作ペニー・レイン
大洪水は神が人を造ったことを悔やんで起こしたものとされています。その中でもノアは義人で科なきゆえに方舟を作るように言われたと信じられていますが、ノアの人柄に関してはこんな異論があります。
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ノアは信心深くはありませんでしたが、義理固さという点においては人後に落ちることがありませんでした。彼は生まれてから一度も約束を破ったことがありませんでしたし、なにより驚くべきは、とても果たせそうもない約束さえも引き受け、なおかつ達成してしまうのです。農具の修繕を頼まれれば、冶金の知識がなくても一から学んで必ず成し遂げました。
そんな彼の並々ならぬ業を見て、誰もが彼の噂をしました。ノアはどうやら神の祝福を受けているらしい、彼が歩くと道に光が差したようになる。いやいや、あれは悪魔に魂を売ったんだ、見ろよ、あの影、翼の生えた化け物に見えないか? 善きにつけ悪しきにつけ、ノアの名前は町で有名でした。
しかし、ノア自身は自分を人並み外れた存在だなどと微塵も思っていませんでした。それどころか、自分があらゆる約束を破らずにいられるのはただ義理固いからであり、人間として当然のことだと考えていました。そして、これが彼の魂が必ずしも美しくないことの証拠なのですが、義理固くない他の人々を心の底から軽蔑していました。
そんなノアですから、あまり人好きもせず、人々の中には彼を馬鹿にする向きもありました。彼らはやっかみ半分、ノアのことを悪しざまに言います。奴隷みたいだの、人に良く思われようとしているだの……。とくに彼らはノアの風貌を馬鹿にしました。ノアはでっぷりと太っていて、身体も他人の倍するほど大きく、体毛が熊のようにたくさん生えていました。「ほしがり熊さん」というのは、ノアの蔑称でした。
しかし、ノアはそんな約束など気にかけず、一つ一つ約束を守っていきました。もちろん、胸の底には軽蔑を秘めたままで。
「ふん、たしかに俺は熊みたいだがな、約束は守るんだ。おまえらが頼みごとをしてきたら、俺は聞いてやるだろう。だが、心の底では恥知らずめと軽蔑してやるのだ」
ノアは独身で、もう齢六百を超えていました。彼の顔は日に日に暗く、醜いものになっていきましたが、一向に約束は破りませんでした。
そんなある日のこと、ノアは夢の中で不思議な光景を見ました。雨が四十日と四十夜ものあいだ降りつづき、世界のすべてが洪水に押し流されてしまうのです。それは神々しくもあり、またぞっとするようでもありました。
ふだんは人と進んで話すことのないノアでしたが、たった一晩の夢の中で四十日と四十夜もの長い時間を経験したことが不思議でたまらず、子守りを頼みに来た女に尋ねました。すると、その女も同じ夢を見たというのです。
ほどなくして、町の人すべてが同じ夢を見たことがわかりました。世間話はその夢の話題に限られ、思い思いの解釈が囁かれました。
「あれは恵みの雨が降るって証拠だよ」
ある人はそう言いました。たしかにその町のあたりは雨が少なく、日照りの時期も多いのです。
「いやあ、そうじゃない。あれは鉄砲水が来るというお触れさ。そうすりゃ豊作続きだ」
と、別の人は言いました。たしかに、このあたりは水が少ないのですが、遠くにある大河がときどき氾濫し、肥沃な土壌をここまで運んでくれるのです。
「いやいや、見たままに解釈してはならぬ。あれは悪が一掃され、平和が訪れるというお触れじゃ!」
町の神父はそう言いました。この意見は町の賢い人々に受け入れられました。とくに、見渡す限りに満たされた水の一片の乱れもない様子は永遠の平和を暗示している、というもっともらしい解釈は、この説の信憑性を高めました。
諸説紛々でしたが、あの夢は総じて神のよき御業であるとされました。人々は恩恵ばかりを期待し、なにも果たさずによくなることを望んでいたのです。ノアはあの夢の光景に寒々しいものを感じていましたが、はっきりしないことに労力を割くのは嫌なので忘れてしまうことにしました。
しかし、一人だけ異を唱える者がいました。町の片隅にある糸繰小屋の娘です。彼女は裸足のまま町を練り歩き、狂ったように叫びつづけました。
「悔い改めよ! 裁きはすでに下された! すべての悪は洗い流される! 逃げる場所はどこにもない! 悔い改めよ!」
