板付遺跡は福岡空港から車で15分ほどの場所にある遺跡である。この遺跡は大部分が弥生時代のものであるが、それに先立つ縄文時代、さらに古くは旧石器時代までを含む「複合遺跡」と位置付けられている。
実際に訪れてみると、どこからどこまでが遺跡に含まれるのかはパッと見でわからないが、遺跡公園の中心はぐるりと濠で囲まれた集落になっている。もちろん、復元したものなのだが、大まかな地形はこれで正しいのだろう。
環濠集落とは、まさにお城のお堀と同じで、周囲から身を守るために作られた。歴史館にあった資料によると、10人で9ヶ月、つまり90人月かかるということだ。それほど大規模な環濠を縄文時代から作っていたのかどうかはよくわからない。稲作の始まりとともに蓄財が可能になるのだろうから、それ以降のことではないだろうか。
もっとも、資料によれば縄文後期からすでに稲作は始まっていたという説もあるようだ。文化の伝播にはそれなりに時間がかかるだろうから、曖昧な部分には想像力を発揮する余地が多分にある。
集落には10軒弱の竪穴式住居が建てられていた。集落の規模に対してこの住居の件数が果たして正しかったのだろうか。あるいは、竪穴式住居とは現代でいえば豪邸のようなもので、貧しい世帯ではより簡素な、それこそ遺跡として残らない程度の家屋を建てていたのかもしれない。
住宅の多くは鍵がかかっていたが、一軒だけ中に入れたので、見てみた。竪穴式は穴の縁に屋根を立てかけるような仕組みになっているので、雨が入らない。中を見る限り、これほどの家を一人で建てるのはかなり難儀だったろうから、数世帯で協力するのが前提だっただろう。
資料館の中では様々な農具や衣服などが紹介されていた。環濠集落に関する説明などの文献も多く、石包丁による籾がら落としや、火起こしの実演などである。
以下、てっしーによるマイギリ式の火起こしを動画で添付する(※なお、縄文時代にはまだ舞切り式の火起こしは普及しておらず、キリモミ式が普通だった様子)
我々はこの後、文学フリマへと参加し、その後、福岡市博物館で開催されていた新・奴国展へ向かった。展示の内容については割愛するが、金印「漢倭奴国王」が出土したのがまさに福岡県だったためである。縄文時代に関する情報はそれほど多くなかったが、記念に金印スタンプを購入した。
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以上、短いがレポートを終える。今後、縄文ワークショップでは遺跡探訪も増やしていきたいと思う。
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