捜し求める足音は小糠の雨を弾いて響く、辿り着くならいっそ鳴れ。摩れる靴底、朽ちる老身、盛んな雨もいつか止む。何れ滅する運命なら、今だけは降れ、賑やかに。
……などと悲愴に、爺が一人、道を蹴立てる。婆娑ゝゝと歩く爺の顔色は、思い詰めたか土気色。洒脱に掛けた黒い天鵞絨背広の、肩口に降と雨を受け、黒が一際濃くなった。中折帽に首帯も黒、白いのは襯衣と髭だけ。単色調なら棘ゝしいが、悟ったような顔が、僅かに棘を和らげる。湯がいて灰汁を抜いたよな、脱俗とした雰囲気は、独立独歩、唯我独尊、頼らぬ生の賜物か——。
左様は言っても、懐中に、断念悪い神頼み。
夏の終わりが近付けば、待ち人来る——懸けまくも畏き上野弁財天、引いた籤にはそう在った。半世紀前の戦火に巻き込まれ、捨てた心算の神頼み——とは云えど、消息が風評程しか無いのなら、紙切れを信じて試たくなりもする。其れで老身引きずって、えいや、と出掛けて試れば、雨。まあ良い——と、独白ちては中折帽を目深に冠り、歩み行く。
蹴立てる道は六本木通り。其の面影も、時代の声に掻き消され、乳臭い飲み屋の女と黒服と、異人の影が入り混じる。然し今更、惜しむ気も無し。嬌声上げる黒服を一顧だにせず、「巴旦杏」という麺包屋の辻を北へ折れ、其処で見送る女が一人、青銅像で「奏でる女」。向かうは歌小屋、「涅槃島」と云う。
持ちたる黒の革匣が、雫纏って光沢めけば、映る街灯の万華鏡。風評に聞いた消息は、雨の飛沫に消えた先、一、二、三と数えて折れる、僅か三間の通り道。宿屋「鸛」、「元寿里穴」、西公園と、狭い割りには名所が多く、賑わう事も頻りと聞くが、今宵は何故か、人影疎ら。
と、突然、厚い静寂を動機音が劈いた。爺は鼓動を急き立てて、其処なる闇に目を凝らす。
原付の下品た唸りが谺する。股を開いて二人乗り、口に洋風呂敷、眼に色眼鏡、おまけに帽子が影になり、面相さえも視て取れない。
年端も行かぬ青臭い手が掲げる物は琺瑯鞄。晩夏の街灯照り返し、輝くGの紋章で、女物、高級品と視て取れる。飾りで付いた銀の鎖が、微燦ゝゝと闇に舞う。
物盗りと気付いた頃はもう遅く、疾風のように走り去る。肩越しに見た標識は、視線を避けて反り返り、暗記する視線を撥ね付ける。大通りまで僅かに五秒、怒号を上げる暇も無い。
儂も老いたと痛み入り、苦捨と掴む中折帽。戦場で死に花咲かす覚悟を決めた、あの頃ならば逃しはしない。否、左様じゃない。物盗りが在れば当然、被害者が——。
兎も角、視れば、十歩先には傘も無く、女が一人、濡れそぼる。憑かれたように漂ゝと、濡れた背中も寂しく細い。老婆心など反って悪い、人にゃ濡れたい時が有る——等ゝ、爺、都会の風を吹かせて試るが、情けを惜しむ歳の性。遅きに過ぎる人助けだと声を掛ければ、其の眼が余りに朱くって、声が出る。
「あ、脅かした。御免なさい」
とこう、反って心配される。
「何と、白子か」
不意を突かれて口を出た言葉に、女……否、少女、ふ——とこう笑う。黄泉返りにも似た白さ。此処は晩夏の六本木、季節外れを承知の上で、敢えて描くなら膚の雪。
「左様なの。御免、仰天させて。奇形なの。こういうの、白化変種なんて云うんだよ。知っていらした、御爺さん」
齢の鎧で隠した算段の隙間を突かれ、驚とした。並みの渡世じゃ遭わぬ類の変り種。他人の胸中を見抜いたような先手の謝罪も丁重で、悟った風情、落ち着きが増す。
「否あ、何、此方こそ、声を上げたり、驚いたりで、体裁無いな」
慌て打ち消し、好々爺然、案じ顔など装うが、元が頑固じゃ板にも付かず、上手く行かない。ならば一転、開き直って、笑い飛ばした。
「知ってるも知らぬも何も、白子だろ。其の白さとて神の御利益。蛇なら神の御使いで、虎なら天然記念物。今宵は何と有難い」
爺が打った柏手二つ、破と弾けて、繁華の街に沁み渡る。
