良いデイヴィッドは死んだ

アンチナタリストIからの手紙(第2話)

高橋文樹

エセー

3,451文字

良いデイヴィッドは死んだが、悪いデイヴィッドは生き残った——前者は20世紀を代表するロックスター、デイヴィッド・ボウイであり、後者は21世紀を代表する反出生主義者、デイヴィッド・べネターのことである。本稿では、2020年現在の反出生主義隆盛の中心的人物であるデイヴィッド・ベネターの著書『生まれてこないほうが良かった』を紹介するとともに、反出生主義とはなんであり、なぜ私はそれに興味を持つかについて説明する。

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』(すずさわ書房、2017)では、七章に渡って次のような「そもそもあらゆる人間は生まれてこないほうがよい」という主張がなされる。

  1. 序論
  2. 存在するようになることが常に害悪である理由
  3. 存在するようになることがどれほど悪いのか
  4. 子供を持つということ:反出生的見解
  5. 妊娠中絶:「妊娠中絶産生派」の見解
  6. 人口と絶滅
  7. 結論

原語(英語)で2006年に出版された本書はベネターの発表した論文をまとめたものであるが、純然たるトンデモ本ではなく、学術誌に採択された論文からなる哲学書である。

ベネターの主張の根幹をなすのは、本書の第二章で語られる非対称性理論、つまり「生まれてくることは良かったり悪かったりするが、生まれてこないことは少なくとも悪くない」という理論にある。それゆえに「生まれてこない方がよい」というわけだ。次のような図が有名である。

ベネターの述べる不均衡

生まれないことは「悪くない」とベネターは解説する。

ベネターは「存在することがいかに悪いことか」を主張したのち、「人間はこれ以上増えるべきではない」「背極的に中絶すべきである」と論を展開し、「人類は絶滅すべきである」と論を結ぶ。ベネターの主張自体は論理立っており、最初の論文(第二章)発表以降に寄せられたであろう批判にも丁寧に反論している。反出生主義自体はベネターの発明ではない——反出生主義を「バズらせ」たのは明らかにベネターの功績である——ため、先行研究への言及も豊富だ。

さて、本稿ではベネターの論理自体には細かく反論せず、その紹介にとどめる。それよりもまず、私がなぜ反出生主義を取り上げるのかを説明したい。

反出生主義との出会い

私が反出生主義と出会ったのは十年以上前のことだ。この連載「アンチナタリストIからの手紙」というタイトルにもあるとおり、友人Iから教えてもらったのが始まりだ。Iは2010年より以前から反出生主義について私によく語っており、ベネターの名前を具体的に挙げていたかどうかは覚えていないのだが、電話越しに昏い熱を伝えてきた彼の声をよく覚えている。

そもそも私は反出生主義とは縁遠い。「生まれてこないほうが良かった」と思ったことは実のところ一度もない。人生に辛いことがなかったわけではない。ただ、それらの困難は原理的に解消可能であり、「まあうまく行ったり行かなかったりするだろうがそれもまた人生」という楽天家としての性根の方が上回っていた。それどころか、年を追うにつれて彼の哲学の深まりと私の人生の興味は逸れていった。

方向性の違いが決定的になったのは、私が父になったときだ。20世紀の重要な反出生主義者エミール・M・シオランが「あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて」とまでいったほどの重罪を私は二重に犯したのである。私のはじめての子供たちは男女の双子だった。一人っ子政策のある中国では「龍と鳳凰が生まれた」と言われるほどの吉事だが、その苛烈さは生半ではない。私ははじめて親になった「素人」であるにも関わらず、その負担は二重にかかってきた。二人の赤子は交互に夜泣きをし、私は早朝の五時に子供を抱いてゆらゆら揺れながらソチオリンピックのスノーボード種目をほとんど見たことをよく覚えている。

そうした日々の中で深夜にIから電話がかかってきた。真夜中、友人に悩みを吐露する——そんな行為を常に受け止められる人間でいたいとは思っているが、単純な体力的な限界というものがある。また、何よりも受け入れ難かったのは「生むことはよいことなのか」という問いだ。いままさに生まれたばかりの命をやっとの思いで寝かしつけた私に対して「その命を生むべきではなかった」というのは正しいのか? 親になることの加害性? あくまで一般論かのような口調ではあるが、「おまえが産んだ子供は生まれない方がよかった」と主張されなければならないほどの加害を、私はIにしただろうか?

