彼女を巡る否定神学
メグが話してくれた欲深いネズミのことを私はよく憶えている。ネズミの気持ちが案外わかったからだ。もしかしたら、私は小さい頃に遭った交通事故で、脳をプチンとやられてしまったのかもしれない。メグにしてみれば、恋人がいながらMを求める私(かつての恋人?)に対する単純な忠告だったのかもしれない。
それは別にしても、彼女は理科っぽい話をするのが昔から好きだった。癌遺伝子を取り除いたら毛が一本もなくなってしまったヌード・マウスのことや、扁桃体を取り除かれて蛇に驚かなくなった猿のことや、脳を怪我したことで瞬間映像記憶能力を手に入れたサバン症候群の少年のことや……。文系学生の彼女がそんな知識を仕入れることができたのも、当時流行していた科学哲学の影響があったのかもしれない。
そのお返しというわけではないけれど、人文的知識しかない私に教えてやれることがあるとしたら、彼女が繰り返し舐った「悪くない」という言葉にまつわる秘密だ。
私が自分の恋人に対して形容した言葉がたったそれだけだったというのは、別に好きじゃなかったというわけじゃない。本当に大事なものというのは、一言に言い尽くせないものだ。言った瞬間、それは陳腐になる。『精髄の部分は告白するに耐えない』――ある神秘主義者はそう語っている。
なぜというに、そもそも、言葉は反論可能なのだ。言い切った瞬間、反論の可能性が生じる。反論されれば、語られたものの聖性は剥ぎ取られる。事実、何も喋らない相手とは口論のしようがない。口喧嘩では無視することが最良の戦略の一つだ。
断言だらけの聖書は(キリストの口癖は『はっきり言っておく』だ)そのせいでよくいちゃもんをつけられた。『創世記』ではノアの方舟のサイズを書いてしまったため、「その大きさではすべての生物のつがいを入れることなどできない」と反論されている。似たような例は枚挙に暇がない。聖書は早すぎた断言であったために、科学から論破され続けた。
もちろん、キリスト者達も負けっぱなしだったわけじゃない。反撃のための武器を作り出した。それが否定神学――つまり、「神は~ではない」と言うことによって反論をシャットアウトしてしまう方法だ。その方法は常に有効であり続けた。単なる負け試合を泥試合に持ち込むことができたからだ。その結果、聖者には二種類しかいない。無口と、えらいお喋り。中間にいる者は立派な聖者になれない。
要するに、崇高に言及する方法は二つあるということだ。「~ではない何かだ」とどこまでも言葉をつっぱね続ける否定神学と、そもそもからして何も語らない黙殺法。
人は自分にとって一番大切なものを語るとき、どちらの方法を取るべきだろうか? 潔い黙殺法に比べて、否定神学はなんとなく見苦しい。しかし、美学的理由から簡単に軍配を上げることはできない。完全な沈黙など存在しないからだ。すべてのものは、おのずから名前を与えられる。たとえ名乗らなかったとしても。
聖書を巡る祈りの言葉が、すべて否定神学のために費やされたと考えると、なんだかうんざりする結果のような気がする。神は超越的なものではなかったのか? 我々はいくつもの「ない」を積み重ねることでしか徹底的になれないのだろうか? 費やす言葉の量を増やしたところで、何かを飛び越えることなどできない。終わらない泥試合は負け試合と大差がない。
私はすべてを書き始めるに当たって、ある一つのアイデアを抱いていた。教誨の最中、聖書を熱心に読んで気付いたことだ。
すべての文章には書かれた目的というものがある。新人が文芸誌に発表する小説なら、当人の力量が窺い知れて今後の活躍の予感に満ちたものを書こうとするだろう。宗教家が配布する冊子なら、読者を信仰の道へ引きいれるべく書かれているだろう。辞書のような資料ならば、読者が短い労力でなるべくたくさんの情報を得られるよう書かれているだろう。それが達成されたかどうかはともかくとして。
では聖書はなんのために書かれたのだろうか? 現在の日本で家を訪問してくる宗教家が配る冊子などとは違い、聖書は信仰の対象となることを目的とした本ではない。そうなったのは結果論だ。聖書に書かれていたのは人間のなすべきことだ。その点で、聖書とそこらへん(といっても私はすぐに入手できないけれど)の生き方指南本とで大差はない。
