作 ペニー・レイン
これまで数々の預言者が神のみ言葉を伝えてきました。ある者は迫害され、ある者は尊敬されと、その扱いはさまざまでしたが、精霊に撃たれたように語りだす預言という行為が畏怖の対象であったことは異論がありません。が、そこにもやはり、例外というものはあるのです。
*
預言者アミタイの息子であるヨナは、その天才を嘱望されながら、預言というものを蛇の足ほども信じていませんでした。父親の預言でさえもです。
何度か預言の下される場に居合わせたことはあります。というのも、ヨナは父アミタイの伝道の旅について回っていたからです。体をぶるぶると震わせて、瞳をあらぬ方向にぐるぐると動かしながら、蛸の体のように脈絡のない話を紡ぐ口は泡を吹きました。それはそれは崇高な瞬間でした。まるで、神の病にかかったようでした。
熱狂する観衆を尻目に、幼いヨナは歳にそぐわない、冷たい眼差しを父アミタイに向けました。そして、こんなことを思うのです。
――ふん、父上ったら、あんな風に取り乱して、みっともないや。そりゃあ、少しは精霊に撃たれたように見えるけれど、女が取り乱したときと一緒じゃないか。ぼくはあれが預言だなんて信じないぞ。譫言や妄想となにが違うんだ。神様の存在を信じていないわけじゃない。それはこの胸に誓ってもいいんだ。でも、他人から見て虚言だか預言だかわからないようなものなんて、ぼくは好きじゃないな。神の御意志に沿った生き方をするには、ブツブツ言うんじゃなくて、行動で見せなくちゃ……。
はたして、ヨナはその決意を貫き通し、行動の人となりました。自分が正しいと思うこと、神の意に適っていると思うことを実現すべく、あらゆる困難に立ち向かったのです。
盲人の目を癒してやることができないのなら、街路に敷石をしいて歩きやすくしてやりました。死んだ者を生き返らせてやれないのなら、残された者の側に最後までいてやりました。誰からも嫌われた醜い娼婦には、ありったけの修辞学で美しいと言ってやりました。
寡黙に他者を愛するヨナの伝道は少しずつ人々の尊敬を勝ち得、成人した頃には、大聖者として近隣にその名を轟かせていました。寡黙な彼が説法をするなどという噂が立てば、はるかローマからも聞きに来る者がいるほどでした。
いつしか、彼こそが聖書に記された最後の預言者ではないかとの評判が高まりました。しかし、ヨナは言下にそれを否みました。
「私は預言者などではない。なぜなら、まだ一度も神の言葉を聞いたことがないからだ。私は私の信じること、それが神の意に適っていると思うことをやっている。それが私の信仰だ。神は無言で我ら人間を試されているのだ」
そして、彼は最後にこう付け加えるのです。その瞬間だけ、子供の頃のように挑戦的な表情に戻りながら。
「だいたい、あの預言というのはなんだね? これまで下されてきた預言というのも、おおかた嘘言だろうよ」
敬虔な信者たちは、鷲のように大胆なその瞳に怯えました。そして、もう少し謙虚になればノアやモーセを超える聖者になれるのに、と口々に囁き交わしました。
さて、ヨナが聖地エルサレムへ巡礼に行った帰りのことです。砂がちの質素な村で宿を借りて休んでいたところ、とつぜん暗闇の中で声が響きました。
「ヨナ、立ちなさい、ヨナ」
はじめ、誰かが部屋の中に忍び込んだのかと思い、なぜ自分を知っているのかと問い返しましたが、その声はどうやら頭の中に直接響いているのです。
「ヨナ、立って大いなる都市ニネベに行き、彼らの悪が私の前に達したことをふれ告げよ」
ヨナは大胆で屈しない性格でしたが、このお告げには怯えきってしまいました。寡黙な主がこのように語りかけてくるはずがない、これは悪魔の試練だ! そう思った刹那、窓の外に大きな影が見えました。六枚の翼がゆらゆらと揺れています。やはり悪魔の仕業だ! 怯えきったヨナは夜のうちに町を飛び出し、ニネベとは反対の方向にあるヨッパを目指しました。