その娘は人々から石を投げつけられました。せっかくの希望を悪く取るとは何事だ、というわけです。しかし、ノアは彼女をかばいました。とある約束のせいです。
天涯孤独のその娘はディナといい、幼い頃に母を亡くしていました。母は身体中に腫瘍ができる病気にかかって死んでしまいましたが、いまわのきわ、この娘になにかあったら頼むとノアに言い残してあったのです。ディナの瞳は真っ白で光さえも見ることができませんでしたが、糸繰の業に優れて真面目だったために、ノアもいままで手を貸すことはありませんでした。
しかし、こんな風に狂ってしまえば話は別で、約束を果たす時です。
「さあ、うちに来なさい。人々はおまえを傷つけようとする。しばらくしたら、みんな忘れるから、それまで我慢だ」
ノアがそう宥めすかすと、ディナは激しく首を振りました。まもなく洪水が起きてすべての生き物は滅びる、そう言って聞かないのです。だったらどうすればいいのだと問い返すと、ディナは無茶なことを言い出しました。
「糸杉の木で方船を造ってください。中を仕切って部屋にして、三階建てにするのです。中も外もタールで塗り固めなくてはいけません。長さは三〇〇キュビト、幅は五○キュビト、高さは三○キュビトです。天井には窓を設け、入り口は側面につけるのです。そして、中にあらゆる生き物のつがいを入れてください。半年分の食料もです」
教会が二つも入るような大きさです。とても一人ではできそうにありません。しかし、約束は約束です。ノアはさっそく仕事にとりかかりました。
幸い、ノアはその長い人生において、何度も船を造ったことがありました。手順はわかっていました。困ったのはその大きさです。一本の糸杉の木を切り出すだけでも一日がかり、それを巨大な方船を造るのに必要な分だけとなると、それだけで一年近くかかってしまいます。しかも、すべての生物のつがいは新しい世界での祖となるので、船内でも安全にしてやらねばなりません。獅子と山羊を同じ部屋に入れるなど、もってのほかです。部屋数は膨大な数が必要でした。他にも飼葉桶や、鳥類のための止まり木など、作らねばならないものは山ほどありました。食料の確保だって、並み大抵の努力ではありません。
夢の光景に怯えることのなかった町の人々は、ノアのはじめた仕事を笑いました。ほしがり熊さんは自分だけの家畜小屋を作ろうとしている、いやいや、あれはかわいそうに騙されたんだよ……。
しかし、嘲笑もやむ時がきました。はじめはぱらぱらと降り始めた雨が三十日も降りつづいて豪雨になると、人々はディナの予言が当たるのではないかと、不安に駆られたのです。ノアが方船を造りはじめて一年がたとうとしていた頃です。折りよく、彼はその前日に一角獣の雄を捕まえ、すべての動物のつがいを揃えたところだったのです。準備は整っていました。
それまではノアを気違い扱いしていた人々も、方船に乗せてもらおうと必死です。我先にノアの家に馳せ参じ、歓心を買おうとします。しかし、ノアは方船に乗せる人間のつがいを決めてありました。彼とディナです。
人々は殺し合いをはじめました。ノアが乗せてくれないのは人間が多すぎるからだと思ったのです。しかし、その醜い姿がかえって神を怒らせたのか、空全体が落っこちてきたかと思うほどの大雨が降り注ぎ、ついに大洪水が訪れました。
争いあう人々をおいて、ノアはすべての動物のつがいを方船に導きいれました。そして、最後に入り口と天窓を閉めようとしたところ、大変な過ちに気付いたのです。外開きの天窓には把手がついておらず、中から鍵を閉めることはできないのでした。
このままでは高波に飲まれた時、船は浸水してしまいます。誰かが外から鍵をかけねばなりませんでした。とはいえ、もう洪水は船の甲板を覆い尽くさんばかりの高さになっていました。
「駄目よ、私一人では人間の祖となることなんてできない!」
ディナは泣き叫びました。彼女は自分を信じてくれたノアに対し、並々ならぬ愛情を抱いていたのです。
「約束は約束だ。きちんと守る」
ノアはそう言い残すと、自分が外に出て、扉を押さえました。もともと洪水の上に浮くことだけを目指して造られた船なので、掴まるところがありません。ノアはうつ伏せになると、ほとんど平らな甲板にしっかりと爪を立てました。
