1章 日本橋の堕天使たち

東京守護天使(第3話)

高橋文樹

小説

17,061文字

警備員ルシ・フェル樹と作家志望の女の子ペニー・レインが交わす書簡体小説。日本の中心、東京都中央区日本橋で警備員のバイトをはじめたルシ。情熱に満ちた彼を迎える無気力な警備員の面々とは。

Tue, 2 May 2006 14:04:19 +0900

SUB : 前略、ペニー・レイン。

やあ、元気かい? うちもついにインターネッツを導入したよ。これまでは漫画喫茶でパソコンを見ていたからね。余計な出費が減って嬉しいよ。

しかしね、ぼくはここで、ペニーにとって残念な発見をしてしまったよ。君はたしか、漫画を読まなかったろう? だから知らないと思うんだけど、かなりショックなニュースだよ。

あの『行け! 稲中卓球部』の古谷実が常駐警備員を主人公にした漫画を始めてしまったよ。タイトルは『わにとかげぎす』だって。主人公の設定がけっこうリアルなんだ。

まず、すごくよく寝る。

これはぼくとまったく一緒だよ。とばぎんビルに監視カメラがあって、古谷実オフィスとリンクされてるんじゃないかと疑ったぐらいだ。自慢じゃないが、ぼくもとばぎんビルのボロい警備室でグースカ寝てるからね。どこでだって寝れるんだ。アスファルトの上だって、川原だって、はじめて会った人の家でだって。床が濡れてなきゃどこでもオーケーさ。

次に、夜勤中に筋トレしまくる。しかも、パンツ一丁で。

これまた完全にぼくと一緒だ。施設警備ってのはね、二十四時間オープンのテナントが入ってないかぎり、夜は人っ子一人いないんだよ。しかも、なにもしないでいると自分がどんどん磨り減っていくような気がするから、「身体ぐらい鍛えなきゃ、ウキッ!」ってなるんだ。ぼくもとばぎんビルにトレーニング用具を置いてるよ。懸垂用鉄棒、リフティング用サッカーボール、シャドウ打ち込み用の生ゴム紐……。その中でも白眉は、ベンチプレス用の棒だよ。重さは大したことないんだが、ちょうど喉元の部分に画鋲がついてる。落としたらアダムの林檎(喉仏のことさ)にブスッと刺さるって寸法。スリル満点の筋トレ。これはがんばれるよ。「警備の夜勤中に筋トレしてたら死んじゃいました」ってのは、宇宙開闢以来、もっともファックな死に方だからね。

以上、二点の類似を挙げただけでも、かなりリアルな漫画だってのがわかったろう? これはかなり強力なライバルだよ。

もっとも、君は小説を書くわけだし、『わにとかげぎす』の掲載誌は、ガマン汁だくだくの青年誌『ヤンマガ』だから、テイストはかなり違うかもね。

そうそう、漫画といえば、とばぎんにも漫画家志望がいるんだ。若い警備員はいま三人いるんだけど、そのうちの一人がギャグ漫画を書いてるんだ。彦ノフと言ってね、本人の方が作品よりも面白いんだ。前の手紙で書いた「秋元康似の四十歳」というのは、この人だよ。実はぼくより一個しか上じゃなくて、当時まだ二十四歳だったんだ。

実家がリッチだからだと思うんだけど、彦ノフはすごく穏やかな性格さ。今までの人生で一番腹が立ったのは、弁当を盗み食いされたことだってよ。まあ、食に対するこだわりは遺伝的なものかもしれない。祖先はアイヌ人で、しかも飢餓で全滅しかけた村の生き残りなんだと。少ない栄養で生き抜くDNAが受け継がれているんだけど、飽食現代ニッポンじゃそれも役に立たなくて、コレステロールが溜まりやすいらしい。普通に太ってるよ。

アイヌの血が流れてるぐらいだから、ちょっとエキゾチックだよ。二重瞼で髭が濃く、瞳の色も少し薄いんだ。もっとも、カッコよくはないんだ。小さい頃、イラン人との交流会で、日本人に英語で話しかけられたらしいよ。似てる有名人は喪黒福造かな。『笑ぅせぇるすまん』のね。

他にもなかなかスペッシャルなエピソードがあるんだ。たとえば、彦ノフは総合格闘技をやってるんだけど、アマチュアのトーナメントに出たとき、初戦の相手が女だったんだってさ。こりゃ余裕だと高をくくったら、相手が元柔道国体選手かなにかだったらしく、ボッコボコにされた挙句に肩を脱臼させられたらしいよ。彦ノフは八十キロぐらいあるから、かなり強い女だよね。神取忍かな?

あと、生来の絡まれ体質でさ、なにもしてないのに通りすがりのオッサンに怒鳴られたり、ヤンキーにケツを蹴られたりするんだよね。前なんか、新宿の焼肉食い放題行ったときなんだけど、ナイフ持ったシャブ中に絡まれたんだよ。いくら新宿が危ないったって、いきなりナイフを突きつけてくるジャンキーはあまりいないよね。手で払って事なきを得たけど、ギネス級の不幸体質だろう。ペニー、君も通りすがりのオッサンに「売女!」と罵られたことがあるんだろ? 案外、気が合うかもよ(付き合っちゃえ!)。

彦ノフは藤子・F・不二夫をリスペクトしてるんだ。彦ノフ本人の絵は、鳥山明と浦沢直樹を足して二で割った感じなんだけど、藤子先生の人間性を買ってるらしい。ほら、君は『ドラえもん』に出てくるジャイ子を知ってるかい? ジャイアンの妹で、「クリスチーヌ剛田」というペンネームを持つ漫画家なんだけど、本名がジャイ子なんだよ。ジャイアンは「剛田武」っていう本名があるのに、ジャイ子は「剛田ジャイ子」なんて変だろ? これを不思議に思った編集者が先生に尋ねたんだって。そしたら先生はなんて答えたと思う? なんと、「もしジャイ子に本名をつけたら、同じ名前の子が学校で苛められちゃうだろう?」だって! まったく、どんだけブッダなんだろうね。自分の影響力に対する自負と他人への思いやりが合わさった、一〇〇ブッダの意見だよ。それをリスペクトしている彦ノフもまた、七〇ブッダぐらいはあげてもいいね。

