INTERLUDE 『堕天使に関する異論』

東京守護天使(第2話)

高橋文樹

小説

5,633文字

警備員ルシ・フェル樹と作家志望の女の子ペニー・レインが交わす書簡体小説。ペニーの書く堕天使ルシフェルの出生譚とは。

作 ペニー・レイン

 

堕天使ルシフェルは神に対して反逆を企てた者、すなわち、敵対者サタンとして描かれることが多いのですが、いくつかの異論も伝わっています。

 

 

天地が創造されるずっと前、後になって「天国」と呼ばれることになる世界では、そこかしこを守護天使がふらふらしていました。十の位階に別れた天使たちの中で、彼らは最下位に属します。彼らには熾天使セラフのような強さも、智天使ケルビムのような知恵も、主天使ドミニオンのような勇気もありませんでした。悪しき龍やイナゴの軍勢と戦う必要も、愚鈍な者たちを導く必要もなかったからです。

なにをすることもできないかわりに、守護天使たちはただひたすらに美しいのでした。他の天使に比べて特別な飾りがあるというわけではありません。むしろ、何もまとわないのがよかったのでしょうか。

水晶でできた城壁の中を見回り、疲れたらイチジクをもぎって食べ、神酒ネクタルの流れる川の水を飲みます。気が向いたら棕櫚しゅろの木陰などで眠ります。木陰を探すのが面倒な場合は、その美しい翼で身体を包んで眠りました。そこには、飢えも乾きも眠気さえもありません。守護天使たちは思い思いに優雅な暮らしを送っていました。

「ああ、暇だなあ。こんなに暇では、時間がたっていないのと同じだ」

川のほとりで眠っていた守護天使の長ルシフェルは呟きました。彼は守護天使の中でもっとも美しく、また、好奇心が強かったのです。天国のありとあらゆる場所を歩き尽くしてしまっており、少し退屈していました。

「自惚れるな」

と、頭の中に声が響きました。熾天使の一人ラファエルの声です。千里眼と地獄耳(この言葉は天使の彼に適当ではありませんが)の持ち主であり、天国で起きたすべてのことは、どこであろうとも、ただちに彼の耳目に入るのでした。

「おまえが暇でいられるのは、すべて主の御力のおかげ。不平を言うでない」

「わかっていますとも」と、ルシフェルは目をつむったまま答えました。「私たちは守護天使、天国のお荷物、永遠の閑職、神が創造なされたという以外にはなんの意味も持たない存在。そうでしょう?」

返事はありません。ルシフェルは目をつむり、水晶の城壁を越えて旅に出る自分を創造しました。心だけは彼の自由でしたから。

「なぜあんな奴らがいるのだ?」

「あのような天使が我々の仲間だと思うと……」

「第九位の天使アンゲロスでさえ、もう少しましなのだが……」

「主が間違った存在を創造されるはずはないが……」

他の天使たちは守護天使に関して、そんなことを言いました。主の偉大さと賢さを疑うわけではなくとも、ついつい訝らずにはいられないのです。もちろん、地獄耳のラファエルはそうした言葉を耳にしていましたが、あえて咎めませんでした。同じ意見だったからです。

不満は雪が積もるようにして溜まっていきました。しかし、ルシフェルは守護天使の長として、汚名を返上しようと努力したりはしませんでした。天国の見張りという仕事に頑張りようがないからだけではありません。そうした汚名をかぶることが彼らの仕事の一つでもあったからです。

ある日のこと、事件が起きました。守護天使の中でもっとも幼いアダムが、熾天使の中でもっとも強く、またもっとも獰猛な将軍ミカエルに論争を吹っかけたのです。

「あなたが熾天使として高い身分にいられるのは、私たちが守護天使として低きを支えているからだ。主はあやまつことなどないのだから、そのように我々を創造されたのだ」

正論でした。身分の低い者に言いくるめられ、怒り心頭に達したミカエルは、一振りで世界の三分の一を削り取る太刀を振り下ろしました。天国を無から区切る水晶の城壁の一部は決壊しました。そして、多くの天使が無の中へと吸い込まれていったのです。

ミカエルは熾天使の中でもっとも力を持っているだけでなく、その無知と無垢のために天使たちの中で人気がありました。その一方、アダムは賢く、弁の立つ天使でしたが、あくまで守護天使です。多くの天使たちは位階を絶対と見ていたので、アダムのミカエルに対する口答えを許しませんでした。

すべての責はアダムに帰せられました。愚かな守護天使を追放せよという声は徐々に高まってきます。主の御旨を待たずに追放しようとする無謀な天使はいませんでしたが、苛立ちは天国を深い霧に覆いました。