雨は四十日と四十夜も降りつづき、その勢いを増していきました。雨粒は凄まじい勢いでノアの身体を打ち、まるで石礫のようです。波は高々と舞い上がると、邪悪な蛇が首をもたげるようにして、ノアの上から降りかかりました。二〇キュビトはある崖から飛び降りたような衝撃で、身体がバラバラになってしまいそうです。それに息も続きません。大気の中を大粒の雨が舞っていて、上からも下からも雨が降っているみたいなのです。水中にいるようでした。ほんの一瞬、風向きが変わるときだけ呼吸をすることができました。
やがて雨が止んでも、洪水は長いことその勢いを失わず、方船は激流に投げられた木の葉のようにあちこち流されました。水中をひっくりかえったり、高波に洗われたりするので、天窓を開けるわけにもいきません。ただじっと耐えていたのです。
どのぐらいノアがそうしていたでしょうか? なんと百五○日です! それだけたって、やっと洪水は静かになったのでした。
ノアは天窓を開けました。そして、方船の最上階にいた鴉を捕まえ、ときはなちました。鴉はうろうろと飛び回りましたが、止まる場所を見つけることができずに戻ってきました。そんなことを何度か繰り返したのち、ついに一羽の鳩がオリーブの枝を持って帰ってきました。洪水は引いたのです!
方船はとある山の中腹に辿り着きました。ノアは天窓を開け、動物たちをときはなちました。どれもこれも、疲れきっていました。
まず、鳥たちが飛び立っていきます。隼も雀も、あい争うことなく、フラフラと峻厳な山々の頂きを越えて飛んでいきます。次に四足の動物たちです。彼らもまた、鳥たちと同じように、お互いに争うことなく、疲れたように首をもたげて出て行きました。かけおりて行きました。ずっと過酷な試練に耐えたノアにとって、彼らはなんだかだらしなく見えました。
さて、最後に一角獣のつがいが出て行ったあと、ディナが出てくるはずでした。しかし、一角獣の雌が一匹出てきたきりで、その後が続きませんでした。
「おうい、雨はやんだぞう!」
呼びかけても、ディナの返事はありません。不思議に思いながらも一階まで降りて行くと、そこにはなんと、人間の男がいました。そばにはディナが申し訳なさそうに座っていて、大きなお腹を抱えています。
「なんだ、貴様は? おい、ディナ、どういうことだ」
彼らが答える前に、ノアはすべてを理解しました。そばに一角獣の生皮が転がっていたのです。この男はノアがあれほど苦労して捕まえた獣を殺し、それになりすまして方船に忍び込んだのでした。しかも、ディナをてごめにし、うまうまと人類の祖となりおおせたのです。
しかし、ノアが驚いたのは、たった半年のあいだに言葉が通じなくなっていることでした。男はうつ向いてブツブツと、ディナはノアの膝にすがりついて弁明じみたことを言っているようでしたが、ノアにはその意味がわかりませんでした。彼らもまた、ノアの言葉を理解できず、戸惑っているようでした。
それでもノアは絶望しませんでした。ただ、自分にこう問うただけです。俺は約束を守っただろうか?
答えは明らかでした。ノアは秘かな満足を覚えると、軽蔑をたっぷり含んだ口調でこう告げました。
「さあ、おまえたち、外に出なさい。そして、地に満ち、子を産み、増えるがいい」
人間のつがいはノアの声に怯えていました。しかし、その大意は伝わったらしく、二人で手を携えて、すごすごと方船を後にしました。ノアは方船に残り、そこで余生を過ごすことに決めました。
それからノアは三百五十年も生きました。生き残った人間たちは、世代を追うごとに寿命が短くなっていき、ノアが死ぬ頃にはもう五代をへていました。その頃にはもうノアのことは間違って伝わっていて、方船の漂着した山は、六枚の翼が生えた恐ろしい悪魔の住む山として恐れられていました。
世界を救ったノアがどうしてそんな目に遭わなくてはならなかったのか? それは人々の恩知らずのせいだというのは間違いありません。他にも原因があるかもしれません。ほんのわずかな誤解の積み重ねだったり、他人にわかりやすく話すことの煩わしさだったり、約束を守ることの息苦しさだったり……。ただ、ノアには責められるべき点など一つもなかったということだけは確かです。
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