肝心の漫画の方は学生時代に月例賞を取って一〇万円貰ったきりで、芳しくないみたいだよ。以前、集英社の『ジャンプ』編集部に持ち込み行ったら、『ボンボン』行けって言われたって。ぼくも『コミックボンボン』が『コロコロコミック』に及ばないことぐらいは知ってるけど、児童雑誌に行けって言うのは、少年誌掲載を目指す人間にとって最大の侮辱らしいよ。

若いのといえばもう一人、Chanっていうのがいるんだ。彼は別に中国人じゃないよ。どちらかというと、宇宙人みたいなんだ。ロズウェル事件で捕まった「グレイ」みたいなね。ぺったりした猫っ毛で、目は毛筆の「払い」みたいな垂れ目だよ。ひょろひょろしててさ、体毛もないから、男らしさがないっていうか、もはやそれを通り越して、人間っぽくないんだ。

ちなみに、体毛がないのは生まれつきじゃなく、剃ってるからだよ。いったい効果があるのかどうかはわからないんだけど、毛がないとイヤらしくないから女の子の抵抗が減るんだって。「だって『少年ジャンプ』とかってヘアーを描いてねーじゃん」とはChanの弁さ。君にこんなことを書くのもアレだけど、男にあって女にないゴールデンボールのね、毛まで全部抜いてるんだ。理由はなんだと思う? 「女が舐めやすいように」だってさ。優しいんだか、優しくないんだか。フェミニスト憤激の超余計な御世話だよね。

体毛のないChanだけど、おそろしくハゲを気にしているんだ。四六時中乾燥ワカメを食べてるし、自家製のアロエ酒を霧吹きに入れて持ち歩いては、頭に吹きかけるんだよ。おかげでいつも酒臭いし、ウンコは宇宙人みたいな緑色だよ。パッと見は別にハゲてないんだけど、本人の気に仕方が凄いからさ、もうかける言葉がないよ。ちょっと上の方を見ただけで、「生えぎわ見たろ!」って大騒ぎなんだ。

Chanのハゲ理論では、三種類のハゲがあるそうなんだ。額からくるM字ハゲ、てっぺんからくるO字ハゲ、全体的に薄くなる全スカ。それぞれ原因が違って、例えばリアップはM字ハゲにしか効かないんだと。Chanの自己診断は「M+O+全スカ予備軍」だから、集中的なケアが必要なんだって。ちなみにぼくはハゲの心配がない「フサ」で、彦ノフは全スカの末期的症状「キウイフルーツの皮」状態を呈しているそうだよ。

Chanはお笑い芸人志望だよ。彼の場合、吉本のお笑い養成学校NSCとか、ああいうところには所属してなくて、我流なんだ。たまに公開オーディションを受けに行くんだけど、その芸風はシュールというか、あまり一般受けはしない。なんというか、「ハプニング」みたいな感じなんだ。知ってるかい? 寺山修二とかがやってた即興演劇だよ。そうだな、喫茶店に入るだろ? そこで普通に注文する。普通にコーヒーでも飲む。そこでいきなり劇を始めるんだ。刑事が異星人を取り調べるとかね。まわりの客は聞いててびっくりするだろ? それが「ハプニング」だよ。たいていは悪ふざけにすぎないんだけど、たまに物凄く面白いものができるんだよ。

そうだな、Chan史上最大のイタズラである「パンティしゃぶしゃぶ」について話そう。あれはね、Chanが高校時代の友達の家に泊まりに行ったときのことだ。その友達は彼女と同棲していた。ほら、若い同棲カップルってのはだんだん生活感丸出しになるだろう? Chanはその無警戒を狙い、干してあった彼女のパンツを鍋で煮ちまったんだ。そして、しゃぶしゃぶして写真に収めたんだよ。ペニー、想像してごらん。若いねーちゃんのド派手な紫スキャンティが鍋の中で煮られている様子を、しゃぶしゃぶされたスキャティがゴマダレにつけられている様子を。すっごくスペッシャルだろ? しかもね、スキャティを煮出した水は色落ちのせいでスミレ色に染まっていたそうな。なにも知らない彼女はその水を見て、「綺麗だね」と言ったそうだよ。

どうだい、これだけだとただ面白いだけだけど、うまくすればスゴいエンターテイメントになりそうだろう? だからぼくはChanにいっつも言ってるんだ。劇団を旗揚げしろってね。でも、彼は行動力がないというか、人の話を聞かないっていうか……いつもチンチン丸出しなんだ。もちろん、比喩的な意味でね。なんだか真面目な話が一切できなくて、世界にある大事なことをすべてやり過ごしてきたような人だよ。立哨勤務してるときもチンチン丸出し(比喩的な意味で!)だし、上司の呑海さんと話してるときもチンチン丸出し(もちろん、比喩的な意味!)だし、写真取るときもチンチン丸出しなんだ。今のくだりに(比喩的な意味で!)とつけなかったのは、実際にチンチンを丸出しにするからだよ。そういう記念撮影が面白いと思ってるんだ。

Chanは彦ノフと大学で同級生だったんだ。二人とも聞いたこともない美大の洋画科でね。怠けるためというより、それぞれの夢を叶えるための生活の場としてとばぎんビルにやってきたんだよ。はじめに入ったのが彦ノフで、次に入ったのがChanだったんだけど、Chanは「宇宙一楽なとばぎんビルに派遣されNINEだったら、ぼく入りません」って叫んだらしいよ。どんだけチンチン丸出し(比喩的な意味で!)なんだろうね。でも、それが彼の可愛いところでもあるんだけど。