守護天使の長であるルシフェルは、主が鎮座されるいと高き宮居へと呼ばれました。主には第二位の智天使さえお目通りが叶わないのです。長であるとはいえ第十位の守護天使に過ぎないルシフェルにそれが許されているのは、非常事態だからというより、彼の担う特別な役割によるのでした。

永久に朽ちることのない宮居は、あまりにも眩く輝くので、見ることができません。ルシフェルはその美しい顔を伏せて門の前に立ちました。見なくても、黄金の蝶番ちょうつがいがとろけるような音を立てたので、扉が開いたのはわかりました。

「顔を上げなさい」

進みゆくと、声が聞こえました。心に直接響くかすれ声です。玉座があるはずの正面は強い光を放っていて、主の御姿を見ることはできません。

「主よ、お許しください。アダムは主の深く高い御旨みむねを知りませんでした。その責はこのルシフェルに」

「愚かしいことだ」

主は憂いに満ちた響きでアダムの追放について語りました。ルシフェルがそれを思いとどまっていただけるよう強く念じると、「案ずるな」という優しく、慈愛に満ちた声が胸を撃ちました。

「どっちみち、もう天国だけでは駄目なのだ。アダムには新たな世界であるを用意しよう。これから作られるすべての被造物は、その世界に満ちることになる。天使たちは地との関わりによって、合い争うことはなくなるだろう」

「主よ、愚かな私にお教えください! それでは結局、天国と同じことになりはしませんか? 地には地のアダムが、地には地のミカエルが、そして、地には地の争いが?」

「そうならないための手はもう打ってある。見よ」

何を見るかを問うまでもなく、ルシフェルは眼前に一人の天使がいるのを見つけました。目を見張るほど高貴な後光を賛えていましたが、魂の虚ろなのが感じ取れます。

「この御子は?」

「地に遣わす救世主キリストだ」

ルシフェルはにわかに主を疑う気持ちを起こしてしまいました。主の膝下に広がる天国でさえこれほどの争いが起きるというのに、より遠く、天を支える役目を持った地が無事なはずがない。しかも、こんな虚ろな天使が救世主になるなど。

しかし、心を読んでいるはずの主はそれを諫めず、ただ「見よ」と言われただけでした。

その瞬間、ルシフェルは自分がさきほどまでとはまったく違う場所にいるのを知りました。主と同じように見、同じように感じているのです。

「光あれ」

主の御言葉によって、無の中に小さな光が灯り、それが世界を押し広げていきます。やがて、なにもなかった所に広がりが生まれました。今、主は無の中に新たな世界を創造しようとしていました。

そうやってはじまった創造の一週間を、ルシフェルは神の高さから見つめていました。圧倒的な体験でした。いままで思いもしなかったもの、考えもしなかったものに思い至るようになりました。

なぜ守護天使が存在するのか、守護天使の長の役割とはなにか、なぜ天国に対して地が必要なのか、そこに遣わす救世主が虚ろな魂なのはなぜか、主がかつてルシフェルのことを「天使の中の天使」と言われたのはなぜか……。

ルシフェルはそうしたすべてを理解しました。

主が地を創造し終わると、ルシフェルはアダムを見送るために、水晶の城壁へと向かいました。ミカエルが壊した部分はぽっかりと口を開け、地へ繋がる大穴となっています。その淵にアダムが佇んでいました。

「ああ、お兄さん」と、アダムは哀しそうな顔で振り向きました。「私はどこへ追放されるんだろう?」

「地だよ。新しい世界だ」

「新しい、か。それは悪くないけれど……」

アダムは地を覗き込みました。そこはいばらあざみに覆われ、もっともましだと思える場所さえ、天国のもっとも悪い部分と無限に隔たっていました。川には水しか流れていません。木には花と実が同時になることがありません。

「あんな所で、永遠に一人で生きなければいけないなんて!」

アダムの顔は急にくしゃくしゃになり、ルシフェルの胸にむしゃぶりつきました。まだ幼いアダムの身体は柔らかく、小さいのです。

ルシフェルはアダムの左胸にそっと手を触れ、胸の肉を開きました。そして、聖なる赤に脈打つ心臓の、その脇にある肋骨を一本取り出しました。アダムの傷口の肉は盛り上がり、すぐに閉じました。

ルシフェルは引き抜いた肋骨を拳の中にしまい、ふっと息を吹きかけました。すると、そこからもう一人の天使が誕生しました。

「さあ、これでもうおまえは一人じゃない」

「すごい!」

と、アダムはその創造のわざに眼を見張りました。身震いするほど美しく、いままで見たすべてのものが無意味に思えてしまうほどでした。

「でも、ぼくたちとちょっと違うな……。少し身体がでこぼこしていて、足りない部分もある。弱くて、役に立たなそうだ」

「アダムよ、足りないのではなく、おまえが余計なのかもしれないぞ」

ルシフェルがそう言うと、アダムは自分の身体を眺め回し、新しい天使と比べているようでした。そして、胸を満たす感情がなんなのかわからないまま、頬を薔薇色に染めました。