わりあいに大きな港町であるヨッパに辿り着いたヨナはそこで数多くの善行を施しました。あの夜に聞いた悪魔の囁きは、もう聞こえてきません。ヨナは再び落ち着きを取り戻しました。
ところが、ヨッパを旅立とうとした前夜、またあの声が聞こえてきました。
「ヨナ、ヨナ、なにゆえに私を無視するのだ。立ってニネベへ行きなさい。そして、彼らの悪がまさに私の元へ達せんとしていることをふれ伝えなさい」
またしても窓の外には六枚の翼が揺れています。ヨナは飛び起きると、すぐさまニネベとは反対の方向を目指しました。おりよく、朝まだき港には一隻の船がありました。タルシシュへ向かう貿易船です。ヨナは船長に頼み込んで乗せてもらいました。
船は港を出てから三日目に嵐に遭遇しました。波をかぶるたびに船は大きく傾ぎ、転覆しそうになります。船倉にいたヨナは砂糖の詰まった麻袋の上でため息をつきました。
「ああ、私はこれほど悪魔に魅入られてしまったのか! 恐ろしいことだが仕方がない。無辜の船員たちを巻き込むわけにはいかない」
ヨナは船倉を出ると、船長に会ってこの大嵐の原因は自分だと伝えました。不思議がった船長はヨナにあなたはどこの誰でなにをしているのかと尋ねました。
「私は預言者アミタイの息子、ヨナです。聖地エルサレムからの巡礼の帰りでした」
ヨナの素性を聞いて、いたく感激した船長は、この大聖者をぜひとも守ろうと言い張りました。信心深い水夫たちは、誰一人反対しませんでした。積荷を捨てて、船を軽くしようと大合唱です。
「しかし、この大量の積荷を捨てたら大損害ですよ」
「心配めさるな。あなたのためなら惜しくありませんや。この船は頑丈ですから、軽くしちまえばどんなに波に打たれても大丈夫でさあ」
船長は言い終えるや、屈強な水夫たちに向かって命令を飛ばしました。大男たちは惜し気もなく積荷を海に投げ込みます。
無欲な船員たちの努力に腹を立てたのか、嵐はどんどん勢いを増していきました。船は前にも増して激しく傾ぎ、きいきいと悲鳴を上げています。竜骨の輾む不気味な音さえ聞こえてきました。空しく投げ込まれて行く積荷にただでさえ心を痛めていたヨナは、ついに叫びました。
「もうやめてください。これはすべて私が悪魔に魅入られたせいなのです。あなたたちの積荷が海に投げ込まれて行くのを見るのは忍びない」
ヨナはそう言って、嵐の吹き荒れる甲板へと上がっていきました。すると、船長が追いかけてきて、人身御供はくじ引きで決めようと言いました。積荷を失ってなお公平さを保とうとする船長の人柄に、ヨナはすっかり感銘してしまい、ますます迷惑をかけるわけにはいかないと、海へ飛び込みました。すると、不思議なことに海はすっかり穏やかになり、投げ込んだ積荷もスルスルと船の周りに戻ってきました。
さて、あてもなく海面を漂いはじめたヨナは、泳ぎがあまり上手ではなかったために今にも溺れてしまいそうでしたが、運良く流れてきた流木に掴まりました。そこは船の行き来が多い場所だったので、運がよければ見つけてもらえるかもしれません。ヨナはじっと待ちました。どんなときでも諦めない強い心の持ち主でした。
しかし、北国の樫の木のように強い心も、海中に大きな影を見つけると、くじけてしまいました。無慈悲なほど巨大な黒い影です。その影はどんどん迫ってくると、いったんヨナの下に潜り、それから急に上昇してきました。水の爆ける大きな音とともに、ヨナは山ほどもある巨大な顎が両脇に聳えるのを見ました。鯨です。ヨナはしっちゃかめっちゃかにかき回され、なにもかもわからなくなりました。
しばらくして、両手を動かしました。両の足もまだついています。しかし、なにも見えません。ヨナは自分が鯨に飲み込まれたことを理解しました。もう死は決まったものと思いこみ、自分のこれまでの生を見直しはじめました。
