佐川恭一、あるいは置き去りにされた性欲の純烈

高橋文樹

評論

3,076文字

佐川恭一という作家をあなたは知っているだろうか。もしまだ聞いたことがないのであれば、本論はそのよき道しるべとなるだろう。

佐川恭一は童貞と学歴について執拗に書き続けている。しかし、スクールカーストの底辺といっていい登場人物たちへ向ける作家の眼差しは、単なる自己憐憫のそれではない。というのも、佐川恭一本人は童貞でもなければ低学歴でもない——それはプロフィールの冒頭を飾る「京都大学文学部卒。」というシンプルな体言止めから察することができる。それに、twitterではあっけらかんと幼い子供についてつぶやいてもいる。それでは佐川の書く言葉は勝ち組の高笑いの残響を残しているだろうか? いや、それも違う。本論では佐川恭一がありふれた題材を取り扱う時の手法について、ぼったくりのピンサロへ走る31歳の青年のように軽やかな論旨で明らかにする。

免責事項

筆者は実のところ、確かな文芸批評の教育を受けていない。また、この文書を書いているのは11月25日の午前2時、5時間後には起きて文学フリマへ向かう準備をしなければならない。タイトルもなんか作家論っぽいかなと「あるいは」とつけているだけであり、「純烈」という言葉にもさしたる意味はなく、ワイドショーに出ていた同名のグループが紅白出場内定を勝ち取ったというニュースを数日前に知っただけである。

筆者が知ってもらいたいことはただ一点、佐川恭一の最新作「童Q正伝」が掲載されている破滅派14号を通販、あるいは文学フリマ東京で購入してもらいたいということである。

佐川恭一と学歴

繰り返しになるが、佐川恭一は京都大学を卒業している。したがって、日本における学歴としてはトップレベルといってよいだろう。筆者は大学入学後、全国模試の順位表を暗記している友人が「〇〇君は××模試で一位を取ったらしいよ」と発言しているのを見て、「こいつキモいな」と思ったのをよく覚えている。ウィトゲンシュタインの名言「登り終えた梯子は捨て去らなければならない」で思い出したのもその友人だ。しかし、大学受験のヒエラルヒーに囚われたままその後の人生で一歩も前に進まないような人間というのは、実際に存在する。佐川はこうした世界内存在を偏執的に描写する。

私は洛南高校三類A(※1)というコース――現在その名称は消滅している――の卒業生で、周りのやつら は洛星(※2)とか東大寺(※3)とか大阪星光(※ 4)とか堀川(※5)とか膳所(※6)とか言ってい た。私は実は東大寺学園とラ・サール学園(※7)に も合格していたから、大抵の高校には落ち着いて対処 することができた。見たところ灘(※8)や開成(※9) や筑駒(※10)はクラスにいなかったので、私は「マ ックスで東大寺やな」と胸を撫で下ろしたものだ。

「童Q正伝」

これらの註はさらに偏執的に書かれる。

※8 灘 関西最強の私立高校。「灘」と聞いただけで赤本にサインをもらおうとする者もいる。筆者の主観では、集団が何らかの無謀な目標に向けて「やってみなきゃわかんねえだろ! やったろうじゃん!」的な盛り上がりを見せているときに、「え、 絶対無理。物理的に無理」と言ってホワイトボードで無理さを証明し始めるやつがいたら、その男は灘である。

ibid. cité

50年後にボルヘスのような作家がもし存在したら、この分類を興味深くコレクションに加えることだろう。「童Q正伝」ではこうした註が10項目にも及ぶ。また、同書に限らず、佐川は京都大学、あるいは予備校内における高校の序列について執拗に描写する。つまり、佐川が扱う学歴とは、中卒や高卒といったことではなく、偏差値70以上の世界における差異と反復を主題にしていると言えるだろう。