私は常々、こうした「主張することの無害性」について懐疑的だ。「生まれてくることは良いことではない」という主張自体はありえるだろう。いまのところ、「生まれてくることは絶対に良い」という証明は私の知る限り存在しないからだ。だがそれを、疲弊し切った新米の親に言うことは正しいのだろうか? そして、反出生主義の主張それ自体に加害性の期待値が高いという性質が備わっていないだろうか? フロントガラスが真っ黒でブレーキのついていない車のように。

なにはともあれ、以上が私の反出生主義との出会いである。

反出生主義の興味深い点

最悪の出会いを果たした私が、なぜ何年にも渡って反出生主義という思想について興味を持ち続けているのか。いまでも四人の子供を持つ汎出生主義者である私が、ほとんど敵対的な立場にある思想に関する本を何冊も読んでいるのか。それには幾つかの理由がある。

1. 友人が長年取り組んでいる課題であるため

二十年来の友人が真剣に取り組んでいることについて興味を持つのはそれほどおかしいことではないだろう。Iが私に語った幾つかの主張は、賛同はしないが、興味深いものがあった。彼が長年こだわりつづけてきた主題は私と縁遠いものではありこそすれ、確固たる他者の思考の成果であるには違いない。

他人の築き上げた一風変わった建物を見てちょっと中身を覗いてみようという好奇心なのか、それとも他者の思考が私に伝染したのかはわからない。ただ、少なくとも一人の人間を捉えて離さない思考にはなにがしかの魅力があるのだろう。

2. 子供たちが将来抱くかもしれない疑問に答えるため

4人いる私の子供たちは将来、私に対して「なぜ産んだのか」という不平を漏らすかもしれない。私には親としてその回答を用意しておく義務がある。岡田育という編集者は「多産はそれ自体がDVだ」というツイートをしているが、私は経済的理由で子供たちの将来を限られたものにするかもしれないし、愛情の偏りによって「自分だけは愛されなかった」というスティグマとして与えてしまうかもしれない。そのリスクが普通の家庭より高いことを私は否定しない。

お父さんお母さん、産んでくれてありがとう——それと同程度に「よくも産んだな!」と恨まれる可能性は高そうだ。

3. 拡張された人権の概念に興味があるため

人権の概念は拡張しており、たとえばペットの人権(ペットショップは多くの先進国で禁止されている)、家畜の人権(ヴィーガンを見よ)、環境の人権(クリストファー・ストーン)といったものが挙げられる。その際たるものが「存在しない人の人権論」である反出生主義である。明らかに一つのトレンドといってよいだろう。

この「人権の拡張」はなにも今に始まったことではない。たとえば、子供の権利がそれだ。古来より、子供は「小さい人間」でしかなかった。端的に事実として小さい人間だからだ。しかし、私たちはいまでは「子供は庇護されるべき存在である」という常識が存在している。アフリカのカカオ農園で働く子供達にその権利が保証されているかは疑わしいが、少なくとも18世紀のイギリスの炭鉱で働く子供たちが持っていなかったものを、私の子供たちは持っている。

私の思いも寄らないものに人権が与えられ、そしてそれが普通になっていくだろう。

4. (私が)支持しない思想でも精緻化されていくため

いろいろなパターンがある反出生主義のうち、ベネターの主張はその精緻さにおいて際立っている。歴史上多く存在した反出生主義者(シッダールタ、ショーペンハウアー、シオラン)と比較すると、その主張を説得的なものにしようとしている点において顕著だ。論文という体裁もそうだし、目的がはっきりしている。

かつて私は「悪い奴ほどよくググる」というエッセーで悪の賢さについて書いたが、反出生主義者の理論の深まりにも似たものを感じている。繰り返しになるが、私は反出生主義を支持していない。「生まれてこない方が良かった」と思ったことはないし、「誕生は所与のものである」というプラグマティックな考え方をしている。他の人もそう思うべきだとまでは考えないので、反出生主義者を「転向」させようとまでは思っていない。だが、それゆえに反出生主義を意識して注目すべきだとも考えている。

熱心な反出生主義者はその思想を達成すべく議論を重ねており、それが精緻化した末に一定の説得力を獲得する可能性は高い。

以上の4点が反出生主義について取り上げる理由である。今後は個別の反出生主義や反論者などを紹介していく予定だ。

2021年4月1日公開

作品集『アンチナタリストIからの手紙』第2話 (全3話)

© 2021 高橋文樹

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