彦ノフとChanとぼくは、ズッコケ三人組みたいなもんだと思ってくれるといいよ。いっつもトリオでいるからね。ぼくはいまいちキャラが立ってなくて、申し訳ないんだけど。

そうだ、ここでとばぎんビルに勤務する職種を教えとこう。四つしかないから、すぐに覚えられるよ。

 設備
現場の責任者。うちの会社は清掃・設備・警備の三点セットがウリで、そのすべてを統括する立場。いわゆる警備はしないで、ビルのメンテをしてる。二名。
 嘱託社員
警備の責任者。準社員より仕事が多い。いちおう定年があって、六十五歳まで。他の仕事を定年した人がやってる場合が多い。3人。
 準社員
バイト。定年もなく、仕事は楽チン。ズッコケ三人組はこれ。六名。
清掃
いわゆる掃除のオバさん。二、三時間働いては帰っていく。時間帯により、人数も異なる。六名。

以上、とばぎんビルの面々はこんな感じだ。ほんとうに小さいビルだけど、たくさんの人が働いているだろう? 世の中、色々あるって感じだね。一応、組織図をつけておくから、そのメロウな関係を嗅ぎ取ってくれ。注目は平均年齢の高さだよ。

 

01_組織図

ちょっとダラダラ書きすぎたね。この間のお手紙に繋がるよう、物語風に書こうか。

初出勤の朝、ぼくは総武快速線の激烈な通勤ラッシュに巻き込まれつつ、新日本橋へ向かった。ホームは地下深くにあった。空調から吹き付ける風は、長いダクトを通ってきたせいか、少し油っぽい匂いがする。しかし、ぼくは軽やかな気分でその階段を昇っていく。とばぎんビルの玄関まで続く地下通路を通って、つかの間、地上に首を出すために。

「おはようございます!」

元気一杯声を出す。呑海さんは「はい、おはよう」と優しそうな声で迎える。机に向かっていた獄寺さんは人殺し寸前の顔をくるりと向けて、「お、元気いいね」と微笑んでくれる。

警備室にはもう一人いた。油田さんという、これまた六十過ぎのおジイさんだ。この人はかなりの古株らしく、嘱託社員になる前はうちの正社員だったらしい。目がすごくパッチリしているから、童顔だ。しかも薄くなった頭に前髪がちょろんとはりついているから、キューピーちゃんみたいだった。

「ルシ・フェル樹です! よろしくお願いします!」

ぼくはぺこりとお辞儀をした。すると、油田さんは「オッ! 大卒のエリートが来たぞ!」と演技臭い実況調で返した。

「まだ未熟者ですが、色々とお願いします」

と、ぼくが挨拶したところで、獄寺さんが「あんまりお願いしない方がいいよ」と呟いた。それは油田さんの耳にも入ったらしく、少し険悪な雰囲気が漂った。ここにもダークサイドがあるんだろう。でも、触らぬ神にたたりなしだ。ぼくはスタコラさっちゃんとばかりにB2Fへ着替えにいった。もっとも、油田さんも獄寺さんも、触るための髪がほとんどなかったけれど。

さて、ペニー、物語の腰を折ってしまうけれど、ここでとばぎんビル警備の勤務表を掲載しておこう。調子こいてEXCELで作成した表だよ。

02_勤務表

 

平日〇九・〇〇~一六・三〇までの警備体制は嘱託社員一名と準社員二名だ。準社員の一人が早く帰れるのは、ちょっと変わった事情によるのさ。拘束時間は八・五時間だから、労働基準法に従えば休憩が一時間ないといけないんだけど、三つの現場を三人で回してるから、完全な休憩を取る時間がないんだよ。だから、一時間早く帰れるようにしてある。タイムカードは一七・三〇になると嘱託のオジサンが押しといてくれるんだ。こんなことが公然と行われているスペッシャルな現場なんだ。

で、その日、ぼくは彦ノフと一緒に日当勤務をすることになった。はじめだから、彦ノフを見て学べってことさ。

「まあ、すぐにできるようになるよ」と、彦ノフは言った。「世界で一番楽な仕事だからね」

勤務表を見ていればわかると思うけど、立哨(正面玄関で立って見張るフリをすること)は一回三十分、一日でもトータル二時間半だ。「Yahoo絶望街道」で十二時間立ちっぱなしだったことを思えば、楽なことこの上ない。しかも、彦ノフとくっちゃべっていても、特に怒られたりもしなかった。

三十分たって、本日もう一人の準社員、マユちゃんがB2Fから上がってきた。マユちゃんと言っても、女じゃない。真弓さんという、御年六十七歳のお爺さんだ。

「はい、立哨交代します」

マユちゃんは億劫そうに敬礼をした。肩が悪いらしく、体全体で腕を持ち上げるように挙手をする。ぼくと彦ノフが立っていたところに入れ替わりで落ち着くと、知らない国の置物みたいに見えた。

「マユミさん、大丈夫なんですか?」

と、一回目の立哨を終えたぼくは、エレベーターホールで声を潜めて尋ねた。

「大丈夫って?」

「警備できるんですか? だって、まっすぐ歩いてなかったですよ。今にも昇天しそうだったじゃないですか」

「ああ、大丈夫。マジで楽な仕事だから。それより、巡回行こうよ」

そう言って先を急ぐ彦ノフの後をついていった。スビュルルルーとドラえもんの歩行音が聞こえてきそうなくらいポップな歩き方の彦ノフを後ろから眺めつつ、ぼくはこの仕事のユルさに今さらながら感心していた。この巡回だって、九階から一階まで階段を下りるだけだ。東西に二つある階段を交互に、ジグザグに降りていくわけだけれど、その二つの階段だって、十メートルも離れていない。ほんとうに小さいビルなんだ。