童貞が掴むチャンス

佐川は童貞を多く取り扱いながら、実のところ、そのうちの幾人かはたやすく童貞を捨てることができる。あるいは、主人公がそれこそ村上春樹ばりにセックスをする(ref. ナニワ最狂伝説ねずみちゃん)ことさえある。ただし、最初の性行為が自己あるいは他者との間にたやすく発生するのに比べ、二回目以降の継続的な関係を築くことはけしてない。「童Q正伝」においてもその傾向は顕著で、鴨川の河川敷で少しエロそうな同級生のサダさんに「童貞、挿れていいぞ!」とまで言われた「私」もそうだし、『サークルクラッシャー麻紀』の部長と麻紀にも類似した関係が見られる。

換言すれば、佐川の作品に「無理めの女」はあまり出てこない。白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶり、長野か群馬あたりの河原で足を浸して「ひゃっ、冷たい!」というような女はけして出てこない。佐川作品のヒロインはいつでも頼めばやらせてくれそうであり、しかしその関係に再現性がない。

このヒロイン像は、明らかに村上春樹「ノルウェイの森」に登場する小林緑である。佐川作品では、「ノルウェイの森」における「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」の下りからの緑と「僕」の関係性が息苦しいほど反復されている。

有名人への素朴な憧れ

佐川作品において、有名人への素朴な憧れが描かれる。『シュトラーパゼムの穏やかな午後』における「ワタヤリサ」のあられもない痴態、そして、「童Q正伝」において発露する「ハアテュウ」への素朴な欲情。

ハアテュウがビデオに出演し、ベテランの手練手管に身悶えし、浣腸されてうんこを吹き出すとともに絶頂を迎え、汚物まみれで快感の残響にのたうち回り、「はは、すっげえ震えてんじゃん」と罵倒されるところ を、二時間分ほどのストーリー付きではっきりと想像することができるのだ。こんなに幸せなことはない。今、私は気の向くままに筆を走らせた結果、童Qの正伝を 書く気をさっぱり失っているが、はじめに宣言したこ とを守らないというのは信義に悖ることであるから、しぶしぶではあるが、童Qの話を始めるとしよう。

ibid. cité

「私」はあくまで想像するだけだ。そして、あまつさえ感謝し、もともと書こうと思っていたことを忘れる。佐川のこの素朴さは、筆者に高校の同級生Bくんを思い出させる。あれはたしかシンガーソングライター倉木麻衣が登場したばかりの頃、筆者の大学生時分だ。誰もが「宇多田ヒカルのフォロワーが出てきたぞ」と思っていた。洋行帰り、ハイティーン、ブラックミュージック……そういった要素についてどう思うか確かめるために「倉木麻衣ってどうよ」と尋ねると、徹マン中だったBくんはまっすぐな瞳で「やりたいっス!」と答えた。筆者が訪ねたのはそういうことではなかったのだが……。B君はその後も倉木麻衣とどうやったらやれるかについて熱弁しながら負けを重ねていた。ついには雀荘のおばさんが店のシャッターを閉めるガラガラいう音を聞いて「うわっ、誰かがスパンキングしてる音かと思った!」とはしゃいでいた。

佐川作品における芸能人への素朴な憧れは、前述する「エロそうな同級生」と並立する。まったき純真無垢な瞳で性欲を歌いながら、身近なチャンスを棒に振り真顔になるのだ。

結語

このように、佐川作品においては共通のモチーフが繰り返し現れる。「偏差値70の差異と反復」「やれそうでやれない小林緑」「芸能人への憧れ」だ。しかし、それはマンネリズムとは程遠く、深化していく。進学校の差異は残虐なほどつまびらかにされ、エロい同級生との関係は切なくも冷え切っていく。憧れの有名人はもはや想像の中でしか痴態を見せてくれない。

なんでも、佐川はいま新たな童貞短編集を準備中とのことだ。こうした深まりを結実した作品集がどのようなタイトルになるのか、楽しみに待ちたいところだ。

2018年11月25日公開

© 2018 高橋文樹

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