ウエストバッグから人差し指を二本取り出し、端末に当てる。接触反応は少し鈍い。この遅さは血の通っていない指の電位に特有の現象だということは事前に聞いていた通りだった。それでも、指紋認証のインジケーターは光度を強め、緑色に変色した時点でカチッと音が鳴り、ロックが開いた。
「ゲート1突破、どうぞ」
ジジっというトランシーバーの擦過音がやむと、くぐもった女の声が「了解、オーバー」とだけ返してきた。さっさと続きをやれ、ということだろう。ユーリは人差し指をジップロックに入れ直すと、口を閉じ、ウエストバッグにしまった。こんな時にジップロックというのも笑えるが、指の持ち主が縫合手術を受けるまでの温存方法に最も適したのがジップロックらしい。ユーリはしばらく歩き、ゲート2が近づいてくると、別のジップロック――口の部分が赤になっている――を取り出し、さっきよりも慎重に封を開けた。今度のは眼球で、認証する前に落としでもしたら使い物にならなくなるらしい。もちろん、縫合手術を心待ちにしている持ち主のためにも、さっきの液体入りジップロックにきちんと戻さなくちゃならない。味玉を冷蔵庫で冷やす時みたいに慎重に。
ゲート2の前に向かい、認証スキャナのカバーを開ける。眼球をつまむような形で自分の顔の前に掲げた。目の前に他人の眼球の裏側が見えているというのもゾッとしない。スキャナーのレーザー光は少し迷うような仕草を見せたが、虹彩認証の手続きを開始した。インジケーターがゆっくり動き、開錠音が鳴る。ゲート2をくぐると、そこはもう三層目だ。照射式スクリーンを映し出し、俯瞰図で確認する。放射状になっているこの施設は中も外も真っ黒でまん丸、アーチン――英語で雲丹――というあだ名がついている。外壁を含めて五枚の壁があり、内部は四層構造。全長はおよそ八〇〇メートル、つまり施設は巨大な1マイルの円になっている。各層は円形になっているが、ゲートは中心から直線的には並んでいない。傾けることで小さなボールを脱出させるオモチャの迷路のような構造だ。どうしてそんな作りにしたのか、ユーリは知らない。お偉いさんにとって重要な理由があるのだろう。国防に関わること、もしくは政治的なこと、そんなところだ。どっちみち関係ない。ユーリがすべきことはただ一つ、この仰々しい施設の一番奥にある部屋までてくてく歩いて、赤いボタンを押せばいいだけだ。それが罪の償いになるという約束を検察庁とは結んでいた。
アーチンの廊下は広く、端から端までたっぷり十メートルはある。ただし壁はそれよりも分厚く、中にはコンピューターがぎっしり詰まっているらしい。解体をやってる友達を呼んで片っ端から引っぺがしたら、さぞ儲かることだろう。あちこちに通気口があり、そこから暖かな空気が流れ出ている。おそらく、この廊下は人間がそう呼んでいるから廊下なのであって、本来は冷却用の排気口なのだろう。とてつもない量の計算を行う汎用人工知能が生み出した熱を通る道。さながら自分はキッチンの換気扇を這い回るゴキブリだな、とユーリは自嘲した。
ラストワンマイルと名付けられた計画にユーリが応じたのは、司法取引の結果だった。ロシアと日本のハーフとして生まれたユーリは不法滞在二世として違法な仕事についていた。といっても、放棄された空き家を見つけて別の不法滞在民に安く貸すといった小商いで、大した罪だとはいまも思っていない。懲役十二年の実刑判決が出たときは思わず弁護人を睨みつけたし、傍聴席にいた妻のミリは泣き叫んでいた。純ジャパの連中はこういうとき、困惑したような顔をする。その嘆き方は日本的ではない、というように。そのまま上告の機会も与えられず、ユーリは府中刑務所に留め置かれた。そして五年が経ち、妻のミリが死んだという知らせを受けた。スクリーン越しの面会しか叶わなかった娘のキルリは、児童養護施設に引き取られたという。ユーリはこの司法取引で出所し、娘と暮らすつもりだった。もう大人になっているだろうが、家族なんだ。アーチンの奥に行ってボタンを押すというただそれだけのことがなぜ司法取引の材料になるのかという点についてユーリの理解は及ばなかった。日本製の汎用人工知能施設であるアーチンは、色々なことに使われているらしい。ボタンを押すとリセットされるのか、止まるのか、結果は聞かされていない。思いっきり殴ると上手くエンジンがかかるガソリン式のチェーンソーと同じような理屈なのだろう。
「ゲート2突破、オーバー」
「了解、オーバー」
指示役の女は短く答えた。
「へい、ミリ。少し話さないか、オーバー」
ユーリが告げると、向こうのトランシーバーが通話状態になっているのがわかった。少し経ってから「ミリというのはあなたの死んだ奥さんの名前でしょ」と返ってくる。
「よく知ってるな。俺はあんたの名前を知らない。だから、昔の女の名前で呼んでるんだ」
「普通は死んだ妻のことを昔の女とは呼ばないわ」
「失礼、日本語が得意じゃなくてね」
少し沈黙があってから、女は「佐藤中尉よ」と答えた。
「オーケー、ちょっと偽名っぽいがね。よろしく、佐藤ミリ」
「何よ、結局その名前で呼ぶんじゃない。ゲート3についたら呼びなさい。オーバー」
「ああ、俺のことはユーリって呼んでくれよ」
応答のないトランシーバーから笑みの雰囲気が漂っている気がした。この数年、刑務所の外で交わした女との会話の中では裁判官を除いて最長記録だ。ふと、中尉という名称が気になった。たしか、軍隊の階級だったはずだ。アーチンの管理っていうのは、軍隊がやるものなのか? 科学技術省とか、文部科学省とかでなく? ユーリはこれが軍事作戦である可能性を考えた。もしかしたらいま指示を出しているやつらは中国のスパイで、移民二世のユーリを犯人としてでっちあげようとしている、とか。しかし、司法取引の現場で裁判官と契約を交わしたし、あれが中国のスパイだったらこの国はもう終わりだ。これはやはり自衛隊の軍事作戦で、ユーリがいま参加させられてるのは国家の闇的な何かなのだろう。
三層目のゲートはアーチンの真反対にあり、廊下をぐるりと半キロほど歩く必要があった。走れとは言われていないので、のんびり歩いていく。と、どこから「カン」という音が響いた。足を止めて耳をすました。アーチンからは全員退去と聞いている。もともと無人でも数年は動き続けるはずの施設だ。警備や清掃用のロボットがいるかどうか、確認した覚えはないが、たぶんいるんだろう。仮説を確信に変えるためにもう少し待つ。廊下はしんとして、ほどよくコントロールされた空気の動きが感じられるほどだ。モーター音のようなものはほとんどしない。一歩踏み出すと、スニーカーがキュッとなる。静寂の中で先ほどの金属音を待ったが何も聞こえなかった。ユーリは自分を鼓舞するようにフンを鼻を鳴らして笑顔を作ると、廊下を進んでいった。
最後のゲート3は他のゲートよりも大きかった。なにより、周囲にある機械のものものしさがまったく違う。初見で操作方法を理解できそうにはなかった。ユーリはふたたびトランシーバーを取り出した。
「利用方法がわからない。指示をくれ。オーバー」
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