「たしかに、これならマユミさんでも続けられますね」

と、ぼくは巡回しながら彦ノフに耳打ちした。

「そうだよ。っていうか、マユミさんは他のところじゃ働けないよ。今まで努めたところ、全部クビになってきたっていうしね」

「クビって、不況下のリストラですか?」

「違う違う。単に仕事できないから。二十歳の頃からそうだったって言ってたもん。クビにならなかったの、実家の魚卸問屋だけだってさ。ここに来る前の警備会社もクビになったって言ってたもんな」

「へえ、でも、それってけっこう凄いですよね。ただ駄目でクビになるなんて、そんなにないじゃないですか。世の中にはテキトーに働いてる人なんてたくさんいるのに。裏エリートですね」

「マユミさんはけっこうツイてないからね。胸ポケットに補聴器あったの、見た?」

「え、でも補聴器って耳につけませんか?」

「それは高いヤツ。マユミさんは二、三万円しか出さないから、ああいうイヤホン式のラジオみたいなのしか買えないんだよ。しかも、とばぎんの女子社員に『なんで仕事中にラジオ聞いてるんですか?』って聞かれてたからね」

「そういや、眼鏡もけっこうぶ厚いですもんね。目も悪いのかな」

「牛乳瓶みたいでしょ。あそこまで行くと、漫画だよ」

「まあ、でも、目と耳は歳取ればどうせ悪くなりますもんね」

「それだけじゃないよ。γ‐GTPも三〇〇超えてるし、腎臓もヤバいし、糖尿病、重度の水虫、両膝がリューマチだし……あと、なんだっけな」

「もう少しで不健康数え役満いきそうですね」

「上手いこと言うね」

――上手いこと言ってる場合じゃないわ。

ペニー、優しい性格の君はそう突っ込んだね? 多くの人にメッセージを発する小説家になろうとしている君がそう思うのは無理もない。たしかにちょっと悪口が過ぎたけれど、他人の人生が自分のよりずっとシンプルだなんて思うほど、ぼくはバカじゃない。みんな色々ある。マユちゃんだって、もう六十七歳なんだからね。彼とぼくの幸福な関係については後述するよ。悪口が言えるのも仲がいいからさ。ぼくはマユちゃんとカラオケに行って、『ラバウル小唄』を聞いたことだってあるんだよ。

さて、巡回を終えたぼくらは、1Fの裏口近くにある警備室に辿り着いた。油田さんと交代して、受付の座哨勤務に入る。普通のオフィスビルにはIDチェックがあるんだろうけど、とばぎんビルのエントランスはいたって原始的だからね。特に仕事らしい仕事はなかったよ。たまに業者が訪れるから、入館簿に記入してもらったり、あとはテナントの人に鍵を開けてくれと言われるぐらいかな。電話の取次ぎだってほとんどない。あったとしても、警備相手の電話なんてかかってこないから、設備の呑海さんか獄寺さんが出てしまうのさ。

三十分が過ぎると、正面玄関で立哨していたマユちゃんがやってきた。ぼくらはB2Fにある警備室へ移動した。ここからが本番だよ、ペニー。

B2Fでは一応、駐車場管理業務というのがあった。来客の車を案内するんだ。しかし、実際には客なんてほとんど来なかった。十六台分の駐車場はあったけれど、そのほとんどは東葉銀行の役員車や営業車だから、いちいち案内する必要なんてない。なかもと製薬の営業車だって慣れたもんさ。一応、料亭はくろの駐車場が二台あったけれど、高級料亭だからそんなにたくさんの車は来ない。ようするに、駐車場は管理しなくてもOKだってことさ。

「けっこう何してても大丈夫だから、本とか読んでてもいいよ。テレビでもビデオでもいいし」

と、彦ノフは『少年ジャンプ』の古い号をめくりながら言った。

「あ、そうなんですか。煙草は?」

「煙草も大丈夫。まあ、この三十分は自分の部屋にいると思って」

とはいえ、警備室の駐車場に面した壁は受付用のカウンターになっていて、ガラス張りだ。外から見えないことはない。が、彦ノフはほんとうに大丈夫だと強調した。

「じゃあ、彦ノフはB2Fで漫画描いたりするんですか?」

「たまに。基本は描かないけどね。ほら、ここってあんまり環境よくないじゃん。机も汚いし」

たしかに、警備室は汚かった。床にはなぜかマンホールがあって、そこがもともと部屋でも何でもなく、単なる駐車場を間仕切りしただけというのがわかる。ガラス戸も始終ガタガタ言っている。まるで、ぼくたちの代わりに不平を訴えるように。

「フェル樹くんは、こういう所で寝れる?」

と、彦ノフが言った。四畳ぐらいの部屋に冷蔵庫、机、テレビ、レンジ、ベッドがあって、ずいぶん狭い。ベッドのマットレスは、食事を取る机のすぐ脇にあるせいか、大小の染みがついている。

「たぶん、平気ですけど」

「そう。俺は無理なんだよね。もう三年ぐらいここにいるけど、ぜんぜん落ち着かないし、集中もできないよ」

「でも、漫画好きだったら、どこでだって描けるじゃないですか」

ぼくの超正論に対して、彦ノフは悲しげな瞳を返した。謝ろうと思ったが、それより先に彦ノフが言葉を返した。

「フェル樹くんの言う通りだね。君はいいことに人生賭けてるんだね。だめだ、ぼくなんか。絶対に成功しないよ……」

「いや、そんなことないですって」

ぼくは口籠った。こんな小さいビルの駐車場で、正論吐いたって、慰め合ったって、なんの意味もない。ぼくは手持ち無沙汰に髪の毛を弄った。さっきまでかぶっていた制帽のせいで、髪がペチャンコになっていた。

