不思議な思いをしたものだ。最寄りの駅は海から三キロほど離れているのだが、梅雨時や秋の台風シーズンなどは、電車から降り立った瞬間に磯の香りが漂ってくる。そういった意味で、千葉県北西部は漁場に恵まれた場所だった。
そして、これがさらに興味深いのだが、当時の遺跡には北関東の文化(魚の食べ方)、西関東の文化(家の建て方)などが明らかに混在しており、千葉県北西部の住みやすさに惹かれて各地から移住してきたと考えられるようだ。海岸という漁場に程近く、どんぐりや椎の実が取れる森がある地域を探して、当時の人々は引越しを繰り返していたのかもしれない。そういえば、最近は千葉県流山市に居を構える若い夫婦が多いそうだが、私が高校生ぐらいの頃は流山といえばバスを乗り継がないとたどり着けない秘境の地で、柔道部の試合で合同練習をするときは彼らの垢抜けなさに驚いたものだが、いまやつくばエクスプレスの開通で人口流入甚だしいという。いつの時代も人の行いは大して変わらないのかもしれない。ここら辺は大いに創作の余地がある。
そうそう、日本各地に残るダイダラボッチ伝説だが、巨人伝説の根拠が貝塚であるということは豆知識として面白い。昔の人、それこそ平安から江戸に至るまで、人々は海から何キロも離れている地域に貝殻が大量に出土することを不思議に思っていたらしい。そこで考えられた「巨人が海で大量に貝を採って山に捨てた」という説がダイダラボッチの元になっているというのである。巨人ならば遠く離れた海にもひょいと手を伸ばせば届くだろう、ということだ。
加曽利貝塚には復元された竪穴式住居があるのだが、これは板付遺跡と同様である。しかし、行ってみて驚いたのはその大きさの違いだ。板付で見たものよりもはるかに大きかった。板付では三人も寝ればぎゅうぎゅう詰めといったサイズだったが、加曽利の竪穴式住居は私が山梨に建てた家よりもはるかに大きく、二十人ぐらいが車座になって話し合えるぐらいだった。また、屋根も高く、支柱を入れる穴も太い。
この日は中の炉で火が焚かれており、おじさんたちが宇宙の果てしなさなどについて話し合っていたので、私はそっとその場を辞した。
加曽利貝塚では定期的に体験コーナーのようなものが開かれており、私は火おこしを実際にやってみた。弓切り式という縄文後期の手法で、一人でも火をつけることができる。一分もあれば火をがつくので、気軽に試してみてほしい。なお、もみ切り式という両手で棒を回転させながら火をつける手法はもうちょっと辛い。動画をあげておくので参考にされたし。
さらに、加曽利貝塚では土器を焼くことができる。
この手法自体が本当に正しいのかは、私が判断する限り、ちょっとわからない。なんでも、縄文式土器の手法を再現した陶芸家を招聘し、いまでも土器サークルのようなものが存続しているのだが、現代の知識で「再現」する場合、余計な知識がたくさん入ってしまっているのではないか、ということは素直に思った。ただし、「釉をつかわない」「素焼き」などを再現するとこのようになるらしい。興味のある方はぜひご覧いただきたい。
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以上で加曽利貝塚の訪問リポートを終える。個人的な感想ではあるが、一日を潰すアトラクションとしては悪くないので、縄文小説を書く予定がないという方にもオススメだ。逆に、絶対に縄文小説を書くという固い決意をお持ちの方はぜひ行っておいた方がいいだろう。体験学習が開かれている日を確認してから行くことをオススメする。
ただし、加曽利貝塚は国の重要史跡に指定されることを露骨に目指しており、ゆるキャラを作るほど力を入れている施設なので、多少持っている可能性はなきにしもあらず、ということは留保しておきたい。
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