「そう良い物じゃないけどね。肌だって、白いだけなら綺麗でも、此処まで行くと行き過ぎよ。気持ち悪いわ」
少女の腕を眺めれば、人工物めいた白さに静脈の青が浮かんで慄とする。
「左様でも無いさ。其の服と良く合っている。其れに言うだろ、肌の白いは七難隠す」
少女は翻然と首を向け、背を見下ろした。浮然と、裾の広がる一枚服、悲しい風合い、菫色。迷い美人に良く似合う。然し其れより眼を引く物は、捻った首の後ろ側、引っ詰め髪で露わに成った項の細さ。眩しい白の頭聴器から伸びた導線が纏わり付いて、思わず緊と絞めたいような。当人は、そんな視線に気付きもせず、自分の服を矯めつ眇めつ、最後に突掛を固突とやって、やっとこさ、安堵の気配を見せ笑う。
「有難う。御爺さん、優しいね」
其の途端、少女の相貌が、一転崩れ、涙顔。泣いていたかは聞く勿れ、如何せ雨、濡れてしまえば解らない。頑固な爺は愚ゝと言い迷ったが、捻り出す言葉は酷い。
「おい、弱虫め、傘は何処だね」
少女は口をへの字に曲げて、目頭を其の手で拭う。汗に融け出た睫墨が、薄墨色の隈と成る。愚啜と一つ、鼻が鳴る。
「嗚呼、如何したっけな」
と、少女は、付近見回し、探して試るが、気は漫ろ、眼は曇り。泣かしたか——などと爺は、気不味い悔いに目を逸らし、其の勢いで四方見回し、眼を止めた。車道の上に咲いているのが傘の花。おう、あれか——と、柵を乗り越え、車道を行けば、寸手の所で車に轢かれ、視るも無残に折れ果てた。
「御爺ちゃん、もう良いの、傘なんか。安物だから」
「其れなら嬢ちゃん、此れ使え」
「良いんだってば、直ぐ近くなの」
「遠慮はするな、面倒だ」
「本当に良いの」
「解らん奴だ。袖触れ合うも面倒付手、送ってやるよ。何処までだ」
少女の赤い唇が、何処まで——と、自問する。眺ゝと付近見回し、放衝と思い当たったように視線を落とす。
「直ぐ其処までよ」
張と伸ばした少女の指を眼で追えば、指した先には薄明かり。入り口で無花果の木が対になり、漏れる灯りの神々しさと近寄り難さ。名にし聞こえん歌小屋の玄関口は、熱き女神の火陰に似る。
「涅槃島か。一緒だな」
と、爺が髭を弄くれば、有り得ないよ——と、少女が嗤う。
「虚言を吐くのが上手いんだから。無理して合わせちゃ、後悔するよ」
「虚言なもんかよ。涅槃島と暗誦で名前を当てたじゃろ」
「真正に行くの」
と、少女は口を手で覆う。指が白い。其の隙間から、朱の唇。爺の頬に、狡猾い笑いの皺が寄る。
「年寄りが歌小屋に行っちゃ悪いのか」
「悪くないけど、何するの。こんな音楽よ」
そう言って、耳から外す頭聴器、爺の耳に挿し入れる。白い導線の繋がる先は、襟元、胸の薄暗がり。懐中に抱く音楽筒、さぞや大事な曲だろう——と、思えば、耳を擘く大音量。
何方付かずのままじゃ蝙蝠 黒さに紛れ再度悪乗り
孤独が嫌で群れに籠り 羨むのは羽ばたく渡り鳥
這いつくばっても醜い蛇 脱皮して新しく黄泉返り
重苦な日ゝ明日も多分 なんて溜息吐いて進む荒れた道
怯えて逃げんな唯の案山子 逃げる狡猾さが増やす苦労
遠くでかあと恨みの節回 枝に止まり、やり過ごせ突風
他人の夢に乗ってちゃ獏 膨ゝ食べて休む暇無く
馬鹿ではねえと自己満足しちゃう 飛び出す気無いなら即蹴っ飛ばす
喚きな騒ぎな足掻きな動物人間 今宵は成りな饗宴人間
任しときな俺ら動物園管理者……
解らぬ風の溜息吐いて、引っ張り外す頭聴器。
「御経を怒鳴りゃ、こう成るな」
「踊れるの。嫌だよ、心臓止まったりしちゃ」
「踊れと云えば、喜んで。此方とら、戦前生まれの死に損ないよ」
「え、死に損ない……」
少女は眉間に皺を寄せ、案じる顔は聖母にも似て、膚が雪なら百合にも似たり。
「何だか恐く成っちゃった。一体何をしに行くの、死ににでも行くんじゃないの」
「一寸野暮用。御嬢ちゃん、貴女は何だ」