 

さて、とばぎんビル警備室の勤務風景がわかったろ? 簡単に言うと、三ヶ所のローテーションだよ。正面玄関での立哨(道行く人に挨拶&心を無に)、1F警備室での座哨(受付業務&設備の二人と雑談)、B2Fでの駐車場管理業務(リラックス&いいことをする)、この三つを三十分ずつ交代していくんだ。

もっとも、ビューティフル・サボリーマーの異名を取るChanは、立哨中も二階のトイレに入って携帯でゲームをやってるよ。三十分立ってることさえ耐えられないそうな。もちろん、やってるゲームは「テトリス」さ。いや、それはもう「サボリス」と呼ばれていたよ。Chanが立哨しないことはまったく意味不明なんだけど、黙認されてるよ。

そして、一六・三〇になると、日勤の人と獄寺さんが帰っていく。そこからは嘱託社員と準社員の一名ずつが当直勤務に入るのさ。

ペニー、当直用の勤務表がないことに驚いたかい? ここからがこのビルのスペッシャルなところなんだが、当直は仕事がないのさ。一九・三〇と二二・〇〇に巡回をして、駐車場入口のシャッターを閉める。それだけだ。駐車場のシャッターを閉めてしまえば、もう誰も入ってこない。あとは翌朝の〇六・〇〇までに起きて、シャッターを開ける。そして、朝刊を各テナントに配って帰る。実働三十分ぐらいだよ。シフト表さえ存在しない楽な仕事だけど、その楽さを表現するためにぼくが作った表を貼り付けておくよ。

03_当直シフト

 

——待機してばっかりじゃない!

ペニー、君はそうツッコんだね? たしかにぼくも一見してそう思ったよ。もしも何の志も持たない人間がここにいたら、発狂するんじゃないかってね。不条理演劇と同じ状況だよ。

その日は初日だったから、油田さんが内線をかけてきて、1Fに上がってこいと言った。ぼくは彦ノフとチープトークを楽しんでいる最中だったけれど、油田さんとも親しくなっておいた方がいいだろうという彦ノフのアドバイスに従い、上がることにした。

「お、来たな、ルシ選手」

「はあ、呼ばれたんで……」

と、ぼくはついつい悪い癖を出してしまった。おじさんがたまに使う「○○選手」という表現はいつもぼくを苛立たせる。世代を離れた相手に対する微妙な距離感と、面白いことを言ってやろうというミエミエの感じが、なんかダサいからだ。

「ルシくんはどんな遊びすんの?」

「遊びって……普通ですよ。友達と飲みに行ったり」

「ですことかは?」

「ですこっていうか、クラブなんて言いますけど、ごく稀にしか行きませんね」

「じゃあ、ナンパとかしないんだ。女の子好きじゃないの?」

「いや、好きですよ。ナンパもします。遊びってそういうことなんですか?」

「うん、そう。楽しいこと。麻雀とか」

「楽しいことですか……」

ぼくはこれといった趣味を持たないけれど、思いつくものを片っ端から挙げていった。油田さんはわずかに残ったキューピーちゃんヘアーを揺らしながら、いちいち興味深そうに聞いた。たとえば「クラブ」という言葉一つをとっても、油田さんにはイメージがわかないかもしれないと、ぼくはねちっこく描写した。もっとも、ペニー、青山のマニアック・ラブや西麻布のイエローで踊り狂っていたオシャレ・クラバーの君にはかなわないだろうけどね。

一連の会話はとてもチープだったけれど、ぼくは油田さんに好ましい印象を覚えた。なんだか人懐っこくて、誰かを理解するために色々と質問をする様子を、カワイイとさえ思ったんだよ。

「俺の若い頃はさ、今の神田のガード下辺りにね……」

油田さんはそう言うと、昔を思い出そうと頭を撫でていた手をふわりと動かし、北の方を指した。

とばぎんビルの面する中央通りを北上すると、JR神田駅にぶつかる。油田さんがまだ二十歳そこそこだった戦後復興期、そこでバーテンのバイトをしたそうだ。ペニー、今の君と同じくらいの年だよ。

バーと言っても、ペニー、君が行きたがるような、間接照明で薄暗くて、キリッと冷えたマッカランをロックで飲むような小洒落た店のことじゃないぜ。いまでいうキャバクラさ。しかも、油田さんの話じゃ、ランジェリーパブだったそうだ。

バーテンは歩合制だった。一人一台、ドーナツ型の小さな円卓を与えられる。バーテンはその中央で立っていて、呼び込みをするんだ。客がテーブルに座ると、スケスケのズロースを着た女の子が脇につく。

「女の子はドリンクを飲むとバックが入るから一生懸命頼むんだけど、飲みすぎると潰れちゃうだろ? どうすると思う?」

と、油田さんは質問者の権利を十分に楽しんだ笑顔を浮かべる。

「ウイスキーに見せかけてお茶を飲むんですか」

「さすがルシ選手、大卒のエリートだ。でも六十点だな」

「それだけじゃないんですか?」

「客だってわかってるからね、たまに女の子のお酒を飲んで確かめるんだよ。そのために薄くウイスキーを滴らしておくんだ。混ぜないでね。そうすると、一口目は酒の味がするだろ?」