「小さい弟よ。これからおまえは天使ではなくなる。地に堕ちて、人間という種になるのだ」

「それは天使よりも劣った種なの?」

「いや、劣っているわけではない。別の生き物だ。おまえは人間の中で男という種族になる。そして、今おまえから生まれた者は女という。男と女は一つになることで、創造の業を行うことができる。いわば、二人で一つの生き物だ。さあ、名前をつけてやりなさい」

「それなら、ぼくは自分の身体から生まれたこの女を『私の骨の骨、私の肉の肉』と名付けよう」

アダムの無邪気な命名法にルシフェルは笑みを漏らしました。それは慈愛に満ちた、美しい微笑みでした。

「それは少し長すぎるし、あまり美しくない。そうだな……イヴはどうだ?」

「それはどういう意味?」

「意味などないよ。それはこれからおまえたちが作ればいい」

アダムは微笑み、そっとイヴを抱き寄せました。寄り添う彼らはこの天国に現れたどんな天使よりも綺麗でした。星の中の星、宵の明星と歌われたルシフェルよりも。

「そうだ、お兄さん、これを」

アダムはそう言って、背中の翼をむしり、ルシフェルに渡しました。イヴもそれにならいます。

「もうこの翼はぼくたちに必要ない。思い出に取っておいて」

「思い出など……」

いらない、と言おうとした刹那でした。アダムとイヴは抱き合って、地へ繋がる大穴へと身を投じました。その速度が増していき、地に衝突して爆けてしまうというころ、二人は暖かな光に包まれました。速度は落ちていきます。ゆるゆると、天が零した大粒の涙のように。

と、とつぜん声が聞こえました。地獄耳の熾天使ラファエルの声です。

「主のご意志はなんなのだ? なんと言っておられた」

神経質な監視者の問いかけに対し、ルシフェルはその美しい微笑みで返しました。

「さあ、どうだろう。主の御心が私などにおよびがつくわけがない」

ルシフェルはそう呟き、ラファエルをあざむきました。主はもう天使たちに語りかけることはありませんでした。表向きは、創造の業で六日間も喋りつづけたせいで声が枯れてしまったということになっていましたが、実際にはもう語りかけることそのものをやめたのです。

ほどなくして、ルシフェルは守護天使の副長ガブリエルを呼び寄せました。

「弟よ、守護天使たちは解散だ」

ガブリエルは美しくも無垢でもありませんでしたが、戸惑いませんでした。心を読む力があり、すぐに次のことを悟ったからです。天使たちの役割は変わるだろう。もう守護天使はいらない。高慢な天使たちの自尊心を満たす役割は、人間へと引き継がれたのだから。

「では、私たちは普通の天使になるんだね?」

「そう。天使の位階は九位になる。ガブリエル、そうだな、君は……その不思議な力のおかげで熾天使になれるだろう」

ガブリエルは百合色の顔に微笑みを浮かべました。優しさと悲しみの入り混じった表情で、もう一つのことをも悟っていました。

「行ってしまうんだね」

ルシフェルは頷きました。虚ろな救世主だけでは人間を救えない。それが神の御心でした。救われるためには、神を裏切ること、罪に穢れること、つまり、悪になることが必要なのです。しかし、善そのものである主は彼らに知識を植え付けることができません。禁じられた知識の実を誰かが人間に食べさせることが必要だったのです。

この天国でもっとも美しい天使は、アダムとイヴの前に悪として現れようとしているのでした。

「なぜ憎まれる存在が必要なんだろう?」

と、ガブリエルは問いました。すると、監視者ラファエルが口を挟みました。

「主に問うでない。熾天使の私でさえ、神の深く高き御心には思い及ばないのだ。その賢さには無限の隔たりがある。ましてや、守護天使のおまえになど、その影さえも捉えることはできない」

ガブリエルは問うたのではありませんでした。彼は天使として当たり前すぎる素朴さで異を唱えたのでした。しかし、ルシフェルはラファエルの言ったことをそのまま認めました。

「我々のような低き者に主の深慮は計れないよ」

ルシフェルは誰にも読まれないよう、心の奥底に悪と呼ばれることへの覚悟を秘めると、六枚の翼を広げました。美しく広がるその翼は、ルシフェルを今まででの何倍も、そう、彼を第一に創造した神でさえ驚くほど、美しく見せました。

ルシフェルはアダムとイヴの堕ちた大穴へ向かって身を投じました。星が堕ちていきます。美しい星の中の星、宵の明星が、輝きを放ちながら堕ちていきます。

こうして、罪と死が地に生まれました。

2015年7月4日公開

作品集『東京守護天使』第2話 (全13話)

東京守護天使

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© 2015 高橋文樹

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