Chapter ONE……回想がやってきたヤアヤアヤア!
晴れて三文文士は八月の屋久島へ……となるはずだったが、そうはならなかった。一緒に行くはずだった元彼女が急に連絡を絶ったからだ。原因はよくわからない。新しい彼氏でもできたのだろう。
ともあれ、この知らせは僕をひどくがっかりさせた。樹齢ウン千年という縄文杉を見たかった、というのもあったけれど、一月ぶりのセックスがお預けになったのが大きい。性の問題が不首尾だと、人生がすべてうまくいかないと思ってしまうものだ。実際、性と金で人生の大半を占めている。
屋久島で使うつもりだった十万強の金。僕はそれを眺めながら、使い道について模索した。ちまちまと貯めてもしょうがない。どうせなら少しでも創作に役立つことに、とならねば小説家失格だ。
一体なにがいいだろうか? 国書刊行会の箱入りセリーヌ全集がちょうど同じくらいの値段だが、今の僕がしなくてはいけない投資とは、そういうことではなかった。
僕はあくまでフィクションにこだわっていて、その本懐とするところは文章表現力にあった(自分から書くと馬鹿みたいだが)。どんな腐った題材でも読ませてしまうのが小説家の力だと思っていたし、今も思っている。とはいえ、そう思って書いた原稿の引き受け先がないのだから、大した表現力はないのだろう。おまけに、文章からにじみ出す性格もあまりいいものじゃない。日本には「信用ならない語り手」という設定に本気で怒るバカがたくさんいるのだ。
となると、ネタで勝負するしかない。ネタを集めるには取材が必要で、取材には取材道具が必要だった。
取材はそもそもノンフィクション作家の仕事だ。記者としての経験もなければ、みんなが内幕を知りたがっている機関(警察とか病院とか政治家事務所とかアウトローな集団とか)に所属していたわけでもない。つまり、情報収集に有利な立場(マイノリティ)にいるわけじゃないのだ。僕がそういう人達に勝るとしたら、文献学的努力で上回ることしかない。例えば、国会図書館で埋もれている雑誌記事を使うとか、博物館入り寸前の古い落語を題材にするとか、そういうことだ。スパイの情報源も、その大半は雑誌とか新聞とかに因ると聞く。情報とはそうやって収集するものらしい。幸い、図書館はタダだ。
いろいろ考えた結果、不思議なことだけれど、僕が小説家の未来のために投資できるものはあまりなかった。結局、考えに考えた結果、僕はインタビューで使いそうなICレコーダーだけを購入し、途方にくれた。
スキャナーとフォトショップでも買って屋久島の写真を偽造しようかとも考えたが、最終的には祖母に謝りに行くことにした。たぶん、祖母は屋久島の写真を心の底から楽しみにしていたに違いない。しらんぷりしてお金を使いきれるほど、底意地悪くはなれなかった。
こういうとき、自分には小説家の才能がないんじゃないかと思う。高名な作家は廃嫡寸前まで金を使い込んだりする。僕もそうした方がいいんだろうか?
御茶ノ水で荻窪を通る中央線に乗り換え、トコトコ揺られながら景色を眺めていると、なんだかうちの一族は没落しつつあるなあ、という感慨が浮かんだ。
僕が一人住む家は綾瀬にあった。常磐線と中央線では車窓からの風景でさえ気品が違う。足立区はやはり貧乏人の住む町だった。実際、僕は都心への距離のわりに安いという理由で綾瀬を選んでいる。それは必ずしも人間としての優劣を意味するわけではないが、やはり一つの堕落だ。ちなみに、祖母は麻布の女学校で山県有朋の孫の嫁と同級だった。僕の家の隣人は綾瀬で起きた女子高生殺害事件に荷担したと噂されている。なんともはや。
荻窪の瀟洒な住宅街にある祖母の家は、ブロック塀の上から桃の木をはみ出させている。庭木は手間の象徴であり、すなわち豊かさの象徴だ。出戻りの従姉が熱心に手入れすることで、春の盛りに花を咲かせる。ひがみっぽい比較になるかもしれないが、僕の家には二千円のフェイクグリーンがあるだけだ。忙しい貧乏人には、枯れない人工植物がよく似合う。
玄関を開けたWちゃんは、グリーンのフレームの眼鏡をかけていた。本を読んでいたらしい。僕とは違って穏やかな垂れ目に眼鏡をかけて読書などしていると、いかにも清楚な感じだが、読書好きではない。暇をつぶすためだけの読書が楽しいはずもなく、むしろ僕の訪問に顔を明るくした。
「ちょうどいいところに来た。お祖母ちゃんねえ、Fちゃんが帰ったすぐ後に骨折して大変だったんだから」
「どこを?」
「脚よ、脚。つい一昨日まで入院してたの」
「大丈夫なの、それで?」
Wちゃんは老人の骨がいかに折れやすいかを説明すると、からからと笑った。
「よくあるんだから。この間だって、胃癌だ胃癌だってさんざん喚いて、調べてみたら肋骨が折れてたんだから。ねえ、お祖母ちゃん。牛乳飲まなきゃ駄目よ」
祖母は呼びかけに答えない。むっとしたらしいWちゃんは、急に不機嫌を露わにして、「Fちゃんが来たよ」と二階へ上がってしまった。どたどたと大袈裟な足音が子供じみた怒りに聞こえる。
「おばあちゃん、脚の具合はどう?」と、僕はベッドに腰かけて尋ねた。
「ぜんぜん良くないよ!」
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