どうだい、ペニー、けっこうリアリティあるだろ? 油田さんはその頃、ホステスに「かわいいわあ」なんて抱き締められたりしちゃったりなんかしちゃってたんだと。

「あの頃はさ、ほら、まだウブだったから。いま思うと、いいことしちゃえばよかったよな」

油田さんは「クフィ」という笑い声を漏らした。そう。いいことは絶対にしちゃった方がいいんだ。

繰り返すけど、ペニー、ぼくは油田さんを好ましく思ったんだよ。戦後復興期の埃と汗が入り混じった「時代の匂い」がムンムン伝わってくるじゃないか。「ズロース」なんて言葉、スペッシャルだろ? 普段は聞く機会のない話さ。小説家を目指している君なら、羨ましいと思うだろう。あ、でも水商売の現場には詳しいか。おっと、ごめん、怒ったかい? ちゃんと書くよ。

とはいえ、どんなに面白い話でもいつか飽きる。そのことは知ってるよね、ペニー? 油田さんはボケているというわけではないんだろうけど、お年寄り特有の循環論法を用いた。AゆえにB、BなぜならA、AゆえにB、BなぜならA……。ミニマルテクノみたいに同じ話が何度も続いた。特にお茶の表面にウイスキーを一滴滴らす話はその白眉らしく、ブレイクみたいにガツンと盛り上がるんだ。もちろん、話している油田さんだけがね。

「で、どうすると思う?」

「はふん、ウイスキーを一滴滴らすんですよね?」

ブレイクの直前、ぼくは前もってそう答えたよ。「はふん」の部分に「もう聞きましたよ」ってニュアンスを込めてね。でもそんなこと関係ないんだ。油田さんは「よくわかったね!」なんて叫んじゃって、ぶっ壊れたコンポみたいに退屈なループを反復すんだよ。ジェフ・ミルズのレコードを思い出したよ。

ぼくはなんだか哀しくなっちまった。ペニー、君は村上春樹を好きかい? ぼくは『ノルウェイの森』が大好きなんだ。大学の頃、なぜか友人間で流行ってね。

主人公のワタナベくんが大学の同級生小林緑の家に遊びに行くところがある。たしか、仏間かなにかでチェチェ繰り合うんだ。で、そんとき、緑ちゃんは父の仏壇に向かって股を開く。「ほら、お父さん、これがあたしのおまんこよ」ってね。たしか、夕暮れ時だよ。緑ちゃんの家はボロい本屋なんだ。すごくメロウだろ?

ぼくはそこが大好きで、なんども読み返した。ぼくの持ってたのは講談社文庫のヤツだけど、立てて置くと、そこのページがガバガバになってて開いちゃうんだよ。ちょうど、緑ちゃんのおまんこみたいにね。

いや、緑ちゃんは別にヤリマンじゃなかったかな? とにかく、そんなに大好きだった『ノルウェイの森』だったんだけど、あまりに読みすぎたせいで面白くなくなっちゃったんだ。そしてついに、本の共同墓地、ブックオフに送ることになってしまった。面白い話だって、そんなものなのさ。

ペニー、ぼくは油田さんの無限ループにずっぽしはまり、口の端から泡を吹きかけてた。彦ノフはとっくに警備室を抜け出して、B2Fに逃げていたからね。次に仕事があるのは、一九・三〇の巡回ぐらい。あと二時間おなじ話を聞かされたら、ぼくは最終解脱を果たして神になっちまう。

そんな精神の危機を救ったのは呑海さんだった。現場監督の呑海さんは一七・三〇で仕事終わりだ。

「あ、呑海さん、もう上がりですか?」

ありったけの媚びを込めてそう尋ねると、呑海さんは「いいや」と言って席についた。そして、おもむろに机の下に手を伸ばし、大きな物体Xを机の上にドンと置いた。そのXを見た瞬間、ぼくの頭の中をあるメロディーが流れた。

 昔の友は今も友

俺とお前と大五郎~♪

ペニー、君はこんな歌を知ってるかい? 大五郎っていうのは、人名じゃないよ。乙種焼酎の銘柄さ。「アル中患者よ、もっともっと増えてくれ!」と言わんばかりのバカでかいペットボトルに入ってるんだ。

KOKUYOの事務机の上で見るアル中ペットは、ほんとうにスペッシャルに見えたよ。ぼくは「いいんですか?」と尋ねようとした。でも、そんな雰囲気じゃなかった。さっきまで饒舌だった油田さんも急に真面目な顔になって、監視カメラのモニターを見つめていた。

「ルシくん、これ食べる?」

と、大五郎INマグカップで少し顔の赤らんだ呑海さんが示したのは、揚げ空豆だった。ティッシュに盛られた褐色の塊はまるでぼくらを表象するようにこんもりと汚らしかった。ぼくはもそもそと揚げ空豆を食べながら、呑海さんがJOJOに顔を赤らめていくのを盗み見ていた……。

と、警備室をノックする音が聞こえた。監視カメラを見ると、東葉銀行の支店長だ! すべてが終わりだ! 契約は打ち切りになり、ぼくは再び『from‐A』を買いにいかねばならないだろう……。

しかし、親しみとは無縁の顔付きをした支店長は、雷を落とすでもなく、蛍光灯が切れたという話をした。呑海さんはいつの間にか大五郎ペットを机の下に隠していて、酔っ払ったまま、平然と蛍光灯交換に出かけた。そして戻ってくると、銀行宛ての請求書を作成しながら、またマグカップを煽りはじめた。

やがて、一八・三〇になり、呑海さんはおもむろに立ち上がって、タイムカードを押した。その行為のさりげなさは見事なものだったけれど、「じゃ、頼むね」という去り際の言葉に後ろめたさが垣間見えた。

