兄は父とその弟に連れられ長い旅に出たのち、弟を連れ立って胡桃の林へと分け入ってった。くるくると落ちる胡桃の葉を払いのけ、山毛欅や楓の木々が落とす影をくぐり、やがて坂へと至った。日の陰る坂には竹が何本か背を伸ばし、その緑さがしなやかに兄を待っていた。
兄は竹を一本ずつしならせると、弟の方を振り返って試すような目を向けた。弟はなにか答えようと思ったが、竹についてはなにもしらないのだった。新芽を食べたときに広がる爽やかな緑さが黄泉がえり、やがて苦味となった。
兄はそのうち一本の若そうな——それこそ、弟ぐらいの若さの——竹を選ぶと、少し反らせて根本を石斧で打った。何度も打つうちに手がその響きに耐えかねるようだった。ときろい兄は手の平をふうふうと吹いた。竹の柔らかな肌を石打つ音が空に木霊して、吸い込まれて消えた。兄は疲れてくると、弟に石斧を渡した。弟は兄がしたように石斧を振ったが、すぐに手のひらが赤剥けて、血が滲んだ。ポツポツと赤い斑点が広がりを見せていくのに息を吹きかけるのだが、痛みはいやますばかりだった。日が少し高くなり、陰が消えていくと、竹はようやく皮一枚になった。兄は竹を両手で掴むとぐるぐると回すようにひねった。切り離す刹那、皮が伸びてぱちんと鳴った。兄は竹を脇に抱えて得意げに坂を下りはじめた。来た時と同じよう、木々の陰を見に纏い、胡桃の葉を払いのけながら。竹は薄く尖った葉を揺らしながら、兄に命乞いをしているようでもあった。
邑へたどり着くと、兄は父の兄の妻の、そのまた兄の父に教えを請い、竹を割った。乾いた音を立てた竹の方割れを拾い上げた兄は顔をわらくずのごとく綻ばせ、すぐさま石斧で端を尖らせはじめた。形が整うと、炉の炎で炙りながら、ぐっと反り上げていく。まだ若い緑の竹の皮が少しずつ焼けていって、枯れ木のごとく白んでいった。やがて皮は輝きを失い、狩人の沈黙に似たまったき白へと落ち込んでいった。竹は二本作られた。反り返った竹に膠を塗ると、二枚貼り合わせ麻を縒った縄で結んだ。まだ乾かない膠が太陽を照り返し、武神の如く輝いた。
鹿の健を貼り合わせ、暗い夜の月ほどにも反り返った弓に結びつけると、弓が出来上がった。兄はそれを携えると、父のそのまた父の弟の元へ行った。寝屋から這うように出てきた古老は室へ降り、黒く輝く塊を携えて戻った。その塊の謂れについて滔々と語られた。遥か遠く、海を越えてこの邑にやってきたその石のために、三人の兄弟のうち二人が命を落とした。海岸の邑から戻る長い旅は獣や森や盗賊に溢れていた。一人は熊に、一人は盗賊に。そして三人兄弟の生き残りが、この石をこの邑まで持ち帰った。獣の皮を破り肉を割く石はこの邑に繁栄をもたらした。そして、その兄弟の生き残りであるこの古老は男がたくましく育つと石の切れ端を分け与えるのが慣わしだった。これまで矢を作った男たちはみなその話を聞いた。古老は兄の壮健を寿ぐと、一回り小さな白い石で、黒い塊を打った。きん、という甲高い音がして黒曜石は割れた。
兄と弟は古老の元を辞した。砕かれた石達が、いつの間にか空に達していた月の光を照り返し、夜の闇の中で白く光った。兄はその鏃を愛おしげに眺めた。弟は月明かりの元で輝く黒い石を羨ましく思った。
家の中が白み始めた頃、すでに兄は起きて鏃を眺めていた。もしかしたら寝ていないのかもしれなかった。今日、はじめての矢を作る。弟は兄の昂ぶった胸の音が家の中に満ち溢れているように感じた。兄は煮炊きの煙が邑々に登り始めるより先に、細い竹を集め、その切っ先に鏃を取り付け始めた。なんどか失敗して指を切ったが、兄は指から流れ出る血を舐めとると、酔ったような表情で矢を作り続けた。
八本の矢ができた。兄はその八本の矢で狩りをした。兄の狩りの腕は邑に山ほどの肉と骨をもたらした。兄の放つ矢は風を切って飛び、獲物に深く食らいついた。外れることはまったくなく、夏を越えても一本も矢を失っていなかった。走りながら入るのもうまかった。矢を引き抜くと、赤黒い血の中から滑り出る時に怪しい光を放った。弟はその光景に下腹がせり上がるほどの興奮を覚えた。邑の女達は狩人として名を馳せつつあった兄に色目を送った。その女達の中には弟が妹と呼んだ女も含まれていたが、たやすく諦めがつくほど、兄の腕前は確かだった。兄のとってきた肉や骨をかじりながら、女達は艶めかしく肥えていった。
兄は弟に、おまえもいずれ狩りをするだろう、と言った。そして、兎や、鼬や、鹿や、猪や、もしかしたら熊だって狩るだろう。兄はそう言って矢壺を背負い、山へ駆けていった。秋が深まり、動物達が越えた動物達が山を降りて胡桃を貪り尽くす季節だった。
*
それから春が来て、夏になり、また冬を越しても兄は帰ってこなかった。村の人々は死んだのだろうと決めつけた。父や母は死んだ兄を呪った。下の弟が生まれ、とても忙しくなったからだった。弟は——といっても、いまではもう誰の弟でもなかったのだが、やはり弟のような気がしていた——、自分もそろそろ弓矢を欲しいと思っていた。まだあと二度ほど春を迎えねばならないのだが、兄がどのようにして弓を作ったのかは見ていた。