預言者の子として生まれながら、預言を信じなかったこと。奇跡に恵まれなかったが、できうる限りの善行を施したこと。これまでも神の道を歩んできましたが、ヨナにはまだやりたいことがたくさんありました。たとえば、自分のために積荷を犠牲にした船長のような義人を救うために、荷主みんなでお金を出し合って補填しあう制度を作ること。でも、それももうできません。
彼はその天才を用いて、自分の後悔を詩に託しました。
――暗闇の中にいた私に知識の光を投げかけてくれた神よ、私は今また暗い胎の中に戻りました。大水は私の魂の高さに達するまでになろうとしています。地の閂はすでに開け放たれて、すべてのことは取り返しがつきません。私もまた、生まれたのとは逆のやり方で命の澱へと溶け込んでいくでしょう。私を混沌から掬いだし、形を与えてくださった神よ、感謝します……。
いつのまにか、三日三晩がたっていました。ヨナは暗い胎の中で今まさに死なんとしていましたが、とつぜん光の中に投げ出されました。鯨が彼を吐き出したのです。
力なく溺れようとしていたヨナは、すぐに海岸に漂着しました。いったん気を失ってから目を覚ました頃には、人々が周りに集まっていました。
「ここはどこですか?」
言葉が通じるのか不安でしたが、いちばん近くにいた少年が明るい声で答えました。
「ニネベだよ! 大いなる大都市さ!」
ヨナはその偶然に驚きましたが、預言を信じるようにはならず、むしろ悪魔の執念深さに怯えるばかりでした。
ヨナの名前もさすがにここまでは届いていませんでした。しかし、一見して聖者とわかる彼は厚遇されました。やがて、町長だと名乗る男がやってきて、自宅を宿として使わせてくれることになりました。
「ここニネベは裕福な町ですからな。まあ、ゆっくりとしていってください」
ほどなくして、ヨナの名前が旅商人の噂によってもたらされ、ニネベの人々も彼を大聖者として知るようになりました。ただでさえ厚遇されていたというのに、彼はますます厚く遇されることとなったのです。
「ほら見たことか、あれはやはり悪魔のもたらした妄言だったのだ」と、ヨナは一人の夜に呟きました。「ここの人々は堕落とはほど遠い。明るく、快活で、なにより懸命に生きている。まさか、神がこのような人々を滅ぼそうとするはずがない」
ヨナはニネベの町でも善行を施すようになり、人々と触れ合うことで、その確信をますます強めていきました。しかし、そのうちニネベが他の都市と異なる点をもいくつか認めるようになりました。それらは一見して不道徳に見えました。
まず、ニネベの中心地にはたくさんの娼館がありました。軒を連ね、一つの街区をなしていました。その街区は城壁で区切られ、入り口には強そうな門番がいました。その娼区を目当てに遠くの町から訪れる人々もいました。
また、ニネベには子供の奴隷市場があり、その中でも屈強な子供は軍人に仕立てられました。エジプト人や、南方のヌビア人、西方のベルベル人、東方のヒッタイト人、極東のドラヴィダ人……。さまざまな民族の子供たちが売り買いされ、傭兵に育てられていきます。首に縄をかけられた子供たちは、みんな恨めしそうな顔をしていました。
もっともヨナを驚かせたのは、死者を蘇らせる反魂法でした。ナイル川の遥か上流よりももっと奥からもたらされたその業は、鶏の血や怪しげな香を用いるもので、悪名高いフェニキア人の幼児生贄の儀式に似ていました。ニネベでは邪教を信奉しているのかと尋ねましたが、これは儀式ではなく、立派な医術だという答えが返ってきました。
こういったニネベの特徴は、一見して神の教えに反くように見えましたが、ヨナは丁寧に道理を聞いて回りました。するとどの習慣にも、それなりに納得の行く理由があることがわかりました。