「今、普通に酒飲んでましたよね?」

監視カメラで呑海さんがB2Fのロッカー室へと向かったことを確認しながら、油田さんに聞いた。油田さんは娘の万引きを知った男親みたいな顔で「まずいよなあ」と呟いた。

「テナントさんに会ったら、ばれちゃわないですかね」

「しかも、タイムカード押してたろ。あれ、一時間も空残業つけてるんだぜ。ずるいよなあ。仕事中に酒飲んで。あれで一千万近く貰ってるんだぜ」

「あ、そんな貰ってるんですか。警備会社でも、正社員はけっこう貰えるんですね。でも、だったら外で飲めばいいじゃないですかねえ」

「ケチなんだよ。あの大五郎だって、経費で買ってるんだから」

油田さんは非難がましく溜息をつくと、「ずるいよなあ」と付け加えた。そして、机の引き出しからマリー・ビスケットを取り出すと、愛おしむように齧った。どうやら湿気っていたらしく、ボソッという音がした。

 

それから二、三日、ぼくは誰かとつきっきりで仕事をした。もっとも、一日目で全部覚えてしまったよ。それぐらい簡単な仕事なんだ。

水曜日の夜だけ、クリーニングに出す制服の集計があった。そんなもの、業者に任せればいいんだけど、万が一を考えて、自分たちで集計をするんだと。あと、第二、第四金曜日には、駐車場にコーンを置かなくちゃならない。まあ、それぐらいだよ。

土日も入ったんだけど、これがまたスペッシャルなんだ。テナントはほとんどオフィスだから、土・日・祝日は閉まってるだろう? だから、立哨勤務の必要がない。一日中待機なんだよ。

土曜日は獄寺さんが出勤してくる。そのビルメンテを手伝うのさ。ビルってものは普通の住宅と違って、手がかかるんだ。特に水回りと空調は定期的に見ないといけない。それを手伝うのさ。

はっきり言って、それは警備の仕事じゃないんだ。設備の仕事だよ。そもそも、ぼくらはなんの保険にも入ってないから、ベルトに巻き込まれた指が切断されても、屋上の排水溝を掃除中に転落しても、なんの補償もされない。でも、なぜかやらされる。まあ、昼飯を奢ってくれるからいいけどね。

ただし、この昼飯は絶対に八○○円を超えてはならないというルールがあるんだ。モーセの十戒並みに厳密な法だよ。日本橋界隈で、土日に八〇〇円以下のランチを食べさせる所は少ないから、わりと気を使うよ。

そうそう、一度彦ノフが看護のバイトをしていた時期があって、土曜の日当がすべて彦ノフのものになった時期があったんだ。土曜日は最悪だなんてお爺さんたちは言ってたけど、若いズッコケ三人組には、昼食つきのハッピーかつエコノミカルな一日だからね。ぼくらは嫉妬したよ。Chanの発案によって、彦ノフに寄せ書きを贈ったことがあるんだ。

これがその一部だよ。名前はぜんぶ勝手に考えたんだけどね。

 

04_yosegaki

どうだい、ぼくとChanの憎悪が伝わってくるだろう? なにせ、土曜日の日当勤務は月に四、五回しかないからね。楽チンな日は取り合いだよ。

あ、でもね、一度だけぼくが弱音を吐きそうになった日があるんだ。その日について、セリーヌ風に書こう。

その日は手際よく終わった……ぼくは他の人が一時間かけてやるエアコンフィルター清掃を十五分で終わらせた……画期的な手順を思いついたんだ……でもそのせいで、余計な仕事も押し付けられちまった……「よし、来週の分もやっちゃおう!」……B2F駐車場の排水溝の詰まりを直す作業をプラスされた、これがまた手間を食う仕事だった……獄寺さんはなにをとち狂ったのか、詰まりを水で押し流そうとした……詰まった排水溝に水を流したら、水が溜まっちまう、ぼくはそう忠告した……でも、駄目だった、サノバビッチめ……人間というのは自分のスタイルを通したがる、排水溝は水でチャプチャプになっちまった……。

水を排出しなくちゃならなくなった……獄寺さんは気不味そうな顔でバキュームを取ってきて、もう一つの排水溝に水を移し始めた……でも、それだってぼくの仕事に比べりゃずっとマシだった……ぼくの仕事はバキュームの排水パイプを詰まっていない排水溝に押さえておくことだった、人生の命綱みたいに……。

その作業に従事している間、ぼくはずっとある逸話を思い出していた……ダスタイェフスキーの『白痴』、あの小説の中には徒労に関するエピソード……Aという水の入ったバケツがある、その水をBというバケツに移す、今度はBの水を空になったAに戻す……その作業を繰り返させれば、どんな囚人でも発狂する……。

ぼくはそのバキュームに『白痴』の主人公の名前をつけた……親愛なるムイシュキン侯爵、お味はいかがですか……なんだか、苦楽を共にした盟友といった気分だ……ムイシュキンの出番はめったにない、でも、だからこそこの出会いは特別だった……次に会うときまで元気でな!……ぼくがそう思った瞬間、ムイシュキンは汚水をブピッと飛ばしやがった、糞食らえとでも言わんばかりに……。

とまあ、いかにも大変そうに書いたけど、実際はそうじゃないよ。基本的には楽なんだ。でも、そんなフリーダムな土曜日の勤務だって、日曜日には敵わない。日曜はビルメンテの手伝いもないからね。仕事は巡回を三回するだけ。二十四時間中、実働一時間にも満たない。あまりに楽だから取り合いなんだ。

日曜日をどんな風に表現したら言いか……。そうだ、凹塚さんの話をしよう。御年六十七歳、長年働いていた靴メーカーを五十代(つまり、バブル崩壊期)にリストラされてから、うちの会社にいる準社員だよ。この人の趣味といったらテレビを見ることで、一日三、四時間もバラエティ番組を録画して、全部見るんだ。しかも、そのほとんどで笑うんだよ。信じられるかい? 以前、凹塚さんに浅草の落語に誘われたときなんて、もっとスペッシャルだったよ。そのときは反逆児の立川談志がトリだったけど、あまり落語にキレがなくて、凹塚さんは途中で寝てしまったんだ。でもね、途中で目を覚ますと、その二秒後ぐらいに笑い出したんだよ。どう考えたって、落語の流れは聞いてなかった。それに談志がナンセンスギャグを言ったわけでもない。ぼくには想像の及ばない理由で笑っていたんだよ。