では、神とは何か? なぜ聖書にはあのいわく言いがたいものが登場するのか? 直接的に「人間はこうすべきだ」と語ることはいけなかったのか? 『神は死んだ』などと言うことは無意味だ。そもそも神は生きてさえいなかったのだから。はじめに存在したのは、存在しない神だった。
虚名という言葉はあるのだろうか? あったとしても、あまり一般的な言葉ではないだろう。私はこの言葉に新しい意味を与える。その文法的役割はこうだ。
虚名は名詞である。この世に存在しないものにつけられる名前のことだ。ただ、なんにでもつけられるわけではない。例えば、この世にaと呼ばれるものが存在したとしよう。その虚名としてAという名前を創る。Aは実際には存在しないが、aよりも高次なものとして存在することにされる。Aについては語ることは可能である。そもそも存在しないので、否定神学的な語り口も可能だ。そうすることによって、aについて直接的に語った時とは違うことを表すことができる。つまり虚名とは、ある名詞について語るとき、補佐的役割を示すものだといえる。
私はこう言うことができる――聖書における神とは、人の虚名であった、と。
崇高を直接的に把握できない私がそれを語るためには、否定神学しかない――ずっとそう考えていた。しかし、否定神学は虚名と手を携えて本当にその力を発揮するのだ。
ところで、聖書に限らず虚名を用いた書物はあっただろうか? 私はいつもカフカを思い出す。
カフカは『城』や『掟の前で』において、あからさまに崇高を目指す人物達のあがきを書いた。だが、「城」や「掟」はそれ自体崇高なのではなく、何かの虚名だったのではないだろうか。カフカが書いたのは、悪夢や崇高を書くためではなく、何か現実に存在したものをその言葉のもっとも正しい意味において示すためではないだろうか。
カフカが友人のマックス・ブロートに自分の原稿をすべて燃やしてくれと頼んだのは有名な話だ(もっともカフカ好きの間でだけだろうが)。それを疑う論者もいる。カフカは自分の小説の価値を誰よりもよく知っていた。自分が二十世紀前半の言葉の王になることもわかっていた。だからこそ彼は、神話めいた逸話を残したのではないだろうか、と。実際、マックス・ブロートはカフカの原稿を取っておき、自ら編者となって出版した。
まあ、こういったことはメグにとっても取り立てて新しい話ではないかもしれない。よくあることだ。
日本に始めて金メダルをもたらした女性マラソンランナーはゴール直後に「もっと走りたかった」と言った。彼女はありもしないゴールを目指して走っていた。その笑顔は崇高を知る者の表情だった気がする。
現実とはそもそもそれ自体で崇高なものだ。その現実と徹底的に付き合うために、人は夢想に耽らなくてはならない。ありもしない偽りなのだから、失敗するだろう――それを承知で夢を見なくてはならないのだ。
アネクドート
これはある二人に関する直接的な逸話だ。
Kという男が彼女と出会ったのは、大学四年生の就職活動中だった。まだ、Kが自分のことを「ぼく」だと思っていた頃。
有名な酒造会社の説明会で、二人は隣同士だった。たまたま周りにいた集団が仲間同士で連れ立って来ていた連中で、それが二人に除け者同士の連帯感を生ませたのだろう、お互いの電話番号を交換した。二人とも、その会社には落ちた。
二人は就職活動の期間中、たびたび電話をし、情報を交換し合った。単なる世間話ではあったが、何がしかの安心感が生まれたのは確かだった。Kには当時、年老いた猫のように人懐っこい恋人がいたが、それを彼女に言うことはできないまま、二人きりで会ったりしていた。その頃はまだ冬で、寒かったせいもあったかもしれない。
エアコンメーカーの就職説明会へ向かう途中、Kは恋人へのプレゼントを買った。これからきっと使うことになるであろう名刺入れだ。Hという高級ブランド製のそれは、Kにとって高い買い物だった。しかし、将来恋人の役に立つであろう贈り物は、それ相応の代価を支払って手に入れる必要があった。それはKにとって、四十時間以上の労働に値するものだった。
就職説明会には彼女が来ていた。二人は事前に連絡を取り合っていた。彼女は役割を終えた会場でKを見つけ、笑顔のまま近づいた。そして、彼が携えていた鮮やかなオレンジの紙袋に気付き、それが何かを尋ねた。
「名刺入れだよ」
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