例えば、娼館の主人たちは口々にこう語りました。
「たしかに、姦通は悪いことです。が、他にどんな方法があるというのでしょう? 彼女たちはみな、捨てられたり、夫に先立たれたり、あるいは悪魔のような暴力から逃げてきたり、弱い女たちなのです。ここはそういう女たちの駆け込み寺なのです。できることなら養ってやりたい。しかし、寄付だけでは追いつかないのです。自然、彼女たちは自分でもできる仕事につくことになります。もちろん、全員が春を販いでいるわけではありません。一部の者が、他の姉妹を養うために進んで穢れているのです。ここでは娼婦たちが聖女のように尊敬されています」
それはたしかにもっともなことでした。救いの道を他に見出してやれないのなら、彼女たちを断罪すべきではありませんでした。
また、奴隷商人たちはこう許しを乞いました。
「この子供たちをむやみに奴隷として売っているなんて、とんでもない。絶対に叩き売りはしないのが決まりです。私は素性の知れた、徳の高い人にしか奴隷を売りません。儲けは微々たるものです。それに傭兵として売られれば、手に職がつくのですから、普通の奴隷よりずっといいのです。聖者様、もしも彼らを助けるもっといい方法があるとしたら、私にお教えください」
奴隷商人の言い分もまたもっともでした。他に救いの道はないのですから。
そして、反魂法を行う者はこう答えました。
「たしかに、私は邪教の徒に見えだろう。しかしね、これは立派な医術なのだよ。私はどんな異教の神にも誓いを立てずにこの業を行っている。あなたはあらゆる薬屋が看板に蛇を掲げる習慣を邪教だと非難するのか? 私は薬局に神の雷が落ちたなどという話を聞いたことがない。儀式めいたところがあるとしても、それは業の一環にすぎないのだ。それに、死者を地獄から連れ帰っているわけではないよ。いままさに死の帷に包まれようとしている人を呼び戻す術で、死んでから半日もたってしまえばもう無理なのだから。もしももっといい業があるのなら、私は喜んでそれを取り入れるだろうさ!」
ヨナは人々の話を聞くにつれ、こう判断するようになりました。
――たしかに、このニネベという町は、他の都市に比べて堕落しているように見える。しかし、よくよく話を聞いてみれば、それらはすべて理に適っているではないか。私はタルシシュで石を投げつけられる娼婦を見た。イスラエルでは主人に鞭打たれる奴隷を見た。ヨッパでは眠るように静かに死んでいく若者を見た。ここニネベには少なくとも、そういう悲しみがない。何事もうわべばかり見ていては駄目なのだ。
ヨナはニネベの町を大変気に入りました。雑多で混沌としていながら、人々は活気に満ちています。ヨナはあの声を信じなくてよかったと胸を撫で下ろしました。ニネベの悪が天に達しようとしているとは、とても思えなかったからです。ヨナは毎晩のように夢の中でお告げを聞きましたが、もう絶対に耳を貸しませんでした。
一月も暮らすうちに、ヨナはニネベがいつも曇りがちなことに気がつきました。日は差すのですが、曲芸師の逆立ちみたいに高い雲が消えないのです。上は雪のように白く、下は企み事のように黒いその雲は、ゴロゴロと不気味な音を立て続けています。かといって、豪雨や落雷があるわけでもありませんでした。ただ、消えることなく空に居座っているのです。
その雲を観察するのはヨナの日課になりました。なにかに似ているのですが、なにとは言い切れないのです。なんだろう、なんだろうと自問しつづけ、ある夜見た夢ではたと気づきました。その雲は神の姿にそっくりでした。ある町に裁きの雷を降らせようとしていながら、愛する聖者一人のためにそうできず、いらいらしている神の姿に。
"INTERLUDE 『粛清に関する異論』"へのコメント 0件