そんな凹塚さんがもっとも愛しているのが『笑っていいとも』なんだ。いいかい、これからスペッシャルなことを書くけど、嘘じゃないぜ。信じてくれよ。

凹塚さんは『いいとも』を毎日録画してるんだ。平日は見られないからと言ってね。そして、そのすべてを日曜日に見るんだ。ぼくはこの話を友人にしたことがある。彼は眉をひそめたよ、「平日働いている人のために『増刊号』があるんじゃないの?」とね。それは正しいよ。しかしね、凹塚さんは『増刊号』も見るんだ。午前中に『増刊号』を見て、午後は録画した平日分を見るんだ。

油田さんは銀座のウインズまで馬券を買いに行くし、彦ノフは彼女を呼んだこともある。とばぎんビルの日曜日は堕落の祭典サボリンピックの開催日さ。

ちなみにサボリファンタジスタのChanにいたっては、出勤と同時に布団を敷いて寝転がっているよ。駐車場に来たはくろの来客には丸見えだけど、そんなことChanにはお構いなしさ。これは本当に不思議なことなんだけど、そのことに関してクレームが来たことは一回もないんだ。まあ、はくろはロールスロイスが来ることもあるような、けっこうな高級料亭だからね。そんぐらいの金持ちは、いちいちバイトを見下したりはしないらしいよ。駄目なヤツの駄目さについて、もう諦めているのさ。階級社会が歴然としているイギリスの上流階級がジェントルメンなのと一緒だね。もっとも、世田谷育ちの零落したお嬢さんであるペニーには、そんなことわかりきってるかもしれないけれど。

 

どうだい、ペニー。この腐敗と堕落の地獄絵図は? こんなにファックな職場は聞いたことがないだろう。かつてとばぎんビルにいた人で、これからぼくが書くことはないだろうという人に、武藤さんというのがいるんだ。その人にまつわるエピソードで今回の物語を閉じるとしよう。

武藤さんはぼくが入って二週間ぐらいで辞めていった人だよ。うちの嘱託社員の大半はリストラされた挙句に流れ着いたわけだけれど、武藤さんは公認会計士事務所の事務職を辞めて、その知識を生かして友人たちと会社を始めるまでの準備期間としてとばぎんビルに来た人なんだ。

「ルシくん、君ぐらいの人ならわかってると思うけど、こういう場所はいつまでもいるものじゃないよ。ずるずるしてしまうからね」

とばぎんビルを去ることが決まってから、武藤さんはぼくを特別に呼び出して、夜中の1F警備室で忠告した。

「人間は環境に応じた人間になってしまう。君は自分だけは違うと思っているかもしれないけれど」

「わかってます」

と、ぼくは厳粛な顔付きで答えた。それはたぶん本当のことだし、地獄の腐臭に混じる硫黄が鉄を腐らせるように、とばぎんの駄目オーラがぼくの後光に翳りを生じさせるのはありえることだった。

「君がいいことをしたいっていうのはわかるから、な、応援してるよ」

ぼくたちはがっちりと握手を交わした。学生時代に剣道で鍛えたという手は、ごつごつとしていながら、父親のような包容力があった。

ペニー、君にもそういったことがあったかもしれない。人生の軌跡がほんの少ししか交わらなくても、まったくソウルフルな交わりを示すことがある。こういうとき、ぼくは人間という生き物がほんとうに愛おしくなる。

ぼくは後になってその言葉を痛感することになるんだけど、ペニー、そろそろ終わりにするよ。もうとばぎんの主要メンバーは紹介し終えたしね。少し長く書きすぎたかな? インターネッツだと手が疲れないから楽だよ。こいつはいい。また近いうちに続きを書くよ。それじゃ、小説がんばって。もう書きはじめてるのかな? 東京はちょうど過ごしやすい季節だよ。そっちは盆地だから、やっぱり蒸し暑いかい?

SO‐SO.

 

追伸。

ずいぶんいいことの正体を知りたがってるみたいだけど、それは内緒だよ。いいこといいことさ。小説を書いてるわけでもないよ。まあ、ある意味では似ているけどね。推測するのはいいけど、あんまり当たらないと思うなあ。まあ、ぼくの手紙を読んでいるうちにわかってくるよ。君の気を引こうともったいぶっているわけじゃないよ。

2015年7月7日公開

作品集『東京守護天使』第3話 (全13話)

東京守護天使

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© 2015 高橋文樹

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"1章 日本橋の堕天使たち"へのコメント 6

  • ゲスト | 2015-07-07 18:00

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    • 編集長 | 2015-07-07 18:15

      フェードアウトに関しては失礼いたしました。「Kindleで発売している全10話のうち例えば5話までを読めるようにする」という機能にバグがあり、最終話とカウントされてしまっているようです。

      早々に直しておきます。半分以上は無料で読めるようにする予定です。

      Wikipediaに関しては、世間的に目立った活動をしていないために編集されない中、どうもありがとうございますという気持ちもなくはないのですが、カッとなって嘘を書いちゃダメですよ。現実でもカッとなりやすいのなら別に構わないのですが。

      なんにせよ、破滅派に作品を投稿されていること自体は大歓迎なので、周囲の雑音をシャットアウトして創作に邁進されることを期待します。

      著者
      • ゲスト | 2015-07-07 18:24

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  • ゲスト | 2015-07-07 18:03

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  • ゲスト | 2015-07-07 18:20

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    • 編集長 | 2015-07-07 18:26

      退会されてしまいますか。それは残念ですが、入るのも去るのも自由なので、またのお越しをお待ちしています。

      スマホサイトは言われてみればそうですね。直しておきます。

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