夏が近づき、降り続いた雨が上がると、弟は石斧を携えて山へ登った。そして、兄がしたように竹を選び、火で反らせ、膠で貼り合わせ、紐で結んだ。兄が作ったのとほとんど同じような弓ができたが、少し違っているような気もした。兄が自分より年上だった分、兄の弓の方がおそらくできがよいのだった。
弟はその弓を携えて、古老の元へ向かった。古老はまだ歳が足りないことについて滔々と説明した。弟は言いくるめる方法を探したが、歳月を覆すことは難しかった。邑の女たちすべてが殺され、すべての山毛欅が焼かれ、すべての黒曜石が粉になるまで砕かれようと、それはありえないと古老は呪詛を吐いた。弟は呪われて肩を落とし、熱を出した。こうなると、兄のようになるためにはやはりあと二度も春を迎えねばならなかった。
それからまた春が来て、もうあと一度だけ春を迎えれば自分も矢を貰えるという頃、兄が帰ってきた。女を孕ませ、背丈よりも長い槍を持っていた。狩りに出た兄は、水嵩の増した沢で流され、随分と下った場所で気を失っていたところを女に助けられたのだという。兄は女に解放され、やがて絆されたが、帰ることは叶わなかった。女な婢しい身分で、邑を出ることが許されなかったのだ。邑はここよりも少し大きく、海岸に近かった。漁に出て、貝を食べ、血も肉も薄い生活をしていた。この春、兄は女の主とその妻を殺し、邑を出てきたのだった。
兄のなした恐ろしい旅の物語は、邑の老いたるから乳飲み子に至るまで怯えさせた。報いがあるはずだった。その邑が兄を追ってこの邑を攻め滅ぼすかもしれなかった。邑一番の狩人だった兄が卑しい女のために邑を脅かすことは許されなかった。兄は邑を追われ、沢を二つ越えた山まで放逐された。
*
それから兄と会うことはなく、何度もの春が過ぎていった。弟は妻を娶り、邑一番の狩人になった。山々を駆け巡り、仕留めた鹿や猪の数は邑の人を何度も満腹にさせるほどだった。獲物の肉に矢が深々と刺さる音を聞き、その手応えが宙を伝って指先に届くほど、狩りの腕は上達していた。
そんなある日、沢を遡ってくるむくつけき男どもを見た。まとっている服からして、海辺の民だった。弟はすぐに気づいた。兄を探しているのだった。一度、あの格好をした男どもが邑を訪れたことがある。そのときは兄がこの邑に戻っていないと欺いてことなきを得た。なぜかはわからないが、明らかに、男どもは兄を探していた。
弟は少し悩んだ。沢を登る男たちは弟に気づいていなかった。今ここから矢で射てしまうことはできた。それとも、危険を承知で話しかけるべきか。結局、弟は何もしないことを選んだ。兄は邑一番の狩人だった。追われていることも気付くだろうし、熊だって狩っただろう。兄はたやすく殺されることはないはずだった。さりとて兄を見殺しにすることはできず、弟は男どもの風下に回り込み、そっと後を追った。沢の水音がちょうどよく弟の気配をかき消してくれた。
ほどなくして、兄の家らしい藁葺きが見えてきた。木々が深く、獣道さえほとんどないような山深い場所だった。家の後ろあたりから煮炊きの煙が登っている。もしかしたら、もう子供ぐらいいるのかもしれなかった。と、そんなことを考えているうちに男どもは掛け声をあげ、家に突っ込んでいった。弟は慌てて追いすがろうとしたが、あいにく匕首しか持っていなかった。これでは返り討ちにあってしまうかもしれない。が、そんな逡巡のうちに争いの声は収まった。弟は匕首を手に、家へと近づいていった。緑深い山は暗く、中の様子は見えない。そっと家を覗き込むと、息遣いを荒くした兄が座っていた。手には槍を持ち、その切っ先から朱を滴らせ、目の前には三人の男どもが横たわっていた。
兄は弟を見ると、すぐに気づいたようだった。そして、槍を構えなおし、お前が呼んだのか、となじった。弟は首を振った。助けようと来たのだ。兄は信じたらしかった。もう追っ手はいない。兄にそう伝えると、安心したようだった。女は家の奥で蹲り、壁に向かってぶるぶると震えていた。はだけた肩に黒い文様が見えていた。科人の徴だった。
兄は弟に向かって、外に出るよういった。そして、一緒に外に出ると、弟に弓と矢を渡すよういった。兄は弓矢を受け取ると、楢の幹に向かって射た。矢は幹を逸れ、地面に刺さった。だいぶ腕が衰えていた。弟はまったく同じ場所から矢を射た。その矢は深々と幹に刺さった。兄は嬉しそうに笑うと、何かを言った。その言葉は難しく、弟は褒められたのか、けなされたのか、よくわからなかった。ただ、兄はやはりであり、自分の知らないことをたくさん知っているのだな、と感心した。
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