「百合だよ」
「百合と来たか。源氏名風だ」
其の華は、ふふふ——と軽く微笑んで、差し出した爺の傘に滑り込む。年甲斐の無い相合傘は照れ臭い。然し、少女は其んな事など気にもせず、紙魚、皺、苦労で汚れた腕に、真白の腕を素流麗と絡め。
「じゃあ、行きましょう、御爺ちゃま」
言葉尻には色香が匂う。寄り添う脚も直として、儚い気配は消え失せた。現世の酸いも甘いも噛み分けた、一筋縄じゃ行かない様子。見据える眼には、芯の強さが朱に滲む。緊と結んだ引っ詰め髪、項には後れ毛三本清ゝと、街灯の下で絹と成る。鼻と顎先素と伸び、撫でたいような嫋やかさ。とは言えど、脱俗し過ぎた感も有る。肌の木目など、滑然と剥けたうで玉子、尾篭を承知で喩えれば、脱皮直後の女蛇。気を抜けば骨の髄まで吸いそうで、粟立つ肌も嘘じゃない。
出会いの脆さと真逆の印象に困り、突掛の先を眼で舐め上げた。其の眼が空いた手に止まり、急に発端を思い出す。
「左様だ、鞄だ」
「左様、先刻、原付に強奪られた」
「矢張りか。迂闊も迂闊、直ぐ警察に連絡だ」
「もう良いの。逃げちゃったしね。顔も見てない、声も聞かない、日本人かも解んない」
其れでも——と、爺が言えば、百合は愈意固地になって、新たな強さを見せつける。
「良いんだってば。其れよりさ、可哀想だと思うなら、金子を貸して。涅槃島の入場料を払ってやって。お願いよ」
自然な媚に、爺不思ゝゝ含笑け顔。慌てて襟を否斜と正し、懐手、取り出だしたる、伝家の宝刀、老人用携帯電話。
「念の為、警察にでも云っとくか」
「駄目ゝゝ、止めて」
百合は携帯強奪り、爺の胸の内袋に颯と滑らせ、其の付手、花然と肩に撓垂れ掛かる。肩の先には女の肉の柔らかさ。
「何だ、嬢ちゃん、訳有か」
「ま、左様いう事で。そんな事より、御爺ちゃんの御名前は。私まだ聞いてない」
「態ゝ名宣り上げるよな者じゃない。何なりと、お好きなように呼べば結構」
百合は発と破顔一笑、良いの、そんなに格好付けて——と、其の謂いも亦、艶美に。眥は優しく緩み、恰も絵師が素と描いた筆跡。其の笑みが解ける刹那、細い声音で一言——脆弱。
「何だね、其れは」
「御爺ちゃんの御名前よ。脆弱、ほら、返事をしてよ」
「誰の名だ」
百合答えず、誰かしらね——と、惚けた笑みに、瞥然と出すは柘榴の舌で、目の覚めるよな朱さの所為で、爺益ゝ迷信深く。蛇にしちゃ、随分膨柔した舌だ、触れたいような気さえする。其の考えが掴めない、良くて妖精、悪くて魔物、神仙めくのは白さの所為か。
「不思議な娘だな。涅槃島に天女の舞いを踊りに来たか」
「一寸野暮用」
「はは、可愛い女だ」
白子、妖しく微笑んで、下唇に血かと見紛う舌が這う。そして亦、傾ぐ頭で濡れる毛も、宵の湿りを吸い込み朱く、頼り無い。
「何歳だね」
何歳かな——と、惚けて試ても、何れ二十歳は回るまい。齢併せて百を超え、因縁めいた道の連れ。白い少女は吉兆か、はたまた非道い凶兆か。
ままよ、どうやら雨も止み、湿気も霧に姿を変えた。どうせ視にくい爺の目、謎めけば反って視える道理もあろう。立ち込める霧に灯った明かりの先は、奇怪な音で乱痴気騒ぎ。降りた地階が地獄でも構うものか——と、気勢も上がる。背広の爺、期する所が有るらしく、無花果の門を通った其の刹那、顔の皺が愈ゝ深くなる。
「今宵は生演奏が在るみたい」
入り口で少女は壁に顔を寄せ、見入るのは白抜き文字の広告。爺も横から覗き込み、生演奏の題目其の侭訳し……混沌夜。
「どんな生演奏だ」
「解んない。取敢えず、行って試ようよ」
少女は腕を強引と引き、老いたる脆弱を地階へ誘う。薄暗がりの階段で、膚も粟立つ重低音。怨念怨、怨念怨念怨、怨念怨、怨念怨念怨……。
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